新疆ウイグル自治区の旅   作:雄魔雌

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第7話 今日はダメな日

 チェックイン後のホテルの部屋で、重大な事実に気付いた。

 

「ない」

 

 日本から持ち込んだ薬がない。

 炭酸リチウム、ラモトリギン、オランザピン。 腹を下した時のためのビオフェルミンと補中益気湯、不眠の焦燥を誤魔化すための酸棗仁湯。俺の脳の留め具たち。

 バックパックをひっくり返して全部ベッドシーツの上にぶちまけてみたが、ゴミと着替えしか出てこない。

 

 必要な数を間違えた? それとも日本を出るとき、いい加減にポーチへ放り込んだせいか?

 ……思い出した。あの酒浸りの翌朝、片道チケットの購入完了メールを眺めながら、俺はポーチに数日分だけ放り込んだのだ。帰りの分なんて、要らないと思っていたから。

 俺はちゃんと、死ぬつもりで荷造りをしていた。その几帳面さに、今さら首を絞められている。

 

 炭酸リチウムを自己判断で急に切るとどうなるか、主治医には何度も脅されていた。反動で躁に振れることがある、と。

 だが、一番まずいのはオランザピンと酸棗仁湯だ。頭のブレーカーを落としてくれる薬が手元にない。あれがないと眠れない。頭の中で過去の失言や失敗がサラウンドで再生され続けて、ずっと明けない夜が始まる。

 

 ……あ。やばい、かも。

 

 空っぽのポーチを見て、持参した薬が尽きたんだと改めて認識した瞬間、悪寒が背筋を駆け上がった。

 思考のストッパーが吹き飛んだ脳内に、記憶の汚水が逆流してきた。

 

*

 

 最初は、軽い不眠だった。

 近所の老人がやっている寂れた内科で「夜、眠れないんです」と相談したら、セレスタミンという薬を処方されて、1日3回真面目に飲んで、服用初日から仕事が手につかなくなった。

 体は鉛のように重く、意識が泥に沈むような倦怠感。仕事中もパソコンの前で白目を剥きかけて、意識もぶっ飛びそうになった。

 同棲していた彼女が、青ざめた顔でゴミ箱から薬のシートを拾い上げた。

 

「まー君、これ絶対ヤブ医者だよ。だってセレスタミンって花粉症の薬じゃん! 私も春にもらうけど、寝る前の半錠だけで倒れるよ」

 

 彼女は泣きそうな声で怒ってくれた。

 

 だが結局、その後の俺はどうだ。まともな医者に繋がって双極性障害の診断が下り、炭酸リチウムやラモトリギンで気分を平坦に保つはずが、気分が底に落ちるたびに俺は彼女を巻き込んだ。

 休日には一歩もベッドから出ない。シャワーも浴びない。食事は不定期。

 彼女はずっと我慢していたのだろう。躁転して根拠のない万能感で散財し、酒を飲んではくだらない大風呂敷を広げ、翌日には再び沈む俺への不満を。

 

「こういうのって、寛解するけど完治するものじゃないもんね。私がまー君を外に連れ出すよ」

 

 最後の旅行になったモンゴル。広大な空と雄大な大草原の下で、俺は自分を見つけるどころか更なる迷子になった。いきなり虚無に襲われてゲルから出られなくなり、彼女が楽しみにしていた乗馬の予定も潰して、観光らしいことを何もせず、ゴールデンゴビの瓶ビールだけ買って日本に帰り、それから数ヶ月。

 ある日突然、彼女の荷物が全て消えた。LINEにメッセージが残っていた。

 

「あなたに対して、優しさや寛容さを持ち続けられる自信がありません」

 

*

 

「……うぅ」

 

 荷物をぶちまけたベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めてみても、フラッシュバックは止まらない。

 もう死にたい。助けてくれ。誰か俺を救いだしてくれ。いや待て、誰が助けてくれるんだ? このろくでなしを誰が? アホか。誰も助けない。まず助ける理由がない。助けてもらえる理由がない。

 

 息が苦しくて、のたうち回っているうちにベッドから床に転げ落ちた。胃液が逆流して吐きそうだがトイレは遠い。

 

 俺は死ぬために新疆まで来たんじゃないのか。タクラマカン砂漠で干からびて死ぬつもりだったんなら、今ここで自分の首を絞めて死んだって同じだろうが。なんでわざわざ薬なんか探してまで、生きのびようとしてるんだ。

 

 ふと、ポケットにスマホが入っていることを思い出した。

 チェックインの後、本当に俺の元に返ってきたiPhone。ホテルのフロントで現物を受け取って、自分のものであることを確認して、パスポートを照合されて、請求されたのは輸送費たったの150元。

 そっと取り出して、震える手でロックを外した後、未読バッジの付いたLINEアプリをタップした。日本でeSIMの手続きをしてきたから、問題なく使える。

 

 並んでいたのは、靴屋のセール情報と、飲食チェーンのクーポンと、期限切れを知らせるポイントカードの公式通知だけだった。

 

*

 

「和田さーん。生きてますかー!」

 

 激しいドアのノック音で我に返った。

 部屋のカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。俺は床の上で固まったまま、いつの間にか意識を失っていたのだ。

 なんとか立ち上がり鍵を開けると、ルーは開口一番、「具合悪そう!」と言って顔をしかめ、鼻をつまんだ。

 シャワーも浴びず、死相を浮かべたような俺の顔を見て、ルーが仁王立ちのまま腕を組んだ。

 

「約束の時間なのに降りてこないし、朝食会場にもいないし! 何やってるの!」

「……薬が、なくて」

「薬?」

「睡眠薬。一睡も、眠れなかった。でも気を失ってた」

「はーん……」

 

 ルーは深く突っ込むでもなく、同情するでもなく、ただ気のない声を漏らしただけだった。

 いずれにせよ今日はダメな日だ。身体がひたすら重い。外の空気を吸うことすら怖い。

 

「頼む。もう一泊させてくれ。今日は動けない」

「大丈夫! 薬なら良い店がある。あと元々クチャはもう一泊する予定だったからヘーキ」

「え……」

「本当は今日、キジル千仏洞に行くつもりだったの。でもあそこ、ずっと階段だから。今の和田さんじゃ途中で倒れてミイラの仲間入り」

「……悪い」

「いいの。代わりに、座ってても行ける谷に連れてってあげる。はい準備、準備!」

 

 ルーは両手を叩いて、音頭を取るように俺を煽りはじめた。

 闇に閉じこもる隙すら与えてくれない、圧倒的な他人事パワー。俺はよろめきながら洗面所で顔を洗い、のろのろと出かける支度をする羽目になった。

 

「今日みたいなの困るから、WeChatやりましょう!」

 

 ルーが自分のスマホを突き出してきた。

 

「WeChat……空港で支払い設定だけして、それっきりだ」

「じゃあ友達追加!」

「SMS認証なしでいけるかどうか」

「eSIM!!」

 

 ルーにスマホをひったくられた。彼女は自分のスマホで俺の画面のコードを読み取り、何かのボタンを押した。ピコン、と軽快な音が鳴る。

 

 再米熱。

 ルーの名前だ。広告と沈黙で埋め尽くされていた俺のスマホに、新たなる存在が現れた。

 

「これで寝坊してもメッセージ連発で起こせるネ!」

 

 ルーは満足そうに笑ってから、ふと声を落とした。

 

「あ、でもね。WeChatで変なこと書かないでネ。政治とか、宗教とか、国境とか」

「書かねーよ、そんな話……」

「書いていいのは、ご飯と天気と腹具合の話だけ。みんな、見てるから」

 

 朝食もなしにホテルの玄関を出ると、一階のテナントの看板に大きく「金玉良縁」と書かれていた。それがどういう意味なのか激しく気になったが、今度こそぶん殴られるのが目に見えていたので、俺は黙り込むしかなかった。




「金玉良縁(きんぎょくりょうえん)」は、円満で欠点のない素晴らしい良縁を意味する言葉です。決して下ネタではありません。
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