ウルムチ天山国際空港のロビーで、俺は途方に暮れていた。
関西国際空港から北京を経由しておよそ9時間。
中華人民共和国の北西部に位置する
一般的な日本人がその名前にどんなイメージを抱くかはさておき、ここは個人旅行でも普通に入域できるところだ。現に俺も、日本からバックパック一つでここまでやって来た。
時刻は北京時間で20時を回ったところ。日本との時差は1時間。
手荷物受取所で埃っぽい荷物を回収したものの、俺は空港の外に出ることもできず、冷たいベンチでひとり頭を抱えていた。
スマホを失くした。
思い当たる節ならある。北京空港での乗り継ぎ待ちの時だ。
*
北京空港の国内線17番ゲート付近。日本で設定してきたアリペイがまともに使えるか試そうとして、飲料水の自販機に何度も何度も弾かれていた。
手元のスマホに現れるのは「開通失敗」の四文字。アリペイのAIサポートに尋ねても(中国のフリーWi-FiではGoogle翻訳が使えない)、芝麻の信用スコアが足りないと言われるだけ。しばあさ?
外国人用の二次元バーコードもあったが、読み取ったところで「香港ドルをチャージせよ」という詐欺くさい中国語が表示されるだけ。そこでパスポート番号とクレジットカード番号をしつこく要求されて、俺はしぶしぶアリペイのお試しと自販機の水分を諦めた。
アリペイのAIは、都合が悪くなると「混雑してまーす」「すべてのお客様の幸せを願ってまーす」などと連呼し始める。んなもん願わんでいいから芝麻に俺を信用するよう頼んでおいてくれ。
中国。この国では、俺が何をするにもパスポートが要る。アリペイ、ウィーチャットペイ、Wi-Fi。俺はすでに三回は番号を捧げている。
苛立ちのまま搭乗ゲート前の閑散としたベンチにドサっと座り込み、残量40%を切ったスマホをUSBポートに接続した。
普段ならダラダラとXのタイムラインをスクロールしたかもしれない。しかし空港のWi-Fiでは大概のSNSには繋がらないし、eSIMの貴重なギガも浪費したくない。
仕方なく電子書籍のアプリを開いた。ガイドブックはすべてスマホの中にある。紙で持ち込むと検閲で没収される恐れがあると聞いたからだ。
スマホの小さな画面で「地球の歩き方」のゴマ粒以下の文字を追いかけていると、次第に眠気が襲ってくる。外国で寝るなんて論外だと思いつつ、猛烈な眠気には抗えない。俺の瞼はゆっくりと下がっていった。
しばらくしてウルムチ行きの搭乗が開始した頃、ざわざわという声に俺は思わず飛び起きた。
目の前で、17番ゲートを通る搭乗者の行列が消えかけている。まずい、置いていかれる、急がなければ——俺は慌てて立ち上がり、ボディバッグだけ確認して、駆け足でゲートに向かった。
ケーブルに繋ぎっぱなしのスマホを、ベンチの上に置き去りにしたままで。
*
到着口を出てタクシー乗り場へ向かったものの、運転手たちに煙たがられて手を振られるだけだった。
俺に分かる中国語は「
宿泊先の地図もない、ホテルの住所も分からない、会話も全くできない。そんな人間が空港から抜け出すには、スマホという相棒が必須である。頼れる相棒のいない旅行者など、財布とパスポートだけ持っていたところで、迎えの来ない迷子と同じだ。
「……何しに来たんだよ、本当に」
*
俺は数年前から双極性障害を患っていた。
彼女には愛想を尽かされ、職場からは逃げるように退職して、昼夜逆転した薄暗い部屋で、日がな一日SNSのタイムラインを追いかけるだけの日々。
無職で引きこもりの30歳。それが俺だ。
そんなニートがある日、大学時代の友人と飲み会の約束をしてしまった。
死ぬほど行きたくなかった。外に出るのが怖くて引きこもっているのに居酒屋なんて行けるか。しかし何に対してもやる気がなくなっていた俺は断りの連絡を入れることすら億劫で、結局グダグダしているうちにその日が来てしまった。
こうなってしまったからには仕方がない。奥の手がある。酒だ。ネットで買ったトリスウイスキーの業務用ボトル。そいつをストレートでグラスにぶち込んで、胃まで一気に流し込む。つまみは七味。
酒と躁は俺の血となり肉となり、万能感が脳内をジャックした。
無敵の人となった俺は、既婚者になり気軽に旅行には行けないと嘆く友人達と、観光学部時代の思い出話に花を咲かせた。そして話題は自然と、俺達がずっと行きたいと騒いでいたあの場所——タクラマカン砂漠の話に移った。
タクラマカン砂漠。ウイグル語で「見捨てられた場所」だとか「入ったら戻れない場所」とかいうんだったか。そして通称は「死の砂漠」。
学生時代に焦がれた、ロマン溢れる砂の世界。人生に詰み、酒で最強になった頭の中で、それは別の形に歪んでいった。
死の砂漠が俺を呼んでいる。
そこへ行けば、この惨めな命だって自然な終わりを迎えられるんじゃないか。そうだ、俺は死にたくてタクラマカン砂漠に憧れを抱いていたんじゃないか。死の誘惑はタナトスの誘い。俺を呼ぶのは中央アジアの砂嵐。
「俺がお前らの代わりに歩いてきてやるよ! 現代の三蔵法師になってやる!」
そう言って大見得を切った翌朝。手元に残っていたのは激しい頭痛と、中国国際航空の片道チケットの購入完了メールと、何の記憶もない右手だった。
*
砂漠どころか空港で野垂れ死にそうだ。
「お困りですか?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、浅黒い肌に彫りの深い目鼻立ちをした、長い黒髪の若い女性が立っていた。
日本人ではない。中国人が好んで着るような、真っ赤な柄物のTシャツに、長いスカート。濃い眉と大きな瞳が、こちらの顔を心配そうに見つめている。
「日本語……」
「日本語できる。お困りですか」
神様に見えた。
藁にもすがる思いで事情を説明すると、彼女は手慣れた様子でスマートフォンを取り出し、空港の遺失物係へ電話をかけてくれた。
「種類は?」
「えっと……iPhone。白くて、17」
「ケースは?」
「透明のシリコンで」
「待受画面は」
「あー……」
拙い俺の記憶を手がかりに、早口の中国語で交渉してくれる。だが、通話を切った彼女の表情は冷ややかだった。
「探してみるって言ってる。期待はしないでほしいともネ」
「……そうですか。ですよね」
「日本から? 一人? この後どうするつもりだったの?」
「一応、初日のホテルだけは取ってあるんですが。その先は決まってなくて」
「観光?」
「そんなところです。タクラマカン砂漠に行きたくて」
「砂漠? 一人で?」
彼女が眉をひそめた。言葉を濁して視線を落とす俺を見て、小さなため息をついた。仕方ない。死に場所を探しに来た、なんて言えるはずがない。
「おにーさん、スマホがないのは駄目。見つかったとしても、航空会社はアナタに連絡のつけようがない。地下鉄も乗れない」
「詰んだ……」
頭を抱え、再びベンチに突っ伏した。
航空会社に連絡してもらったところで、この場で即座に生命線が返ってくるわけではない。俺は誰から、どこに連絡を受けたらいいのか。
……いや、もう、いいか。
もうどうでもいいかもしれない。そもそも俺は死ぬためにここに来たんだ。それを何故こんな落ち込んでいるんだ——そんな投げやりな思考が頭をもたげた瞬間だった。
「おにーさん。すごく良い提案があるヨ」
見上げると、彼女の唇がつり上がり、値踏みするような笑みを湛えていた。
「私をガイドとして雇わない?」
海外でも国内でも、怪しいガイドに声を掛けられても絶対に応じないでください。
全16話、すでに下書きは終わっていますが、内容が内容ですので、様子を見て更新していく予定です。よろしくお願いいたします。