ルーからいくつかウイグル語を教わっていたものの、俺はそれをどこで使ったらいいのか皆目見当がつかなかった。
そもそも公共の場で使っていいのかが分からない。俺の頭の中にある知識の範囲では、その言葉は――制限され、タブーに近い扱いを受けていると――そんなイメージがこびりついていたせいだ。
ホテルの玄関口で、鮮やかな伝統衣装をまとったウイグルの美女二人と顔を合わせた時もそうだった。笑顔で出迎えてくれた彼女たちに、俺は喉の奥を震わせた。
「……ヤクシムセッス」
こんにちは、の意。自分にしか聞こえないような音量でボソッと呟くと、隣のルーが目を吊り上げながら肘で脇腹を小突いてきた。
「和田さん! そんなんじゃ全然聞こえない!」
「ルーには聞こえてる。俺の発音が悪かっただけじゃないか」
「違う! 伝える気のない感じだった!」
*
昨夜のことだ。
腕が激しく炎症を起こしたような熱と痒みで目が覚めて、洗面台の鏡を覗いた瞬間、悲鳴を上げそうになった。
顔も、首筋も、手の甲も、まるで炭でも塗りたくったかのように黒々と焼け焦げている。袖の中の腕まで、うっすら茶色い。日本から着てきた長袖のパーカーをずっと羽織っていたはずなのに。
その話を朝イチでルーに打ち明けたら、腹を抱えて大爆笑された。
「和田さん、このままだと楼蘭美女みたいになるネ!」
なんてこった。タクラマカン砂漠にすら辿り着いていないというのに、俺はもう半分ミイラになりかけている。
「ホテルのアメニティにボディローションあったでしょ。ちゃんと使った方がいいヨ」
「ああ、部屋にあったあの白いボトル、ローションだったのか。謝謝」
「和田さん。ウイグル語でなんて言う? ソレ」
「全然覚えてない」
「もう、この人は!! ラフメットだから!」
「というか、昨日の薬屋でブラックシードオイルも買えば良かったな。塗るやつ」
「和田さんがガブ飲みしようとしたヤツね」
「飲ませようとしたのはルーだ」
*
次の目的地・アクスに向けて出発する前、俺たちは街中にあるクチャ大寺を目指した。
道中、公園で二十人ほどの女性グループが音楽に合わせて軽快に踊っていた。太極拳ではなく、アップテンポなダンス。跳ねるようなリズムに合わせて、漢民族らしきおばちゃんたちが手首をくるくると返している。
道端には「祥天地下街」と書かれた地下への階段があり、どことなく大阪梅田の地下街入口を思わせた。どんな闇市か商店街が広がっているのか、好奇心と怯えが半分ずつ湧く。
公安の建物の隣には「薔薇軍官」という字面の怪しすぎる建物もあった。警察寮か何かなのだろうか。
だが、目指したクチャ大寺はあいにくの大改修中だった。
巨大なモスク全体が木枠と緑色の防塵シートですっぽりと覆われ、日本なら家屋解体現場の養生シートそのものだった。どおりで駐車場に観光客が一人もいないわけだ。
「ここ、新疆で二番目に大きいモスクなんだけどネ。今はお祈りには使ってないの。観光用」
「モスクなのに?」
「うん」
ルーはそれ以上何も言わず、緑のシートを見上げた。
「モスクってね、どの建物も必ず、メッカのある西の方角を向いて作られてる。ここもそう。みんな、西に向かって頭を下げる」
「メッカ」
「そう。イスラム教徒しか入れない聖なる街。一生に一度は行きなさいって言われてる。でも、身を破滅させるレベルでお金を使い果たしてまで行くのは、本当は教えに反してるの。行けるだけのお金と体がある人だけでいいんだって」
「へぇ。無理はしなくていいのか」
「私のお父さん、昔無理してお金作ってメッカに行ったんだよ。パキスタンまで車で行って、そこから飛行機で……そしたら留守中にお母さんが体壊しちゃって」
ルーは肩をすくめた。
「ちゃんと教えを守らなかったから」
何が戒律で、何が個人の解釈なのか。不良教徒を自称するルーの言葉のどこまでがコーランで、どこまでが彼女の傷なのか、無学な俺には測りようがなかった。
大寺の横にはかつての裁判所の跡があり、近くには真っ白な鳩がぎゅうぎゅう詰めにされた小屋があった。
「これもイスラム教に関係のある鳥なのか?」
「ソレはきれいなハトを閉じ込めてるだけ。人が来たら解放して、観光客にエサを買わせる。ぼったくり商売ヨ」
その落差にずっこけそうになった。
大寺の周辺は、観光客の写真映え用に通りが綺麗に舗装され、電柱は亀茲の音楽の象徴である五弦琵琶の形にデザインされていた。
だがパステルカラーのペンキで塗られた扉の奥は、ほとんどが空き家だ。扉の柄はイスラムの幾何学模様でもなんでもない、ただ映えるための色だ。
一本裏通りへ入ると、電柱はただの丸太に針金をぐるぐる巻きにしただけのものに変わり、埃っぽい風が吹き抜ける。開け放たれた無人の民家の壁に、埃をかぶった絨毯が一枚だけ寂しげに掛けられていた。「人間春色」という正体不明の看板を掲げた店や、「金泉民宿」という立派な看板の宿を横目に、俺たちは昨日素通りした「庫車王府」へと向かった。
*
入場ゲートの金属探知機がけたたましくピーピー鳴る。新疆ではどんな施設でもこいつに出会うが、何日経ってもこの音には心臓が縮み上がる。
王府の内部には、直接関係のないキジル千仏洞の壁画のレプリカや、周辺の出土品が脈絡なく陳列されていた。奥の一室には最後のクチャ王とその妻の写真が飾られていて、そこだけ撮影に30元かかるという、身も蓋もない貼り紙がしてあった。
現役で使われているはずのナン焼き道具までもがガラスケースに収められ、施設のスペースを無理やり埋めている。テーマパークとしても博物館としても、なんとなく全体的に雑さは否めない。持ち主が蒐集家じゃないとこうなるのか。
なんとも言えない空虚さを抱えて王府を出た、その時だった。中庭の広場で、突如として大音量の民族音楽が鳴り響いた。
中央に現れたのは、細い三つ編みを無数に揺らす赤いドレスの女性ダンサー、金糸の刺繍が入った紫の衣装を着た男たち。飛天のように琵琶を抱えた女性や、頭の上に陶器の器を三段重ねて高速スピンする美女。
「結婚式を模したダンスショーだヨ!」
手拍子とともに、観光客が幾重にも輪を作る。
男性ダンサーが観客席を見渡しはじめ、俺が「まずい」と思った瞬間には、もう遅かった。隣のルーが満面の笑みで、俺の背中を両手でドカンと突き飛ばしたのだ。
「はい! このおにーさん独身!」
「ちょ、お前!」
戻る暇もなく、俺はダンサーたちに両腕を掴まれ、広場の中央へ引きずり出された。頭にスポンと四角いウイグル帽を被せられ、新郎役に祭り上げられる。
おい、またか。俺はまた、あのみっともない盆踊りを披露しなきゃならんのか!
美男美女のダンサーが俺を取り囲み、首を横にスライドさせながら妖艶に微笑む。周囲は拍手喝采、カメラの列。
逃げ場を失った俺は、ダンスが二度目なのもあってか、もうヤケクソになって手足をひたすらバタつかせた。盆踊りと阿波踊りを足して三で割ったような無様なステップ。観客は大爆笑だ。輪の最前列で、ルーも手を叩いて腹を抱えて笑っている。
――だが。
音楽が最高潮に達し、新郎新婦の門出を祝う伸びやかなウイグルの歌声が青空に響き渡った瞬間だった。
踊り狂いながら、ふとルーと視線がぶつかって、その瞬間に足が止まりそうになった。
笑っている。確かにルーの口元は三日月のように吊り上がっている。だが、その大きな黒い瞳の奥に張り付いていたのは――息を呑むほど深く、暗い何か。
空き家だらけの街並み。映えのために塗りたくられたカラフルな扉。お祈りのできないモスク。そして檻の中の鳩のように、観光客の小銭のために切り売りされる婚礼の儀式。
その真ん中で、彼女は必死に笑っている。
胸が締め付けられるように痛い。俺は恥ずかしさも忘れ、ただ手足を動かしながら、彼女のその泣き出しそうな笑顔から目を離すことができなかった。
ショーが終わり、息を切らして広場の外へ出た。
「和田さん、すっごいヘタクソだった!」
「分かってただろ……クソ、喉がカラカラだ」
「じゃ、これ飲む? お腹壊さないやつ」
王府の前の売店でルーが買ってきたのは、琥珀色の液体だった。
「……ビールだよな?」
街でチラチラ見えていたから分かる。ビールサーバーのようなタンクを置いている露店が、たまにあるなぁとは思っていたのだ。
「違う、カワス。蜂蜜とパンを発酵させたやつで、アルコールはほとんどゼロだから酔わない!」
恐る恐るビニールコップを受け取り、一口含むと、優しいハチミツの甘みと、麦芽の香ばしい風味が口いっぱいに広がった。ビールに少し似たコクがあるのに、苦味は一切ない。
「あ、美味い。ノンアルコールビールに蜂蜜を入れたみたいで」
「でしょ! 飲み終わったら車乗ろう。アクスへ急ぐよ!」
*
クチャを離れ、車は
「なあ、ルー」
「ん?」
「ウイグル語って……俺みたいな外国人が、街中で大声で使っても本当に大丈夫なのか。ホテルでルーに怒られたけどさ、なんか……ビビっちゃって」
ルーは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。
ハンドルの革を、爪先が白くなるほど強く握りしめているが、やがて、ぽつりと乾いた声が落ちてきた。
「使って怒られる言葉なんて、ない」
ルーは小さく笑った。
「使っちゃいけないっていうより、みんな使わなくなっていくの。学校も街も中国語ばっかりで、みんなウイグル語を使わなくなるから、どんどんヘタになって……私もそうだった。おばあちゃんの言ってること、昔は半分も分かんなかった」
ルーは赤信号で車を止め、静かにこちらを振り向いた。
「だから。和田さんが下手くそでも『ヤクシムセッス』とか『ラフメット』って言ってくれたら、みんな本当はすごく嬉しいんだよ。聞こえる声で言ってあげなきゃ、意味ないの」
俺の怯えは、配慮でも慎重さでもなかった。ただの無知と、腫れ物扱いに過ぎなかったのだ。
「……悪かった」
「Men sizdin semimiy kechürüm soraymen」
「え?」
「本当に悪いと思ったなら、今の繰り返して」
「え? メン……」
「メン・シズディン・セミミイ・ケチュリュム・ソライメン」
「メン、シズディン……」
「覚えるまで繰り返したら許してあげる」
「メン、しずで……センミー? 一応聞くけど、それウイグル語でごめんなさいって意味の言葉なんだよな? 長すぎないか?」
「メン・シズディン・セミミイ・ケチュリュム・ソライメン!」
「メン、シズ……ケチュ……ソ……」
三回目で舌を噛んだ。信号が青に変わる。ルーはついに吹き出して、アクセルを踏み込んだ。
「あはは、もういいヨ! 和田さんには無理! 謝るならケチュルでいい」
「ケチュル?」
「許してって意味。友達同士なら、それだけで通じるの」
「……ケチュル」
「ヤクシー」
「じゃあ、さっきのは?」
「……大企業が不祥事で記者会見するときくらいなら使うかもネ」
「おい」
ルーは前を向いたまま、少しだけ柔らかい声で付け足した。
「おばあちゃんが言ってた。神様に謝る時も、本当はそれだけでいいんだって。長いお祈りじゃなくても、丁寧じゃなくても、心からの言葉であれば、ケチュルだけでも神様は聞いてくれるんだって」
「じゃあ、お前も地獄行き確定ってわけじゃないんじゃないか」
ルーは答えなかったけれど、ハンドルを握る指の力が、少しだけ緩んだように見えた。
*
途中の検問所で、窓から車内を覗き込もうと身を乗り出した警察官が、ドア枠に思い切り額を強打した。悶絶するような痛そうな顔でしばらく固まったあと、彼は俺たちのパスポートと身分証をろくに見もせずに手を振った。
窓を閉め、車が走り出した瞬間、二人して思わず吹き出した。張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
しばらく進むと、道路の右手、草木一本生えない砂利の丘の斜面に、白い小さな家のようなものがびっしりと並んでいるのが見えた。ミニチュアの住宅街か、地中海のリゾート村のようだ。
「あんなところに集落があるのか?」
「お墓だよ」
「あれが?」
「そう。死んだ人の家。……水のある緑の土地は、生きてる人が畑をして暮らす場所。死んだ人は、水の届かない乾いた丘に送るの。オアシスではずっとそうしてきたんだって」
生者は緑に、死者は乾きに。
ならば、見渡す限り水のないあの砂漠は、この土地の論理では、巨大な死者の国ということになる。俺はそこへ向かって、ずっと車を走らせてきたのだ。
やがて車窓の風景が、眩い純白に塗り替えられていった。
見渡す限りの綿花畑。収穫期を迎えた無数の白い綿毛が、地平線の際まで波打っている。昼夜の寒暖差と、肌を焼く強烈な太陽、そして天山山脈の雪解け水が育む、最高品質の新疆綿。
日本のニュースでは政治的な摩擦の記号としてしか見聞きしなかったそれが、今、圧倒的な生命力の実りとして大地を埋め尽くしていた。ルーは綿花畑に一度も目を向けなかった。
ポプラ並木の防風林の向こう、天を突き刺すように雪を戴く天山山脈が連なる。あの稜線を越えた向こう側には、キルギスやカザフスタンの国境があるという。
そして――視界の左手。
遠く、地平線の向こうに、果てのない砂のうねりが巨大な背中を現し始めていた。
タクラマカン砂漠。
北京でスマホを置き忘れ、酒で腹を下し、ミイラに怯え、苦い土の泥水を飲み、見知らぬウイグルの若い女性にここまで引きずられてきた。俺の「自分殺しの旅」の最後の目的地が、すぐそこにまで迫っていた。