今朝のビュッフェは、なぜかほとんど料理が揃っていなかった。
仕方なく、ホテルの向かいにある「8点半」というコンビニへ入る。セブンイレブンのようなネーミングがどうしても気になる。レジ横ではおでんが湯気を立て、棚には三角おにぎりと、なぜか龍角散のど飴とぷっちょが並んでいた。
そして乳製品の冷蔵棚の一段を、ヨーグルトが完全支配している。その隅に、ラクダの絵が描かれた小さなボトルが一本だけ紛れ込んでいる。駱駝奶。ラクダのミルクだ。
「あ、ラクダ! 和田さん、飲みたいって言ってたやつだヨ。買う?」
「……いや」
俺はボトルを棚に戻した。
「カシュガルで飲む。楽しみは後に取っとく」
「ふーん。後、ねぇ」
ルーは意味ありげに俺の顔を覗き込んだが、それ以上は何も言わなかったし、自分でも変だとは思った。死にに行く男が、楽しみを後に取っておいているなんて。
*
今日の移動は500キロ。アクスからタクラマカン砂漠の北の縁をなぞるようにして、最果てのオアシス・カシュガルへ向かう。
街を出ると、道の両側はまた綿花畑に埋め尽くされた。その合間に、背の低い灌木がしがみつくように生えている。
「タマリスク。シシカバブの串にして焼くと、いい匂いがするんだヨ」
「楼蘭のミイラの棺の周りにも、あの枝が敷き詰めてあったんだっけか」
「和田さん、そういうのだけはよく知ってるネ」
死体を包む枝で羊を焼く。この土地では、死と食事がいつも隣り合わせに並んでいる。
*
昼前、ルーは幹線道路を外れ、荒野の中の遺跡に車を停めた。
トクズサライ古城。唐の時代の軍事要塞の跡で、地元では唐王城とも呼ばれるらしい。城壁は四重。小高い岩山の上には狼煙台が残っていて、真新しい木の階段がそのてっぺんまで続いていた。
「昔はここ、登れなかったんだって。今は階段ができたから誰でも登れる」
「俺たち以外に誰もいないな」
「来るのはだいたい日本人ってチケットのおじさんが言ってた。日本人、こういう何もない遺跡が好きなんでしょ」
「否定はできない」
火焔山のようにモニュメントだらけの場所は、バブル期の自国を思い出して共感性羞恥を刺激されるからかもしれない——狼煙台近くの展望台に立つと、四重の城壁の残骸が見えた。
「ただの町なら、こんなに何重にも壁を作らないよな」
「軍隊がいたからネ。
ルーは城壁の外の荒れ地を指さした。
「ここからはね、骨壺も見つかってる。ゾロアスター教」
「拝火教か」
「そう。ゾロアスター教の人たちは、死んだ人を土にも火にも入れない。土も火も神聖だから、汚しちゃいけない。だから高いところに置いて、鳥に食べてもらって、残った骨だけ壺に入れる」
鳥に肉を食わせ、骨だけを残す。
俺は指を折って数えてみた。
砂の中で乾いて、何千年も残る楼蘭の美女。火で焼かれて、舌だけ残った鳩摩羅什。土の下で、体ごと起こされる日を待つムスリム。鳥に食われて、骨だけ壺に入るゾロアスター教徒。
このシルクロードは、人間の体の終わらせ方の見本市だ。そのどれを選んでも、何かしらは残ってしまう。ルーが博物館で言った通りだった。砂漠は姿を隠してくれるけど、跡を残す。
*
トクズサライを出てしばらく走ったところで、ルーは突然ウインカーを出し、舗装路から砂利の脇道へ車を乗り入れた。ガタガタと揺れながら防風林のポプラ並木を抜ける。その先で、道が終わっていた。
目の前に、砂。右を見ても、左を見ても、正面を見ても。ベージュ色の砂の起伏が、波のように地平線の彼方まで続いている。空と砂の境目は熱で揺らいで、どこからが空なのか分からない。
背後にはポプラの緑と綿花の白。目の前には、何もない。
生者の緑と、死者の乾き。その境界線の上に、俺たちは立っていた。
「タクラマカン」
ルーはエンジンを切り、ハンドルに腕を乗せた。
「死にたいんでしょ。歩けば?」
冗談を言っている顔ではなかった。怒っているのでもない。ただ、じっと俺を見ている。
俺は黙ってシートベルトを外し、ドアを開けた。
*
思っていたより、砂はずっと熱かった。
スニーカーの底を通して、足の裏がじりじりと焼ける。一歩踏み出すごとに靴が砂に沈み、甲まで埋まる。
砂丘の斜面を登り、降り、また登る。十分も歩くと息が上がった。振り返ると、ルーの車はもうマッチ箱くらいの大きさになっていた。
風の音しかない場所で、汗は一滴も出ない。出た端から蒸発しているのだ。皮膚の表面が紙のように乾いていくのが分かる。
これが死の砂漠か。入ったら戻れない場所。俺がずっと焦がれてきた、人生の最後の場所。
ひとつ目の砂丘を越えたところで、何かを踏んだ。
足元を見ると、砂から枯れたタマリスクの根が突き出していて、その根元に、小さな獣が一匹横たわっていた。狐か、猫か——いや、犬か。
毛皮は剥げ、皮膚は茶色く縮んで骨に張り付き、牙を剥き出したまま固まっている。腐った匂いはなく、死体は鳥にも蟻にも荒らされず、何の匂いもしない。
ミイラの、予備軍だ。
俺はその隣に仰向けに寝転がった。背中に砂の熱が染み込んでくる。空はこんな場所でも嘘みたいに青くて、雲は一つもない。
目を閉じる。このまま何時間もじっとしていれば、俺もこいつの仲間入りだ。千年後には誰かに掘り起こされて、ガラスケースの中で「東洋の美男子」として札でも下げてもらえるかもしれない。
――喉が渇いたな。
まず浮かんだのはそれで、次に浮かんだのはトルファンの農家で食ったラグメンだった。塩だけとは思えないあのうまみ。それから、コルラの回転火鍋で消えた鴨血。クチャの夜市のTUBORG。棚に戻したラクダのミルク。
死にたいという気持ちが、急に分からなくなった。
身体中のどこを探しても、脳の中にしか見当たらない。肉体はただ、水が欲しくて腹が減って、背中が熱いと文句を言っている。
なんだ。……死にたかったのは、俺の身体じゃなくて、俺の脳内だけだったのか。
遠くでクラクションが鳴った。一回。二回。それから、壊れたように何度も何度も。
「和田さーん!!」
砂丘の向こうから、甲高い声が聞こえる。
俺は砂を払って起き上がり、隣にいる先輩ミイラに手を合わせて、ルーの声を頼りに引き返した。
*
車の脇で、ルーが仁王立ちしていた。
「遅い! 死んだかと思った!」
「ミイラの先輩がいた」
「先輩って何!」
ルーは怒鳴りながら、ペットボトルの水を俺の胸に叩きつけた。
慌てて蓋をひねると、蓋のギリギリまで入っていた水が溢れて、手首から肘まで濡れた。この国のペットボトルは、なぜか必ず口の縁ギリギリまで水が詰まっている。
溢れた水は、砂に落ちる前にほとんど乾いていく。俺は残りを一気に飲み干した。ぬるくて少し甘い。うまいな、と思った。
「……戻ってきた」
ルーの声が、少し震えていた。見ると、目の縁が赤い。
「泣かせたか。悪いな」
「泣いてない! 砂が目に入っただけ!」
「はいはい、ケチャルケチャル」
「ケチュルでしょうが!!」
ルーは乱暴に目をこすり、運転席に乗り込んだ。
俺は助手席に座り、窓の外の砂の海を最後にもう一度だけ見た。死者の国は、何も言わずにそこに広がっていた。
*
昼食は道沿いの町の食堂で済ませた。なぜかここにきて広東風の料理だった。ヘチマとキクラゲの炒め物、薄く切った冬瓜、空芯菜。そして、棗と分厚すぎる蓮根の黄色いスープ。一口すすって、俺は思わず声を上げた。
「……神座っぽい味がする」
「なにそれ?」
「日本のラーメン屋。白菜が甘くて、鍋の締めみたいな……優しい味のスープなんだよ。まさかタクラマカンの縁で関西の味に出会うとはな」
食後に、ルーが小さな月餅を鞄から取り出した。
「今日は中秋節だから」
ルーは月餅を二つに割りながら言った。
「お月見の日か」
「そう。家族みんなで集まって、満月を見て月餅を食べる。団円っていってね、まるい月みたいに家族が欠けないで揃うのを祝う日」
彼女は割った月餅の半分を、自分の口に放り込んだ。残りの半分は、しばらく手の中で眺めてから、結局俺の皿に置いた。
「あげる。和田さん、さっき砂漠で干からびかけたから」
*
アトシュのサービスエリアで休憩していると、ルーが露天の果物屋で、ラグビーボールのような黄色い瓜を一つ買ってきた。
「ハミ瓜じゃないヨ。カシュガルのメロン。こっちの方が美味しい」
店主のおじさんが、目の前で大きな包丁を振るってメロンを切り分けてくれた。
その包丁が、ここでは鎖に繋がれていない。クチャの夜市では太い鎖で縛り付けられていたのに。場所によって違うのか。それとも、何かが少しずつ変わりつつあるのか。俺には分からない。
切り分けられたメロンにかぶりついた瞬間、俺は言葉を失った。
柔らかい。果汁が顎を伝って滴り落ちる。濃厚な蜜の甘さと香りが、乾ききった喉に染み渡っていく。ウルムチで食べた「ほぼ瓜」とは完全に別の生き物だ。
「うまっ……何だこれ……」
「でしょ!」
俺たちがメロンにむしゃぶりついていると、周りにいた地元の人たちがワラワラと寄ってきた。俺たちの顔とメロンを見比べ、店主に何か言って、同じメロンを買ってその場でかぶりつき始める。あっという間に、露天の前はメロンを食う人だかりになった。
「大阪のおばちゃんと同じだ」
「オオサカ?」
「人が美味そうに食ってるもんを、すかさず真似して買う人種がいるんだよ、日本にも」
そのうち、小さな子どもたちが数人寄ってきて、ルーのスカートの裾を引っ張った。
「アチャ、アチャ!」
ルーは笑いながらしゃがみ込み、メロンの切れ端を子どもたちに分けてやっている。何かウイグル語で話しかけると、子どもたちはキャッキャと笑った。
「アチャって?」
「お姉ちゃん、って意味。男性はアカ」
「へぇ。じゃあ俺も呼ぼう。ルーアチャ」
「おっさんに言われたくない! 和田アカ!」
「分かんねーだろ。俺の方が年下かもしれん。いま何歳?」
「私、30いってない! 23!!」
「なんで俺の年齢を……」
「昨日おばあちゃん達に言ってたでしょ。それに何回パスポート預けたと思ってる?」
ルーに本気で脛を蹴られた。子どもたちが大喜びで「アチャ! アチャ!」と俺の真似をする。
メロンの果汁でベタベタになった手で脛をさすりながら、俺は、自分が声を上げて笑っていることに気づいた。
*
アトシュを抜けると、正面左手の遥か彼方に、白い頂を連ねた山脈が浮かび上がってきた。
「崑崙山脈。その先がパミール高原」
右手には、ウルムチからずっと付き従ってきた天山山脈。左手には崑崙。二つの巨大な山脈とパミールが三方から迫り、タクラマカン砂漠をどん詰まりで塞いでいる。
その袋小路の底にあるのが、カシュガルだ。
窓の隙間から吹き込む風に、砂漠の埃っぽさとは違う、雪山から吹き下ろすような冷たく乾いた気配が混ざり始めた。
かつて玄奘三蔵もキャラバンの商人たちも、この山の姿を見上げて「ついに西域の都にたどり着いた」と胸を撫で下ろしたのだろうか。
カシュガルの市街に入ると、街の空気が一変した。
まず、街全体の色が赤から土色に変わる。ウルムチやクチャではあれほど目についた赤い横断幕や赤提灯が、乾いた日干し煉瓦と砂埃のベージュに呑み込まれて全く目立たない。
看板は相変わらず漢字が大きく、ウイグル文字がその下に添えられている。だが歩いている人の顔が違う。彫りが深く、髭を蓄えた男たちが多い。そしてルーが言っていた通り、年配の女性たちの多くが、頭に色とりどりのスカーフを巻いていた。
道路には三輪のバイクがうじゃうじゃと走り回っている。前に突き出た細い車体と、後ろの大きな荷台。
「カマキリって呼ばれてるの。似てるでしょ」
「似てる」
今夜のホテルは「其尼瓦克国際飯店」。
「ここの裏にね、百年前のイギリス領事館があるの。チニバーグっていってね。前はレストランになってたけど、今は崩れかけてて、どこかの会社に買われちゃったみたい」
大英帝国とロシア帝国が中央アジアを奪い合っていた時代、この街は諜報戦の最前線だったらしい。
日が暮れる頃、ルーは俺を旧市街の外れにある高台へ連れて行ってくれた。
川沿いの崖の上に、土と煉瓦の家々が蜂の巣のようにびっしりと積み重なっている。高台民居というらしい。ライトアップされたその姿は、交河故城の廃墟にそっくりだったが、窓には明かりが灯り、洗濯物が揺れ、どこからかテレビの音と子どもの笑い声が聞こえる。
「ここは遺跡じゃないんだな」
「みんな住んでる。水も電気も来てる。ガスは全部じゃないけど。上の方にはバーとか民宿も入ってるヨ」
ここは生きている街だ。高台民居の上に月が昇っていた。あれが、中秋の満月。
「……会いに行かないのか?」
口に出してから、しまったと思った。だがもう遅い。
「お父さん、カシュガルで働いてるんだろ。せっかく来たのに」
ルーは月を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「会えないところで働いてるの」
それだけ言って、ルーは笑った。
「明日はね、カラクリ湖に行くよ。朝早いから、寝坊したら置いてく」
月の光に照らされたルーの横顔は、いつもよりずっと幼く見えた。
今夜、この街のどこかで、彼女の父親も同じ月を見ているのだろうか。
コンビニでラクダのミルクはあんまり売ってないと思います。