コルラも都会だった。人口およそ五十万人の町の平日は、親が子どもを学校へ送り届けるバイクでごった返している。布製のお揃いのリュックを背負った子どもたちが、親の背中にちょこんとしがみつく。
観光地らしい観光地は昨日の鉄門関くらいしかないらしく、俺たちは都会の喧騒を足早に抜け、西へ向けて車を走らせた。目指すは、シルクロードの要衝・
「発音はグチャの方が近いと思うんだけどなー。和田さん発音ヘタだから、どっちでも同じか」
「おーそうだな。発音もそうだし、庫車って字も車庫にしか見えない」
「あれは古いウイグル語で横道って意味」
クチャ。古くはトカラ語を話すインド・ヨーロッパ系の人々による
「あ、そうだ。タクラマカン砂漠はね、理屈の上では五メートルも掘れば地下水が出る」
「へぇ、案外浅いな」
「山からの川の終着点だから。水も石油も、地下にはバカみたいに眠ってる」
昼過ぎ、国道沿いの食堂「小黒羊」に立ち寄った。テーブルには無造作に生ニンニクが転がっている。
「麺をすすりながら生のニンニクをかじるのが現地のやり方」
「それ胃腸が死にそう」
「和田さんの口臭で私も倒れちゃうからやめといてー」
「こら。自分だけ棚に上げるなよ」
「ふふん。まぁ私も食べないヨ」
運ばれてきたのは、トマトと青唐辛子を卵でとじた具を、うどんのような長くて白い麺にぶっかけたラグメン。トルファンの農家で食べたものとはまた違い、あっさりした優しい味付けだった。
追加で頼んだ手作りヨーグルトは、ルーは「口に合うかなぁ?」と心配していたが、俺はこれは絶品だと思った。日本の商品をさらに濃厚なミルク仕立てにしたようで、唐辛子の種で荒れた舌が心地よく鎮まっていく。
ヨーグルトの匙を舐めながら、俺はふと気になっていたことを口にした。
「そういえばさ、ルーってウイグルの……イスラム教徒なんだよな?」
「うん。豚肉食べなかったでしョ」
「でもお祈りしてるとこ見たことないし、スカーフも巻いてないし……ってこれは町中みんなそうか」
「ヒジャブはウルムチじゃ最近は誰もしないね。顔まで隠すやつはダメってことになってるし。カシュガルの方に行けば、スカーフ巻いてる人はまだいるけど」
「男と二人きりで旅してるし、そういや初日はビールも飲んでたよな。教義とか大丈夫なのか?」
「あー」
ルーは匙を置き、事も無げに言った。
「私、不真面目な教徒だから。すでに地獄行きが確定してる」
ふいに飛び出た地獄という言葉に、俺は少しだけ固まった。
「礼拝はサボるし、お酒も飲むしタバコも吸うし。おばあちゃん泣かせの不良」
「戒律って……破っていいのか。怒られるとか」
「ウルムチの女はこんな感じ。漢民族の学校で育ったからこうなった。だから怖いものはないし、どうせ死んだら地獄行き。現世はもういい」
イスラム教に詳しくない俺でも、さすがにこれは背筋が寒くなる。中東あたりの厳格な宗教国家でこんな大口を叩いたら、即座に宗教警察に連行されるんじゃないか。
――いや、違うか。
日本で流し見したニュースの断片が、遅れて頭に浮かんだ。この土地では、信じすぎる方が問題なのだ。不真面目を名乗るのは……彼女なりの、鎧なのか?
俺の怯えを察したのか、ルーはふっと悪戯っぽく目を細め、身を乗り出してきた。
「私の考えではさ。過酷な環境で、病気にならずに生き抜くための衛生管理と予防医学が、イスラムの本当の始まり」
「予防医学?」
「そう。豚肉がダメなのも、傷みやすくてリスクが高いから。お祈りの前に手足を清めるのも、砂埃の中で清潔を保つため。断食だって、定期的に胃腸を休めて体の調子を整えるため」
淀みなく語られる持論に、俺は思わず圧倒される。
「規則を守ることが目的じゃなくて、人間が健康で元気に生き抜くことこそが、アッラーの本来の教えであり、願いだって私は考えてる」
形式よりも本質。
儀式よりも、健康と日々の幸福。
死にたくてたまらない俺の目の前で、彼女は迷いのない瞳で言いきった。
「だってさ。こうすれば健康になりますよーなんて触れ回ったって、誰もついてこないでしょ? だから宗教って形にして、守らない奴は地獄行き! って言っとけば、みんな怖がって守るじゃん」
「言い切っていいのか、そういうこと……」
「うーん。じゃ、知らんけど。ってことで」
「そんな日本語どこで覚えた」
「だって。現実で健康なら天国だけど、不健康な現実は地獄でしょ?」
「……耳が痛い」
「ネ。だから私は現世で天国を満喫して、そのツケは後で地獄で払いますよっと」
ケラケラと笑い、再びヨーグルトを口に運ぶルー。好きなように持論を語る彼女は、一見すると誰よりも自由で、奔放に見える。
ふと、視線を窓の外に向ける。埃っぽい交差点の頭上には、無機質な監視カメラがぎっしりと鈴なりにぶら下がっていた。
*
午後、世界遺産のスバシ仏寺遺跡に到着した。
砂利と土埃が広がる荒野に、崩れかけた巨大な仏塔が聳え立っている。平日だからか、チケット売り場には係員すらいない。
木道の上を歩きながら見上げると、風化した仏塔が正面から見た象(あるいはガネーシャ)の姿に見えなくもなかった。
玄奘三蔵がこの地に滞在した頃、ここは数千人の僧侶が暮らす仏教の全盛期だったという。そしてもう一人、仏教史上最大のレジェンドがいる。
「
「ふんわりと。般若心経を訳した人だっけ」
「ブー。日本で読まれてる般若心経は玄奘の訳。でも色即是空って言葉は、羅什の訳したお経にもう出てくるの。法華経も阿弥陀経も羅什の訳だヨ」
形あるものはすべて空っぽで、何もない。その言葉を最初に漢字にしたのが、このクチャで生まれた男だった。
「羅什はね、戦争で捕まって、無理やりお酒を飲まされて、お姫様と結婚させられた。その後も女をいっぱいあてがわれて。で、弟子たちにこう言ったんだって。泥の中から蓮は咲く。蓮だけ摘んで、泥は取るな」
己の行い(泥)は見習わず、訳した仏の教え(蓮)だけを受け取りなさい。そういう意味なのだろうか。
「それとね。羅什は死ぬ前に『私の訳が正しければ、火葬しても舌だけは焼け残る』って言ったの。で、本当に舌だけ残ったんだって」
「舌が?」
「そう。言葉の人だから、舌だけ」
発音がヘタクソと罵られ続けている俺の舌は、きっと真っ先に灰になるだろう。
かつて厚さ3メートルの堅固な土壁に守られていたという寺院も、砂嵐による風化、偶像崇拝を嫌うイスラムによる破壊、異民族の略奪によって、今はただの乾いた抜け殻となって風に吹かれている。
ルーの解説を聞きながら歩いていたら俺は、ふと足を止めた。
各地の失われた遺跡を探索し、文化財を持ち帰っていった探検家たちの話。ドイツのル・コック、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、そして、日本の大谷探検隊。
「……日本の」
「そうだよ。日本の人たちもいっぱい持ち帰った」
「急に肩身が狭くなった気分だ」
「昔の話! 百年年以上前なんて、保護の意識もなかったから」
ルーの何気ない一言が、胸にチクリと刺さった。
そういえば、東京国立博物館に、この辺りから出た木の箱があったような気がする。楽器を奏でる人々が描かれた、小さな舎利容器。釈迦の遺骨を納めるための箱だ。解説パネルには「大谷探検隊将来」とあった。あれは——ここから来たのか。
「……現代の価値観で泥棒だって断罪するのは、単純すぎるよな」
「持ち帰って保管したから残ったものもあるヨ。ここに置いといたら、風で削れて消えてたかもしれない」
「探検家たちも同じことを言ったのかもな」
ルーは崩れた仏塔を見上げた。
「ベルリンに持っていかれた壁画、戦争でたくさん燃えちゃったって。壁に塗り込めて展示してたから、逃がせなかったって」
「守るために持ち出したものが、持ち出した先で灰になったのか」
「どこに置いたら残るかなんて、誰にも分かんないネ」
砂の中で朽ちるか、異国のガラスケースで晒されるか、戦火で灰になるか。
ここでは死者だけでなく、描かれた仏たちまでもが、安らかに眠る場所を選べない。
*
クチャに到着した俺たちは、さっそく旧市街へ移動した。時刻は19時。現地の体感ではまだ暑く、だらける時間帯だ。
この時間帯の旧市街はどこか活気がない。露天のベンチではトランプに熱中する老人グループや、大の字で昼寝をする男たちが転がっている。
観光用の看板には「男装」「女装」とデカデカと書かれており、一瞬ギョッとしたが、ただの「紳士服」「婦人服」という本来の意味だった。
夜市が元気になるまでの時間潰しに、橋を渡った先にある地元の布屋街へ足を踏み入れる。
「和田さん、これ知ってる? 知らないよネ」
ルーが店頭に吊るされた子ども服を指さした。
「お尻とお股の部分がパックリくり抜かれてるの。
「へぇ、合理的だな」
感心しながら、俺は何の気なしに隣に並んでいた女性用の民族衣装のズボンに手を伸ばした。
「こっちはくり抜かなくていいのか?」
「このスケベッ!!」
ルーから鬼の形相で怒鳴られた。ただの疑問だったのに。理不尽すぎる。
*
暗くなってから夜市へ繰り出した。
巨大なナンを焼き上げる窯の熱気、モクモクと立ち込める羊肉の脂の煙。
肉屋の店先では、羊をさばく大きな包丁が、まな板の脇に太い鎖で繋がれていた。刃物は盗まれないように、そして勝手に持ち出されないように管理されているらしい。何のために、とは聞かなかった。
なぜか魚を丸焼きにするための巨大な焼き器が肉屋の前に鎮座していたり、ウイグル風のかき氷(削った氷にヨーグルトとシロップをかけたもの)が売られていたりと、腹の弱い俺を試すようなトラップが満載だ。
「美味しい干しあんずの見分け方を伝授してあげましょう。ほら、コレ」
ルーが、店先に置かれた白っぽくツヤのないドライフルーツを一つ手に取った。
「コレね、見栄えを良くして長持ちさせるために、硫黄で
「すげぇ。確かに色褪せてるけど、知らなかったら普通に良さそうなやつに見える」
「本当に良いものは……」
「これは?」
俺は隣の店の、真空パックにされているものを手に取った。色が全然違っているし、真空パックなんてできたてじゃないからダメ、と言われるかと思いきや……
「そうそう、ソレは良いやつ! ミイラみたいな色してる!」
「お、おぉ」
なんて例え方をするんだ。俺も人のこと言えないけど。
色は茶褐色から濃い飴色。これは強い日差しと乾燥した風だけで仕上げた、無添加完全天日干しの証拠だという。
「なんにせよ和田さんはやめといた方が良いネ。毎日お腹壊してるから」
「なぜそれを……」
「食後は温かいお茶を飲んだ方が良いヨ」
「なるほど、冷えてない飲み物か。そういや喉が渇いたな」
俺はその辺で瓶ビールを買った。1本10元。
「そういう飲み物じゃない!」
「いいだろ。これだって常温だ」
適当に買ったので、また例のWUSUかと思いきや、ラベルには見覚えのあるロゴが躍っていた。TUBORG(樂堡啤酒)。
「……デンマークのビールだ!」
「ホントだ。ラベルに書いてるネ」
コペンハーゲンで飲んだことがある、あのビールだ。プルタブが、指でちぎるリング式キャップになっている。
栓を引き抜いて喉に流し込むと、爽快な炭酸とキレのある苦味が広がった。WUSUほどアルコール感はなく、より麦芽のうまみを感じる。かつてカールスバーグの工場で飲んだ時、サントリービールに似ていると思ったのだが、これもまた驚くほど俺の口に合った。うまい。
その辺で焼かれていた香ばしいサムサ(羊肉のパイ包み焼き)をかじり、TUBORGを流し込む。
ふと、冷たい風が夜市の路地を吹き抜けた。
この旅は、死への片道切符のはずだった。それなのに俺は美味い飯に舌鼓を打ち、酒を飲み、くだらない冗談で笑い、明日の予定を気にしている。そして何より、目の前にいるこの生意気なガイドにすっかり気を許してしまっている。
「和田さん、それ美味しい?」
「すげぇうまい」
俺は今、この旅を、楽しんでいる。
烏蘇ビールはカールスバーグに買収されており、今では完全な子会社だそうです。