漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
最初の岩爪蜥蜴を倒してから、私たちはさらに迷宮の奥へと進んでいた。
浅層とはいえ、入口付近と比べれば人の手が入った形跡は明らかに少なくなっている。一定間隔で設置されていた魔灯もいつの間にか姿を消し、今は騎士たちが携帯している灯りだけが、黒い岩壁と足元を淡く照らしていた。
当然ながら、それだけでは遠くまで見通すことはできない。曲がり角の先や脇道の奥は光が届かず、その暗闇のどこかに魔物が潜んでいるかもしれないと思うと、先ほどまで単なる洞窟にしか見えなかった景色まで妙に不気味に感じられる。
「……さっきより暗くない?」
「実際、暗いですからね」
先頭を歩くリディアが、振り返りもせずに答えた。
「入口近くは管理側が魔灯を置いてますけど、奥まで全部照らしてたら維持費だけで馬鹿になりませんよ。それに、明るいことがいつも安全とは限りませんし」
「どういうこと?」
「光に寄ってくる魔物もいますから」
「……なるほど」
また一つ、知らなかった危険が増えてしまった。迷宮へ入ってからというもの、こうして教わることばかりで、自分が思っていた以上に探索というものを知らなかったのだと実感させられる。
私は腰の剣へ軽く触れながら、少し前を歩くリディアの背中を追った。
しばらくすると、前方の通路が三方向へ分かれている場所へ出た。リディアはそこで足を止めると、腰につけた鞄から折り畳まれた紙を取り出す。
「地図?」
「ええ」
何度も開閉されているのだろう。広げられた紙の折り目は白く擦れており、ところどころに細かな書き込みも加えられている。
リディアはそれを片手に持ちながら分岐の先を順番に眺め、今度は周囲の壁や床を確認してから右の通路を指差した。
「こちらですね」
「そんなすぐ分かるんだ」
「この辺りは何度も来てますから。それに地図もありますし」
興味が湧いて横から覗き込んでみると、紙には複雑に入り組んだ通路が描かれ、小さな記号や数字、短い文字までびっしりと書き込まれていた。今いる三叉路らしき場所も確かに載っている。
「かなり細かいね」
「黒岩迷宮は管理されてますから、地図も揃ってる方ですよ」
「これがあれば、迷子にはならなそう」
何気なくそう言ったところ、リディアがこちらを見た。何となく、その表情に嫌な予感がする。
「……何?」
「姫殿下。迷宮で地図を信用しすぎるのは止めた方がいいですよ」
「え?」
今まさに自分で地図を見ていた人の言葉とは思えなかった。
「でも、それ地図でしょ?」
「地図ですよ。ただし、三日前の」
「三日前?」
思わず首を傾げる。
「それなら、かなり新しいんじゃないの?」
「普通の土地ならそうですね」
リディアは地図を軽く振って見せた。
「迷宮は、内部が変わりますから」
「……変わる?」
「はい」
聞き返した私に代わって、今度はハインリヒが説明を引き継いだ。
「迷宮には一定の周期で、内部構造の一部が組み替わる現象が存在します。一般には『再編』と呼ばれておりますな」
「そんな話、授業では聞いたことあるけど……」
もちろん、迷宮の性質については一通り習っている。ただ、それまでの私にとってダンジョンはあくまで教科書の中の存在であり、実際に探索することを前提としていなかったため、細かなところまではあまり意識していなかった。
「黒岩迷宮だと、どれくらいの頻度なの?」
「一定じゃありませんね。早ければ五日くらい、長ければ十日以上そのままの時もありますけど、だいたい一週間前後でどこかしら変わります」
「全部?」
「そこまでじゃありません。入口や大きな広間なんかは、ほとんど動かない場所もあります。でも、脇道が消えたり、新しい通路ができたり、小部屋の位置が変わったりしますね。罠の場所も変わりますし、魔物の巣が別の場所にできることもあります」
私は改めて、リディアの持っている地図へ目を向けた。
「じゃあ、その地図……」
「間違ってる可能性があります」
「駄目じゃない?」
「何もないより百倍ましですよ」
あっさり返されてしまった。
「大きな通路や目印になる場所は残りやすいですし、昨日まで壁だったところが全部通路になるわけじゃありません。ただ、『地図にこう書いてあるから絶対にこうだ』と思って歩くと危ないんです」
「なるほど……」
「地図ではこの先に一本道しかなくても、再編後には横道ができてるかもしれない。その横道から魔物が来るかもしれないし、昨日まで安全だった床に罠ができてるかもしれません」
「だから、ずっと周りを見てるんだ」
「そういうことです」
ようやく納得した。
確かに、迷宮の構造が何十年も変わらないのであれば、長く利用されている黒岩迷宮の浅層など、とっくに隅々まで調べ尽くされているはずだ。けれど、迷宮そのものが定期的に形を変えるのなら、どれだけ長く攻略されていても完全な安全地帯にはならない。
「でも、それなら地図を作る人も大変そう」
「大変ですよ」
「誰が作ってるの?」
「冒険者です」
「冒険者?」
少し意外な答えだった。
リディアは頷きながら、手元の地図を畳んだ。
「迷宮地図を専門にしてる人たちがいるんです。再編が確認されたら早いうちに潜って、変わった場所を調べて地図を更新する。それをギルドや管理所に売るんですよ」
「それだけで生活できるの?」
「腕が良ければかなり稼ぎますよ。再編直後の最新地図は特に高く売れますから」
「へえ……」
冒険者というと、どうしても剣を振るって魔物を倒す姿を想像してしまう。けれど、迷宮斥候のリディアといい、地図作成を専門にする人間といい、思っていた以上に仕事の種類は多いらしい。
「再編したばかりなら、一番乗りすれば儲かる?」
「儲かりますね」
「じゃあ皆、再編直後を狙うんだ」
「命が惜しくなければ」
「……危ないの?」
「まだ誰も新しい道を知らないってことですからね」
言われてみれば、その通りだった。
新しい道を最初に調べるということは、どこへ繋がっているか分からない通路を進み、どんな罠や魔物が待っているかも分からない場所へ踏み込むということだ。誰かが調べてくれた地図を持って歩くのとは、危険の度合いがまるで違う。
「高い報酬には理由がありますよ」
リディアはそう言って肩をすくめた。
「ちなみに、再編って中にいる時に起きたらどうなるの?」
ふと思いついて尋ねてみる。もし突然、今歩いている通路が塞がれたりしたら、洒落にならない。
「前兆があります」
答えたのはハインリヒだった。
「迷宮内部の魔力が大きく乱れ始め、壁や床にも振動が生じます。黒岩迷宮ほど長く管理されている場所なら、再編が近いこともある程度は察知できますな」
「兆候が出たら?」
「撤退です」
今度はリディアが即答した。
「絶対?」
「絶対です。『あと少しだけ』って欲を出す人ほど帰れなくなります」
「……怖いね」
「怖いですよ。再編そのものに巻き込まれて死ぬ人は珍しいですけど、帰り道が変わって取り残されることはありますから」
なるほど。どれほど魔物を簡単に倒せる人間でも、帰り道を失えばどうにもならない。迷宮という場所には、単純な戦闘能力とは別のところに、命を落としかねない危険がいくつも存在しているらしい。
「じゃあ、今日は再編の兆候は?」
「ありません」
「なら安心なのかな」
そんな会話をしながら右の通路へ入り、しばらく進んだところで、不意に違和感を覚えて足を止める。
「ん?」
前を歩いていた騎士が振り返った。
「姫殿下?」
「待って」
今度は私の方からそう告げ、意識を周囲へ広げてみる。
迷宮そのものに満ちている濃い魔力とは少し違う、細く引き延ばされたような魔力の流れが、通路の左右を繋ぐように走っているのを感じた。
「そこ、何かある」
指差しながら告げると、リディアの表情が変わった。
「どこです?」
「あの辺り……床の中央に、薄い魔力が広がってる。見えにくいけど、何かの術式みたい」
彼女はすぐには近づかず、まず私が指した場所を目で確認した。
「私は見えませんね」
「かなり薄いよ。集中しないと見落としそうなくらい」
それでも、一度気づいてしまえば確かに存在しているのが分かる。
「魔力式の罠でしょうな」
ハインリヒの言葉に頷くと、リディアが足元から小さな石を拾い上げ、問題の場所へ向けて軽く放った。
石は何事もなく床を転がっていく。
「重さじゃない……」
「魔力に反応する種類かもしれませんね」
リディアは鞄から先端に小さな魔石が取り付けられた細い棒を取り出した。
「それ何?」
「魔力を流せる探査具です」
そう説明すると、彼女は私たちを少し下がらせてから棒へ少量の魔力を流し込み、その先端だけを罠の範囲へ近づけていく。
次の瞬間、パチッという乾いた音と共に通路の両側へ青白い光が走り、私たちの少し先で格子状の光が形成された。
「うわっ!」
光はすぐに消えたものの、まともに身体で受けていたら無事では済まなかっただろう。先ほどの物理式の罠とは違い、床にも壁にも目立った仕掛けが見当たらないのが余計に恐ろしい。
「魔力感応型ですね」
リディアが確認するように呟いた。
「人間や魔物が通る時の魔力に反応して、術式が起動するタイプです」
「さっきの罠とは全然違うね」
「でしょう? こういうのは私が目だけで探してても見落とすことがあります」
「じゃあ今のは私が見つけた?」
「はい」
素直に認められ、少し嬉しくなる。
「役に立った?」
「かなり」
「ふふん」
「でも調子に乗って前へ出ないでくださいね」
「分かってます」
釘を刺すのが早い。
それでも、先ほど物理式の罠をまったく見抜けなかったことを考えれば、少しだけ取り返した気分だった。リディアは魔力の流れを慎重に確認し、罠を避けられる壁際の狭い場所を見つけると、そこへ白墨で印をつけた。
「完全に解除しないの?」
「解除するより避けた方が早いですから」
「また誰か踏まない?」
「だから印を残します。帰りにも使いますし、後続の冒険者も気づきやすくなります」
「なるほど」
「全部の罠を壊して歩いてたら、それだけで一日終わりますよ」
どうやら迷宮探索では、目の前にある危険を何もかも取り除く必要はないらしい。大切なのは危険を発見し、必要に応じて避けながら目的を果たすことであって、罠そのものを攻略することではないのだろう。また一つ、ハインリヒから教わった「生きて帰る」という言葉の意味が分かった気がした。
罠を無事に通り抜け、その先を進んでいると、今度は通路の端に妙なものが見えてきた。
「あれは……」
岩壁の窪みに置かれていたのは、両手で抱えられるほどの大きさをした木製の箱だった。角には金属の補強が施され、いかにも何か大切なものが入っていそうな外見をしている。
「宝箱?」
「そうですね」
リディアの返事があまりにも平然としていて、逆にこちらが驚いてしまった。
「本当にあるんだ」
「ありますよ」
思わず足が速くなりかけたところで、リディアから名前を呼ばれる。
「姫殿下」
「はい」
反射的に足を止めると、彼女は満足そうに頷いた。
「……まだ何もしてないけど」
「そのままでお願いします」
「はい」
どうやら、少しは学習できているらしい。
リディアは箱の周囲を確認し、床や壁に不自然な部分がないかを調べたあと、今度は箱そのものを慎重に検めていく。
「宝箱にも罠があるの?」
「あります」
「夢がない……」
数分ほどかけて調べたあと、リディアはようやく蓋へ手をかけた。
「今回は大丈夫そうですね」
彼女が慎重に箱を開くと、中には小さな瓶が二本と、青い半透明の石が入っていた。
「何これ?」
「治療薬と、たぶん水属性の魔術触媒ですね」
「誰が入れたの?」
「知りません」
「……え?」
あまりにも当然のように返されて、思わず聞き返してしまった。
「誰が置いてるの?」
「だから、分かりませんって」
リディアは箱の中身を確認しながら続けた。
「再編の後に新しい宝箱が見つかることがあるんです。それまで何もなかった場所に、いつの間にか置かれてるんですよ」
「箱ごと?」
「箱ごとですね」
「……どうやって?」
「それが分かれば、学者が喜びますよ」
また分からないことが増えてしまった。迷宮へ入ってからというもの、魔物や罠だけでなく、その仕組み自体にも説明のつかないことが多すぎる。
「再編で箱も戻るの?」
「正確には、別の場所に新しく現れることが多いですね。同じ場所に同じ箱が復活するわけじゃありません」
「中身も?」
「毎回違います。大した物が入ってないこともありますし、ごく稀にとんでもない物が出ることもあります」
「だから皆、ダンジョンに来るんだ」
「それも理由の一つでしょうね」
迷宮から得られるのは魔石や魔物の素材だけではない。こうして通常では手に入りにくい品が突然現れるのであれば、それを目当てに冒険者が集まるのも当然だろう。
「神が試練を乗り越えた者へ褒美を与えている、という話もありますな」
ハインリヒがそう付け加えた。
「でも、それも証明されてないんですよね?」
「無論です」
やっぱり。
魔学がどれだけ発達しても、迷宮については分からないことが多いらしい。宝箱の中身は今回の訓練費用とは別に管理されるそうで、騎士の一人が回収して荷物へ収めた。
その後も私たちは何度か分岐を通り、さらに奥へ進んでいく。
やがて先頭を歩いていたリディアがゆっくりと片手を上げたので、全員が何も言わずに足を止めた。
今度は私も、特に尋ねることなく腰の剣へ手を添える。
リディアは床へしゃがみ込み、薄く残った跡を指先でなぞりながら周囲を確認していた。先ほど見つけた岩爪蜥蜴の痕跡とは違い、そこには複数の足跡が重なっている。
「狼型?」
小声で尋ねると、リディアがこちらを見て頷いた。
「灰牙狼ですね」
やっぱり。
ハインリヒが先ほど言っていた、群れで行動する魔物だ。
「何匹?」
「少なくとも五。たぶん六か七です」
「結構いるね……」
「戻りますか?」
リディアに問われ、少し考える。
ここまで来た目的は実戦訓練なのだから、複数の魔物を相手にする経験はしておきたい。ただし、危険を承知で無理に戦う必要はないとも教わったばかりだ。
私はハインリヒへ顔を向けた。
「どうするの?」
「姫殿下はどうしたいですかな?」
「私?」
「御自分ならどう判断するか、聞いているのです」
少し意地悪な問いだった。私は改めて床に残った足跡を見つめ、考えを整理してからリディアへ尋ねる。
「……さっきの蜥蜴より強い?」
「一体だけなら、大差ありません。むしろ一対一なら岩爪蜥蜴より戦いやすいかもしれませんね。ただ、灰牙狼はほぼ必ず群れで動きます」
「六匹くらいなら、私だけでも勝てる?」
「勝てるかどうかなら、勝てると思いますよ」
「じゃあ――」
「ただし、怪我をしないとは言ってません」
思わず言葉が止まる。
勝てる見込みがあるから戦う、という判断自体は間違いではないのだろう。けれど、その勝利のためにどれだけの危険を冒すことになるのかまで考えなければ、探索者としては失格なのかもしれない。
「……騎士のみんなはいる。エルミナもいるし、危なくなったら助けてもらえる」
「はい」
「それなら……やってみたい」
そう答えてハインリヒを見ると、彼は少しだけ考えてから頷いた。
「よろしい」
「ただし」
そこでリディアが人差し指を立てた。
「最初から全員を倒そうとしないでください」
「どういうこと?」
「目の前の一匹だけを追わない。群れ全体を見ることです」
彼女はそう言いながら、床に残った複数の足跡を指差した。
「灰牙狼は馬鹿じゃありません。一匹が正面から気を引いている間に、別の個体が横や後ろへ回ります。弱ったふりをして誘うこともありますから、簡単に引っかからないでくださいね」
「そんなことするの?」
「しますよ。だから厄介なんです」
私は頷いて剣を抜いた。
先ほど岩爪蜥蜴を相手にした時とは違い、今度は手が震えていない。すでに本物の生き物を斬る感触を知ってしまったからなのか、それとも単に慣れてしまっただけなのかは分からなかった。
ただ、そのことを考えている余裕はなかった。
「来ます」
リディアの声に促され、前方へ視線を向ける。
少し先で通路が広がり、薄暗い空間へ繋がっている。その奥から最初に見えたのは黄色く光る一対の瞳で、続いて別の場所にも同じような光がいくつも浮かび上がった。
やがて暗闇の中から、灰色の毛並みをした狼型の魔物たちがゆっくりと姿を現す。
普通の狼より一回り大きな身体をしており、肩までの高さは私の腰近くまである。口を開けば長い牙が覗き、低い唸り声が岩壁へ反響していた。
最初の一匹に続いて次々と姿を現した灰牙狼は、最終的に六匹になった。
「……多い」
「数は聞いたでしょう?」
「見たら思ったより多いの」
思わずそう返してしまったが、リディアから返事はなかった。
灰牙狼たちはこちらの姿を確認してもすぐには襲いかからず、低く唸りながら少しずつ左右へ散っていく。その動きを見て、ようやく何をしようとしているのか理解した。
「囲む気だ」
「そうです」
正面に二匹を残し、別の二匹が左右へ広がっていく。残る二匹もさらに外側へ回り込もうとしており、こちらの隊列全体を包囲するつもりらしい。
もっとも、私の後ろにはエルミナと騎士たちがいる。
「今回は姫殿下一人が標的というわけではありませんぞ」
ハインリヒの声が聞こえた。
「群れがどう動くかを見なされ」
「うん」
私は剣を構え直し、正面だけでなく左右へ広がった灰牙狼たちにも意識を向けた。やがて正面の一匹が短く吠えると、それを合図にしたように右側の灰牙狼が走り出す。
「そっち?」
思わず身体を向けかけたところで、正面の二匹も同時に動いた。一匹は真っ直ぐこちらへ飛びかかり、もう一匹は左側へ回り込もうとしている。
「――っ!」
慌てて正面へ意識を戻し、最初に飛びかかってきた灰牙狼の牙を剣で受け流す。そのまま首へ斬りつけようと踏み込んだ瞬間、リディアの鋭い声が響いた。
「姫殿下、左!」
反射的に踏み込みを止めて身体を引くと、左から回り込んでいた灰牙狼の牙が、ほんの少し前まで私の腕があった場所で噛み合った。
「危なっ……!」
もし最初の一匹を追っていたら、今の攻撃をまともに受けていただろう。思わず背筋が冷たくなる。
灰牙狼たちは深追いすることなく距離を取り、再び左右へ散っていった。どうやら、こちらが隙を見せるのを待っているらしい。
「これ……一匹ずつ戦ってるんじゃない」
「その通りです」
ハインリヒの声が返ってきた。
「六匹で一つの敵だと思いなされ」
「六匹で一つ……」
私はその言葉を頭の中で繰り返しながら、目の前にいる灰牙狼だけではなく、周囲の個体へも意識を向けた。
とはいえ、前後左右の全てを同時に細かく観察することなどできない。ならば一匹ずつ目で追うのではなく、視界の端で動きを拾いながら、魔力感知も併用して全体の位置を把握するしかないだろう。
迷宮そのものに満ちた濃い魔力の中から、灰牙狼たちが持つ魔力の反応を探していく。すると、正面の一匹がこちらへ意識を向けさせようと動くより先に、右側にいた個体が僅かに身体を沈めたのが分かった。
「……そこ」
今度は敵が動くのを待たず、私の方から右へ半歩踏み込む。予想通り、灰牙狼がこちらへ飛びかかってきた。
先ほどのように慌てることなく牙をかわし、すれ違う勢いを利用して身体を回しながら剣を振るうと、刃が首筋へ食い込み、灰色の身体が石床へ転がった。
一匹目を倒したものの、そこで動きを止めるわけにはいかない。正面から別の灰牙狼が飛び込んでくるのを察知した私は、剣を無理に引き戻すのではなく、そのまま左手を相手へ向けた。
「――弾けて!」
魔力を一気に放ち、単純な衝撃波を叩きつける。
飛び込んできた灰牙狼は横から強烈な力を受けて空中で体勢を崩し、そのまま石床へ転がった。私はすかさず距離を詰め、起き上がろうとする相手へ剣を振り下ろす。
これで二匹。
淡い光へ変わり始めた二つの身体を見て、残る灰牙狼たちが一瞬だけ動きを止めた。その中で、他の個体よりも一回り大きな灰牙狼が低く唸り、短く吠える。
「……あれが中心?」
「おそらく」
リディアが答えると同時に、大きな個体の声に反応した残りの三匹が再び散っていった。どうやら、あの個体が群れへ指示を出しているらしい。
正面から一匹が向かってくるものの、今度は簡単に引っかからない。私の意識を正面へ集中させ、その隙に別の個体が左右から襲いかかってくるつもりなのだろう。
そう考えて周囲へ意識を広げると、右側には確かに一匹の反応があった。
しかし、もう一匹が見当たらない。
「……後ろ!」
慌てて振り返ると、一匹の灰牙狼が壁際を大きく回り込み、私ではなくエルミナの方へ飛びかかろうとしていた。
「姫様、こちらはお気になさらず」
聞こえてきたのは、いつもと変わらない静かな声だった。
次の瞬間、エルミナの姿が僅かにぶれたかと思うと、腰から抜かれた短剣が閃き、飛びかかってきた灰牙狼の喉元へ吸い込まれる。
ほとんど音すらしない一撃だった。
魔物は何が起きたのか理解する間もなく石床へ落ち、その身体を淡い光へ変えていく。
「……強い」
思わず感嘆の声が漏れた。
「姫殿下、余所見!」
「っ!」
リディアの声で我に返ると、正面から別の灰牙狼が迫っていた。慌てて剣を間に合わせたところへ牙がぶつかり、腕へ思いのほか強い衝撃が走る。
「くっ……!」
相手を押し返そうとした瞬間、視界の端でもう一匹が動いたのが分かった。先ほどまでの私なら、目の前の相手をどうにかしようとして、そのまま別の個体に飛びかかられていただろう。
けれど、今は少し違う。
私は剣へ噛みついている灰牙狼を無理に斬ろうとはせず、身体強化した脚でその腹を思い切り蹴り飛ばした。相手が後方へ転がったことで距離が生まれ、そこへ横からもう一匹が飛び込んでくる。
「見えてる!」
身体を沈めて爪をかわし、すれ違いざまに腹を斬り裂く。灰牙狼の身体から血が飛んだものの、今度は追撃せず、すぐに周囲へ視線を戻した。
先ほど蹴り飛ばした個体はすでに立ち上がっており、腹を斬られた一匹もまだ動けるらしい。その奥では、一回り大きな灰牙狼がこちらを睨みながら次の機会を窺っていた。
残っているのは三匹。
「……なるほど」
ようやく、少しだけ分かってきた。
敵を一匹倒すことだけを考えていては駄目なのだ。大切なのは自分の剣が届く相手を追いかけることではなく、群れ全体の動きを把握し、次にどこから攻撃が来るのかを予測すること。
そして、何もかも剣だけで処理する必要もない。そう考えた私は、左手へ先ほどより少し多めの魔力を集め始めた。
「姫殿下?」
ハインリヒがこちらを見る。
「大丈夫。吹き飛ばすだけ」
狙うのは灰牙狼たちではなく、自分の正面にある石床だ。私は集めた魔力で風を圧縮すると、それを勢いよく床へ叩きつけた。轟音と共に砂埃が舞い上がり、突然の衝撃に灰牙狼たちが一瞬だけ怯む。
視界を完全に奪うほどではなかったものの、その隙があれば十分だった。身体強化をさらに強めて一気に距離を詰め、先ほど蹴り飛ばした個体の首へ剣を振るう。そのまま足を止めず、腹を負傷していたもう一匹へ向き直ると、相手が牙を向けるより早く剣を突き込んで引き抜いた。
これで残るのは、一回り大きな灰牙狼だけになった。
群れの仲間が次々と倒されていったにもかかわらず、最後の一匹は逃げようとはせず、低い唸り声を上げながらこちらを睨んでいる。
「一対一になった」
思わず呟く。
大きな身体も、鋭い牙も、素早い動きも、先ほどまでと何も変わっていないはずなのに、目の前の魔物はまるで違う相手のように感じられた。
確かに危険な魔物ではある。
けれど、一匹だけなら対処できる。
灰牙狼が地面を蹴り、こちらへ飛びかかってきた。私は真正面からその動きを見据え、伸びてきた牙を紙一重でかわすと、すれ違う勢いを利用して剣を斜め下から振り上げた。
刃は胸元から首へと抜け、灰牙狼の身体は私の横を通り過ぎたところで石床へ倒れ込む。しばらく痙攣を繰り返したあと、最後の一匹も他の個体と同じように淡い光へ変わっていった。
「……終わった?」
「終わりです」
リディアの声を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
「はあ……」
思わず大きく息を吐いてしまう。
岩爪蜥蜴を一匹倒した時とは比べものにならない疲労感が、身体全体に広がっていた。
もちろん魔力も使ったが、それだけではない。六匹の動きを常に意識し、次に誰がどこから攻撃してくるのかを考え続けていたせいで、身体以上に頭が疲れている気がする。
「どうでしたかな」
ハインリヒが近づいてきた。
「一匹ずつなら弱い」
「左様」
「でも、六匹まとめてだと全然違った」
「それを理解していただくのが目的です」
私は床に残された魔石を眺めながら、先ほどの戦いを思い返した。
「最初、一匹目を斬ろうとして周りが見えてなかった。倒せそうだと思うと、どうしてもそっちを追いたくなるんだね」
「戦場では、その一歩が命取りになることもあります」
ハインリヒの口から出た「戦場」という言葉が、妙に耳へ残った。
確かに、今の戦いと大勢の人間が入り乱れる戦場では、通じるものがあるのかもしれない。もっとも、今は目の前の訓練について考えるだけで精一杯だった。
「最後の方は良かった?」
「悪くありません」
褒められた。そう思ったところで、ハインリヒが言葉を続ける。
「もっとも、魔術の使い方は少々力任せでしたが」
「……そこは駄目なの?」
「姫殿下ほど魔力量があれば、多少雑でも成立してしまいますからな」
「便利じゃない」
「それに慣れると困るのです」
どうやら、また説教が始まりそうだった。
「必要な量だけ使って、必要な効果を得る。それも技術でございます。今回のように複数の敵を相手にする際には、魔力の消耗も考えねばなりません」
「はい」
「それから――」
「まだあるの?」
「ございます」
思わず肩を落とすと、隣で聞いていたリディアが小さく笑った。
「でも、最初にしては十分だと思いますよ」
「本当?」
「ええ。最初の一匹を追いかけて横から噛まれる新人、結構いますから」
「私も危なかったけど」
「噛まれなかったなら学習できてます」
それなら良しとしよう。
魔石や素材を回収したあと、私たちは少し広い場所まで移動して短い休憩を取ることになった。
壁際へ腰を下ろし、水筒から冷たい水を一口飲むと、思っていた以上に喉が渇いていたことに気づく。身体を動かしたあとの水がこんなに美味しく感じられるのは、剣術訓練のあと以来かもしれない。
「疲れましたか?」
隣へ腰を下ろしたエルミナが尋ねてきた。
「少し」
「お怪我は?」
「ないよ。エルミナは?」
「ございません」
「一匹、すごく簡単に倒してたけど」
先ほどの動きを思い返してみても、やはり普通の侍女にできる芸当ではなかったと思う。灰牙狼が飛びかかってきた瞬間、彼女はほとんど無駄のない動きで短剣を抜き、その喉元を正確に貫いていた。
普段から護衛としての訓練を積んでいることは知っていたが、実際の戦闘でその技量を目にすると、改めて自分の侍女が何者なのか考えさせられる。
「姫様」
「なに?」
「先ほどの戦い、よく周囲をご覧になれておりました」
「途中からだけどね」
「途中からでも、気づいて直せたのであれば十分でございます」
そう言ってエルミナは微笑み、水筒の蓋を閉じた。
「ただし」
「……エルミナまで?」
「次はもう少し早くお気づきくださいませ」
「はい」
どうやら今日は、周囲の人たちから次々と課題を増やされる日らしい。もっとも、それだけ私に学ぶべきことがあるということなのだろう。休憩を終えたあと、ハインリヒはそれ以上奥へ進むことを許可しなかった。
「もう終わり?」
「本日の目的は十分達成しております」
「まだ時間あるけど」
「時間があるから進む、という考えは迷宮では捨てなされ」
そう言われ、私は少し考えてから尋ねた。
「……生きて帰るため?」
「覚えておられましたか」
ハインリヒが満足そうに頷く。
「体力にも魔力にも余裕があるうちに戻る。それも探索の基本です」
リディアも同意するように頷いた。
「帰り道で何も起きない保証はありませんからね」
「来た道を戻るだけでも?」
「姫殿下、入口で何を聞きました?」
「……後ろも安全とは限らない」
「正解です」
またそれか、と思わないでもなかった。けれど、実際に群れで動く魔物たちを相手にしたあとでは、最初ほど理不尽な話にも思えなかった。
私たちは来た道を引き返しながら、途中で何度も地図を確認し、白墨で印をつけた罠を慎重に避けていった。同じ場所を通っているはずなのに、リディアは最後まで周囲への警戒を緩めることなく、騎士たちもそれに倣っている。
幸い、新しい魔物に襲われることはなかった。
やがて通路の先に、それまでとは明らかに違う光が見え始める。
「あ……」
外から差し込んでくる、自然の光だ。
まだ数時間しか潜っていないというのに、入口が見えた瞬間、何とも言えない安心感が胸に広がった。そのまま迷宮を出ると、暖かな空気が頬に触れ、久しぶりに浴びる日差しの眩しさに思わず目を細めてしまう。
「戻ってきた……」
「お疲れさまでした」
リディアが笑いながら声をかけてきた。
入口脇の詰所では、出発時と同じように職員がこちらを待っており、全員が無事に戻ってきたことを確認すると、人数と帰還時刻を帳面へ記録していく。
その様子を眺めているうちに、朝、ここへ到着した時のことを思い出した。
誰が何人で迷宮へ入り、いつ戻る予定なのか。万が一帰ってこなかった時に備えるための記録だと聞いて、その時は何となく納得しただけだった。
けれど、実際に迷宮へ潜って戻ってきた今なら、あの手続きにもちゃんと意味があることが分かる。
「生きて帰る、か」
「何か仰いましたか?」
ハインリヒが振り返る。
「ううん」
私は小さく首を振った。
初めて本物の魔物を倒し、罠を目の当たりにして、宝箱まで見つけた。複数の敵を相手にする難しさも知ったし、これまで経験したことのない種類の疲労も味わった。
けれど、今になって一番強く感じているのは、そうした出来事を全て終えたうえで、無事にここへ戻ってこられたことだった。
探索では、敵を多く倒した者が勝者なのではない。目的を果たし、仲間と共に帰還した者が勝者なのだ。城の中庭でハインリヒから教えられた時よりも、その言葉の意味が少しだけ理解できた気がする。
「どうでしたか、初めての迷宮は」
リディアに尋ねられ、私は少し考えた。
「思ってたより地味で、思ってたより怖くて……」
「はい」
「思ってたより、面白かった」
そう答えると、リディアは楽しそうに笑った。
「それなら、冒険者向きかもしれませんね」
「本当?」
「姫殿下が冒険者になる機会なんて、たぶんありませんけど」
「それはそう」
私もつられて笑ってしまった。王女である私が、冒険者として迷宮を歩き、日々の生活のために魔物を倒すような暮らしを送るなど、今はとても想像できない。
少なくとも、今日のところは、初めての迷宮探索を無事に終えられたことだけで十分満足だった。