漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:姫と侍女っていいよね
はじめまして。
最初の数話は毎日、それからは2日に1回くらいの頻度で投稿予定です、よろしくお願いします。
「ねえ、エルミナ。俺、今日の剣術の稽古なんだけど――あっ」
言ってから気づいた。
さらり、と。仄かに甘い香油の匂いとともに、冷たい櫛が頭皮から毛先へと滑っていく。まだ完全には目が覚めておらず、その心地よさに身を任せていたせいで、つい口が滑ったのだろう。すぐに背後から、スッと温度のない声が飛んできた。
「姫様」
「……はい、わかってます」
「『俺』ではございません」
鏡越しに後ろへ視線を向ける。そこには、私の長い髪を片手に取った年若い女性――エルミナ・ヴァレンベルクが、いつも通りの澄ました顔で立っていた。白銀の髪をきっちりとまとめ、濃紺の侍女服には皺ひとつない。そして、こういう時に彼女は絶対に引かない。
「……
「姫様」
「……
「はい。たいへんよろしゅうございます」
にこり。先ほどの圧が嘘のように満足げに微笑んで、エルミナは再び櫛を動かし始めた。
――面倒くさ……。
それに、いまだに「わたくし」は少し恥ずかしい。前世では十六年間ずっと「俺」だったのだ。自分の口から「わたくし」なんて出てくるたび、いかにもお姫様という感じがして妙にむず痒い。
……いや、実際お姫様なんだけど。
もちろん、そんなことを口に出したら次は『王族としての言葉遣い』の特別講義が始まるので、大人しく口を引き結んでおく。
鏡の前に座っているのは、まだ八歳になったばかりの少女だった。
化粧台の前に置かれた豪奢な椅子は、今の私にはまだ少し高く、気を抜けば届かない足先が床からふわりと浮いてしまう。丸みの残った幼い頬。細い肩。まだ発育前の小さな身体に、深い紫色の瞳。そして、年齢には不釣り合いなほど長く伸ばされた漆黒の髪。
ただの黒ではない。茶色がかっても、紫がかってもいない。光を吸い込むような、どこまでも深く完全な『黒』。この国では、非常に珍しい色らしい。
この世界に生まれて、八年。前世で十六年ほど男として生きた記憶を持つ身としては、未だにこの姿を自分だと思えない時がある。
――俺の感覚だと、黒髪なんて珍しくも何ともないんだけどな。だって、元・日本人だったし。
そう。鏡の中でエルミナに髪を梳かれ、大人しくしているこの王女様は、前世では現代日本で暮らしていた、ごく普通の男子高校生だった。
名前は覚えている。実家の住所も覚えている。父さんと母さんと、生意気な妹がいたことも。学校へ通っていたことも、友達と深夜ラジオの話で盛り上がったことも、ちゃんと記憶にある。なのに、どうしてこんなファンタジー世界へやってきたのかだけは、妙に曖昧だった。
事故だったのか病気だったのか、それもわからない。そもそも俺は本当に死んだのかも、そこだけすりガラス越しのようにぼやけて思い出せない。
最初に覚えているのは、身体がろくに動かず、視界もぼやけたまま泣き叫んでいたことだ。誰かの腕に抱き上げられ、自分のものとは思えない甲高い泣き声を聞いて、ようやく「赤ん坊になっている」と理解した。
それから少しずつ成長し、自分が今度は女の子として生まれたことを知った。さらに周囲を見渡す余裕ができて、ようやく自分がただの女の子ですらなく――。
「セレフィーナ姫殿下」
不意に、エルミナがわざとらしく私のフルネームを呼んだ。
「……何よ」
「お顔が険しくなっております」
「なってないわよ」
私が言い返すと、エルミナは鏡越しではなく、直接私の顔を横から覗き込んできた。
「なっております。ほら、眉間に寄ったこのお皺が」
冷たい指先が、私の眉間をぴたりと押さえる。
「鏡を見ているけれど、私には分からないわ」
「私は姫様が赤子の頃より拝見しておりますので。僅かなご不満も、手にとるように分かります」
さらりと言ってのける。そこまで自信満々に断言されると反論しづらい。鏡の中の少女――セレフィーナ・ルヴェルティアは、小さく息を吐いた。
ルヴェルティア王国第一王女。現国王と王妃の一人娘。つまり私は、この国の姫様らしい。前世でなら一生縁のなかった、重すぎる肩書きだ。
「……ねえ、エルミナ。こんなに髪を長くする必要ある?」
気分を変えるように、私は自分の黒髪を指先で摘まんだ。まだ八歳の細い首には、なかなかの重量になっている。洗うのも乾かすのも一苦労だ。
「ございます」
「即答ね」
振り返れば、立っているエルミナの顔を見るためには、自然と顎を上げることになる。
私より十歳年上の十八歳。王家に代々仕えるヴァレンベルク家の娘で、十歳の頃から王宮に上がっている。私が生まれてからはずっと傍にいて、今では専属侍女として身の回りのほとんどを任されていた。
侍女とはいっても、護衛の訓練まで受けている。だからなのか、ただ立って見下ろされているだけなのに、八歳児の私には妙に逆らいづらい迫力があった。
「姫様の御髪は、とてもお綺麗ですから」
「でも邪魔じゃない? それに重いし」
「ですので、私が毎日こうしてお手入れしております」
「切れば、手入れそのものが要らなくなるでしょう?」
至極当然の提案だと思った。前世では百円ショップのすき鋏で、適当に前髪を切ったことすらあるのだ。しかし。
「――なりません」
ピタリ、と。頭皮を滑っていた櫛が止まった。見上げたエルミナの表情から、一切の感情が抜け落ちている。
「……そこまで?」
「そこまででございます」
「ただの髪でしょう?」
私が首を傾げると、エルミナはわずかに目を伏せ、諭すような、けれど絶対に譲らない響きで言った。
「姫様の、御髪です」
「同じじゃない?」
「まったく異なります」
ピシャリと跳ね返された。何が違うというのか。私が納得いかない顔で首を傾げていると、エルミナはふと何かを察したように瞬きをした。
「……そういえば、魔学の授業ではまだそのあたりを学んでおられませんでしたか」
「え?」
「この世界では、髪には持ち主の魔力が少しずつ蓄積されていくのです。長く身体にあったものほど本人の魔力によく馴染み、術式の触媒としても優秀になります」
エルミナはそう言いながら、私の黒髪を一房すくい上げた。
「なら、むしろ便利なんじゃない?」
「便利だからこそ危険なのです。切り離した後でさえ、長く姫様の魔力の痕跡を残しますから」
「……それの何が危ないの?」
「腕の立つ術者なら、その痕跡から持ち主を特定できます。追跡の手掛かりにもなりますし――悪用すれば、呪詛の媒介にも」
「呪いに使えるの!?」
思わず振り返ると、エルミナは至って真面目な顔で頷いた。
「ですから、姫様の御髪をそこらへ捨てるなど論外でございます。まして、これほど魔力の濃い御髪ならなおさらです」
どうやらこの世界では、切った髪の毛はただのゴミではないらしい。――俺だった頃の感覚で言えば、クレジットカードと暗証番号を書いた紙を一緒に道端へ捨てるようなものか。
前世では百円ショップの鋏で適当に前髪を切り、そのままゴミ箱へ放り込んでいたのだが。どうやらこちらで同じことをしたら、笑い話では済まないらしい。
「それに」
ふわりと、エルミナの手が私の髪を優しく撫でた。先ほどの凄みが嘘のような、熱を帯びた慈しむような手つき。
「大変お美しいので。これをお手入れするのは、私の生き甲斐なのです」
「……後半、個人的な感情が入ってない?」
「私には何よりも重要でございます」
悪びれもせず、美しい侍女は優雅に微笑んだ。
「否定しないのね……」
私は小さくため息をつく。この侍女、本当にブレない。思えば、物心ついた頃からそうだった。歩き方、座り方、食器の扱い、声の出し方。少しでも前世の『男』の癖が出れば、「姫様」と静かな圧をかけられてきた。その徹底した教育の甲斐あって、今では俺――ではなく、私は、人前ならほぼ完璧に王女を演じられるようになってしまった。
演じる、という表現もそろそろ正しくないのかもしれない。生まれてからこちらで過ごした時間も、もう決して短くない。父上がいて、母上がいて、エルミナがいる。城で働く人々は私を姫様と呼び、頭を下げる。それが、今の私の『日常』だった。
「はい。終わりました」
最後にエルミナが手櫛で形を整える。鏡の中には、先ほどまで寝台でだらしなく丸まっていた子供とは思えない、気品ある王女が仕上がっていた。私はドレスの裾を軽く払いながら、一日の予定を尋ねる。
「今日も朝食は、父上と母上と?」
「はい。その後、午前は魔学、午後からは騎士団の鍛練場にて剣術のお稽古でございます」
「……また魔力伝導式?」
思わずげんなりとした声が出た。エルミナがくすりと笑う。
「昨日、魔学院の先生が『姫様の理解力は末恐ろしい』とお褒めになっていたではありませんか」
「理屈が分かるのと、面白いかどうかは別よ」
要は、数式とプログラミングを足して二で割ったようなものだ。前世で数学や情報科目に触れていたおかげか、考え方そのものには馴染みやすい。とはいえ、分かるのと好きになれるのは別問題である。
「それから」
エルミナが付け加えた。
「本日は夕刻より、一時間ほど自由時間がございます」
「本当?」
思わず弾んだ声で振り向いてしまった。子供の身体に引きずられているのか、こういう時にどうにも反応が素直になってしまう。
「はい。昨日の魔学の課題を、前倒しで終わらせていらっしゃいましたから」
「図書室へ行っても?」
「もちろんでございます。私がご案内いたします」
「なら――」
そこまで口にして、私は慌てて言葉を飲み込んだ。危ない。無意識に今探している本の事を知らないか聞いてしまいそうになった。私の不自然な沈黙に、エルミナが少しだけ小首を傾げる。
「何かお探しになるご本でも?」
「……ううん、別に」
私は椅子から立ち上がった。小さな身体にはまだ重いドレスの裾を少しだけ蹴るように整え、窓へ目を向ける。
朝日に照らされた王都の街並みが、はるか向こうまで広がっていた。石造りの家々。遠くの大通りを走る魔導車。建物の屋根には術式灯を稼働させるための魔導器が並び、都市の輪郭を高い城壁がぐるりと囲っている。見慣れてしまった景色。前世では男子高校生だった私が、今では当たり前のように暮らしている魔学文明の世界。
それでも、図書室へ行くたびに私は同じものを探している。異世界、魂、転生、召喚――そして、世界を渡る魔術について記された本だ。
このことは、まだ誰にも話していない。前世の記憶があるなどと打ち明けたところで信じてもらえるか分からないし、まして「別の世界へ帰りたい」などと言えば、どんな顔をされるか想像もつかない。だから今は、一人で調べている。
もし本当に、そんな夢みたいな方法が存在するのなら――。
「姫様?」
「何でもないわ」
私は振り返り、エルミナに微笑んだ。たぶん、王女としてなら及第点の笑顔だったと思う。
「参りましょう。父上と母上をお待たせしてはいけないもの」
「はい、姫様」
エルミナが恭しく扉を開ける。私はその横を通り抜け――ふと、もう一度だけ窓の外を見た。
青い空。どこまで行っても、この異世界の空。前世で見上げていた空と、悲しいくらいによく似ている。だから時々、考えてしまう。この空の向こう。ずっと、ずっと遠い次元のどこかに。父さんと母さんと妹が、テレビを見ながらご飯を食べている『あの家』が、まだあるんじゃないか、と。
――いつか、帰れるのだろうか。あの場所へ。
今はまだ届きそうにもないその願いを胸の奥へ押し込み、私は今日も、セレフィーナ・ルヴェルティアとして――ルヴェルティア王国の王女としての一日を始めた。