小さいころから、ときどき変なものが見えた。
いつからだったのかは覚えていない。
ずっと見えるわけでもない。
たまにだった。
どこかへ遊びに行ったとき。
テレビではなく、本物のお馬さんを見たとき。
その近くに、何かが見えることがあった。
「お母さん、さんかく」
「三角?」
「うん。あそこ」
指をさしても、お母さんは分からない。
「どこ?」
「お馬さんのとこ」
「模様?」
「ちがう」
「じゃあ、どこにあるの?」
「……そこ」
あるのだから、ある。
でも、どう説明したらいいのか分からない。
お母さんはしばらく一緒になって探してくれたけれど、最後には笑った。
「お母さんには見えないなあ」
「あるよ」
「そっか。じゃあ、あなただけに見えるのかもね」
お父さんにも言ったことがある。
「さんかくがある」
「どれどれ」
お父さんはしゃがんで、同じ高さから見てくれた。
「うーん。お父さんにも見えないな」
「あるのに」
「ははは。不思議だなあ」
二人とも信じてくれなかった。
でも、別に困ることでもなかった。
いつでも見えるわけではないし、見えたところで何かが起こるわけでもない。
そのうち本人も、そんなものがあったことすら忘れていった。
◆
「ごめんね」
ある日、お母さんが言った。
いつもと少しだけ違う顔をしていた。
怒っているわけではない。
でも、笑ってもいない。
「お母さんたち、離婚することになったの」
「りこん?」
「うん」
言葉は知っていた。
でも、それで何が起きるのかはよく分からなかった。
「お父さんは?」
「お父さんとは、別々に暮らすことになるの」
「お母さんは?」
「お母さんとは一緒」
「じゃあ、お父さんだけいないの?」
「……そうなるかな」
「ふーん」
よく分からない。
ただ、お父さんが家からいなくなるらしい。
それは少し嫌だった。
「それでね」
お母さんが続けた。
「しばらく、おじいちゃんのところに行こうと思うの」
「じいちゃん?」
「北海道の」
何度か会ったことがある。
顔も覚えている。
電話で話したこともある。
でも、家へ行ったことはなかった。
「おじいちゃんのお家ね、お馬さんがいるんだよ」
「お馬さん?」
「いっぱい」
「いっぱい!?」
その言葉には食いついた。
お母さんが、ようやく少し笑った。
◆
北海道は広かった。
子供には、それ以上の表現が思いつかなかった。
空も広い。
道も広い。
窓の外には緑色の場所がずっと続いている。
「まだ?」
「もうちょっと」
「さっきも言った」
「もうちょっとは、もうちょっとなの」
車に揺られているうちに飽きた。
窓に額をくっつけたり、座席に寝転がろうとしてお母さんに怒られたりしているうちに、ようやく車が細い道へ入っていった。
「あ」
いた。
「お母さん! 馬!」
「いるねえ」
「いっぱい!」
柵の向こうに、本当に馬がいた。
一頭ではない。
二頭でもない。
今まで見たことがないくらいたくさんいる。
車が止まるのを待ちきれず、ドアに手をかける。
「まだ開けちゃダメ!」
「はーい」
返事をして、手を離す。
車が止まった。
今度こそドアを開ける。
「じいちゃん!」
「おお、来たか!」
日に焼けた顔の祖父が笑った。
久しぶりに会った祖父よりも、その後ろにいる馬のほうが気になった。
「じいちゃん、馬!」
「おう。馬だぞ」
「いっぱい!」
「牧場だからな」
荷物を運び始めた大人たちを置いて、柵のところまで走っていく。
「こら、勝手に入るなよ!」
「はーい!」
馬がこちらを見た。
大きい。
近くで見ると、思っていたよりずっと大きい。
「でっか……」
柵の向こうから鼻を伸ばしてくる。
少し怖い。
でも触りたい。
手を伸ばそうとして――。
「……あれ?」
何かを探した。
何だっただろう。
前に、お馬さんを見たとき。
何かあった。
「どうした?」
「……ない」
「何が?」
「さんかく」
「三角?」
「うん」
祖父も馬を見る。
「どこに三角があるんだ?」
「ない」
「ないのか」
「うん」
「なら、いいじゃないか」
「うーん……」
そうなのかな。
よく分からない。
別の馬を見る。
やっぱり何もない。
もう一頭。
何もない。
そのうち、そんなことより馬そのもののほうが面白くなった。
「じいちゃん、これ触っていい?」
「こいつならいいぞ。ほら、ゆっくりな」
「噛まない?」
「変なことしなきゃな」
「こわい」
「じゃあやめるか?」
「さわる!」
おそるおそる手を伸ばした。
大きな鼻が、ふんふんと手の匂いを嗅ぐ。
「うわっ」
「ははは!」
「じいちゃん! 笑うな!」
そんなふうにして、北海道での暮らしが始まった。
◆
牧場は遊ぶところがたくさんあった。
少なくとも、子供にはそう見えた。
馬がいる。
猫もいる。
虫もいる。
見たことのない機械もある。
大人にはただの仕事道具でも、子供には面白そうなものばかりだった。
その中でも気に入ったのが、藁だった。
積まれた藁はふかふかしている。
上に乗ると少し高い。
寝転がっても楽しい。
「高いところまで登るなよ」
祖父には何度も言われていた。
「はーい」
「返事だけはいいんだからな、お前は」
「ちゃんと聞いてる!」
「なら登るなよ」
「わかった!」
分かっていた。
本当に分かっていた。
ただ。
今日の藁は、なんとなく登りやすそうだった。
「よいしょ」
一つ上へ。
まだ大丈夫。
「よいしょ」
もう一つ。
ここも大丈夫。
いつもより少し高い。
周りがよく見える。
「おおー」
楽しくなった。
もう少しだけ。
あと一つだけなら。
藁に手をかける。
足を持ち上げる。
その瞬間だった。
「あっ」
足元が滑った。
身体が傾く。
掴んだ藁が抜けた。
何が起きたのか分からないまま、景色がぐるりと回った。
どん、と鈍い音がした。
痛い。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
◆
一頭の馬が顔を上げた。
少し離れた場所で、子供が倒れている。
動かない。
「ヒヒィィン!」
高い声が牧場に響いた。
返事はない。
馬は落ち着かない様子で首を振った。
「ヒヒィン!」
それでも誰も来ない。
「ヒヒィィィン!」
「なんだ、どうした!」
遠くから声がした。
祖父が顔を出す。
普段とは違う馬の様子に気づき、足を速めた。
「どうした、何が――」
そして。
藁のそばに倒れている小さな身体を見つけた。
「おい!」
祖父の顔色が変わった。
「おい! しっかりしろ!」
◆
目を開けたとき、最初に見えたのは祖父の顔だった。
「……じいちゃん?」
「この馬鹿!」
怒鳴られた。
頭が痛い。
「だから登るなと言っただろうが!」
「……うん」
「うんじゃない!」
ものすごく怒っている。
「何度言った! 危ないから高いところには登るなって!」
「……ごめんなさい」
「今回は頭打って気を失っただけで済んだからよかったもののな! もっと打ちどころが悪かったら――」
祖父の声が遠くなる。
聞こえている。
聞こえているのに、頭に入ってこない。
別のものが、頭の中を埋め尽くしていた。
知らない場所。
知らない人。
学校。
仕事。
パソコン。
ゲーム。
何年も。
何十年も。
自分が生きたことのないはずの時間が、次々と蘇ってくる。
「それにな、お前が倒れてるのを教えてくれたのはあいつだぞ!」
祖父が馬を指さした。
「お前が動かんから、ずっと鳴いてたんだ。あいつが騒がなかったら、見つけるのがもっと遅くなってたかもしれん!」
主人公は馬を見た。
さっきまで鳴いていたらしい馬が、こちらを見ている。
何も見えない。
でも、その理由まで。
今なら、なんとなく分かる気がした。
「おい。聞いてるのか?」
「…………」
「おい!」
「思い……出した……」
「ああ?」
「思い出した……」
「何をだ! わしが登るなと言ったことか!」
「違う……」
「何が違う!」
主人公は祖父を見ていなかった。
その向こう。
少し離れた場所にいる幼い馬を見ていた。
今までなら、ただ何かが見えるだけだった。
意味なんて分からなかった。
けれど。
今は違う。
見た瞬間に分かった。
頭の中に、見慣れたものが浮かんだ。
秘書 ‐
牧場長 ‐
河童木 ‐
長峰 ‐
美香 ‐
「…………」
もう一頭を見る。
秘書 ‐
牧場長 △
河童木 ‐
長峰 ‐
美香 ‐
「…………は?」
「おい、人の話を聞け!」
聞けるわけがなかった。
河童木。
長峰。
美香。
知っている。
全部、知っている。
何度も見た。
何百頭、何千頭という幼駒を、この印で選んできた。
画面の向こうで。
「これ……」
声が震えた。
「ウイポじゃん……」
「うい?」
祖父が眉を寄せる。
主人公はもう一度、幼駒を見る。
間違いない。
どう見ても、あれだ。
前世で散々遊んだ競馬ゲーム。
幼駒を評価してくれる、あの五人。
「お前、頭を打って変になったんじゃ――」
「う、ウイポの世界だー!」
「やっぱり頭がおかしくなっとるじゃないか!」
祖父の怒鳴り声が牧場に響いた。
【補足:幼駒評価について】
本作で主人公に見えている「秘書・牧場長・河童木・長峰・美香」の印は、『Winning Post』シリーズに登場する幼駒の評価をもとにしています。
評価は基本的に、
◎ > ○ > ▲ > △ > ‐
の順に高くなります。
・秘書
主に血統面からの評価。ちょっとだけスピードも入ったりするが、血統だけの駄馬でも付けるので参考にならない。
・牧場長
馬の丈夫さや気性面などに関係する評価。
・河童木
スピードと現在の成長度を含めた競走能力への評価。成長の早い馬ほど高い評価が付きやすく、逆に成長の遅い馬は能力が高くても低い評価になることがあります。基本的にこれが〇とか◎なら期待大
・長峰
非常に高い評価を持つ馬にしか印を付けないため、印が付いていること自体が珍しい評価。評判に関してなので、走るとは限らない。
・美香
サブパラ評価。競走馬としての能力を判断するうえで、特に参考になる評価。これが◎とかだと、スピードがなくてもOPくらいまで勝ち上がれる。
そのため主人公は、競走能力を見る場合には特に「河童木」と「美香」の印を重視しています。
ただし、印だけですべてが分かるわけではなく、成長型や適性などによって実際の競走成績は変わります。
例:晩成タイプだとスピードがあっても成長度が遅いため、実際にはGⅠ級のスピードを持っていても河童木は評価がつかないなどがある。半面、早熟タイプではいい評価が出やすいのが河童木で、期待したほどではないということもある。ただ、基本的に美香と河童木が◎ならほぼ確実に重賞複数賞レベルになる。