1999年12月23日。
世間が目前に迫ったミレニアムと、いわゆる「2000年問題」で騒ぐ中。
俺は、じいちゃんと一緒に川崎競馬場へ来ていた。
北海道からわざわざここまで来た理由は、一つしかない。
マル――アサノカムイオーが、全日本三歳優駿に出走するからだ。
重賞を勝ったあと、次はこのレースへ向かうと聞いたとき、じいちゃんはほとんど迷わなかった。
「見に行くぞ」
「川崎まで?」
「ああ」
あまりにもあっさり言うので、俺の方が聞き返してしまった。
けれど、考えてみれば当然なのかもしれない。
うちみたいな零細牧場で生まれた馬が、全国から有力馬の集まる大レースに出る。
そんなことが毎年あるはずもない。
じいちゃんにとっては、自分のところで生産した馬が重賞を勝ったこと自体、親父さんの代以来だった。
その馬が今度は、中央や全国各地の強い馬を相手に走るという。
(そりゃ、見に行くよな)
俺だって同じだった。
こんな機会が、次にいつ来るのか分からない。
もしかしたら、二度とないかもしれない。
そう思えば、北海道から川崎まで来ることくらい、大した問題には感じなかった。
そして今。
俺たちは、マルが走る競馬場に立っていた。
◇
時間が近づき、俺たちはパドックへ向かった。
柵の向こうを、出走馬たちがゆっくりと周回している。
「いた」
すぐにマルを見つけた。
牧場にいたころより、ずいぶん競走馬らしい身体になった。
重賞を勝った馬なんだと思って見るせいか、なんとなく前より立派になったようにすら見える。
「どう?」
隣のじいちゃんに聞く。
じいちゃんはしばらくマルを目で追った。
「悪くないな」
「ほんと?」
「ああ。落ち着いてるし、変なところもない」
「おお」
それだけで少し安心する。
そして、次の馬へ視線を移して――。
「…………」
思わず、その馬を目で追った。
鮮やかな栗毛。
まず目に入ったのは、その馬体だった。
大きな馬ではない。
手元の競馬新聞に目を落とす。
馬体重は、四百四十四キロ。
(思ったより小さいな)
けれど、実際に目の前を歩いている姿は、不思議と小さくは見えなかった。
余計なところがなく、身体全体がきゅっと引き締まっている。
歩くたびに肩から前脚へ、後肢へと筋肉が動くのが見えた。
脚には白が入り、鼻先にはシャドーロール。
そして、もう一度競馬新聞へ視線を落とす。
そこに印刷されている名前は――。
アグネスデジタル。
(これが……アグネスデジタル)
なんとも不思議な感覚だった。
前世の俺にとっては、あまりにも有名な馬だ。
芝でもダートでも走る。
国内だけではない。
海外まで行ってGⅠを勝つ。
前世の俺は、この馬がこの先どんな活躍をするのかを知っている。
けれど、今のアグネスデジタルは、まだその実績を何ひとつ残していない若駒だ。
その馬が、これから俺の知っている未来へ向かって走り始める。
そう思うと、なんとも不思議な気分だった。
新聞を見る。
一番人気。
(そりゃそうだよな)
俺だけが未来を知っているから注目しているわけではない。
この時点ですでに、ちゃんと強い馬として見られているらしい。
「何をそんなに見てるんだ?」
じいちゃんに声を掛けられる。
「アグネスデジタル」
「ああ。中央の馬か」
「うん」
じいちゃんも、パドックを歩く栗毛へ視線を向けた。
「どう?」
「悪くない馬だな。身体は大きくないが、まとまってる」
「やっぱり?」
「……お前、なんで嬉しそうなんだ?」
「あ」
言われて気づいた。
今日はアグネスデジタルを見に来たわけじゃない。
慌ててマルの方へ視線を戻す。
(そうだよ。マルだって重賞馬なんだ)
前走は、初めて逃げる競馬をして一馬身半差の完勝。
アグネスデジタルが相手だからといって、最初から負けると決めつける必要はない。
(勝て、マル!)
そう思う。
思うのだが。
もう一度だけ、アグネスデジタルを見る。
鮮やかな栗毛の馬体が、何事もないようにパドックを周回している。
今はまだ、一番人気に支持された若駒の一頭にすぎない。
けれど俺は知っている。
この馬は、この先。
芝でもダートでも走り、海外GⅠまで含めて六つのGⅠを勝つ。
そう思って見ているせいだろうか。
その栗毛の馬体には、まだ表に出ていない力が詰まっているように見えた。
一種の覇気とでもいうのだろうか。
周りの馬とは何かが違う。
そんなふうにすら感じてしまう。
(……に、二着でも十分だから!)
◇
パドックを見終えて、俺たちは馬券売り場の方へ移動した。
「せっかく来たんだ。馬券でも買うか」
「おお!」
「お前は買えんぞ」
「分かってるって」
俺はまだ九歳だ。
当然、買うのはじいちゃんである。
俺は横から予想するだけだ。
「それで、何が来ると思う?」
じいちゃんに聞かれ、俺はほとんど考えることなく答えた。
「アグネスデジタル!」
「……お前な」
「何?」
「自分のところの馬を応援しろよ」
「応援してるよ!」
「お前が考えた配合だろ」
「だから応援してるって!」
誰よりも応援している。
ただ、それと予想は別だ。
「マルにも勝ってほしいよ。でも、何が一番来そうかって聞かれたらアグネスデジタル」
「一番人気を自信満々に言われてもな」
「うっ」
それを言われると弱い。
未来を知っている俺でなくても、競馬新聞を見ればアグネスデジタルが一番人気なのは分かる。
じいちゃんは少し笑ってから、もう一度出走表へ目を落とした。
「まあ、中央の馬に勝つのは、なかなか難しいだろうがな……」
「じいちゃんもそう思ってるじゃん」
「それと応援は別だ」
「俺も同じこと言ってる!」
さっき怒られたのは何だったのだろう。
「じゃあ、アグネスデジタルの単勝を買うか」
「うん」
「それだけでいいのか?」
「え?」
じいちゃんの指が競馬新聞の上を滑る。
「せっかくマルが走るんだ。こいつとの馬連も買っておくか」
「それ!」
思わず指を差した。
「それがいい!」
アグネスデジタルが勝って、マルが二着。
それなら馬券も当たる。
マルも全国の強い馬を相手に二着だ。
(完璧じゃん)
いや。
本当は――。
(マルが勝つのが一番だけど)
どうせ応援するなら、それでいい。
◇
馬券を買い終え、俺たちは再びコースの見える場所へ戻った。
時刻はもう午後四時近い。
十二月も終わりに近いだけあって、低くなった冬の日差しが競馬場を斜めから照らしている。
『まもなく、第十競走。全日本三歳優駿の本馬場入場です』
場内放送が流れた。
「来るぞ」
「うん」
さっきまでパドックを歩いていた馬たちが、今度は騎手を背にして次々とコースへ姿を現す。
歓声が上がった。
そして。
『――アサノカムイオー』
「マル!」
思わず声が出た。
騎手を背にしたマルが、俺たちの前を通り過ぎていく。
「マルー! 頑張れ!」
聞こえているのかなんて分からない。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
じいちゃんは何も言わない。
ただ、マルが遠ざかっていくまで、ずっと目で追っていた。
本馬場へ入った馬たちは、それぞれ返し馬へ移る。
一頭ずつ、騎手に促されて速度を上げていく。
馬が走るたびに蹄がダートを叩き、砂が後ろへ飛んだ。
マルも首を伸ばしながら、軽くスピードを上げていく。
「どう?」
「変なところはないな」
じいちゃんが短く答える。
続いて、アグネスデジタル。
栗毛の馬体が軽やかに走り抜けていった。
(……やっぱり強そうだな)
やがて返し馬を終えた各馬が、発走地点へ向かっていく。
そして。
場内に、ファンファーレが響き渡った。
「……!」
テレビで聞くのとは違う。
大きな音がスタンド全体に広がり、それに合わせるように拍手と歓声が湧き上がる。
ぞくっとした。
(これが、JpnⅠ……)
少し前まで、マルはうちの放牧地を走っていた仔馬だった。
それが今は、この歓声の中心にいる。
『各馬、ゲートへ向かいます』
俺は無意識に拳を握った。
十二頭が、順番にゲートへ入っていく。
一頭。
また一頭。
マルも収まった。
『最後の一頭、ゲートイン』
場内が静まる。
ほんの数秒。
でも、やけに長く感じた。
そして――。
『スタートしました!』
十二頭が、ほとんど横一線に飛び出した。
「よし!」
マルも悪くない。
周りとほぼ同じタイミングでゲートを出ると、騎手がすぐに手を動かした。
『アサノカムイオー、押して前へ!』
「行くのか!」
内外から何頭かが前へ出ようとする。
その中でマルも譲らない。
騎手に促されるたび、じわじわと前へ出ていく。
『アサノカムイオーが先頭!』
「取った!」
そのまま一コーナーへ。
前走に続いて、今日もマルが逃げる。
数多の蹄が大地を叩き、その轟きがひとつの地鳴りとなって競馬場を震わせる。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
テレビで何度も競馬を見てきた。
けれど、生で聞く馬の足音はまるで違う。
腹の底まで響くような轟音とともに、十二頭の馬群が一コーナーを駆け抜けていく。
先頭を取ったあとは、騎手も無理には急かしていない。
手綱を抱え、マルの気持ちを落ち着かせるように走らせている。
(ちゃんと折り合ってる)
二コーナー。
向こう正面。
マルは首を上げて力むこともなく、一定のリズムで走っていた。
『先頭はアサノカムイオー。レースを引っ張ります』
「いい感じじゃない?」
「ああ。無駄に力んでないな」
じいちゃんの声にも、少し期待が混じっている。
俺は後ろへ目を移した。
(アグネスデジタルは……)
いた。
三番手あたり。
鮮やかな栗毛の馬体が、マルからそれほど離れていない。
(やっぱり、そこにいるよなあ……)
三コーナー。
後ろの馬たちが少しずつ動き始めた。
『後続も徐々に差を詰めてきます!』
「マル、頑張れ!」
先頭はまだ変わらない。
四コーナーへ。
『アグネスデジタルも進出開始!』
「来た……」
「まだマルが前だ」
「うん!」
四コーナー。
マルが先頭のまま回ってくる。
『さあ直線! 先頭はアサノカムイオー!』
「おおっ!」
目の前に直線が開けた。
マルが先頭。
しかも、後ろとはまだ差がある。
遠くから、蹄の轟きが再び迫ってくる。
馬たちが近づくほど音が膨れ上がり、それに合わせるようにスタンドからの歓声も大きくなっていった。
『アサノカムイオー、まだ先頭!』
「そのまま!」
残り三百メートル。
まだ前だ。
後続とは二馬身ほど。
(これ……)
胸が一気に高鳴った。
(勝てるんじゃないか!?)
「マル! そのまま行け!」
思わず叫ぶ。
「逃げ切れ!」
隣では、じいちゃんも声を上げていた。
マルはまだ先頭。
後ろとの差も残っている。
「行け! 行け!」
このままなら。
本当に、このままなら――。
『外からアグネスデジタル!』
「……え?」
実況の声に、後ろへ目を向ける。
鮮やかな栗毛の馬体が、一頭だけ明らかに違う勢いで伸びてきていた。
二馬身あったはずの差が、見る見る縮まっていく。
一馬身。
半馬身。
「マル!」
騎手の鞭が入った。
「粘れ!」
マルも必死に脚を伸ばす。
けれど。
『アグネスデジタル、並んだ!』
そう聞こえた次の瞬間には、もう前へ出ていた。
「あっ……」
粘り合う間すらなかった。
本当に、さっと。
まるでそこに壁なんてなかったみたいに、アグネスデジタルがマルを交わしていく。
『アグネスデジタル、先頭!』
そして、そのまま差を広げ始めた。
(……速い)
知っていたはずなのに。
それでも、その速さに言葉が出なかった。
『アグネスデジタル、抜けた! 後続を突き放す!』
そこからはもう、独走だった。
一完歩ごとに差が開いていく。
そして――。
『アグネスデジタル、一着でゴールイン!』
大きな歓声が競馬場を包んだ。
勝ち時計は、一分四十一秒一。
アグネスデジタルがゴールを駆け抜けても、マルはまだ直線を走っていた。
「マル!」
すぐにそちらを見る。
すでに何頭かに交わされている。
それでも、マルは最後まで脚を止めなかった。
「頑張れ!」
騎手も追い続ける。
アグネスデジタルのゴールから、かなり遅れて。
ようやくマルもゴール板を駆け抜けた。
「……何着?」
「待て」
俺とじいちゃんは、電光掲示板を見上げる。
さっきまで競馬場を震わせていた蹄の轟きは、もう遠ざかっていた。
それなのに、胸の奥にはまだ、その振動が残っているような気がした。
ほどなくして、数字が並ぶ。そこに、マルの数字はない。
場内のリプレイ動画が流れる。
「……八着か」
「ああ」
マルの走破時計は、一分四十三秒三。
勝ったアグネスデジタルとは、二秒二。
「先頭から二秒以上か……」
思っていたより、ずっと大きな差だった。
重賞を勝ったマルが。
直線まで先頭を走っていたマルが。
最後には、それだけ離された。
(これが、全国のトップか……)
悔しくないわけじゃない。
重賞を勝って、ここまで来た。
直線の入り口では、本当に勝てるかもしれないと思った。
それでも終わってみれば、一着とは二秒以上。
(……すごいな)
俺は、勝ったアグネスデジタルと、最後まで走り切ったマルの両方を見ながら、しばらくその場を動けなかった。
中央馬つおい
なんか間違って夜に投稿してたが、一瞬で消したから大丈夫な筈……!