ウイニングポス党   作:ZIPMAN

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今回はつらい内容になります。


馬産の現実

 プリマルーブルに種付けをしてから、少し経った頃だった。

 

「おい。起きろ」

 

「んぅ……?」

 

 肩を揺すられて、重たいまぶたを開ける。

 

 暗い。

 

 窓の外にも、まだ朝の気配はない。

 

「……じいちゃん?」

 

「始まりそうだぞ」

 

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

 

 眠った頭が動き始めて――。

 

「お産!?」

 

「しっ。母さん起こすぞ」

 

 慌てて布団を跳ね飛ばした。

 

 前から頼んでいたのだ。

 

 繁殖牝馬がお産をする時には、絶対に俺も呼んでくれ、と。

 

 最近は昼間なら春らしい暖かさを感じる日も増えてきた。

 

 けれど、夜はまだ肌寒い。

 

 上着を引っかけ、じいちゃんの後を小走りで追って外へ出ると、冷たい空気で一気に眠気が飛んだ。

 

「どの馬?」

 

「ミスアカシアだ」

 

 厩舎へ入る。

 

 途端に、空気が変わった。

 

 馬と干し草の匂い。

 

 薄暗い馬房の中で、ミスアカシアが落ち着かなさそうに何度も向きを変えている。

 

 蹄が寝藁を踏むたび、ざく、ざく、と乾いた音がした。

 

 いつもなら俺が近づけば顔を寄せてくる馬だ。

 

 鼻を撫でれば大人しくしているし、機嫌がいい時には顔をぺろりと舐められることもある。

 

 けれど、今は俺のことなど目にも入っていない。

 

 腹を気にするように振り返り、また場所を変える。

 

 荒い息が、静かな厩舎の中に響いていた。

 

「俺、何すればいい?」

 

「何もしなくていい」

 

「えっ」

 

「そこで見てろ。必要になったら言う」

 

 そう言われてしまえば仕方がない。

 

 俺は馬房の入口から少し離れ、じいちゃんの邪魔にならないところへ下がった。

 

 馬のお産なんて、前世でも見たことはない。

 

 ゲームなら。

 

 春になりました。

 

 今年の幼駒が誕生しました。

 

 それだけだ。

 

 けれど、目の前にいるミスアカシアは全身で息をしていた。

 

 寝藁の上に横になり、また身体を起こす。

 

 じいちゃんも、いつもののんびりした顔ではない。

 

 時々時計を見ながら、じっと様子を見ている。

 

 やがて。

 

「……来たぞ」

 

 声が低くなった。

 

 俺も思わず身を乗り出す。

 

 白っぽい膜の中から、二本の脚が見えた。

 

「脚……?」

 

「ああ。前脚だ。これなら大丈夫そうだ」

 

 続いて頭が見える。

 

 そして。

 

 思っていたよりずっと大きな身体が、寝藁の上へずるりと滑り出てきた。

 

「うわ……」

 

 声が漏れた。

 

 仔馬だ。

 

 濡れた毛が身体に張りついている。

 

 胴は細く、そこから不釣り合いなくらい長い四本の脚が伸びていた。

 

 じいちゃんがすぐに鼻や口の辺りを確かめる。

 

「息してる?」

 

「しとる。大丈夫だ」

 

 その言葉を聞いて、俺もようやく息を吐いた。

 

 ミスアカシアも身体を起こすと、仔馬へ首を伸ばした。

 

 鼻を寄せて匂いを確かめ、それから濡れた身体を舐め始める。

 

「ほら。タオル持ってこい」

 

「うん!」

 

 今度こそ出番だった。

 

 用意してあったタオルを持っていく。

 

 じいちゃんに言われるまま、仔馬の身体を軽く拭いていく。

 

 触れてみると、思っていたよりずっと温かい。

 

 ぴくり、と身体が動いた。

 

(……かわいい)

 

 生まれたばかりだから、毛はぐっしょり濡れている。

 

 身体のバランスだって妙だ。

 

 それなのに。

 

(めちゃくちゃかわいいな……)

 

 しばらくすると、仔馬が自分から動き始めた。

 

 寝藁の上でもがくように首を持ち上げる。

 

 長い前脚を伸ばし、ぐっと身体を起こそうとして――。

 

 べしゃり。

 

「あっ」

 

 寝藁の上へ倒れた。

 

 それでも、すぐにまた動き始める。

 

 今度は前脚を折り畳み、そこから身体を持ち上げようとする。

 

 細い脚がぶるぶると震えていた。

 

「じいちゃん、手伝わなくていいの?」

 

「自分で立たせろ」

 

「でも……」

 

「これも大事なんだ」

 

 そう言われて、伸ばしかけた手を引っ込める。

 

「がんばれ」

 

 また倒れる。

 

「がんばれ、がんばれ」

 

 もう一度。

 

 前脚を突っ張る。

 

 寝藁を踏んだ後ろ脚が震える。

 

 身体がぐらりと大きく傾き――。

 

 それでも今度は倒れなかった。

 

「立った!」

 

 四本の脚をいっぱいに広げている。

 

 今にもひっくり返りそうなのに。

 

 ちゃんと立っていた。

 

「立ったぞ、じいちゃん!」

 

「ああ」

 

 じいちゃんも笑っていた。

 

 けれど、すぐに。

 

「まだだ」

 

「え?」

 

「乳を飲むまで見とけ」

 

 なるほど。

 

 生まれた。

 

 立った。

 

 それだけでは終わりじゃない。

 

 仔馬は覚束ない足取りで寝藁を踏み、母親の腹へ向かっていった。

 

 一歩ごとに身体が左右へ揺れる。

 

 ミスアカシアも時々首を曲げ、仔馬の背中へ鼻を触れさせていた。

 

 けれど、肝心の仔馬は場所が分からない。

 

 腹へ鼻を押しつけて。

 

 違う。

 

 少し移動して。

 

 また違う。

 

「そっちじゃないって」

 

「お前が言って分かるか」

 

「分かるかもしれないだろ」

 

「生まれたばっかりだぞ」

 

 そう言っている間にも、仔馬は探し続ける。

 

 そして。

 

「あ」

 

 ようやく見つけた。

 

 口をつける。

 

 しばらく見ていると、ちゃんと飲んでいる。

 

「飲んだ?」

 

「ああ」

 

「よかったぁ……」

 

 今度こそ、本当に力が抜けた。

 

 生まれて。

 

 立って。

 

 乳を飲んだ。

 

 たったそれだけのことなのに。

 

 なんだか、とんでもないことをやり遂げたような気分だった。

 

 俺は改めて仔馬を見る。

 

 すると。

 

 いつもの表示が浮かんだ。

 

 秘書  ‐\

 牧場長 ‐\

 河童木 ‐\

 長峰  ‐\

 美香  △

 

「おっ」

 

「なんだ?」

 

「なんでもない!」

 

 美香に△。

 

 何もついていない馬ばかりだったうちの牧場では、これだけでも珍しい。

 

(こいつ、うちじゃ結構いいんじゃないか?)

 

 しかも。

 

 初めて、生まれるところから見た馬だ。

 

 もうそれだけで、他の馬とは少し違って見えた。

 

     ◆

 

 家へ戻る頃には、空がうっすらと明るくなり始めていた。

 

「……ねむい」

 

「ははは」

 

 じいちゃんが笑う。

 

「なんだ。あれだけ見たい見たい言っとったのに」

 

「見たいのと眠いのは別……」

 

 大きなあくびが出た。

 

 さっきまであれだけ興奮していたのに、一度安心した途端、身体が一気に重くなった。

 

「子供の身体にこの時間はきつかったか」

 

「中身は――」

 

「ん?」

 

「……なんでもない」

 

 危ない。

 

 眠くて余計なことを口走るところだった。

 

 布団へ潜り込む。

 

 目を閉じると。

 

 寝藁の上で震える脚を懸命に踏ん張っていた仔馬の姿が、いつまでも頭に残っていた。

 

     ◆

 

 それから、俺は暇さえあれば仔馬を見に行った。

 

 数日もすると、生まれた夜の頼りなさが嘘みたいに脚取りもしっかりしてきた。

 

 ミスアカシアの後ろをついて歩き。

 

 時には突然駆け出し。

 

 少し離れたと思えば、また母親のところへ戻っていく。

 

 書類の上では、ミスアカシアの96。

 

 けれど、毎日そう呼ぶのも味気ない。

 

 母親の名前から取って、俺はいつの間にかシアと呼ぶようになっていた。

 

「シアー」

 

 呼ぶと、こちらへ顔を向ける。

 

 名前を覚えたのか。

 

 単に俺の声に反応しているだけなのか。

 

 そこまでは分からない。

 

「かわいいなあ、お前」

 

 近づいて鼻を撫でると、シアが柔らかな鼻を手のひらへ押しつけてきた。

 

「おお、よしよし」

 

 その横から、今度はミスアカシアまで顔を寄せてくる。

 

「お前もか」

 

 鼻を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。

 

 そのまま顔を近づけてきて。

 

「うわっ」

 

 べろり。

 

 頬を舐められた。

 

「だから顔はやめろって!」

 

 口ではそう言いながら、笑ってしまう。

 

 毎日見ているだけなのに、飽きなかった。

 

 昨日より少し走るのが上手くなった。

 

 昨日より母親から離れるようになった。

 

 そんな小さな変化を見つけるたび、妙に嬉しい。

 

 ゲームでは一瞬で過ぎていた時間だった。

 

 仔馬というのは、こうやって毎日少しずつ馬になっていくらしい。

 

 そんな頃。

 

 うちには、もう一頭。

 

 大きな腹をした繁殖牝馬がいた。

 

「こっちも、もうすぐ?」

 

「ああ。そう遠くないだろうな」

 

 馬房から顔を出してきた牝馬の鼻を撫でる。

 

 こいつも俺が毎日のように触っている馬だ。

 

 首を伸ばして俺の匂いを嗅ぐと、そのまま顔を寄せてきた。

 

 俺が頬を近づける。

 

 べろり。

 

「お前もかよ」

 

 思わず笑った。

 

「じゃあ、こっちのお産も起こしてよ」

 

「駄目だ」

 

「えー」

 

 じいちゃんは、今度ばかりは取り合ってくれなかった。

 

「この前、お前の母さんにこっぴどく叱られたんだからな」

 

「俺は大丈夫だって」

 

「俺が大丈夫じゃない。もうちょっと大きくなるまでは、夜は寝てろ」

 

「そんなあ……」

 

「昼間なら好きなだけ見せてやる」

 

 そこまで言われては仕方がない。

 

 その夜。

 

 俺は大人しく布団へ入った。

 

     ◆

 

 夜中。

 

 ふと、目が覚めた。

 

「……?」

 

 何か聞こえる。

 

 外。

 

 厩舎の方だ。

 

 人の声がする。

 

 足音も。

 

 いつもの夜とは明らかに違う。

 

 しばらくして、車が入ってきたような音まで聞こえた。

 

(……お産?)

 

 布団の中で身体を起こす。

 

 しばらく耳を澄ませた。

 

 気になる。

 

 ものすごく気になる。

 

 けれど。

 

 じいちゃんには、もう少し大きくなるまでは夜は寝てろと言われたばかりだ。

 

(……行ったら怒られるよな)

 

 それに、あの車の音。

 

 たぶん獣医も来ている。

 

 俺が行ったところで、できることなんて何もない。

 

 そう思って、もう一度布団へ潜り込んだ。

 

 外は、しばらく慌ただしいままだった。

 

 それでも。

 

 いつの間にか、俺はまた眠っていた。

 

     ◆

 

 翌朝。

 

 いつものように厩舎へ向かった。

 

 扉を開ける。

 

 干し草と馬の匂い。

 

 寝藁を踏む音。

 

 飼葉を噛む、小さな音。

 

 俺に気づいた一頭が、馬房からいつものように顔を覗かせる。

 

「おはよ――」

 

 そこで止まった。

 

「あれ?」

 

 一つだけ。

 

 馬房が空いている。

 

 昨日まで、大きな腹をした牝馬がいた場所だった。

 

「じいちゃん」

 

「ん?」

 

 少し離れたところで作業していたじいちゃんが振り返る。

 

「ここにいた馬は?」

 

 じいちゃんの手が止まった。

 

 返事が来るまでに、少し間があった。

 

「……昨日の夜、お産が始まってな」

 

 やっぱり。

 

 夜中に聞こえていたのは、その音だった。

 

「じゃあ、仔馬は?」

 

 じいちゃんは、すぐには答えなかった。

 

 その顔を見て。

 

 胸の奥に嫌なものが広がった。

 

「……死産だった」

 

「え……」

 

「助けられんかった」

 

 頭が追いつかない。

 

「じゃあ……母親は?」

 

 また。

 

 少しだけ、間が空いた。

 

「母親も駄目だった」

 

「……え?」

 

「仔も、母親も助からなかった」

 

 意味が分からなかった。

 

「だ、だって……」

 

 自分の声が震えているのが分かった。

 

 昨日までいた。

 

 普通に草を食べていた。

 

 俺が馬房の前を通れば、いつものように顔を出した。

 

 鼻を撫でた。

 

 昨日だって。

 

 顔を寄せたら、いつものように頬を舐めてきた。

 

「昨日まで元気だったじゃん……」

 

「ああ」

 

 じいちゃんの声にも、いつもの張りはなかった。

 

 俺は空になった馬房を見る。

 

 昨日まで確かにいたはずなのに。

 

 そこから、もう顔が出てくることはない。

 

「馬産にはな」

 

 じいちゃんが静かに言った。

 

「こういうこともある」

 

「……」

 

「生き物を相手にしとるんだ。全部が無事に生まれるわけじゃない」

 

 俺は何も言えなかった。

 

 ゲームなら全頭無事に生まれる。それしか知らなかった。

 

 けれど。

 

 目の前にあるのは、空っぽになった馬房という現実だった。

 

 毎日顔を合わせていた馬が。

 

 昨日まで俺の顔を舐めていた馬が。

 

 もう、いない。

 

 じいちゃんも、それ以上は何も言わなかった。

 

 ただ、いつもより少しだけ重い動きで、朝の仕事へ戻っていった。

 

     ◆

 

 だが。

 

 悪いことというのは、続く時には続くらしい。

 

 それから、少し経ったある日。

 

 じいちゃんが放牧地のシアをしばらく眺めていた。

 

 母親のそばを離れ、ひとりで走り回る時間も増えている。

 

「……そろそろ、あの人に電話しておくか」

 

「あの人?」

 

「毎年、うちの馬を見てくれる馬主さんだ」

 

「買ってくれるの?」

 

「気に入ればな。去年の二頭も、その人に買ってもらった」

 

「おお」

 

 それなら話は早い。

 

 去年も買ってくれた。

 

 今年のシアは、美香に△までついている。

 

(これなら売れるだろ)

 

 俺は割と気楽に考えていた。

 

 家へ戻ると、じいちゃんは電話帳を開き、慣れた手つきで番号を回した。

 

「もしもし。ああ、どうも。ご無沙汰してます」

 

 声が少しだけよそ行きになる。

 

「ええ。今年も一頭、無事に生まれましてね」

 

 俺は少し離れたところから、その電話を聞いていた。

 

「ええ。ミスアカシアの仔です。なかなか悪くないと思いますよ」

 

 そこで、じいちゃんが笑う。

 

「今年も、一度見に来てもらえたらと思いまして」

 

 毎年やっていることなのだろう。

 

 売り込んでいるというより。

 

 今年も馬が生まれましたよ。

 

 一度見に来ませんか。

 

 そんな、いつものやり取りに見えた。

 

 けれど。

 

「……え?」

 

 じいちゃんの表情が変わった。

 

「そうなんですか」

 

 しばらく、相手の話を聞いている。

 

「いや、それなら仕方ないです」

 

 さっきまでの明るい声が、少しだけ落ちた。

 

「分かりました。またよろしくお願いします」

 

 電話を切る。

 

「どうだった?」

 

 じいちゃんは、受話器を置いてから小さく息を吐いた。

 

「今年は来ないそうだ」

 

「え?」

 

「会社の方が良くないらしい。馬を買ってる場合じゃないってさ」

 

「……シア、見てもらえないの?」

 

「ああ」

 

「でも、去年は二頭も買ってくれたんでしょ?」

 

「だからって、毎年買えるとは限らん」

 

 じいちゃんはそう言って、電話帳を閉じた。

 

 俺は少し納得がいかなかった。

 

 馬が悪かったわけじゃない。

 

 値段が高かったわけでもない。

 

 そもそも。

 

 見てもらうところまで行かなかった。

 

(そんなこともあるのか……)

 

 いい馬を作れば売れる。

 

 それだけの話ではないらしい。

 

 買う側にも。

 

 買える年と、買えない年がある。

 

「他の人には?」

 

「声をかけてみるさ」

 

 じいちゃんはそう答えた。

 

 ただ。

 

 電話帳をしまう横顔が。

 

 ほんの少しだけ、いつもより重く見えた。

 

     ◆

 

 その日の夜。

 

 トイレに行きたくなって、俺は目を覚ました。

 

 眠い目をこすりながら廊下へ出る。

 

 用を済ませて部屋へ戻ろうとしたところで。

 

「お父さん、本当に大丈夫なの?」

 

 居間から、母さんの声が聞こえた。

 

 足が止まる。

 

「何がだ」

 

「牧場よ」

 

 少し間があった。

 

「今年、お産で一頭亡くなったんでしょ。それに、いつもの馬主さんにも断られたって」

 

「ああ」

 

 じいちゃんの声は、いつもと変わらない。

 

 けれど。

 

 昼間、電話を切った後の顔を思い出した。

 

「去年生まれた馬の預託料は入ってるんでしょうけど……それだって秋までなんでしょ?」

 

「ああ。育成に出すまでだな」

 

「じゃあ、その後は?」

 

「今年の仔が売れればいい」

 

「売れなかったら?」

 

 今度は、じいちゃんがすぐには答えなかった。

 

 俺は廊下の暗がりで、じっとしていた。

 

「……私、もう少しパート増やそうか?」

 

「いい」

 

 じいちゃんは、今度はすぐに答えた。

 

「でも」

 

「お前が心配することじゃない」

 

「そういう言い方しないでよ」

 

 母さんの声が、少し強くなる。

 

「私だってここに住んでるんだから」

 

「……分かっとる」

 

 また、少しだけ間が空いた。

 

「心配せんでいい。こういう年だってある」

 

「……」

 

「蓄えがないわけじゃない。それに、あの人だけが馬主じゃない。付き合いのある人は他にもいる」

 

「でも、お父さん」

 

「大丈夫だ」

 

 じいちゃんは、もう一度そう言った。

 

「なあに。きっと他の馬主さんが買ってくれるさ」

 

 少し笑うような声だった。

 

 母さんを安心させようとしているのか。

 

 それとも。

 

 自分にもそう言い聞かせているのか。

 

 俺には、よく分からなかった。

 

(……大丈夫なのか?)

 

 昼間までは。

 

 いつもの馬主さんに断られたことも、別の買い手を探せばいいくらいに考えていた。

 

 けれど。

 

 母さんがパートを増やそうか、とまで言っている。

 

 それは。

 

 俺が思っていたよりずっと、牧場の金が厳しいということなんじゃないのか。

 

 そして。

 

 頭に浮かんだのは、プリマルーブルだった。

 

 九十万円。

 

 さらにハギノカムイオーの種付け料が三十万円。

 

 もちろん、それだけじゃない。

 

 運ぶのにも金がかかった。

 

 獣医に診てもらうのにも金がかかる。

 

 毎日食わせる餌だって、ただじゃない。

 

(俺が欲しいって言ったから……)

 

 じいちゃんは、もともと繁殖牝馬を一頭入れ替えるつもりだった。

 

 だから、全部が俺のわがままというわけじゃない。

 

 それは分かっている。

 

 それでも。

 

(本当にプリマを買って、大丈夫だったのか?)

 

 あの時の俺は。

 

 血統表しか見ていなかった。

 

 因子がどうだ。

 

 活性がどうだ。

 

 この配合なら、いい馬が生まれるかもしれない。

 

 そんなことばかり考えていた。

 

 繁殖牝馬が死ぬことも。

 

 仔馬が生まれないことも。

 

 生まれた仔に、買い手がつかないことも。

 

 何ひとつ知らなかった。

 

「ほら。もう遅いから、お前も寝ろ」

 

「……うん」

 

 居間で椅子を引く音がした。

 

 俺は慌てて自分の部屋へ戻った。

 

 布団へ潜り込む。

 

 けれど。

 

 さっきまで眠かったはずなのに。

 

 しばらく、目を閉じても眠れなかった。

 

     ◆

 

 それからも、じいちゃんは伝手を頼ってシアを売り込んだ。

 

 昔から付き合いのある馬主。

 

 以前うちの馬を買ったことのある人。

 

 知り合いから紹介してもらった人。

 

 だが、電話を終える度、じいちゃんは小さくため息をついて、肩を落とした。

 

 その一方で、いいこともあった。

 

 来年に向けて種付けした牝馬は4頭。そのうち、プリマルーブルを含む三頭の繁殖牝馬が受胎した。

 

 苦しい一年の中でも。

 

 少なくとも、次の春へつながるものは残った。それだけが、希望だった。

 

     ◆

 

 1996年、冬。

 

 牧場は雪に覆われていた。

 

 空は低く曇り、昼間でも薄暗い。

 

 馬房の中へ入ると、シアがすぐにこちらを向いた。

 

「シア」

 

 呼ぶと、ぶるるるっ、と鼻を鳴らす。

 

 もう、生まれたばかりの頃とは比べものにならないくらい大きくなった。

 

 それでも俺を見ると、子供っぽく首を伸ばしてくる。

 

「お前、こんなに可愛いのになあ?」

 

「ぶるっ」

 

 柔らかな鼻を、俺の手のひらへ押しつけてきた。

 

「はいはい」

 

 鼻を撫でてやると、シアは満足そうに目を細めた。

 

 こいつには。

 

 今年、牧場で何があったのかなんて関係ない。

 

 俺の手があれば、それで満足らしい。

 

 1996年。

 

 バブルが崩壊して、何年も経っていた。

 

 けれど、不景気というものは、一気にやってくるわけではないらしい。

 

 会社の業績が悪くなり。

 

 馬主が持つ馬を減らし。

 

 新しい馬を買わなくなる。

 

 そうして少しずつ、景気は悪くなっていく。

 

 その影響は確実に、北海道の片隅にあるうちの小さな牧場にまで届いていた。

 

 前年に売れていた馬たちも、秋には育成牧場へ移っていった。

 

 預託料も、そこで終わった。

 

 シアには、最後まで買い手がつかなかった。

 

 秋以降。

 

 うちの牧場の収入は、ゼロになった。

 

 それでも。

 

 馬は毎日餌を食べる。

 

 牧草もいる。

 

 獣医にも金がかかる。

 

 冬のあいだも、金は出ていく。

 

 春になれば仔馬が生まれる。

 

 いい馬なら売れる。

 

 そんな簡単なものじゃない。

 

 馬を作るという仕事の現実を。

 

 俺はこの一年で、嫌というほど思い知らされた。




救いはないんですかあ? (次の話に)ありまぁす!
待たれよ次回
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