チェックイン後のホテルの部屋で、重大な事実に気付いた。
「ない」
日本から持ち込んだ薬がない。
炭酸リチウム、ラモトリギン、オランザピン。 腹を下した時のためのビオフェルミンと補中益気湯、不眠の焦燥を誤魔化すための酸棗仁湯。俺の脳の留め具たち。
バックパックをひっくり返して全部ベッドシーツの上にぶちまけてみたが、ゴミと着替えしか出てこない。
必要な数を間違えた? それとも日本を出るとき、いい加減にポーチへ放り込んだせいか?
……思い出した。あの酒浸りの翌朝、片道チケットの購入完了メールを眺めながら、俺はポーチに数日分だけ放り込んだのだ。帰りの分なんて、要らないと思っていたから。
俺はちゃんと、死ぬつもりで荷造りをしていた。その几帳面さに、今さら首を絞められている。
炭酸リチウムを自己判断で急に切るとどうなるか、主治医には何度も脅されていた。反動で躁に振れることがある、と。
だが、一番まずいのはオランザピンと酸棗仁湯だ。頭のブレーカーを落としてくれる薬が手元にない。あれがないと眠れない。頭の中で過去の失言や失敗がサラウンドで再生され続けて、ずっと明けない夜が始まる。
……あ。やばい、かも。
空っぽのポーチを見て、持参した薬が尽きたんだと改めて認識した瞬間、悪寒が背筋を駆け上がった。
思考のストッパーが吹き飛んだ脳内に、記憶の汚水が逆流してきた。
*
最初は、軽い不眠だった。
近所の老人がやっている寂れた内科で「夜、眠れないんです」と相談したら、セレスタミンという薬を処方されて、1日3回真面目に飲んで、服用初日から仕事が手につかなくなった。
体は鉛のように重く、意識が泥に沈むような倦怠感。仕事中もパソコンの前で白目を剥きかけて、意識もぶっ飛びそうになった。
同棲していた彼女が、青ざめた顔でゴミ箱から薬のシートを拾い上げた。
「まー君、これ絶対ヤブ医者だよ。だってセレスタミンって花粉症の薬じゃん! 私も春にもらうけど、寝る前の半錠だけで倒れるよ」
彼女は泣きそうな声で怒ってくれた。
だが結局、その後の俺はどうだ。まともな医者に繋がって双極性障害の診断が下り、炭酸リチウムやラモトリギンで気分を平坦に保つはずが、気分が底に落ちるたびに俺は彼女を巻き込んだ。
休日には一歩もベッドから出ない。シャワーも浴びない。食事は不定期。
彼女はずっと我慢していたのだろう。躁転して根拠のない万能感で散財し、酒を飲んではくだらない大風呂敷を広げ、翌日には再び沈む俺への不満を。
「こういうのって、寛解するけど完治するものじゃないもんね。私がまー君を外に連れ出すよ」
最後の旅行になったモンゴル。広大な空と雄大な大草原の下で、俺は自分を見つけるどころか更なる迷子になった。いきなり虚無に襲われてゲルから出られなくなり、彼女が楽しみにしていた乗馬の予定も潰して、観光らしいことを何もせず、ゴールデンゴビの瓶ビールだけ買って日本に帰り、それから数ヶ月。
ある日突然、彼女の荷物が全て消えた。LINEにメッセージが残っていた。
「あなたに対して、優しさや寛容さを持ち続けられる自信がありません」
*
「……うぅ」
荷物をぶちまけたベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めてみても、フラッシュバックは止まらない。
もう死にたい。助けてくれ。誰か俺を救いだしてくれ。いや待て、誰が助けてくれるんだ? このろくでなしを誰が? アホか。誰も助けない。まず助ける理由がない。助けてもらえる理由がない。
息が苦しくて、のたうち回っているうちにベッドから床に転げ落ちた。胃液が逆流して吐きそうだがトイレは遠い。
俺は死ぬために新疆まで来たんじゃないのか。タクラマカン砂漠で干からびて死ぬつもりだったんなら、今ここで自分の首を絞めて死んだって同じだろうが。なんでわざわざ薬なんか探してまで、生きのびようとしてるんだ。
ふと、ポケットにスマホが入っていることを思い出した。
チェックインの後、本当に俺の元に返ってきたiPhone。ホテルのフロントで現物を受け取って、自分のものであることを確認して、パスポートを照合されて、請求されたのは輸送費たったの150元。
そっと取り出して、震える手でロックを外した後、未読バッジの付いたLINEアプリをタップした。日本でeSIMの手続きをしてきたから、問題なく使える。
並んでいたのは、靴屋のセール情報と、飲食チェーンのクーポンと、期限切れを知らせるポイントカードの公式通知だけだった。
*
「和田さーん。生きてますかー!」
激しいドアのノック音で我に返った。
部屋のカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。俺は床の上で固まったまま、いつの間にか意識を失っていたのだ。
なんとか立ち上がり鍵を開けると、ルーは開口一番、「具合悪そう!」と言って顔をしかめ、鼻をつまんだ。
シャワーも浴びず、死相を浮かべたような俺の顔を見て、ルーが仁王立ちのまま腕を組んだ。
「約束の時間なのに降りてこないし、朝食会場にもいないし! 何やってるの!」
「……薬が、なくて」
「薬?」
「睡眠薬。一睡も、眠れなかった。でも気を失ってた」
「はーん……」
ルーは深く突っ込むでもなく、同情するでもなく、ただ気のない声を漏らしただけだった。
いずれにせよ今日はダメな日だ。身体がひたすら重い。外の空気を吸うことすら怖い。
「頼む。もう一泊させてくれ。今日は動けない」
「大丈夫! 薬なら良い店がある。あと元々クチャはもう一泊する予定だったからヘーキ」
「え……」
「本当は今日、キジル千仏洞に行くつもりだったの。でもあそこ、ずっと階段だから。今の和田さんじゃ途中で倒れてミイラの仲間入り」
「……悪い」
「いいの。代わりに、座ってても行ける谷に連れてってあげる。はい準備、準備!」
ルーは両手を叩いて、音頭を取るように俺を煽りはじめた。
闇に閉じこもる隙すら与えてくれない、圧倒的な他人事パワー。俺はよろめきながら洗面所で顔を洗い、のろのろと出かける支度をする羽目になった。
「今日みたいなの困るから、WeChatやりましょう!」
ルーが自分のスマホを突き出してきた。
「WeChat……空港で支払い設定だけして、それっきりだ」
「じゃあ友達追加!」
「SMS認証なしでいけるかどうか」
「eSIM!!」
ルーにスマホをひったくられた。彼女は自分のスマホで俺の画面のコードを読み取り、何かのボタンを押した。ピコン、と軽快な音が鳴る。
再米熱。
ルーの名前だ。広告と沈黙で埋め尽くされていた俺のスマホに、新たなる存在が現れた。
「これで寝坊してもメッセージ連発で起こせるネ!」
ルーは満足そうに笑ってから、ふと声を落とした。
「あ、でもね。WeChatで変なこと書かないでネ。政治とか、宗教とか、国境とか」
「書かねーよ、そんな話……」
「書いていいのは、ご飯と天気と腹具合の話だけ。みんな、見てるから」
朝食もなしにホテルの玄関を出ると、一階のテナントの看板に大きく「金玉良縁」と書かれていた。それがどういう意味なのか激しく気になったが、今度こそぶん殴られるのが目に見えていたので、俺は黙り込むしかなかった。
「金玉良縁(きんぎょくりょうえん)」は、円満で欠点のない素晴らしい良縁を意味する言葉です。決して下ネタではありません。