朝からひどい水下痢だった。
食中毒でも水あたりでもない。単純に、昨夜あのWUSUビールと楼蘭のワインを飲みすぎたせいだ。
俺はホテルのバスルームに籠城していた。五つ星ホテルの真の恩恵とは、豪華なシャンデリアでもふかふかの絨毯でもなく清潔な便座にある。
見ろ、ウイグルの果てで燦然と輝くTOTOのロゴを。紙こそ流せないが、それでもウォシュレットは俺を全肯定してくれる。下痢ごときで俺を殺そうなんざ百年早い。
海外旅行で水や食べ物に当たって腹を壊したと騒ぐ連中がいるが、俺にとってそれは脅威ではない。
過敏性腸症候群を抱え、下痢とともに生きてきた男だからだ。
海外の水が合わなかろうが食べ物に当たろうが、俺の胃腸はこれが通常営業だ。今この瞬間だけは、我が身の脆弱さに鍛え上げられた鈍感さを誇ってやってもいい。
這うようにしてベッドへ戻り、窓の外を見た。
8階から見下ろすウルムチの街並みは、出国前に抱いていたシルクロードの情緒とはまるで違い、超高層ビルが立ち並ぶ。ここは大都会だ。
それにしても看板やネオンサインの自己主張が激しすぎる。どのホテルもドン・キホーテかパチンコ屋かラブホテルに見える。
日本に似ているのに、どこか決定的に異質な現代社会。寝起きの瞬間なんて、一瞬「パラレルワールドに迷い込んだか!?」と血迷った。アホなことこの上ない。
1階のビュッフェ会場へ向かった。現在時刻は午前8時。朝食にしては遅いオープンだが、ここは西の果てだ。北京時間で朝8時でも、太陽の運行に合わせた新疆ローカル時間ならまだ朝6時。開いているだけありがたい。
会場の声に耳を澄ませると、シンガポール人、韓国人、漢民族のビジネスマンや家族連れが入り乱れているようだった。
胃腸が悲鳴を上げているため、バナナだけ皿に載せて席につく。モサモサと口に運んでいると、不意に見知らぬ中国人のおばちゃんがツカツカと歩み寄ってきて、俺の顔を指さして笑った。
「你这个人真是的,怎么吃起香蕉来了!」
語尾に(笑)が付いていたので、ニュアンスだけは分かった。俺がバナナを食っている姿を笑ったらしい。
見かねたように、後から連れの女性が流暢な英語で「ごめんなさい。友達に似ていたので」と謝ってきた。……声をかけてきたおばちゃんはどう見ても60代後半から70代。俺は30歳。年齢を考えてほしい。
さらにカルチャーショックだったのはドリンクコーナーだ。
冷水はおろか常温の水すら置いていない。まあ中国人は体を冷やすのを忌み嫌うと聞くから、それは理解できる。だがディスペンサーから注いだオレンジジュースまで湯気を上げて熱々なのはどういう冗談だ。おそるおそる口に含むと、それは案外悪くなかった。
9時。ロビーに降りるとルーがソファから跳ね起きてきた。
「スマホ、まだ空港から連絡きてない。でも安心して! 和田さんのために、公式認定資格を持ってる優秀な私が、カシュガルまでの完璧なツアープランを練ってきた!」
公式認定資格……怪しい。昨日あんなに飲酒を煽っていた女の言葉とは思えない。
「和田さんの希望通り、天山南路を西へ抜けてカシュガルを終着点にします。死の砂漠はソコから入れる。だからそれまでは、和田さんのお金でたっぷり贅沢に観光して回ります!」
「和田さんの金で、をナチュラルに強調するなよ」
まあ、その通りなんだけど。
「今日はこれから天山天池に行って、お昼を食べてから博物館。で、そのあとトルファンに移動! もうホテルも予約したからネ。私の部屋と朝食代も取ってあるけど、もちろん別部屋」
「天山天池……世界遺産か」
「遊覧船は乗る?」
「いや、いい」
「OK、レッツゴー!」
結局、ウルムチの街並みを気ままに歩く暇はなかった。街中には蜘蛛の巣のように監視カメラが張り巡らされていると聞いていたが、それを実感する間もなく、俺はルーが手配した車の助手席へ押し込まれた。
まあいい。俺は自由な観光をしに来たわけじゃないのだから。
車で一時間走り、専用のシャトルバスに乗り換えて山道を三十分ほど揺られると、標高2,000メートルに位置する天山天池に到着した。
道中、これから旅の途中で嫌というほど通過することになる検問所を抜けた。
外国人は原則として車を降り、パスポートを提示して登録を受けなければならない——もっとも、この「原則」が検問所ごと、担当者ごとにまちまちであることを、俺はこれから嫌というほど知ることになる——警察の威圧感は凄まじく、いつでも即座に独房へ放り込まれそうな恐怖で俺は完全に縮こまっていた。
だがそんな俺を尻目に、ルーは首から提げた国家ガイド資格証をサッと提示し、淀みなく今後の行程表を差し出した。早口で流暢な中国語と愛想のいい笑顔で警察官を手玉に取り、物々しい照合手続きをものの数分で終わらせてしまう。
ただのちゃっかりした小娘かと思っていたが、彼女は間違いなく本物のプロだった。
もし一人旅のままだったら、ウルムチ空港の出口を越えたところで街から出られず、俺の旅は終わっていたに違いない。
見事な青空の下、雪をいただくボゴダ峰を背景に、エメラルドグリーンの湖面が静かに広がっている。
「昔はここにカザフ族が住んでて、湖の周りでゲルを建てて商売してたの。でも世界遺産に登録されるとき、政府がカザフ族を全部立ち退かせて綺麗に整備したんだよ」
「立ち退き?」
「うん。でもカザフ族は前より儲かってる。入場料の売上からキックバック貰えるから」
ルーの言葉が真実なのか、体制側の受け売りなのかはわからない。確かめようもない。
「ここを見て、その美しさに『人生が変わった』って言う観光客もたくさんいるヨ」
ルーが湖面を指さす。
「ふぅん……」
だが、視界いっぱいに広がる絶景を眺めても、俺の心は一ミリも動かなかった。
絵葉書みたいに綺麗だな、人が多いな、それだけだ。
「この雪解け水が地下水路を通って、乾いたシルクロードの大地に命を運ぶの」
かつての俺――大学の観光学部で、東洋史やシルクロードにロマンを感じていた頃の俺なら、目を輝かせてメモを取っていただろう。
だが今の俺は、ただの空っぽの抜け殻だ。何の情報も胸には染み込まない。
「ルーは好きなのか、ここ」
ふと横顔を見ると、ルーはいつもの茶化すような笑みを消し、じっと湖の深緑の奥を見つめていた。
「世界遺産だし、大切にしなきゃって思うよ。ただ……」
彼女は風に揺れる髪を耳にかけ、ぽつりと呟いた。
「人生が変わるとまでは思わないかな、私も」
私も?
引っかかりを覚えた俺の顔を、ルーがパッと覗き込んできた。
「和田さん、すっごく退屈そうな顔してる。ソレ、観光に来た人の顔じゃないネ」
「……」
「当ててあげようか。和田さんがココに来た、本当の目的」
「え?」
心臓が跳ねた。死にに来たことを見抜かれたのか?
固まる俺の鼻先に、ルーは人差し指をピッと突きつけ、悪戯っぽく笑った。
「……の前に、お昼ごはん!」
*
天山天池のビジターセンター、堂々と建っているケンタッキーの隣の売店で、ルーは6元の巨大なナンを買い求めた。
直径30センチ程の円型。インド料理のモチモチしたナンとは完全に別物で、表面には細かな模様が刻まれ、平べたく焼き固められている。
重曹と塩の素朴な香ばしさ。水分が一切なく、噛むとボロボロとサクサクの間のような乾いた音がした。
「クチャに行ったら、これの倍くらい大きい車輪みたいなナンが売ってるよ。ピザみたいなデリバリー箱に入れたり、袋に突っ込んで運ぶの」
「ここでは箱は?」
「ない! だから半分こ。いま全部食べきる!」
二人でベンチに座り、俺の顔より遥かにデカいそれを無心で齧る。
「うまいけど、口ん中パッサパサになるな」
「お茶ならそこにCHAGEEあるよ」
「チャージー?」
「あー、日本には、まだない?」
ルーが指差した先には、若い女性が好みそうなミルクティーの店があった。仮に日本に出店していたとしても、俺が存在を把握していたかどうか分からない。
ふと見ると、ビジターセンターのすぐ隣に公安のパトカーが停まっていた。同時に、こちらの巨大ナンを物珍しそうに眺めていた観光客がスマホを俺たちの方に向けたので、俺も何気なくポケットに手を伸ばし――スマホがないことを思い出した。
「和田さん、公安はカメラ向けるの絶対にダメ! ……あ、スマホないんだった。アハハ!」
結局、彼女が何を「当てよう」としていたのか、その続きが語られることはなかった。
*
天山天池を後にし、車でウルムチ市内へ戻って新疆ウイグル自治区博物館へ向かった。途中、高速道路のインターチェンジのような検問所を抜ける。やはりまだ慣れない。生きた心地がしなかった。
「シートベルトちゃんと締めてネ! 外すとセンサーがピーピー鳴ってうるさいから!」
ルーが手慣れた様子で身分証を提示し、車はスムーズに通過する。
この国が外に見せたい、美しく管理された新疆を順調になぞっている感覚。ツアーは安全だが自由がない。ここは息苦しいほどの管理社会。
だが、それでいいのだ。俺は傷心旅行に来たんじゃない。タクラマカン砂漠の入り口まで運んでもらい、そこで彼女と別れれば、それですべてが終わる。
*
博物館のエントランス前で、怪しげな露天商が平たいザルに並べた奇妙な果物を売っているのが見えた。
ニンニク大の、黄色くて丸い果実。上下から緑の葉っぱで挟み、せーので手のひらでグシャッとペシャンコに押し潰して客に渡している。
「あれ何だ?」
「イチジクだよ」
「黄色いけど」
「新疆には黄色もある。
ルーが手際よく一個買い、潰したてのそれを半分に割って俺の口元に無理やり押し込んできた。
「和田さんの分!」
齧り付くと、糖分のジュースが口いっぱいに弾けて、シロップをそのまま飲んでいるような気分だった。
砂漠の乾燥に対抗するかのように、この土地の果物は異常なまでの水分と生命力をその身に蓄えている。
博物館は入場無料だったが、本来は事前予約が必須らしい。ここでもルーの怪しげな手腕のおかげで待たずに中へ入ることができた。エントランスは涼みを兼ねた地元民や観光客でごった返している。
エスカレーターに乗って二階。薄暗い照明の中に鎮座する、この場所の最大の目玉――ミイラ展示室へと足を踏み入れた。
ガラスケースの中に、およそ3,800年前の「楼蘭の美女」のミイラが横たわっていた。
全身が茶褐色。深く窪んだ目元、高い鼻梁、赤みを帯びた長い髪。まるで昨日まで生きていた人間が、深い眠りについているかのようだった。
昔、井上靖の「楼蘭」という小説を読んだ。その小説では確か、このミイラは自死した楼蘭の王妃ということになっていたのだが、ルーは「知らない。香妃?」とだけ言った。その香妃ってのは何の話だ、と思ったが——館内は人が多すぎて、聞き返す暇もなかった。
展示室には、乳幼児から屈強な戦士、白髪の老人まで、さまざまな時代と人種のミイラが順番にと並んでいる。
「エジプトみたいに内臓を抜いて、防腐処理を施して人工的に作られたミイラじゃないよ」
「内臓があるのに腐らないのか?」
「うん。髪にはシラミまで付いてたらしい」
極端に雨が降らず、湿度がゼロに近いタクラマカン砂漠の気候。そして砂地に含まれる強烈な塩分が、脱水シートのように肉体から一気に水分を吸い上げたのだという。
腐敗菌が繁殖する隙すら与えず、そのまま固定化された、自然乾燥のミイラ。それが新疆のミイラだ。
彼らを取り囲むように、何十人もの観光客が、我先にとガラスにへばりついている。
「胸から下の布、めくって中見られないの?」
ふと聞こえた日本語に振り返ると、揃いのサファリハットをかぶった日本人の老人ツアーの一団がいた。声の主は、首からカメラを提げた赤ら顔の爺さんだった。
急激に胸焼けがした。
死者の尊厳とは何なのだろう。何千年も静かに砂の下で眠っていた人間が、あるとき突然誰かに掘り起こされ、照明を当てられ、見知らぬ他人の好奇の目に晒されて、局部を晒せと野次られる。
極限まで水分を抜かれ、塩分によって凝縮された肉体。
そういえば、新疆はドライフルーツの聖地だ。ならば、ここに展示されているミイラは――人間のドライフルーツだ。
俺はタクラマカン砂漠の真ん中で倒れ、誰にも知られず消え去ろうとしていた。
だが、あの砂漠に倒れるということは、消滅することではない。何千年も腐ることも許されず、カピカピに干からびた肉体のまま、未来の何者かに掘り出されるのを待つということだ。
胃の奥から冷たいものがせり上がってくるのを感じ、俺が口元を押さえて立ち尽くしていた、その時だった。
隣に並んだルーが、いつになく冷徹な眼差しでガラスケースのミイラを見つめながら、ぽつりと耳打ちしてきた。
「ねえ、和田さん」
「……なに?」
「砂漠の真ん中で、誰にも見つからずにひっそり死ぬなんて、絶対に無理だよ」
心臓が止まるかと思った。ルーはケースから視線を外さず、低く、けれど透き通るような声で続けた。
「砂漠はね、姿を隠してくれるけど、跡を残しちゃうの。和田さんも千年後にはカピカピのミイラになって、ここの展示物かもよ」
「……」
「死にきれないでしょ?」
ルーはそう言って、いつもの生意気で飄々とした笑みを浮かべ、俺の背中をバチンと叩いた。
「湿っぽいところはおしまい! 車に乗って、次はトルファン。中国で一番暑くて、一番低くて、甘い葡萄がいっぱいある街、行くよ!」
博物館の外に出ると、強烈な太陽光が俺の目を射抜いた。
これはひたすら観光して飯を食いながらミイラのことを考える物語です。