クチャからの果てしない移動を終え、俺たちはアクス市内の巨大なホテルのレストランへと転がり込んだ。
腹は減っているが、長時間の移動で身体の節々が軋んでいる。フロアの席を探していたその時、ガヤガヤとした喧騒の隙間から、やたらと明瞭で聞き覚えのある日本語が飛び込んできた。
「昼も夜もご馳走ばかりで、年寄りだけじゃ食べきれないわぁ」
「残すなんて農家の人たちに申し訳なくてバチが当たる! だから品数を減らしてって最初から言ってるのに!」
「だいたい今日は中華料理ですって何なの? これが新疆料理じゃないのは分かるけど、今まで食べてきたのも総じて中華料理じゃないの?」
見ると、フロアの一角にある巨大な円卓を、十人ほどの日本人グループが取り囲んでいた。博物館と鉄門関ですれ違った、あの老人ツアーだ。またか。
円卓の上は、すでに食べきれないほどの大皿料理――ツヤツヤと黒光りする豚の角煮、真っ赤な麻婆豆腐、山盛りの青菜炒め、巨大な川魚の甘酢あんかけ――が所狭しと並び、完全に渋滞を引き起こしていた。日本人添乗員が苦笑いを浮かべている。
「あの人たち困ってるし、私たちもちょうど夜ご飯まだだし、一緒に座っちゃえば全部解決じゃん!」
状況を目ざとく察知したルーが、あっけにとられる俺の腕を強引に引っ張り、流暢な中国語で店員と交渉をまとめた。そして満面の営業スマイルで円卓の隙間に滑り込む。
「こんばんはー! おじゃましまーす! 腹ペコの男を連れてきましたよー!」
「日本人? 大学生くらいかしら?」
「二人旅? あら違うの? でもいいわねえ」
「まあ座りなさい、角煮食べなさい、チャーハンも」
席に着くや否や、四方八方から料理を取り分けられた皿が飛んでくる。
老人の会話には絶対的な法則がある。一往復でお互いが一割でも情報を拾えていたら上等なのだ。何度も同じことを聞かれ、同じ話を繰り返す。こちらが絶対にイライラしてはいけない。大学の観光学部時代に叩き込まれたシニア対応の心得を思い出し、俺は愛想笑いを張り付けながら機械のように頷いた。
「食べきれなくて困ってたのよ、量が多すぎて……」
「中国って、食べきれないほど出して残すのがもてなし、って文化だった気がしますが」
俺が尋ねると、ルーがレンゲを口に運びながら言った。
「一応ね、今は国も光盤行動――食べ残しゼロ運動で、やめろとは言ってるの。でも文化的なもんだから急にはやめられないよね。なんてったって五千年の歴史ヨ」
「俺が子供の頃は四千年って言ってた気がする」
「私たちのころなんか三千年だったわよ!」
数十年で二千年も伸びてんな、と心の中でツッコんだ。
ビールが回り、赤ら顔のおじいちゃんの一人が身を乗り出してきた。博物館でミイラに「布をめくって中見られないの?」と言っていた、あの爺さんだ。
「俺らのガイドさんはなんで一緒に円卓で食べないわけ? 部屋にこもっちゃってさ」
「豚肉料理があるからじゃないですかね」
「そっちのウイグルの嬢ちゃんはいるのに」
「私も豚肉は食べませんヨ」
「それは豚を尊敬してるの? 軽蔑してるの?」
どんな質問だよと思ったが、ルーは嫌がるそぶりも見せない。
「コーランで禁じられてるからです」
「禁じるのは豚が嫌いだからなの? 尊いからなの?」
「だから好きとか嫌いとかじゃなくて。不浄だってされてるからじゃないですかね」
俺が口を挟むと、ルーに目配せされた。まずい。ちょっとイラついた対応になっていたか?
「ふーん……あ、ところでさ、ニュースでよく見るウイグルの問題って、実際のところはどうなの?」
テーブルの空気が一瞬でピリッと凍りついた。
悪気のない、けれど無防備で危険すぎる好奇心。
ふと隣を見ると、さっきまで元気に箸を動かしていたルーが、ピタリと手を止めて視線をわずかに落としていた。
ウルムチ空港で途方に暮れていた頃の俺なら、パニックになって泡を吹いていただろう。だが、今の俺の口からは、驚くほどスラスラと言葉が飛び出していた。
「いやー、僕らも観光地を回ってるだけですけど、とにかく広すぎてそれどころじゃないですよ。ウルムチからここまで風力発電の風車が三万基もあるし、スイカもメロンも美味いし!」
「あら、あの風車、三万もあったの?」
「エコなのねえ。うちの孫もね、大学で環境問題の勉強してて……」
「そういえば皆さんは何故こちらへ?」
「私たちね、みんなシルクロード世代ってやつなのよ。分かるかしら、喜多郎の音楽がね」
シニアたちの関心は見事に逸れ、孫自慢と健康トークの激流へと流れていった。
円卓の下で、ルーの膝が俺の膝をコツンと軽く小突き、小さな声で「ヤクシー」と言った。視線を落とすと、テーブルクロスの影で、ルーが誰にも見えないように小さく親指を立てていた。
ヤクシー。good、よくやった、ということか。胸の奥に、気恥ずかしくも確かな連帯感がじんわりと灯る。
宴もたけなわ、おばあちゃん達の矛先が再び俺へと向いた。
「ところでお兄さん、おいくつ? 独身?」
「あ、はい……三十で、今はちょっと無職でして……」
「まあ! じゃあルーさんと結婚しちゃえばいいじゃない。お似合いよ!」
俺が言い淀むよりも早く、ルーが両手で大きなバツを作って勢いよく立ち上がった。
「絶対イヤ!」
「あら手厳しい!」
「日本の皆さん知らないでしょ。ウイグルの結婚、男の人が用意する結納金がどれだけ高いか!」
ルーは身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
「純金のネックレスに指輪にブレスレット、新居の家具をぜーんぶ揃えて、親族みんなに振る舞う羊を何頭も買って、たくさんのお客さん呼んでお祭りするんだヨ。お嫁さんの方は、新しい敷布団を何枚も持って嫁ぐ」
「あらぁ、昔の日本もそうだったわ。嫁入り道具にお布団」
「でしょ! でもこの人、羊一頭すら買えない。結婚なんて百年早い!」
ルーは容赦なく俺を指差した。
「……羊の相場は知らんが、そこまでボロクソに言わなくてもよくないか?」
俺が情けなくこぼすと、円卓から割れんばかりの爆笑が巻き起こった。
「羊も買えない男なら仕方ないわねぇ」
「お兄ちゃん、遊んでばっかじゃなくて、帰ったらしっかり稼がなきゃダメよ」
背中をバシバシ叩かれる。
クチャの薬局で飲んだあの真っ黒で苦い土の泥水が効いているのか、大量の中華料理を胃袋に詰め込んでも腹の痛みは一切なかった。
*
「ごちそうさまでした!」
「二人も気をつけて旅を続けなさいよ」
シニアツアーを見送り、俺たちは二人でエレベーターホールへと向かった。
賑やかな喧騒から切り離された瞬間、冷たい静寂が急速に満ちてくる。
「……なあ、ルー」
「なに?」
「絶対イヤって。少しは迷うフリくらいしてくれよ」
「だって本当のことだから」
いつもの減らず口。しかし次に口を開いたとき、薄暗いホールの照明の下、彼女の瞳が揺れていた。
「ウイグルではね、お父さんが娘のために相手を見定めて、結納金を交渉して、披露宴の席で一番誇らしそうにお客さんを迎えるの」
「……」
「だから私には関係ない話。お父さん、カシュガルで働いてるから。いつ帰ってくるかも分かんないし」
ルーは伏せていた視線を上げ、どこか遠くを見つめるように呟いた。
「相手を値踏みしてくれる父親がいない娘なんて、誰も高い結納金払ってまで貰ってくれないよ」
チーン、と無機質な電子音を立ててエレベーターの扉が開いた。
ルーは何事もなかったかのように乗り込み、階数ボタンを押すと、いつもの生意気そうな笑顔を無理やり顔に張り直した。
「はい、くだらない話はおしまい! 明日はいよいよカシュガル。タクラマカン砂漠の西の端っこ」
降りたフロアの部屋の前で、ルーがカードキーをかざす。
「おやすみ、和田さん。明日の朝、お腹痛くて遅刻とか絶対に許さないからネ」
「あぁ……ん?」
その時、ふと開いた俺の部屋のドアの内側に、青と黄色の派手な警戒色で印刷された大判のポスターが貼られているのが目に入った。
『阿克苏市公安局英巴扎派出所 反诈中心提示您』
「なんだこりゃ」
「アクス市公安局、英バザール派出所、反詐欺センターからのご案内、だって」
ルーが隣から覗き込んできた。
くつろぐはずのホテルの個室のドアにまで、警察の反詐欺センターがデカデカと注意喚起をねじ込んできている。
「公安を名乗って送金を要求してきたら、すべて詐欺。安全口座という言葉が出たら、一律で詐欺とみなす。だって」
「日本と変わらないな」
俺は苦笑いしながら、ポスターを指差してルーをからかった。
「なぁルー。俺もお前に騙されて、途中で身ぐるみ剥がされたりしないよな?」
ルーは目を丸くしたあと、心外だとばかりに鼻を鳴らした。
「失礼な! 私はお腹ヨワヨワおじさんの面倒を見てあげる聖母!」
「聖母は自分で聖母って言わねえよ」
「騙すならもっとお金持ち狙うね。毎日お腹壊してスマホも失くす男、カモにする詐欺師いない」
「いたんだよ、それが。ハノイに」
「え?」
「十年くらい前、ベトナムで。日本語の上手いおっさんに話しかけられて、ホイホイついてったら有り金全部取られた」
ルーはしばらくポカンとしていたが、やがて廊下に響くほどの声で笑い出した。
「和田さん、それ先に言って! そんな人が、空港で知らない女にガイド頼んだ!?」
「頼んでない。お前が売り込んできたんだ」
「同じこと! ほんとに学習しない人だネ!」
ひとしきり笑ったあと、ルーは自分の部屋に向かって歩き出した。
バタン、と重いドアが閉まり、俺は静かな部屋で一人になった。ドアに貼られた英バザール派出所のポスターに背中を向けて、大きなベッドにドサっと腰掛ける。
窓の外では、満月にほんの少しだけ足りない月が、アクスの街の上に白く浮かんでいた。