旧市街の入り口に、エイティガール・モスクが建っていた。
黄色い煉瓦で組まれた巨大な門。その両脇で、細く鋭い
「昔はね、お祭りの日には、この庭に絨毯を敷いて一万人くらいお祈りしたんだって」
「一万人……昔は、か」
現在の中庭には数人の観光客がまばらに歩いているだけで、祈りを吸い込んできたはずの絨毯は、ただの一枚も敷かれていなかった。
モスクの裏手から、迷路のような路地が始まる。
かつては通りごとに職人が集まっていたという職人街だ。銅鍋の通り、鍛冶屋の通り、楽器の通り、木工の通り。だが今、店の半分以上は、同じような工業製品を並べるお土産屋だ。
「儲からないから、職人さんはどんどんいなくなってるの。手で作っても、工場の安いのに勝てないし」
それでも通りを一本折れた先で、カーン、カーンと乾いた金属を打つ高い音が響いていた。
白いウイグル帽の老人が、店先にある炭火の上で、銅鍋を炙っている。熱せられた鍋の内側に銀色の棒を押し当てると、溶けた金属がジュッと音を立て、内側一面に鏡のような美しい銀色の被膜を広げていった。
「あれは何してるんだ?」
「錫を塗ってるの。銅のままだと料理の酸でサビて毒になるから、内側を錫でコーティングするんだって。剥げたら、また塗り直す」
老人が作業の手を止めずに、こちらへ小さく視線を向けた。俺は下腹にぐっと力を込め、喉の奥からハッキリと声を絞り出した。
「ヤクシムセッス!」
老人は一瞬だけ丸く見開き、次の瞬間、顔中の深い皺をくしゃくしゃにして笑った。柔らかなウイグル語の響きが返ってくる。
「発音ヘタクソだけど、日本からわざわざ来たの偉いねって」
隣でルーがしたり顔で通訳した。その翻訳はルーの適当な創作のような気がしたが、老人の目元は確かに温かかった。
路地を奥へと歩きながら、ルーが爪先で地面をとんと叩いた。
「和田さん、下見て。煉瓦の形」
言われて視線を落とすと、路面を覆う敷石の形が場所によって違っていた。蜂の巣のような六角形の煉瓦が続く路地と、四角い煉瓦の路地。
「六角形の道は、通り抜けできる道。四角い煉瓦の道は、行き止まり。迷路みたいな街だから、昔の人はそうやって道を教えたんだって」
「へぇ、合理的だな。それなら迷わずに歩ける」
「でも今はね、もう全然意味ないの。観光用にぜーんぶ掘り返して適当に敷き直しちゃったから、六角形でも行き止まりがあるし、四角でも大通りに出られたりするヨ」
「台無しじゃねえか」
「意味ないの。だから、自分の足で確かめるしかないネ」
民家の入り口には、年季の入った木の扉が二枚並んでいた。片方だけ開いている家、両方とも重く閉ざされている家。
「片方だけ開いてるのは、旦那さんが留守で、女の人と子どもしか家にいないサイン。知らない男の人は入っちゃダメ。両方閉まってたら、お留守か休憩中だから誰も入っちゃダメ」
「両方開いてたら?」
「どうぞどうぞ、お客さん大歓迎。……今はもう、誰も気にしてないけどネ」
路地の奥の小さな広場では、子どもたちが砂埃を上げて駆け回っていた。見上げると、土色の古びた軒先に、鮮やかな深紅の五星紅旗が何十本もずらりと掲げられている。
異国の風情を色濃く残すイスラムの街並みに、容赦なく翻る赤い旗。そのちぐはぐさなど気にも留めず、子どもたちの無邪気な笑い声だけが高く響いていた。
*
陽が傾き、影が路地を長く覆い始めた頃、ルーが小さな露店の前で足を止めた。使い古されたザルの上に、白、緑、黄褐色の小石が雑然と転がされている。
「
ルーは乳白色の滑らかな小石を一つつまみ上げ、西日に透かした。羊の脂を固めたような、とろりとした艶やかな光を宿している。
「この白が一番上等。羊脂白玉。密度が高くてキメが細かいほど高くなる」
そこから始まった値切り交渉は、もはや一つの演劇だった。
ルーは早口のウイグル語で店主と捲し立て合い、呆れた顔で踵を返し、引き留められてはまた眉を吊り上げる。十分以上もの激闘の末、最初の言い値の三分の一以下の元札を叩きつけ、小石を勝ち取った。
そして息を弾ませながら、それを俺の右手に無理やりねじ込んできた。
「はいこれ。お守り」
「……俺に?」
「和田さんの名前の石でしょ。
手の中の小石は、最初は氷のようにひんやりとしていた。
「和田玉の一番すごいトコは、絶対に割れない粘り強さ。ハンマーで叩いても落としても、なかなか割れない。鉄よりしぶとい。和田さんみたいでしょ」
「どうだか。俺の心はガラス細工だぞ」
「すぐ落ち込むけど、しぶとく生きてるとこ」
ルーはそう言って笑い、俺の指を包み込むようにして拳を握らせた。だが、その視線が一瞬だけ、遠くの夕空へと泳いだ。
「ウイグルではね、お父さんが娘のために買ってあげるものなの。お嫁に行く時の財産になるように。……私は、自分で買っちゃったけどさ。でも、私が持ってても仕方ないから。あげる」
「……いいのか? 本当に」
「いいの。ずっと握ってるとね、だんだん温かくなるんだヨ。石なのに」
言われた通りに握りしめていると、小石は俺の手のひらの汗と体温をじわじわと吸い込み、驚くほど確かな温もりを放ち始めていた。
*
夕暮れのバザールは、無数の屋台から立ち上るシシカバブの煙で赤く霞んでいた。
炭火に滴る羊の脂の爆ぜる音、威勢のいい客引きの掛け声、人混みを縫うカマキリのけたたましいクラクション。濃密な香辛料と人いきれの熱気の中を、俺たちは肩をぶつけ合いながら進んだ。
昼間、旧市街近くの地下市場で買い物をしようとした際、俺のアリペイが一度だけエラーを起こしていた。紐付けた日本のVISAカードが「利用不可」と弾かれたのだ。ホテルやスーパーでは問題なく通っていたのに、理由がさっぱり分からない。
不意に、前を歩いていたルーが立ち止まった。雑踏の真ん中で振り返り、真顔で右手を差し出してくる。
「和田さん、そういえばね。この辺りのバザール、アリペイもウィーチャットペイも使えないよ」
「え? いや、さっきからそこら中に二次元コード置いてあるけど」
「無理無理。さっきも弾かれたでしょ? カシュガルの個人商店は、外国のクレジットカードと連携したアカウントは全部ロックされちゃうの」
確かに、昼間は目の前で弾かれた。あの時の焦りが記憶に新しい。
「もう人民元の現金、手元にないんでしょ。両替してきてあげる。私の知り合いの店なら、日本円の現金でも手数料安く替えてくれるから」
ルーは差し出した手のひらを、催促するようにクイッ、クイッと動かした。
「だから。有り金、全部だしな」
まるで場末のヤクザのような物言いに苦笑いしながら、俺は財布の奥底から日本円を引っ張り出した。
とはいえ大した額ではない。くしゃくしゃになった千円札が数枚。スマホが戻ってきてからの決済はアリペイ頼みだったし、ホテルはクレジットカードが使えたし、そもそも死ぬ気だった男がまとまった現金を持ち歩いているはずもないのだ。
ルーは札を受け取ると、一枚ずつ丁寧に皺を伸ばして、二つに折った。
「じゃ、もらうね」
「おい。預かる、だろ。手数料と称して中抜きするなよ」
「はーい。……そうだ、今日のホテルは昨日の飯店ね。百年前のイギリス領事館の裏。分かるでしょ?」
「分かるけど……なんで今そんなこと確認するんだ?」
俺が問い終える前に、ルーはくるりと身を翻した。細い背中が、モクモクと立ち込める白いシシカバブの煙の向こうへ滑り込んでいく。
「おい、ルー!」
呼び止めて踏み出そうとした瞬間、荷台に解体された羊の半身を山積みにしたカマキリが、けたたましくクラクションを鳴らしながら俺と彼女の間を強引に割り込んだ。
すんでのところで足を止め、悪態をつきながら顔を上げた時――その背中は、夕暮れの濃密な人波の奥へ、煙のように綺麗さっぱり掻き消えていた。
*
最初は、すぐに戻ってくると思っていた。
両替商が混んでいるのか、場所が遠いのか。俺はバザールの入り口にある石段に腰を下ろし、通り過ぎる無数の影を目で追い続けた。
三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。
西の空から残光が完全に失われ、頭上の裸電球が一斉に黄色い光を灯す。冷えていく指先で、WeChatを開いてメッセージを打ち込んだ。
『どこにいる?』
返事が来ないので、もう一通。
『迷子か?』
ガイドが迷子になるワケないでしょ、と突っ込んでほしかったのに、何も返ってこない。
胃の奥が嫌な冷え方を始め、ため息をついて端末をポケットへしまおうとした、その瞬間だった。
ブルッと、掌の中で微かな振動が走った。
跳ね起きるように画面を点灯させたが、通知の送り主はルーではなかった。
外務省の海外安全情報「たびレジ」からの一通のメール。登録したきり、一度も目を通したことのなかった渡航者向けの一斉配信だった。
『【注意喚起】観光ガイドを名乗って空港や観光地で近づき、親切を装って同行した上で金品を騙し取る手口が報告されています。見知らぬ人物から声をかけられても安易に信用せず、身辺の安全に――』
カッと頭に血が上り、次の瞬間、アクスのホテルの光景が凄まじい勢いでフラッシュバックした。部屋のドアの裏にデカデカと貼られていた、あのポスター。
見知らぬ人物からの接触に注意せよ。
得をしたい、損を避けたいという心理につけ込むのが——
「……典型的な、詐欺の手口だ」
石段の上で一人、俺の喉から乾いた笑い声が吹き出した。
カシュガルの夜風に煽られながら、腹を抱えて笑い転げる。通りがかりのウイグル人の親子が、おかしな人間を見るような目で俺を避けて小走りに去っていった。
*
笑い疲れて息を吐き出すと、喉が張り付くように渇いていた。
財布の中には一元の小銭すら残っていない。俺は近くの売店へ転がり込み、冷蔵庫からミネラルウォーターを掴み出すと、半ばヤケクソでアリペイをレジの端末に突き出した。
あまりにも間抜けで、軽快な電子音。画面には鮮やかな青色のチェックマークと、「支付成功」の四文字が浮かんでいた。
「……やっぱりな」
使えるじゃないか。
昼間に弾かれたのは、ただの通信エラーか端末の一時的な不具合に過ぎなかったのだ。ルーは俺のあの動揺を見逃さず、完璧な嘘のスパイスとして利用した。本職の詐欺師でも舌を巻く手際の良さだ。
売店を出て、蓋のギリギリまで入ったミネラルウォーターをこぼさないよう慎重に開け、喉の奥へ一気に流し込んだ。
壁に背を預け、自分の置かれた状況を指折り数えてみる。
奪われたもの。
財布の底でくしゃくしゃになっていた、日本円の千円札が数枚。
奪われなかったもの。
スマホ。パスポート。クレジットカード。今夜のホテルの部屋。そして、俺の命。
そして何より——この旅の間、あいつが請求してくるはずだった正規のガイド料金は、まだ一元たりとも支払っていない。
十年前のハノイとはまるで違う。マッチョの男たちに取り囲まれてもいないし、無一文で湖のほとりで泣いてもいない。
ふと、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。
指先に滑らかな小石が触れた。ルーが値切り倒して手に入れた、本物の和田玉。
俺からわずか数千円の端金を巻き上げた安い詐欺師は、その何倍もの値打ちがあるはずの石を、俺の手に押し付けて姿を消したのだ。
警察に駆け込むべきなのだろうか。
思考の端緒に、検問所でルーの身分証が弾かれた時のあの光景が浮かんだ。
端末の画面に表示された、あの冷酷な拒絶の赤いアラート。もし今、外国人である俺が公安へ駆け込んで被害を訴え出たら、ルーの人生は、一体どうなる?
「……馬鹿馬鹿しい」
俺は派出所の青い回転灯に背を向け、暗い夜道を一人、ホテルへと歩き出した。
ルーの車は探さなかった。どうせ、彼女と一緒に消えている。