新疆ウイグル自治区の旅   作:雄魔雌

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第12話 いけない場所があるから

 朝7時。北京時間ではそうなのかもしれないが、外はまだ真夜中のように真っ暗だ。初日のウルムチでさえ、もう少し明るかった気がする。

 

 車は、夜明け前のカシュガルを抜けて南西へ向かった。G314国道、通称カラコルム・ハイウェイ。この道はパミール高原を越え、最後はパキスタンへと続いているのだという。

 

「カラクリ湖までは200キロくらい。途中で大きな検問所があって、そこで辺境の通行証を見せるの。和田さんはパスポートの番号で申請してあるからネ」

「辺境の通行証?」

「このへんから先は国境に近いから、中国人でも外国人でも、許可がないと入れないの」

 

 ルーはハンドルを握りながら、いつになく饒舌だった。

 カラクリ湖の湖面には、7,000メートル級の雪山ムスタグ・アタが逆さまに映るのだという。湖のほとりにキルギス人の遊牧民がゲルを建てて暮らしている。季節によって、湖の色は黒にも、青にも、緑にも変わる。

 

「子どもの頃に写真を見た。お父さんが持ってた古い雑誌。世界で一番きれいな場所だと思った。いつか絶対に自分の目で見るって決めて、それでガイドの勉強を始めたの」

 

 窓の外が白み始める。赤茶けた岩山の谷間を、川が削りながら流れている。やがて道の両側に、灰色の岩壁が迫ってきた。

 

 盖孜(ゲズ)検問所。

 ゲートの前に車の列ができていた。警察官が行き交い、道路の上には何台ものカメラがこちらを見下ろしている。

 俺もルーの指示で車を降り、パスポートを持って建物に入る。窓口の向こうの係官は、俺のパスポートと印刷した許可証の控えを見比べ、何かを端末に打ち込んだ。

 

「请再出示一下护照」

「パスポート、もう一回見せてって」

 

 护照(フージャオ)。検問所を通るたび、ホテルにチェックインするたび、この旅で何度も聞いた音だ。今では通訳なしでも聞き取れる。

 係官は顔写真のページを俺の顔と見比べ、あっさり頷いた。俺の方は、それで終わりだった。

 だが次に、ルーが身分証を読み取り機に置いたときだった。

 

 瞬間、係官の前の画面の色が変わった。

 窓口の縁越しに見えた。緑でも白でもない、赤く縁取られた枠が、ルーの顔写真を囲んでいる。

 

「你这是什么情况? 你的边防证呢?」

「我是正规导游,带外宾上去旅游的。这是行程单!」

 

 若い係官の顔が強ばると、奥から年配の係官が出てきて画面を覗き込み、激しい口調でルーに何か質問しはじめた。ルーは早口の中国語で、何度も同じことを説明している。

 

「系统显示有限制。旅行社公章呢? 派遣单呢?」

「我是自由职业」

「自由职业带外宾进边境管理区? 胡闹!」

「他是合法游客,手续都齐的」

「他在我这儿没问题,是你不能过!」

 

 年配の係官が腰の無線機に手を伸ばし、カウンターの脇にある鉄扉を顎でしゃくった。

 

「马上回去。不想把事情闹大,就去把边防证正规办了」

 

 係官がルーの身分証を投げ返すと、ルーは俺の腕を強引に掴んだ。

 

「……不去了」

 

 ルーの声が、急に小さくなった。あんなに勝ち気で、いつだって早口で俺を言い負かしていた女が、まるで糸の切れた人形のように俯いている。

 

「不去了。我们回喀什」

 

 彼女の手にはガイド証、行程表、俺の許可証の控え。

 俺は、言葉の分からない国の、言葉の分からない窓口の前で、ただ立っていることしかできなかった。

 

*

 

 建物を出たルーは、大きく伸びをして、空に向かって叫んだ。

 

「あー! ダメだった!」

 

 振り向いた顔は、いつもの生意気な笑顔だった。

 

「ごめんね和田さん! 手続きの書類がちょっと足りなかった。カラクリ湖はナシ!」

「ナシって……書類なら、今から揃えられないのか。行きたかった場所なんだろ。だったらカシュガルに戻って、もう一回」

「いいのいいの! 行けない場所があるから旅なんだよ! 全部行けちゃったら、次に来る理由がなくなっちゃうでしょ」

 

 ルーは努めて明るく振る舞っているかのように見えた。車のキーを指先でくるくる回しながら運転席に乗り込んでいく。

 しかし帰り道、ルーが珍しく何も喋らなかった。

 カーステレオから、ウイグルの流行歌が流れている。打ち込みのビートの上で、ダフの乾いた連打と、弦楽器の音が跳ねている。俺は窓の外を眺めながら、頭の中で一つずつ情報を並べ直していた。

 

 書類が足りなかった。本当にそうか?

 あの画面が赤かった。俺のパスポートの時は、そんな色にはならなかった。

 コルラへ向かう途中の検問所でも、ルーだけが車を降ろされ、二十分もプレハブ小屋から戻ってこなかったことがある。あの時は、俺みたいな怪しい外国人を乗せているせいだと思い込んでいた。だがそういえば、あの時も俺のパスポートは一瞬で返されたのだ。

 引っかかっていたのは俺じゃない。ルーの方なんじゃないか。

 

 外国人の担当から外されて会社を辞めた、フリーのガイド。

 普段はウルムチから日帰りの仕事ばかりで、天山南路を通しで走ったのは初めて。

 カラクリ湖に行きたくてガイドになったのに、一度も行ったことがない。

 お父さんはカシュガルで、会えないところで働いている。

 直接電話すればいいのに、と言った時の、あの目。

 

 点と点が、繋げてはいけない何かを示している気がした。

 

*

 

 昼過ぎにカシュガルへ戻ると、ルーは気を取り直したように、街で一番大きなスーパーに車を停めた。

 

「旧市街に行く前に、飲み物とか買っとこ。あとお土産! 和田さん、まだ誰にも何も買ってないでしょ」

 

 店内は日本のイオンと大差なかった。コンビニではヨーグルトだったが、スーパーではハチミツのコーナーが異様に広い。酒の棚の前で俺は足を止めた。ワインがずらりと並んでいる。

 

「イスラム圏なのに充実してるんだな」

「新疆はね、フランスのボルドーとおんなじ北緯44度の『黄金ワインベルト』にあるの! 日照時間が長くて寒暖差があるから、ブドウの糖度がバカみたいに高くなるヨ」

 

 ルーがドヤ顔で胸を張る。

 

「……カシュガルって、そんなに北だった?」

「……カシュガルは39度」

「おい。5度足りねーぞ」

「ワインを作ってるのは天山の北側! マナスとか、あのへん! ほら、これ!」

 

 ルーが棚から一本引き抜いた。黒地に金の文字のエチケットに、尼雅(NIYA)と書かれている。

 

「尼雅(ニヤ)ってね、砂漠に埋もれた古代都市の名前なの。昔の精絶国。二千年前のミイラとか、錦の布とかがいっぱい出てきた遺跡」

「どこにあるんだ?」

「和田(ホータン)地区の東」

 

 俺は思わず吹き出した。

 

「和田(ホータン)か」

「和田(ホータン)! 和田さん、この旅で結局ホータンには行けなかったけど、ホータンの遺跡の名前のワインなら持って帰れるネ」

 

 俺は黙って、その一本をカゴに入れた。

 

「誰のお土産? 彼女?」

「自分用だよ」

「ふーん」

 

 ルーはカゴの中のワインボトルを、指先で軽くつついた。

 

「自分用のお土産を買うなんて、和田さん、生きて帰る気マンマンじゃん」

「……」

「私のおかげ?」

「どーだか。こいつも砂漠で全部飲み干してやるよ」

「和田さん」

「ん?」

 

 ルーが、いつになく真剣な顔で、俺の目をまっすぐに見ていた。

 

「死んだら承知しないよ」

 

 そんな顔で、そんなことを言われたのは初めてだった。

 俺は何も返せずに、ただ小さく頷いた。

 レジで、アリペイのバーコードを差し出す。ピッ、という電子音が、やけに大きく響いた。




ルーが和田の通行証を発行したと言っていますが、この辺りは現実とちょっと違う部分がありますので、参考にしないで下さい。
中国語のセリフはGoogle翻訳を使用して作成しました。
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