北京空港のベンチに置き去りにした俺のiPhoneだが、この後の滞在先であるクチャのホテルへ有料で輸送してもらえることになったらしい。
とんでもない話だ。まさか盗難されずに戻ってくると思っていなかったし、輸送というのも驚きだ。日本なら「空港の遺失物センターまで直接取りに来てください」と言われただろう。
厳格な監視と管理社会が生んだ、極端なまでの治安とインフラの連携。中国に対する認識を少し改めざるを得なかった。良くも悪くも、この圧倒的な統制のおかげで、俺のデジタルな命が繋がろうとしている。
今日はトルファンを離れ、さらに西のオアシス都市・
その前に、ルーは街の西にある交河故城へ寄ってくれた。
二本の川に挟まれた細長い台地の上に、土の街がまるごと残っている。
高昌故城が土を積み上げて作った街なら、ここは逆だ。台地を上から掘り下げて、削り残した部分を壁にした、引き算の街。日干し煉瓦は一つもない。今、俺たちの足元にある地面が、かつての屋根の高さなのだという。
「雨が降らなくて、風が強い土地だからできるやり方ネ。遠くに小屋が見えるでしょ。あのあたりは風がよく取れるから、葡萄の乾燥小屋が多い」
「風が取れる、か。いい言い方だな」
ルーは崩れた土壁の一角を指さした。
「あっちの墓地からは、赤ちゃんとか小さい子のお墓ばっかり、二百くらい見つかってる」
「……子どもだけ?」
「理由は分からない。病気か、お祈りか、生贄か。誰も知らないヨ」
何千年も昔に、名前もつかないうちに死んだ子どもたち。その骨の上を、今は観光客のスニーカーが行き交っている。
俺は何も言えずに、乾いた風が土壁を撫でていく音を聞いていた。
*
車窓を眺めていると、蜂の巣のように無数の穴が空いた直方体の建物がびっしりと密集していた。
「あれも葡萄の乾燥小屋か?」
「この辺なら唐辛子かもしれない。虫が湧きやすいから、トルファン周辺では基本ダメなんだけどネ」
予備知識なしで見ると、あまりに画一的で、社会主義的な集合住宅のミニチュアに見えなくもない。
「なあルー、ウルムチの時から思ってたんだけどさ」
俺は車道沿いの土壁を指さした。
「あちこちの壁にスプレーペンキで殴り書きされてるあの電話番号、何なんだ? 壁の管理番号にしてはデカすぎるし、やたら雑だし」
「あー、
「ニウ?」
「こびりついて取れない乾癬とか、しつこい皮膚病って意味」
「汚ねえ名前だな!」
「下水道の詰まり抜き業者とか鍵開け屋のゲリラ広告。たまにもっと悪い非合法な番号もあるケド」
途中でまた警察の検問に止められた。
警官が窓を覗き込んできた時は心臓が跳ね上がった。俺のパスポートはちらりと見られただけで返された。ところがルーが身分証を読み取り機に置いた途端、警官の表情が変わった。
ルーは短く何か言われて車を降り、検問所の脇にあるプレハブ小屋へ入っていった。
十分。十五分。
助手席で一人待たされながら、俺は冷や汗をかいていた。怪しい日本人を乗せているせいだ。スマホもない、行き先も曖昧な外国人の男なんて、どう考えても不審者だろう。
二十分ほどして戻ってきたルーは、何事もなかったようにエンジンをかけた。
「悪い。俺のせいか?」
「そうそう。外国人を乗せてると色々面倒。書類いっぱい書かされた」
ルーはあっけらかんと笑った。俺は心底申し訳なくなって、それ以上は聞かなかった。
新疆に入ってから、尋常じゃない数の検問所を抜けている。夜の高速を走れば、頭上の監視カメラがピカピカと青白いフラッシュを焚き続けている。車窓の風景だけを切り取れば日本の郊外と大差ないのに、やはりここは特殊な場所なのだと肌で実感させられる。
昼食に入った大衆食堂では、野菜炒めの青唐辛子を不用意に噛んでしまい、口内が爆発した。
舌が焼けただれ、鼻の奥から猛烈に鼻水がせり上がってくる。ティッシュを取り出してズズッとすすろうとした瞬間、ルーが血相を変えて俺の腕を掴み、壁を指さした。
「請不要在店内吸鼻涕。店内で鼻水をすするな、かむな」
「……かむのも禁止?」
「マナー違反! 汚いから早くトイレ行って!」
俺は涙目になりながらトイレへ駆け込み、個室でガッツリと鼻をかんだ。
辛い料理を食わせておいて鼻水をすするなとは。過敏性腸症候群だけではなく慢性鼻炎持ちでもある俺に対する拷問だ。
昼食後はひたすらコルラへ向けて荒野をひた走る。チョルタゲ山――ウイグル語でハゲ山を意味する茶色い岩山を抜けていき、海抜0メートルのサービスエリアで休憩を挟む。
昼の青唐辛子が腸に到達していたので、トイレに駆け込んで個室の扉を開けると、こちらを見上げる知らないオッサンと目が合った。
「うわ!」
大慌てで扉を閉める。個室の鍵は当然のように壊れていた。油断していた。中国式のトイレ、いわゆる「ニーハオトイレ」とはいえ、きちんと扉が付いていたから……。
どのトイレにオッサンが潜んでいるか分からないので、とりあえず誰かが出てくるのを待つことにした。さっきのオッサンは個室の壁を挟んで、別の誰かと大声で会話をしている。
順番待ちの列にしれっと割り込もうとしてきた若者がいたので、俺は無言で肩を入れてブロックした。こういうのだけは昔から得意だ。
別のオッサンが個室から出てきた。俺は覚悟を決め、鍵の壊れたトイレの個室でしゃがみ込んだ。
*
車の窓から見える連峰の向こう側に、俺の出発点だったウルムチがある。砂埃なのかPM2.5なのか、地平線は常に白く霞んでいる。
ふと、山梨の甲斐小泉にある平山郁夫シルクロード美術館で見た絵を思い出した。あの幻想的な霞みは画家のロマンチシズムではなく、この土地の乾いた空気の写実的なスケッチだったのか。
「あれも……葡萄か?」
「この辺からは唐辛子だよ」
「こっちは小屋じゃなくて天日干しか」
「ここで干された唐辛子が四川に運ばれて麻辣の素になるし、化粧品にもなるの。ホラ、口紅とか」
「口紅!? 唇が腫れ上がるだろ」
「和田さん、リッププランパーとか知らない? モテない人だネ」
「んなもん知るかよ。あれも野晒しだけど、雨が降らないから平気って話だったよな」
「この前600トンが強風でぶっ飛んだって」
「全然ダメじゃねえか!」
葡萄の名産地であるトルファンを離れてから、逆にワイナリーの看板が増えてきた。その看板の合間に、奇妙な看板が立っていた。新疆地区唱歌电话……唱歌?
「あれ何だ、カラオケの出張サービスとか?」
「運転中に眠くなったら、電話越しに歌を歌ってもらえるって看板。かけてみる?」
「興味はあるけどスマホがない」
「じゃあ和田さん歌って」
「俺!? やだよ、歌は苦手なんだよ」
「ヘタクソの方が耳障りで目が覚めるからちょうどいいヨ」
「言うじゃねえか……」
しかし急に歌えと言われても困る。最後にカラオケに行ったのなんて何年前だ。……元カノと行ったのが最後か。何も見ずにそらで歌詞を歌える曲なんて、今の俺には――
「きーみーがーぁーよーぉーはー」
車内に響く、陰鬱で下手くそな君が代。
「ちーよーにーいぃ、やーちーよーにー」
ルーが目を丸くしてハンドルを握っている。
「ソレ何?」
「日本の国歌。君が代」
「どういう意味なの?」
「ええと……小さな石が長い年月をかけて大きな岩になって、それに苔が生えるまで、何千年もずっと栄えて生き続けろ、みたいな意味」
説明しながら、俺は自分で頭を抱えた。千代に八千代に。ミイラの生産地ど真ん中で、永遠の命を歌ってどうする。
18時45分。俺たちは「鉄門関」に到着した。北京時間では夕暮れ時だが、太陽はまだ高く、西の空を白く照らしている。
古代の中国二十六名関の一つとされる堅固な関所だが、ここも綺麗に修復されすぎていて、観光地特有の人工的な空気が漂っていた。黄色い胡楊(コトカケヤナギ)の造花が枝に括り付けられ、無理やり風情を演出している。
「火焔山といい、ここもテーマパークだな」
「鉄門関には悲恋の伝説があるヨ」
ルーが案内板を見ながら言った。
「昔々、王様の娘ゾフラと、大臣の息子ターヒルが愛し合ってました。でも色々あって、二人とも死にました」
「要約のしすぎで情緒がゼロだぞ」
鉄門関の向こう、険しい岩山の上に、その二人を記念して建てられたという「公主陵」の白い廟が見えた。そこへ至る階段は、見上げるような急勾配だ。
「山越えの道になってるのか? 向こう側に行けるとか」
「行けないよ。登っても空っぽの墓があるだけ。上から孔雀河が見下ろせるくらいかな」
「頑張って登ってたところで、誰も入ってないのか」
俺が呟くと、ルーはふと遠くの乾いた岩肌を見つめた。
「そう。あれは形だけのお墓。……でも中身がない方が、ずっと良くない?」
「え?」
「博物館のミイラみたいに、掘り起こされて見世物にされるくらいならさ。誰にも見つからないどこかで、すっと綺麗に消えてなくなっちゃった方が……ずっといいよ」
その横顔に、高昌胡城で見せたような翳りが差したような気がした。
空っぽの墓。肉体の消滅。
死にに来た俺に、彼女の心の奥にある別の何かが共鳴しているような気がして、俺は息を呑んだ。
駐車場へ戻ると、見覚えのある揃いのサファリハットの一団が、大型バスに吸い込まれていくところだった。博物館で布をめくれと言っていた、あの日本人の老人ツアーだ。どうやら俺たちと同じルートを辿っているらしい。
鉄門関を後にする帰り道、コルラ特産の洋梨の看板が目に入った。
可愛らしい梨のイラストの横に、英語で大きく「HELL♡」と書かれている。HELLOと言いたいんだろうが、地獄♡ってか。確かにまぁ、この世なんて、地獄みたいなもんだしな。
*
車でさらに一時間ほど走り、コルラの市街地にある
今夜の夕食は、その一角にあるセルフ回転式火鍋の店。120分食べ放題、ソフトドリンクは冷蔵庫から取り出し放題。カウンター席には一人用の小さなIHヒーターと小鍋が埋め込まれており、目の前を回転寿司のレーンが回っている。
「昔は寿司チェーンだったんだろうな……」
「最近増えてるよーこれ」
ルーは店員に何かを確認していた。流れてくる皿も、よく睨んでから取っている。
「豚は食べないからネ。ここはハラールの店じゃないから、自分で選ぶの」
「あ、そこはちゃんとしてるのか」
「そこは?」
「いやだって、初日……」
酒飲んでたし、と言いかけて、触れない方が良いのかもしれないと思って俺は黙った。
レーンには火鍋の具材と、そのままで食べる料理が何の脈絡もなく混ざって流れてくる。見慣れない具材ばかりで、これではロシアンルーレットだ。
せっかくなので、闇鍋を作ってやろう。そう思い、目の前に流れてきた「赤黒いマグロの刺身のような肉片」をトングで取ってみた。当然、煮る。こんなところで生魚は怖すぎる。グツグツと沸騰する白湯スープの中にマグロもどきを突っ込み、しっかり火を通そうとした数秒後――
「……あれ?」
箸の先から手応えが消えた。鍋の中をいくらかき混ぜても、肉片が見当たらない。
「俺の具、どこ行った?」
「それ
「アヒルの血!?」
「煮込みすぎてダシになっちゃったネ。ここアヒルの肉が多いって。首肉とか肩肉とか」
「じゃあ、このレーンを回ってる茶色いゴムみたいなやつは何だ?」
「んー……食べてみて」
「ガイド業をサボるな」
それから飲み放題のドリンクコーナーの冷蔵庫から、ルーは茉莉精茶、俺は緑茶のペットボトルを取った。WUSUビールの二の舞はごめんなので酒は飲まない。
……が、一口飲んで吹き出しそうになった。
「甘っ!!」
すっかり忘れていた。ペットボトルのお茶に砂糖を入れるという、こちらの文化を。
喉を突く強烈な砂糖の甘み。そして何故か鼻に抜けるジャスミンの香り。慌ててラベルの成分表を確認すると、俺の緑茶にもしっかりと「白砂糖、茉莉花」と書かれていた。
「緑茶に砂糖とジャスミンを足したらもはや別物だろ!」
「中国の人は甘いジャスミンが好きだからネー」
文句を言いながらも、昼の唐辛子と長距離移動で荒れ狂っていた胃袋に、冷たく甘いジャスミン緑茶がじんわりと染み渡っていく。……悔しいが、疲れた身体には過剰な糖分が妙に優しい。
食後、車で15分ほど走り、今夜の宿にチェックインした。四つ星ホテルだけあって部屋は無駄に広かったが、ドアを開けた瞬間、強烈なタバコの臭いが鼻をついた。誰かがさっきまでこの部屋でタバコ休憩でもしていたのかというレベルだ。
中国のタバコは日本より香料がきついのか、煙がやけに喉に刺さる。幸い、デスクの上に加湿器が置かれていたので、最大出力で蒸気を焚き散らして誤魔化すことにした。
廊下で別れる際、ルーはいつもの屈託のない調子で言った。
「明日はクチャ! 和田さんのスマホ、本当に届くか楽しみだね!」
バタン、とドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。加湿器の白い蒸気を顔に浴びながら、俺はベッドの上に大の字になった。
明日、クチャでスマホが手元に戻ってくる。
デジタルデトックスの終わり。ネットから完全に隔絶されたこの数日間、俺はスマホを無くして右往左往し、下痢に悶え、不条理な料理にひたすらツッコミを入れていただけだった。
死の砂漠へ向かっているはずなのに、なぜか日本にいた時よりも、みっともなく生身の現実を生きている気がする。
スマホが戻ってきたら、俺は元の世界の孤独に引き戻されるのだろうか。
タバコの煙が染み付いた天井を見つめながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
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日本でeSIMの設定をしていけば使えますが、デジタルデトックスの旅をしたい方はあえて何もせずに行くのもアリ。