目が覚めると午前9時だったが、遮光カーテンを開けても外はまだ薄暗かった。
ベッドの上でスマホを手に取る。WeChatを開いても、ルーとのトーク画面は昨夜のままだ。
和田さん生きてますかー! とドアを叩く甲高い声はない。
ロビーへ降りても、ソファから跳ね起きてくる小生意気な姿はない。
ホテルの広大な朝食会場で、俺は一人ナンをちぎった。これは何日前に焼かれたものなのだろうか。味も素気もなく、それはただ硬かった。
*
ホテルの回転ドアを抜けると、空全体が白茶色に濁っていた。
これは雲ではない。砂だ。タクラマカン砂漠から吹き荒れた砂が、街に蓋をするように垂れ込めている。
道行く人々は、ウイグル人も漢民族も、誰もが布やスカーフで顔の下半分を固く覆っていた。俺も通りの薬局に飛び込み、日本で使っていたような不織布のマスクを買って耳にかけた。異国情緒をかなぐり捨てて、現実を生き延びるための装備。これで周囲に完全に同化できるのが、現代の中国だった。
向かいにあった8点半に入り、冷蔵棚の隅からラクダのイラストが描かれた瓶を一本引っ張り出した。
店の軒先でマスクをずらし、瓶の蓋を開けて一口含む。
「……しょっぱい」
牛乳より濃くて、ほんのり塩気がある。コクが強くて、後味に獣の気配がかすかに残る。美味いかと聞かれたら、正直よく分からない。
だが、肺にも胃腸にも効くという砂漠の滋養を、俺は最後の一滴まで喉の奥へ流し込んでやった。
*
スマホの翻訳アプリに「この辺で一番有名な観光地」と打ち込み、大通りで拾った流しのタクシーの運転手に突き出した。初老の運転手は短く頷き、ガチャリとメーターを倒した。
一人でタクシーに乗るのは、この旅で初めてだった。
車を降りると、緑色の施釉タイルで覆われた巨大なドームが、砂煙の空を背負って聳え立っていた。
四隅に細い塔を従えたその建物は、中国というより、写真集で見た中央アジア・サマルカンドのイスラム建築を思わせた。
案内板の説明をアプリで翻訳すると、正式名称は
ドームの内部に足を踏み入れると、暗がりの中に大小さまざまな墓が並んでいたが、どれが誰の墓なのか見当もつかない。そのまま暗がりでぼーっと立ち尽くしていると、不意に聞き慣れた日本語が降ってきた。
「ええ、こちらがですね、香妃のお墓と言われているものです」
振り返ると、サファリハットの一団だった。先頭で小旗を掲げているのは、アクスのホテルの円卓で「部屋にこもっちゃって」と噂されていた、シニアツアーの専属ガイドらしきウイグル人男性だった。
一団の後ろの方で、一眼レフを提げた赤ら顔の爺さんが俺に気づき、大きく手を振った。
「おお兄ちゃん、奇遇だな! あの嬢ちゃんは?」
「……今日は、自由行動で」
「そうか。じゃ一緒に聞いてけ!」
爺さんに強引に腕を引かれ、俺はツアーの最後尾に紛れ込んだ。ウイグル人のガイドは嫌な顔一つせず、柔らかな日本語で解説を続けた。
「香妃は清の乾隆帝のお妃になったウイグルの女性です。生まれつき体からいい香りがしたので、香妃と呼ばれました」
「中国の歴史ドラマで観たわよ。皇太后に自害させられるのよね」
おばあちゃんの一人が言うと、ガイドは穏やかに微笑んで首を横に振った。
「あれは後世の脚色です。本当の香妃は病気で亡くなるまで長生きしました。お墓も北京の近く、清の皇帝のお墓の敷地にあります」
「えっ、じゃあここは?」
「いらっしゃいません」
ガイドはドームの片隅に安置された、埃をかぶった古びた輿を指差した。
「北京で亡くなったあと、この輿で遺体をカシュガルまで運んだという伝説があります。ですが実際には、ここには香妃の遺体はありません。あるのは名前だけです」
中身のない墓。
鉄門関の急勾配の岩山の上、あの空っぽの公主陵を見上げた時のルーの横顔が、鮮烈な痛みを伴って脳裏に蘇った。
——あれは形だけのお墓。
——でも中身がない方が、ずっと良くない?
――誰にも見つからないどこかで、すっと綺麗に消えてなくなっちゃった方が……ずっといいよ。
あの時、俺は傲慢にも、あいつが自分と同じ消滅を望んでいるのだと思い込んでいた。死に場所を探しに来た俺の暗い衝動に、あいつが共鳴しているのだと。だが、そんなものは勘違いだった。
ルーの父親は、カシュガルで働いていると言っていた。娘と直接顔を合わせることもできない、遠い場所で。スマホで直接電話はできない。届くのはビデオレターだけ。自分は元気だ、周りも良くしてくれている、心配するな、と。
生きているのか、どうなのか。
あいつが「中身のない墓の方がいい」と呟いた時、その瞳の奥に映っていたのは――自分自身の死などではなく、生きている証拠すら曖昧な、父親の姿だったのではないか。
ツアーの一団が庭園へ移動し始めたので、俺も無言でその後を追った。
木漏れ日が揺れる庭の中に、なぜか目を引く樹木が一本。細長い葉の表面は深い緑色なのに、風に裏返ると白銀に輝く。
「これが
下痢止め。
ルーが言っていた。昔から沙棗は下痢に効く、あの香妃も全身から沙棗の香りがして、と。
香妃が誰なのか分からないと言った俺に、あいつはそれ以上説明しなかった。いつか自分で知ればいい、とでも言うように。
廟の出口でツアーの一団と別れる際、赤ら顔の爺さんが俺の肩を力強く叩いた。
「ツアーも良いけど、ひとり旅も羨ましいよ。自分探しの旅ってやつかい?」
「……はい。そんな感じです」
*
旧市街に戻り、俺は一人で壁の迷路を歩いた。
足元の煉瓦を見つめる。六角形。通り抜けられるサインのはずだった。
だが路地を二つ曲がると、目の前には崩れかけた日干し煉瓦の壁が立ち塞がっていた。行き止まりだ。
苦笑いして引き返し、四角い煉瓦が敷かれた行き止まりのサインの道へ踏み入る。ぐねぐねと折れ曲がり、薄暗い場所をくぐり抜けた先で視界が一気に開け、車が行き交う大通りへと突き抜けた。
――意味ないの。だから、自分の足で確かめるしかないネ。
昔の人が残した目印は、もう当てにならない。地図アプリの目印も、入り組んだ路地の中ではあらぬ方向へ飛んでいく。
それでも歩けばどこかに出る。どんつきだったら戻ればいい。
俺は迷いながらも少しずつ、この砂の街の歩き方を覚えていった。
途中、大通りの交差点に目をやると、警察が車道に向かって堂々と立ち小便をしているのを目撃した。
街中の至る所に最新鋭の顔認証カメラを張り巡らせ、国民の一挙手一投足を監視している国家の、その威厳ある番人が、白昼堂々と。
張り詰めていた恐怖がプツリと切れ、俺はマスクの下で思わず噴き出し、肩を震わせながら早足で通り過ぎた。
*
午後1時、路地裏で見つけた小さなウイグル料理店へ足を踏み入れた。
店内には油とクミンの匂いが立ち込めている。壁のメニュー札はウイグル文字と簡体字が並ぶだけで、写真の一枚もありはしない。厨房の前に立つ厳つい店主が、不審そうに俺を見下ろしてきた。
俺は怯まず、かつてルーが隣でやっていた仕草をそのまま真似た。厨房の奥で白い生地を空中に舞わせている若い男を指差し、それから自分の口元をトントンと指す。
「ラグメン」
何度も食べたラグメン。店主の眉がピクリと動き、厨房へ向かって野太い声で叫んだ。通じた。
運ばれてきた深皿のラグメンは、トルファンの農家で食べた塩味とも、クチャの食堂で食べたあっさり味ともまるで違っていた。麺は太く、ゴツゴツとした力強い弾力がある。羊肉の細切れと青唐辛子、そしてたっぷりのセロリが黒酢の効いた赤い油で強火で炒め合わされていた。
無心で麺をすする。ズズッと音を立てた瞬間、辛味と酸味が喉を突き、鼻の奥から猛烈な鼻水が溢れ出してきた。
——店内で、鼻を啜るな。
俺は苦笑いを浮かべながら、紙ナプキンで静かに鼻を押さえ、丸めた紙をそっと自分のポケットへ押し込んだ。旅のマナーも、身体に染み付いている。
ビールが欲しくなって冷蔵庫を覗いたが、並んでいるのはジュースとヨーグルトだけで、酒瓶は一本もない。
そうか。ここはムスリムの店なのだ。
これまで旅の途中で、俺の喉が渇くたびに絶妙なタイミングでビールやワインの出る店を選び、悪態をつきながら付き合ってくれていたのは、すべてあいつの周到な気配りだったのだと、今になって思い知らされる。
俺は代わりに、冷蔵庫の隅に鎮座していた琥珀色のボトルを指差した。
皿を綺麗に平らげ、二次元バーコードにスマホをかざす。
決済を確認し、俺は厨房の奥で汗を流す店主へ向かって、腹の底から通る声で告げた。
「
店主の手が止まり、目を丸くして俺を凝視した。
それから、顔中の彫りの深い皺を一気に崩して破顔し、自らの左胸に右手を当てて、深々と頭を下げてくれた。
*
店を出て、埃っぽい広場のベンチに腰を下ろして、地図アプリを開く。
カシュガルから南西へ伸びる一本の道路。G314国道、カラコルム・ハイウェイ。
画面を指先でなぞる。昨日弾かれた
峠の頂上に引かれた、国境線。その向こうにあるのは――パキスタン。
――お父さん、昔無理してお金作ってメッカに行ったんだよ。パキスタンまで車で行って……
父親が越えた山。父親が通った道。カラクリ湖は、その通過点。
あの検問所で、国境に近づこうとした途端に、ルーは弾かれた。
背筋が冷たくなった。
あいつは美しい湖が見たかったんじゃない。もしかしたら、その先に行きたかったんじゃないのか。
間抜けな日本人観光客を連れていれば、ガイドとして国境警備区域の検問を潜り抜けられると踏んでいたのか。
まさか。
ルーは一人で、あの山を越える気なのか。
標高4,700メートルの軍事境界線。九月の終わり、陽が落ちれば気温はマイナス十度を下回る極限の凍土。見つかれば拘束され、迷えば凍死する。
「……ふざっけんなよ」
俺の声に、広場を通りかかった男性が怪訝そうにこちらを見る。
「そんなの、ただの自殺じゃねえか!!」
俺はWeChatを開き、猛烈な勢いで文字を打ち始めた。
『ルー。クンジュラブ峠を越えてパキスタンに行く気だろ。親父さんと同じ道で。検問所で弾かれたのは身分証のせいか。一人であんな山を越えられるわけない。捕まるか凍死するだけだ。今すぐ足を止めろ、頼むから……』
そこまで打って、指が止まった。
――WeChatで変なこと書かないでネ。政治とか、宗教とか、国境とか。
――みんな、見てるから。
俺が今、この文章を送ったら。
外国人からウイグル人のアカウントへ「パキスタン」「検問所」「越える」。この文章を読むのは「みんな」。
冷や汗が顎を伝って滴り落ちた。
俺は打った文字を一文字ずつ消していった。画面が真っ白に戻った時、極度に乾燥した砂漠の街にいるというのに、俺の手のひらはぐっしょりと冷たい脂汗で濡れそぼっていた。
肺の底から、ゆっくりと息を吐き出す。
書いていいのは日常だけだ。飯と、天気と、腹具合の話。極めて個人的で、本当にくだらないだけの、生存の記録。
*
動き出した指は、もう止まらなかった。頭の奥がカッと燃えるように熱い。指がどんどん勝手に動く。
ああ、これは躁の波だな、と頭の冷静な部分が自覚した。炭酸リチウムが切れて数日。主治医の警告通りの熱暴走。
上等だ。この熱すら、今は全部使い果たしてやる。
『俺は日本に帰る』
『ガイド料なら取り立てに来い。渡した現金は引いとけよ』
『アイスマンって知ってるか。アルプスの氷河で、五千年後に登山客に見つかったミイラだ』
『砂漠は跡を残すと言っていたが、雪山だって同じだ』
『そんなに雪が見たいなら日本に来い。滋賀なら腐るほど降る。伊吹山は世界一積もったことだってある』
『今日のカシュガルは砂が降ってる。これは天気の話だ』
『ラグメン一人で頼めた。ラフメットも通じた。これは飯の話だ』
『ラクダミルクも飲んだ。牛乳の三十倍の価値があるかは微妙だ。これも飯の話だ』
『腹具合は今日も悪い。これは健康の話だ』
『俺は今日も不健康だ。だだしこの旅で決めたことがある』
『俺は絶対にルーより長生きする』
『お前の結婚式に出て、新郎にヤクシーくらい言ってやる』
『悔しいか? だったら俺より長生きしろ』
『先に死んだら承知しねーぞ』
『返事が来るまで、飯と天気と腹具合の話を送り続けるからな』
送信。送信。送信。
画面の上で、吹き出しがどんどん積み上がっていく。
最後に、一行だけ付け足した。
『ケチュル』
何を謝っているのかは自分でもよく分からなかった。だが友達同士ならそれだけで通じるのだと、あいつ自身が言っていた。
ベンチから立ち上がると、砂の混じった風が、カシュガルの路地を吹き抜けていった。
俺はポケットの中にある小石を握りしめて、四角い煉瓦の道を、前を向いて力強く歩き出した。