「和田さん、日本で一番美しい場所ってどこ?」
車の助手席でぼんやりと外を眺めていた俺に、ハンドルを握るルーがふいに尋ねてきた。
「一番? うーん……どこだろうな。京都の寺とか、北海道の大自然とか、人によるんじゃないか」
「ふーん。ウイグルならね、カラクリ湖かな。私、まだそこまで行ったことない」
「あ、それ結構有名なとこだよな。ガイドの仕事でも行ったことないのか?」
「うん。普段はウルムチで日帰りとかの仕事が多いの。遠くてもトルファンとかまで。天山南路をまるごとドライブしたの、これが初めてだヨ」
「そうか。フリーランスのガイドだって言ってたな。前は会社にいたのか」
「いたよ。一年もいなかったけど。外国人のお客さんの担当から外されて、それで辞めた」
「外された? 日本語もできるのに」
「会社にはいろいろ事情があるの」
ルーはそれ以上説明しなかった。
「カラクリ湖はね、私たちの最終目的地のカシュガルから、パミール高原の方へ上がっていった先にある。雪の山が湖に映って、世界で一番きれいなんだって。私、子どもの頃に写真を見て、あそこに行きたくてガイドになったの」
「じゃあ、今回行けばいいじゃないか。俺の金で」
「うん。行けたらいいネ」
前を見つめるルーの横顔は、いつもの茶化した調子とは違い、どこか遠い憧れを見つめているようにも見えた。
だが、そんな感傷に浸る間もなく、車窓の風景が一変した。
クチャの街を北へ抜け、車が山道へと入っていく。道中も赤、黒、白と地層の色がまだらに現れていたが、目的地に近づくにつれて、視界のすべてが赤く染め上げられていく。
「うわ、山が赤い! 火焔山より赤くないか!?」
「赤は酸化鉄。途中で見えた黒い山は石炭で、白い筋は石膏と塩分!」
「山が三色もあるのは面白いな」
車を降りた瞬間、目の前に聳え立つ巨岩の裂け目に圧倒された。ここは天山神秘大渓谷。数億年の風食と雨食によって削り取られた、炎のように燃え盛る赤褐色の奇岩怪石の迷宮。
ルーにチケットを購入してもらう間、朝食代わりに、露店でヨーグルトを購入した。あちこちで何度も見かけていた「新疆老酸奶」。酸奶とはヨーグルトのことで、奶は乳のこと。
店で渡されたストローを容器に刺して吸い込む。飲むヨーグルトのような容器だが、中身は粘度が強くもったりしていて、吸うにはそこそこ力が要る。
やや酸味が強いが、濃厚なミルク感とコクがあり、300mlも入っているから食べごたえ(飲みごたえ?)がある。新疆は乳製品のレベルが高い。
ホテルで闇堕ちしていたのが嘘のように、身体の重みは少しずつ抜けている。無理やりにでも引きずり出してくれたルーの横暴さに、情けないかな、心底感謝しなければならない。
入場後、谷底へ向かうため観光用バギーに乗り込む。ゴツゴツとした砂利と水を跳ね上げながら、十分ほど奥へ進む。
ふと、岩肌に掲げられた奇妙な案内板が目に留まった。
「神犬守谷? 犬は?」
「ここを守ってそうに見えなくもない、ただの岩だヨ。犬なんて一匹もいない」
「いないのかよ。紛らわしい名前つけるな」
両側から迫り来る赤壁の高さは100メートルを超えているだろう。見上げると空が細い青い糸のようにしか見えない。
バギーを降りて、濡れた砂利の谷底を歩く。足元には澄んだ水がチョロチョロと流れているが、岩壁の数メートル上を見上げると、ところどころに丸い空洞が掘られ、浮き輪とロープが備え付けられていた。看板には「安全窟」とある。
「落石とか、上流で鉄砲水が出た時にあそこに逃げ込むの。局地的な豪雨があったら、こんな細い谷底なんて一瞬で濁流に呑まれちゃうからネ」
「ここは雨が降るのか。でも、鉄砲水が来たらあんなとこ登るの間に合うか?」
「間に合わなきゃ、そのまま流されておしまいってこと!」
「観光も命懸けだな……」
俺たちの隣を、観光客を乗せたフタコブラクダの列がのんびりと追い抜いていく。
ラクダの足元を間近で見ると、馬のような蹄鉄はなく、歩くたびに大きな肉球がグニャリと形を変えて砂利を包み込んでいた。そして顔を見上げると、長いまつ毛の奥の瞳は「ドヤ」と人間を見下したような笑みを浮かべている。
ラクダから目を離すと、先には岩肌を登る木製の階段があった。
「あそこの階段は? 封鎖されてるけど」
「あれは仙人窟。唐の時代の仏教窟があるけど、一般公開はしてないヨ。入るには特別な許可と高いお金が必要」
「へぇ……まさかあそこも探検家に荒らされたのか」
「ううん、薬草を採りに来た地元のウイグル人が偶然見つけた。削り取られる前に保護されたから、あそこは壁画が綺麗に残ってるらしいヨ」
嫌味のない、ただ知っている事実を淡々と語るルーの声を聞きながら、俺たちは赤い裂け目を後にした。
*
大渓谷を後にして訪れたのは、クチャ旧市街付近にある埃っぽい裏路地だった。観光客など一人も見当たらない。
薬なら良い店がある——そう豪語していたルーが車を横付けしたのは、土壁にアラビア文字のようなウイグル文字と、かすれた漢字が並ぶ怪しげな店だった。
看板には「維吾爾医薬」とあるが、地元の人間すら寄り付いていない。
そして足を踏み入れた瞬間、乾いた土と強烈なスパイス、そして乾物の匂いが鼻を直撃した。
壁一面に並ぶ無数の小さな木製引き出しと、ぎっしり並べられたガラス瓶。瓶に貼られたラベルに、中身と値段が書いてある。冬虫夏草や人参までは読めたがあとは分からない。
木の枝みたいなやつ、キノコみたいなやつ、薔薇みたいなやつ、唐辛子みたいなやつ。この辺はルーも詳しくないらしい。天井からは干からびた薬草の束や、何かの角、ミイラ化したトカゲのようなものが吊り下げられている。
「……魔女の部屋?」
「伝統医学のプロの店! ギリシャ医学とアラビア医学が合体した最高峰、界隈じゃ有名!」
「なんか説明まで胡散臭いなぁ」
すると店の奥から、長い白髭をたくわえ、四角い刺繍のウイグル帽をかぶった老医者が音もなく現れた。
ルーは身振り手振りを交え、必死の形相で老医者にまくしたてた。ウイグル語は下手だと言っていたはずだが、俺の目には、何の問題もなく流暢に会話しているようにしか見えない。
しばらくして、老医者がギョロリと鋭い目で俺を見やり、手招きした。
カウンターの革枕に手首を乗せさせられる。冷たく乾いた指先が、俺の手首の動脈に触れた。
老医者は目を閉じ、三十秒ほど静かに脈を診たあと、ウイグル語で短くボソリと呟いた。
「なんて?」
「腹の中に余計な水が溜まりすぎてて、頭に熱が上がってる。それと、サウダが多すぎるって」
「サウダ?」
「黒い胆汁。ウイグルの医学だと、体の中にある四つの液のうち、サウダが増えすぎると心が沈む」
「……当たってる気がする」
老医者は無言で立ち上がり、ガラス瓶から黒い木の皮や干からびた赤い何かを取り出し、乳鉢で粉末をゴリゴリとすり潰し始めた。
手際よく調合され、カウンターに差し出されたのは、茶色い紙に包まれた三つの包み。
「食後にお湯で溶かして飲むやつだって」
「……これ、何が入ってんの?」
「サフランと甘草と、
「鉱物? 消化できるのか!?」
「私も薬のことは分からない。でも昔から沙棗は下痢に効くっていうよ。あの香妃も、全身からその香りがして、それで皇帝に見そめられて……」
「あのな。香妃が誰なのかわかんねぇんだわ」
ルーは俺の財布から勝手に元札を抜き取って老人に手渡し、その場で紙包みの一つをビリッと破った。
「え、何してんの、ルー」
店の隅にある給湯器から紙コップに熱湯を注ぎ、真っ黒な粉末をドバッと投入する。割り箸でかき混ぜた瞬間、部屋中に強烈な苦味と土の匂いが立ち込めた。
「冷めないうちに飲んで。口の中で煎じ薬にするみたいにネ!」
「今!? さっき食後って言ってたろ!」
「いいから! 今夜は眠りたいんでしょ!」
観念して紙コップを受け取り、恐る恐る口をつけた。
「……にがっ……」
舌の根元が痺れるほど強烈に苦く、喉の奥がカーッと熱くなる。
「泥水を飲んでるみたいだ……」
「良药苦口! 我慢ガマン!」
顔をしかめる俺を尻目に、ルーはカウンターの棚に置かれた小さな遮光瓶を見つけると、急に目を輝かせた。
「あ、ブラックシードオイル!? 私これ知ってる!」
興奮した様子で瓶を手に取り、俺の口元に突き出してきた。
「和田さん、これも飲んで」
「は!?」
「死以外のすべての病を治す、奇跡のオイル! はい口開けて、一気、一気!!」
「待て待て待て!!」
俺は全力でルーの腕を押し留めた。
「油のがぶ飲みは絶対にない。あって大さじ一杯とかだ」
「なんでよ! 死以外のすべてを治すんだから、お腹も頭も全部治るヨ! ほら飲んで!」
「飲むわけねえだろ! 油を直飲みさせる医療がどこにある!」
「ユナニ医学!!」
「俺の知らなさそうな単語で煙に巻くな!」
ギャーギャーと揉み合う俺たちを見かねて、老人がたまらず大きなため息をつき、ルーの手からすっと瓶を取り上げた。
そして彼はウイグル語で何かを短く呟き、スポイトでオイルを俺の手の甲に数滴垂らし、指で優しく塗り広げてみせた。乾燥で白く粉を吹いていた肌にオイルがすっと馴染み、ヒリヒリしていた痛みがスッと引いていく。
「……」
店内が静まり返る。ルーが気まずそうに目を泳がせ、ポリポリと頭を掻いた。
「……和田さん、ゴメン。これ、スキンケアオイルだったよー」
「言わんこっちゃねえ!」
このポンコツガイドめ。
自己判断で薬を切り替えるのは非常に危険な行為であるため、推奨しません。