朝7時。北京時間ではそうなのかもしれないが、外はまだ真夜中のように真っ暗だ。初日のウルムチでさえ、もう少し明るかった気がする。
車は、夜明け前のカシュガルを抜けて南西へ向かった。G314国道、通称カラコルム・ハイウェイ。この道はパミール高原を越え、最後はパキスタンへと続いているのだという。
「カラクリ湖までは200キロくらい。途中で大きな検問所があって、そこで辺境の通行証を見せるの。和田さんはパスポートの番号で申請してあるからネ」
「辺境の通行証?」
「このへんから先は国境に近いから、中国人でも外国人でも、許可がないと入れないの」
ルーはハンドルを握りながら、いつになく饒舌だった。
カラクリ湖の湖面には、7,000メートル級の雪山ムスタグ・アタが逆さまに映るのだという。湖のほとりにキルギス人の遊牧民がゲルを建てて暮らしている。季節によって、湖の色は黒にも、青にも、緑にも変わる。
「子どもの頃に写真を見た。お父さんが持ってた古い雑誌。世界で一番きれいな場所だと思った。いつか絶対に自分の目で見るって決めて、それでガイドの勉強を始めたの」
窓の外が白み始める。赤茶けた岩山の谷間を、川が削りながら流れている。やがて道の両側に、灰色の岩壁が迫ってきた。
ゲートの前に車の列ができていた。警察官が行き交い、道路の上には何台ものカメラがこちらを見下ろしている。
俺もルーの指示で車を降り、パスポートを持って建物に入る。窓口の向こうの係官は、俺のパスポートと印刷した許可証の控えを見比べ、何かを端末に打ち込んだ。
「请再出示一下护照」
「パスポート、もう一回見せてって」
係官は顔写真のページを俺の顔と見比べ、あっさり頷いた。俺の方は、それで終わりだった。
だが次に、ルーが身分証を読み取り機に置いたときだった。
瞬間、係官の前の画面の色が変わった。
窓口の縁越しに見えた。緑でも白でもない、赤く縁取られた枠が、ルーの顔写真を囲んでいる。
「你这是什么情况? 你的边防证呢?」
「我是正规导游,带外宾上去旅游的。这是行程单!」
若い係官の顔が強ばると、奥から年配の係官が出てきて画面を覗き込み、激しい口調でルーに何か質問しはじめた。ルーは早口の中国語で、何度も同じことを説明している。
「系统显示有限制。旅行社公章呢? 派遣单呢?」
「我是自由职业」
「自由职业带外宾进边境管理区? 胡闹!」
「他是合法游客,手续都齐的」
「他在我这儿没问题,是你不能过!」
年配の係官が腰の無線機に手を伸ばし、カウンターの脇にある鉄扉を顎でしゃくった。
「马上回去。不想把事情闹大,就去把边防证正规办了」
係官がルーの身分証を投げ返すと、ルーは俺の腕を強引に掴んだ。
「……不去了」
ルーの声が、急に小さくなった。あんなに勝ち気で、いつだって早口で俺を言い負かしていた女が、まるで糸の切れた人形のように俯いている。
「不去了。我们回喀什」
彼女の手にはガイド証、行程表、俺の許可証の控え。
俺は、言葉の分からない国の、言葉の分からない窓口の前で、ただ立っていることしかできなかった。
*
建物を出たルーは、大きく伸びをして、空に向かって叫んだ。
「あー! ダメだった!」
振り向いた顔は、いつもの生意気な笑顔だった。
「ごめんね和田さん! 手続きの書類がちょっと足りなかった。カラクリ湖はナシ!」
「ナシって……書類なら、今から揃えられないのか。行きたかった場所なんだろ。だったらカシュガルに戻って、もう一回」
「いいのいいの! 行けない場所があるから旅なんだよ! 全部行けちゃったら、次に来る理由がなくなっちゃうでしょ」
ルーは努めて明るく振る舞っているかのように見えた。車のキーを指先でくるくる回しながら運転席に乗り込んでいく。
しかし帰り道、ルーが珍しく何も喋らなかった。
カーステレオから、ウイグルの流行歌が流れている。打ち込みのビートの上で、ダフの乾いた連打と、弦楽器の音が跳ねている。俺は窓の外を眺めながら、頭の中で一つずつ情報を並べ直していた。
書類が足りなかった。本当にそうか?
あの画面が赤かった。俺のパスポートの時は、そんな色にはならなかった。
コルラへ向かう途中の検問所でも、ルーだけが車を降ろされ、二十分もプレハブ小屋から戻ってこなかったことがある。あの時は、俺みたいな怪しい外国人を乗せているせいだと思い込んでいた。だがそういえば、あの時も俺のパスポートは一瞬で返されたのだ。
引っかかっていたのは俺じゃない。ルーの方なんじゃないか。
外国人の担当から外されて会社を辞めた、フリーのガイド。
普段はウルムチから日帰りの仕事ばかりで、天山南路を通しで走ったのは初めて。
カラクリ湖に行きたくてガイドになったのに、一度も行ったことがない。
お父さんはカシュガルで、会えないところで働いている。
直接電話すればいいのに、と言った時の、あの目。
点と点が、繋げてはいけない何かを示している気がした。
*
昼過ぎにカシュガルへ戻ると、ルーは気を取り直したように、街で一番大きなスーパーに車を停めた。
「旧市街に行く前に、飲み物とか買っとこ。あとお土産! 和田さん、まだ誰にも何も買ってないでしょ」
店内は日本のイオンと大差なかった。コンビニではヨーグルトだったが、スーパーではハチミツのコーナーが異様に広い。酒の棚の前で俺は足を止めた。ワインがずらりと並んでいる。
「イスラム圏なのに充実してるんだな」
「新疆はね、フランスのボルドーとおんなじ北緯44度の『黄金ワインベルト』にあるの! 日照時間が長くて寒暖差があるから、ブドウの糖度がバカみたいに高くなるヨ」
ルーがドヤ顔で胸を張る。
「……カシュガルって、そんなに北だった?」
「……カシュガルは39度」
「おい。5度足りねーぞ」
「ワインを作ってるのは天山の北側! マナスとか、あのへん! ほら、これ!」
ルーが棚から一本引き抜いた。黒地に金の文字のエチケットに、尼雅(NIYA)と書かれている。
「
「どこにあるんだ?」
「
俺は思わず吹き出した。
「
「
俺は黙って、その一本をカゴに入れた。
「誰のお土産? 彼女?」
「自分用だよ」
「ふーん」
ルーはカゴの中のワインボトルを、指先で軽くつついた。
「自分用のお土産を買うなんて、和田さん、生きて帰る気マンマンじゃん」
「……」
「私のおかげ?」
「どーだか。こいつも砂漠で全部飲み干してやるよ」
「和田さん」
「ん?」
ルーが、いつになく真剣な顔で、俺の目をまっすぐに見ていた。
「死んだら承知しないよ」
そんな顔で、そんなことを言われたのは初めてだった。
俺は何も返せずに、ただ小さく頷いた。
レジで、アリペイのバーコードを差し出す。ピッ、という電子音が、やけに大きく響いた。
ルーが和田の通行証を発行したと言っていますが、この辺りは現実とちょっと違う部分がありますので、参考にしないで下さい。
中国語のセリフはGoogle翻訳を使用して作成しました。