「Zàimǐrè」
「え、何て?」
「私の名前。Zàimǐrè。漢字で、再び米が熱いって書く。再米熱」
「ザイ、ミー……ルー? レー?」
「中国語の『熱』の発音! 舌をちょっと奥に引いて!」
「無理。舌噛みそう」
「おにーさん発音ヘタクソ!」
「悪かったな。無理だからもう『ルー』でいい? よろしくな、ルー」
「もう! テキトーすぎるでしょ、この人!」
全く聞き取れやしない。とはいえ、スマホを失くした無力な俺にとって、彼女は唯一の命綱だった。
「私、フリーのガイド。会社には入ってないけど、国家資格はちゃんと持ってるヨ」
「ガイドってフリーでやれるもんなのか」
「会社がないぶん、安くて融通がきく!」
彼女はガイド証なるものを鞄から取り出し、俺に堂々と見せつけてきた。それが本物か偽物なのかは俺には判別できない。そもそもこの国で、こんな白タク行為みたいなこと、本当に許されているのだろうか。
だが、いずれにしても選択肢などない。今の俺に、自称フリーランスガイドのルーを頼るほか道はないのだ。安いかどうかも、請求書を見るまでは判断を保留することにしよう。
ルーは片手を挙げてその辺のタクシーを捕まえると、俺のバックパックをトランクに放り込み、助手席で運転手と早口の中国語でまくしたてた。
「とりあえず何か食べましょ! 友達が働いてる店があるの!」
連れて行かれたのは、極彩色のネオンがギラギラと輝く、露骨な観光客向けのバカでかいレストラン。そして二人連れなのに、通されたのは映画でしか見たことのない巨大なターンテーブルが鎮座する個室だった。
「……」
知り合ったばかりの若い女と、個室で二人にされて。で、ここで彼女の「オトモダチ」が働いている。
……あー。お友達って、そういうこと。
俺、殺されんのかな?
まぁ死ぬつもりだったから別に良いんだけど、刺されたり殴られたり、痛いのはやだなぁ。
思えば十年ほど前、ベトナムのハノイでも似たような目に遭った。日本語で気さくに話しかけてきたオッサンに「甥が神戸大学!」「そこの店でもっと話そう!」と誘われて、ホイホイついて行ったら大量のマッチョに囲まれた。
有り金とクレジットカードとスマホを全て取り上げられ、何故かパスポートだけ返されて、深夜のホアンキエム湖のほとりで泣いた、惨めな夜の記憶。
俺って学習能力ないのかな。
……と諦めかけた、その時だった。
バタンと扉が開き、部屋に入ってきたのは――刺青の入ったマフィアではなく、パーカーやデニムを着たごく普通の若い男女グループだった。ルーと違って、ウイグル系ではない。みんな俺に似ている、漢民族だ。
中国語が飛び交う中、彼らは屈託のない笑顔で円卓を囲み、ドカドカと腰掛けていく。俺に対してもめちゃくちゃ楽しそうに話しかけてくるが、何を言っているのかは1ミリもわからない。
本当に、ただの友達を連れてきただけなのか……?
でもさっき、友達が「働いている店」って言ってなかったか?
「ビールでいい?」
ルーの有無を言わさぬ口ぶりに、思わずコクコクと頷く。
運ばれてきたのは緑色のずんぐりした大瓶だった。赤と黄色の混じったラベルには大きく「WUSU」と書かれている。日本の大瓶とほぼ同じサイズだが、少しだけ小ぶりに見える。
自分でコップに注いで、喉に流し込む。炭酸はきめ細かく、口当たりは驚くほど軽くてフルーティーだ。
「割とさっぱりしてて飲みやすいな」
そう呟いて瓶を一気に空にした。不思議なことに、いつもより急速に頭の芯がカッと熱くなっていく。状況の緊張感からか、それとも移動の疲れだろうか?
「おにーさん、そのビールの別名知っててそんなに飲んでるの?」
ルーがニヤニヤしながら俺のグラスを指さした。
「
「……命を奪う?」
コップを持つ手をテーブルに置いた。俺がここに来た目的を言い当てられたのかと思った。
「コレ、スルスルいけて飲みすぎちゃうの。だから頭痛にもなりやすい、あと……飲み終わった瓶をひっくり返すと」
ルーが空になった瓶をひっくり返して、逆さまになったラベルを指差した。
「WUSUの文字がNSNMに見えるでしョ?」
「ん……んー?」
ぱっと見は分からなかったが、よく目を凝らしてみるとーーnSnMに見えなくもない。
「これが何なんだ?」
「弄死你们(Nòngsǐnǐmen)の頭文字。意味はね……」
ルーの言葉を待つように、テーブルが静まり返った。
「これ飲んだ奴ら、全員ぶっ殺す!」
「物騒すぎんだろ!」
「Kill all of you!!」
テーブルが沸いた。俺もつられて苦笑いを浮かべながら、皆殺しビールの二本目をルーに注文してもらった。
円卓の上に、次々と豪快な大皿料理が並び始めたので、まずは羊肉らしき肉を玉ねぎと炒めたような料理を小皿に取る。
羊肉だが、クセがない。香辛料であの独特の臭みを消してあるのだろうか。少しだけ唐辛子を感じる。辛すぎないが、たまにピリッと感じて、それが油の甘みを引き立てている。これが驚くほどビールに合う。
黄色い炊き込みご飯。これはガイドブックで見たことがある。確か「ポロ」、要はピラフだ。
勝手なイメージで長粒米だと思っていたのだが、日本とよく似た短粒米だったので驚いた。日本の米より水分が少なくて、硬くて歯応えがある。羊の脂でコーティングされているが、干し葡萄の酸味のおかげで重くならず、こちらもいくらでも腹に入る。
トマトと玉ねぎと唐辛子を甘酢で和えたピラホン(ルーが詳細を教えてくれた)は、脂っこくなった舌を完璧にリセットしてくれた。
どれもそれほど辛くない。野菜も多いし、クセが強くなくて、典型的日本人の俺の口にはかなり合う。
「あなたの名前は何? だって」
黙々と食っていると、隣に座るルーに通訳され、俺は口元の油を拭った。
「和田です。和田
「ワタ?」
「ええと、説明が難しいな」
言葉で説明するのを諦め、俺はルーからボールペンを借りて、円卓の真ん中から取った紙ナプキンに漢字を走らせた。
『和田 高昌』
その文字を覗き込んだ瞬間、テーブルを囲んでいた中国人たちが一斉に目を見張り、次の瞬間、個室が爆発したような笑い声に包まれた。
「哈哈哈哈,
「
「这是真名吗!?」
椅子から転げ落ちそうになりながら机を叩く若者たち。俺はポカンとするしかない。聞き取れた言葉は、ホータン、ガオチャン、の二つ。
「ちょ、ルー、これ何なんだよ!」
ルーも腹を抱えて笑いながら、涙を指で拭って通訳してくれた。
「そりゃ笑うヨ!
「……あっ」
和田地区に、高昌王国。
かつて学んだ知識が一気に蘇る。俺はそれらをうっすらと知っていたはずだし、ガイドブックでも流し読みしたはずだったが、繋げて意識したことなどなかった。
点と点の知識が、天山南路というシルクロードを経て一つの線になる。そして道として繋がった結果分かったことは——俺の名前は、新疆だとかなりイカれたネーミングになるということだ。
「日本で言えば、外国人が『私の名前はキョウト・ナラです』って自己紹介してきたようなもんかな」
「そんなバカな……」
俺の名前、新疆ではキラキラネームか? いや、下の名前は遺跡だからシワシワネームかもしれない。
氷解した空気の中、宴会はさらに加速した。
こうして見ると、外見や服装だけでは日本人と漢民族の中国人たちの区別はまるでつかない。だが、円卓を囲んで大声で笑い、骨付き肉に豪快にかぶりつく姿を見ていると、その生命力の強さに圧倒される。
この場にいるウイグル族はルーだけのようだが、彼女は流暢な中国語で彼らと丁々発止のやりとりを楽しんでいた。
そして俺は見た。ルーがビールを飲むところを。タバコを吸うところを。普通に男女揃って宴会している姿を。
……ルーって、イスラム教徒じゃないのだろうか。ヒジャブも被っていないし、色々と気になる部分が多すぎる。でもこういうデリケートな話って、本人に聞いて良いもんなんだろうか?
円卓にはさらに皿が追加され、気づけば12皿以上が回転していた。
デザートに出てきたスイカは驚くほど甘く、メロンのような見た目の果物はシャキシャキとしていて、甘くない瓜という感じだった。これがハミ瓜というやつだろうか。
現地の若者たちはこれをご飯のおかずのようにポリポリと平らげていく。
続いて開けられたのは、ボルドー型のいかり肩の赤ワイン。エチケットには「楼蘭酒荘」と書かれている。
「楼蘭? 砂に埋もれてる幻の王国のワイン?」
「名前だけ。葡萄はたぶんトルファン産。トルファンの葡萄は美味しいよー」
こいつさては普段からワインも飲んでるな。ひょっとしたら豚肉も食うんじゃないか?
葡萄の品種は書かれていないように見えたが、味わいはしっかりとした重口のカベルネ・ソーヴィニヨン。砂漠の乾燥した気候で育った葡萄の凝縮感があって、どっしりとして美味い。もっと甘ったるい味を覚悟していたが、これならフランスのワインにも負けていない。
だがWUSUビールと濃厚な赤ワインのちゃんぽんは、俺の脳の血管を確実に締め上げ始めていた。
「そういえば、働いてるって言ってた友達は?」
俺が朦朧とした頭でルーに尋ねた、その時だった。
ドォン! ドォン! と地響きのような馬鹿でかい打楽器のリズムと、哀愁を帯びた弦楽器の爆音が扉の向こうから響いてきた。
バンッ! と扉が跳ね上がり、現れたのは、真っ赤な民族衣装のドレスに身を包み、長い髪を揺らして激しく腰をくねらせるウイグル人らしき女性ダンサーだった。
その両手に捧げ持たれているのは、銀の巨大な盆――その上に乗った、こんがりと飴色に焼き上げられた肉の塊。一瞬、鳥かと思ったが、違う。子羊だ。
子羊の丸焼きの頭部には、これ見よがしに鋭利なナイフが深々と突き刺さっていた。
「和田さん! ほら、衣装着て!」
「は!?」
「この場で一番金持ってる人が着るのが決まりよ!」
ルーに背中をド突き回され、ダンサーから金糸の刺繍が入った黒い上着を着せられ、頭に四角いウイグル帽をスポンと被せられた。もう何が何だかわからない。
「右手は左胸の前、左手は腰の後ろ! 首を左右にスライドさせて!」
「できるか!」
部族長のような格好をさせられた俺は、円卓の周りを引きずり回され、ダンサーのリードに合わせるがまま手足をバタつかせた。
盆踊りだ。死に行く男の、死霊の盆踊り。
宴席の若者たちは大爆笑で手拍子を打ち、ビール瓶を打ち鳴らしている。
一曲が終わると、ダンサーはウインクを残して子羊とともに鮮やかに退室していった。数分後、その肉は一口大にバラされて円卓の中央にうず高く積まれることになる。
「働いてる友達って……あのダンサーの子かよ!」
ゼエゼエと息を切らす俺の隣で、ルーが「一番いい席と演出、予約した!」と満面の笑みでサムズアップした。
そして、宴の終わり。伝票がしれっと俺の目の前に滑り込んできた時、酔いは一瞬で吹き飛んだ。会計は全額、俺持ちだった。
「吃饱啦」
「多谢招待,日本的和田」
「下次去和田还是去高昌找你啊?」
と全員ニッコニコで手を振って去っていく。何を言ってるかは分からないが、態度で大体分かる。奢りサンキューとかそんなとこだろ。お客様をもてなす文化はどうした!
俺の財布にあった人民元は、ほぼ綺麗さっぱり消滅していた。後でホテルで両替しなければ、明日からの分には足りない。
店を出たのは、北京時間で22時半。日本時間なら23時半だ。空はとっくに真っ暗で、串焼き屋台の煙だけが街灯に白く浮かんでいる。それなのに、通りには子ども連れの家族がまだ平然と歩き回っていた。
中国全土が「北京時間」に統一されているため、西の果てにある新疆では、太陽の運行と時計の針が2時間狂っている。現地のローカル時間では、まだ夜の20時半なのだ。
公式の数字と、実際の肌感覚のズレ。その歪みが、この土地の底知れない違和感そのもののように思えた。
「じゃ、和田さん。明日の朝9時、ホテルのロビーに迎えに行くからネ」
ルーは俺をホテルまで送った後、手をひらひらと振って夜の闇に消えていった。
予約済みだった「新達海得酒店」は、五つ星を謳うだけあって、エントランスはやたらと天井が高く金ピカだったが、カーペットの隅や壁紙の継ぎ目には昭和やバブルの遺物のような煤けた空気が漂っていた。それでも熱いシャワーとふかふかのベッドがある。
今から死のうという奴が、五つ星のゴージャスなホテルを取っている。その様が自分でも笑えてくる。
普通のバックパッカーなら、地元民しか泊まらないような安宿などを見つけて、現地人との交流を楽しむとか……そういう旅行をするんだろう。
宿なんか眠れたらそれでいい。俺もかつてはそう思っていた。なんなら二日目以降はそれで乗り切ろうとさえ思っていた。
だが翌朝、俺は五つ星ホテル予約の恩恵を、しっかりと受けることになる。
本編で出す機会がなかったので補足
ルーのウイグル語本名:ザミッラ(Zaymire)
再米熱という漢字と読み方は中国語に合わせた当て字。姓はなく、通常は名前の後ろに父親の名前が付く。