漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
【Side:国王】
「……またか」
執務机に置かれた書簡を読み終え、私は思わず深いため息をついた。
差出人は、東方に位置するレーヴェン王国。封蝋には見慣れた王家の紋章が刻まれており、そこに記されていた内容も、ここ数年ですっかり見慣れてしまったものだった。
我が娘、セレフィーナとの婚姻についてである。
もっとも、今回の書簡は以前よりも随分と踏み込んだ内容になっていた。単なる婚約の打診に留まらず、両国の友好関係を深めるための具体的な条件まで提示されている。
書かれていることだけを見れば、実に魅力的な提案だ。だが、国王としての私には、その裏側にある思惑まで嫌というほど理解できていた。
「陛下、いかがなさいましたか?」
執務机の向かいに立っていた宰相が、私の様子を窺うように尋ねてくる。
「レーヴェンからの書簡だ。今回もセレフィーナを王太子の妃に迎えたいそうだぞ」
「またでございますか」
「しかも今回は随分と気前がいい。婚姻が成立した暁には、両国間の関税を一部撤廃し、軍事的な協力関係をより強固なものとする用意があるらしい」
「ほう。それはまた……」
宰相は僅かに眉を上げると、私が差し出した書簡を受け取り、慎重に内容を確認し始めた。
長年にわたって国政を支えてきた男である。書面に並んだ美辞麗句をそのまま受け取るようなことはせず、提示された条件の一つひとつに目を通していたが、やがて最後の一文へ辿り着いたところで、その眉間に深い皺が刻まれた。
「……なるほど。確かに魅力的な条件が並んでおりますが、最後の一文が気になりますな」
「やはり、そこに目が行くか」
私は椅子の背もたれへ身体を預け、軽く天井を仰いだ。
問題となっているのは、婚姻後の王位継承に関する条項だった。
レーヴェン王国は、セレフィーナがルヴェルティアの王位継承権を保持することを認め、その子供についても両国の王家に連なる正統な血統として扱うことを提案している。
一見すれば、こちらの事情に配慮した寛大な条件に思えるだろう。だが、わざわざ他国の王家からそのようなことを認めてもらう必要など、我が国には存在しない。
「娘の王位継承権を認めるとは、随分と親切な話ではないか」
「……陛下」
「分かっている。皮肉だ」
宰相の呆れたような視線を受け、私は苦笑した。
そもそもセレフィーナは、私と王妃の間に生まれた唯一の娘である。ルヴェルティア王国において、その王位継承権の正統性を疑う者など存在しない。
問題は、その娘が他国の王太子と結婚した場合、将来的に何が起こるのかということだった。
「仮にレーヴェンの王太子とセレフィーナが婚姻し、その間に子供が生まれたとしよう。その子供が両国の王位を継承することになれば、どうなると思う?」
「条件次第ではございますが、同君連合に近い形となる可能性がございますな」
「そして、両国の国力には大きな差がある」
「……左様でございます」
仮に二つの王国が同じ君主を戴くことになったとしても、それだけで国境が消えるわけではない。制度の上では、互いに独立した国家として存続することも十分に可能だ。
だが、それはあくまで制度上の話である。
人口、国土、軍事力、経済規模。そのいずれにおいても、レーヴェン王国は我がルヴェルティアを上回っている。同じ君主を戴くようになった時、どちらの国が政治的な主導権を握ることになるかなど、わざわざ考えるまでもないだろう。
「婚姻によって我が国を手に入れる。戦争をするより、よほど安上がりというわけだ」
「先方としては、あくまで両国の友好関係を深めるための提案なのでしょう」
「それはそうだろうな。私が向こうの国王でも、同じことを考えるかもしれん」
そこが厄介なのだ。
レーヴェン王国の提案は、別に悪辣なものではない。王族同士の婚姻によって国家間の結びつきを強めることなど珍しい話ではなく、互いの国益が一致していれば、戦争を回避するための有効な外交手段にもなる。
ただし、我が国の場合は少々事情が異なっていた。
セレフィーナは、ルヴェルティア王家における唯一の王位継承者なのである。
もし他にも王子や王女がいれば、婚姻を通じて外交関係を築くという選択も取りやすかっただろう。しかし、一人しかいない娘を他国へ嫁がせるということは、王国の将来そのものを他国の王家へ委ねることにも繋がりかねない。
それだけは、国王として軽々しく認めるわけにはいかなかった。
「陛下、こちらもご覧ください」
宰相はレーヴェン王国からの書簡を机へ戻すと、代わりに別の書類を差し出してきた。
そこには、ここ最近各国から届けられた婚姻の打診が一覧になっている。以前から報告は受けていたものの、改めて一枚の書類にまとめられると、その数の多さには少々呆れてしまう。
「……随分な数だな」
「ありがたいことに、姫殿下のご評判は各国へ広まっておりますので」
「ありがたい、か。私には厄介事が増えているようにしか思えんが」
思わずそう返すと、宰相が微かに笑った。
一覧にはレーヴェン王国以外にも複数の国家から寄せられた提案が記されており、ある国は自国の王子をルヴェルティアへ婿入りさせたいと申し出ていた。別の国は婚約を前提とした軍事同盟の締結を希望し、さらに交易関係の強化を条件として提示している国まである。
表向きの目的はそれぞれ異なっているものの、いずれもセレフィーナとの婚姻によって我が国との関係を深めたいという点では一致していた。
「こちらの国は、第二王子を婿として迎えることを提案しているのか」
「はい。姫殿下の王位継承を尊重し、王配としてお支えする用意があるとのことです」
「条件だけ見れば、レーヴェンよりも随分と穏当だな」
「王子殿下ご本人についても、現在のところ悪い評判は聞こえておりません」
「……問題は、その背後にいる者たちか」
「ご賢察の通りでございます」
私は書簡へ視線を落としながら、小さく息を吐いた。
確かに、他国へ嫁がせるよりはこちらが婿を迎える方が、王位継承の問題を整理しやすい。セレフィーナが女王として即位し、夫が王配としてそれを支える。生まれた子供もルヴェルティア王家を継ぐというのであれば、少なくとも形式上は何の問題もないだろう。
しかし、それで全てが解決するわけではなかった。
たとえ本人に野心がなくとも、外国の王子が王配となれば、その実家との関係を無視することはできなくなる。王配の故国から派遣される使節や側近が増え、やがて宮廷内に独自の人脈を築く可能性もあるだろう。
本人が誠実な人物であったとしても、その立場を利用しようとする者が現れない保証はない。何より、特定の国の王子を王配として迎えるという事実そのものが、周辺諸国に政治的な意味を持って受け取られる。
「レーヴェンとの婚姻を避けようとして別の国の王子を迎えれば、今度はレーヴェンが警戒する。まったく、どちらを向いても同じようなものだな」
「それが外交というものでございますから」
「分かっている。分かっているが、少しくらい愚痴を言わせろ」
「陛下の愚痴をお聞きすることも、宰相の務めでございましょう」
「ならば、もう少し給金を増やしてやらねばならんな」
「ありがたく頂戴いたします」
「遠慮という言葉を知らんのか、お前は」
呆れてみせると、宰相は涼しい顔で一礼した。
長年仕えているだけあって、こういうところは実に遠慮がない。もっとも、国王相手に必要なことを遠慮なく口にできる人間がいるというのは、決して悪いことではなかった。
耳触りの良い言葉ばかりを並べる家臣より、よほど信用できるというものだ。
「……それで、国内の候補についてはどうなっている?」
「有力貴族の子弟から、何名か候補を選定しております。ただ、こちらも簡単ではございません」
「分かっている」
セレフィーナの婚姻相手として、国内貴族の子弟を迎えるという選択肢も当然ながら存在する。むしろ王国の独立を維持するという観点だけで考えれば、外国の王族を迎えるよりも望ましい部分は多いだろう。
ただし、国内で完結する婚姻だからといって、政治的な問題が発生しないわけではない。
王配となった者の実家は、次代の王家と極めて強い繋がりを持つことになる。その一族が宮廷内でどれほどの影響力を持つようになるか、他の貴族たちがどう受け止めるかについても、慎重に見極めなければならなかった。
「誰を選んでも、その家が強くなる。選ばれなかった家も黙っているとは限らん、か」
「加えて、国内の候補では姫殿下に釣り合う者が少ないという問題もございます」
「……そこなのだよな」
今度こそ、本当に頭が痛くなってきた。
王族の婚姻に、本人同士の相性だけを求めることなどできない。家柄、政治的な影響力、周辺諸国との関係、将来の王位継承と、考慮すべき事柄はいくらでも存在する。
だが、それらを一つずつ検討していくと、最後には必ず同じ問題へ行き着いてしまうのだ。
――そもそも、我が娘に釣り合う相手などいるのか。
「……まったく、誰に似たのやら」
「陛下と王妃殿下以外に、お心当たりが?」
「皮肉を言うな」
宰相の軽口を受け流しながら、私は窓の外へ目を向けた。
執務室からは王都の街並みがよく見える。整然とした建物の屋根が陽光を受けて輝き、遠くには城壁と、その向こうに広がる山並みまで見渡すことができた。
ルヴェルティア王国は、大陸に存在する大国と比べれば決して大きな国ではない。しかし、我が国には長い歴史があり、優れた魔導技術と、それを支える職人たちがいる。国土こそ広くないものの、山地には鉱物資源が眠り、肥沃な土地からは十分な農作物が得られる。西方の良港と南方へ続く街道も、王国の経済を支える重要な財産だった。
一方で、国土の狭さと人口の少なさは、どうしても補いきれない弱点となっている。
特に軍事面では、いくら優秀な騎士や魔術師を揃えても、大国と同じだけの兵を動員することはできない。防衛戦であれば地形や魔導技術を活かすこともできるだろうが、長期にわたる消耗戦を強いられれば、いずれ国力の差が響いてくるのは避けられないだろう。
だからこそ、我が国はこれまで周辺諸国との均衡を保つことで独立を維持してきた。特定の大国へ過度に接近せず、交易と外交によって互いの利益を調整し、どこか一国にとっての脅威とならないよう立ち回る。
それが、歴代のルヴェルティア王が積み重ねてきた外交政策だった。だが、その均衡を揺るがしかねない存在が、よりにもよって我が娘なのである。
「……あの子が生まれた時は、これほどの騒ぎになるとは思わなかった」
思わず漏らした言葉に、宰相が顔を上げた。
「姫殿下のことでございますか?」
「ああ」
私は小さく頷くと、十三年前のことを思い返した。
セレフィーナが生まれた日のことは、今でも鮮明に覚えている。王家の血を引く娘が無事に誕生したというだけでも喜ばしいことだったが、あの子は生まれた時から、周囲の魔術師たちを驚かせるほどの魔力を秘めていた。
成長するにつれて、その才能はますます明らかになっていった。魔術だけではなく剣術にも非凡な素質を示し、学問の習得も早かった。幼い頃から妙に物分かりが良いかと思えば、時折こちらの予想もしないことを言い出すなど、王宮の教育係たちを驚かせることも珍しくなかった。
そして何より、あの漆黒の髪である。
この世界において、髪の色と魔力の資質には深い関係があるとされている。中でも完全な黒髪は極めて珍しく、それだけでも高い魔力適性を示すものとして知られていた。
セレフィーナの髪は、まさしくその漆黒だった。
しかも年齢を重ねるにつれて、その美貌まで際立つようになってきている。まだ十三歳とはいえ、その容姿が将来どれほどのものになるか、今から想像するだけでも恐ろしいほどだった。
父親としては喜ばしいことだが、国王として見れば、これほど厄介な話もない。
「王家の歴史を振り返っても、あれほどの資質を備えた者は滅多におるまい」
「まさしく、ルヴェルティア王家の至宝でございましょう」
「……至宝、か」
宰相の言葉に、私は苦笑した。
かつて私は、娘の才能を目の当たりにして、王家最高の傑作だと評したことがある。その評価は今でも変わっていないし、成長した現在のセレフィーナを見れば、当時の自分がまだ娘の才能を過小評価していたのではないかとさえ思う。
だが、優秀であることが必ずしも本人の幸福に繋がるとは限らない。
他国から見れば、あの子は王位継承権を持つ王女であると同時に、優れた魔術師の血統を次代へ伝える可能性を秘めた存在でもある。
しかも、まだ十三歳という若さだ。今のうちに婚約を取り付ければ、他国に先んじて王女との関係を築ける。そう考える国が現れるのも、理解できないわけではなかった。
もっとも、理解できるからといって、素直に応じられるかどうかは別の話だ。
「陛下」
宰相が静かに口を開いた。
「姫殿下の婚姻問題につきましては、今後ますます各国からの働きかけが強まるものと思われます」
「……そうだろうな」
「いつまでも返答を先延ばしにするわけにも参りますまい」
私はすぐには答えず、机の上に並べられた書簡へ視線を落とした。
宰相の言うことは正しい。どれほど難しい問題であろうと、いつかは結論を出さなければならないし、それを理解しているからこそ、簡単に返事をすることができないのだ。
「……セレフィーナは、まだ十三歳だぞ」
「王族の婚約としては、決して早すぎる年齢ではございません」
「分かっている」
「陛下」
宰相は一度言葉を切ると、先ほどまでよりも真剣な表情で私を見た。
「陛下が姫殿下のお気持ちを尊重されたいとお考えなのは、私も承知しております。しかし、婚姻問題を先送りにすることで王国の立場が悪化すれば、結果として姫殿下ご自身を苦しめることにもなりかねません」
「…………」
「どうか、その点だけはお忘れなきよう」
耳が痛い忠告だったが、これもまた事実である。
娘の自由を尊重したいという気持ちだけで、国王としての責務を放棄することなどできない。もし私の判断一つで王国が危機に陥れば、セレフィーナだけでなく、この国に暮らす全ての民がその代償を支払うことになるのだから。
そして何より、国が失われれば、娘が自由に生きるための場所そのものがなくなってしまう。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
「……分かっているとも」
私は一度深く息を吐き、机の上に並べられた書簡へ視線を戻した。
「だからこそ、今はまだ決められん」
「と、申されますと?」
「どの国の提案にも、得られるものと失うものがある。特定の一国を選べば、他国との関係も変わるだろう。ならば今は、どの国にも決定的な約束を与えず、外交上の均衡を維持することを優先する」
「……なるほど」
「レーヴェンには、厚意への感謝を伝えておけ。ただし、婚姻条件については今後も慎重に検討する必要があるとな。他国への返答も同様だ」
「承知いたしました」
「それから、国内の婚姻候補についても引き続き調べさせろ。身分や家柄だけでなく、人柄も重視するように」
「人柄、でございますか」
宰相が僅かに眉を上げる。
「当然だろう。あれの夫になる男だぞ」
「……国王陛下としてのお言葉でしょうか。それとも、父君としてのお言葉でしょうか」
「両方だ」
そう答えると、宰相は小さく笑った。
「これは、候補者の選定が一層難しくなりそうですな」
「頼りにしているぞ」
「……承知いたしました」
先ほどまで楽しそうに笑っていた宰相の表情が、僅かに曇った。
どうやら、仕事を増やされる側の気持ちは十分に理解しているらしい。少しだけ溜飲が下がったものの、私とて宰相へ全てを押しつけるつもりはない。
外交問題は国王の仕事であり、最終的な決断を下すのも私なのだから。
「それから、南方の交易路についてだが……」
私は別の書類を手に取り、話題を切り替えた。
婚姻問題だけが国政ではない。王国の収入を支える交易路の維持も、食料の備蓄も、国境を守る要塞の整備も、どれ一つとして疎かにはできなかった。
特に最近は、周辺諸国が交易条件の見直しを求めてくることも増えている。
「南方の街道を通過する商隊について、一部の関税が引き上げられる可能性があるとの報告が来ております」
「どの程度だ?」
「まだ正式な決定ではございませんが、実施されれば王都の商人たちにも影響が出るかと」
「理由は?」
「先方は国内の道路整備費用を賄うためと説明しております」
「……それだけか?」
「現段階では判断できません」
私は小さく頷いた。
交易路を維持するには費用がかかる。道路や橋を整備するために関税を引き上げるという説明自体は、何ら不自然ではない。
ただ、それが実際の理由なのか、別の政治的な意図が含まれているのかは、調べなければ分からなかった。
こうした小さな変更が積み重なれば、やがて王国全体の経済にも影響が及ぶ。軍事力に限りのある我が国にとって、安定した交易関係は国防にも等しい重要性を持っていた。
「商人たちからも意見を聞け。向こうの要求を頭から拒絶する必要はないが、こちらが一方的に負担を強いられる条件なら再交渉だ」
「承知いたしました」
「それと、北東の山地にある要塞の補修計画はどうなっている?」
「騎士団から提出された報告によりますと、予定通り進んでおります。ただ、魔導防壁に使用する触媒の確保が遅れているようでして」
「必要な予算を確認しておけ。国境の守りを疎かにはできん」
「かしこまりました」
そんなやり取りを繰り返しているうちに、窓から差し込む日差しも少しずつ傾き始めていた。
机の上に積まれていた書類は確かに減っているはずなのだが、それでもまだ相当な量が残っている。国王の仕事というものは、どうしてこうも終わりが見えないのだろうか。
もっとも、私が不満を漏らしたところで書類が勝手に片づくわけでもないので、結局は一枚ずつ処理していくしかないのだが。
「……ところで陛下」
宰相がふと思い出したように口を開いた。
「姫殿下は、本日黒岩迷宮へ向かわれたのでしたな」
「ああ」
私は手元の書類から顔を上げた。
「朝から随分と楽しそうにしていたぞ」
「……陛下は、よくお許しになりましたな」
「そう思うか?」
「姫殿下は、我が国にとって唯一の王位継承者であらせられます。万が一のことがあれば、取り返しがつきませぬ」
「だからこそ、ハインリヒを同行させたのだ」
私は椅子へ深く腰掛け直し、朝の娘の様子を思い返した。
セレフィーナは今朝、普段よりも随分と早く起きていたらしい。出発前の挨拶に訪れた時も、表情こそ王女らしく取り繕っていたものの、落ち着かない様子で何度も窓の外へ視線を向けていた。
まるで、遠足を心待ちにしている子供のようだった。もっとも、本人にそんなことを言えば、きっと不満そうな顔をするのだろうが。
「それに、護衛のエルミナもいる。現地の案内役には、経験豊富な迷宮斥候を手配したと聞いているぞ。浅層での訓練に限定するのであれば、危険は十分に管理できるだろう」
「しかし、それでも危険がないわけでは……」
「もちろんだ。だが、危険だからという理由だけで全てを遠ざけていては、何も学べなくなる」
私は窓の外へ視線を向けた。
セレフィーナが剣を握り始めた頃、正直なところ、あれほどの熱意を見せるとは思っていなかった。
王女としての教養を身につけさせるため、護身の意味も込めて剣術を学ばせる。それ自体は王族として珍しい話ではなく、将来のためにも必要な教育だと考えていた。
だが、あの子は想像以上に剣術へ熱中したのである。魔術についても同じで、授業で教えられた内容を覚えるだけでは満足せず、自ら図書館へ通い、興味を持った分野については教師へ質問を繰り返しているという。
その姿勢は喜ばしいものだったが、学問や訓練だけでは得られない経験があることも、私はよく知っている。
「……あの子は、外の世界を知りたがっている」
「左様でございますな」
「城の中だけで育てれば、確かに安全かもしれん。だが、いずれ王位を継ぐことになる者が、王宮の外で何が起きているのかを知らないままというのも問題だろう」
「それは……おっしゃる通りでございます」
「それに、ハインリヒから聞いた話では、あの子の剣術と魔術はすでに同年代の騎士見習いなど比較にならんらしい。ならば、今度は実戦の経験を積ませるべきだという判断にも一理ある」
もっとも、剣術の才能があるからといって、迷宮で生き残れるとは限らない。そのことも十分に理解しているつもりだった。
だからこそ、今回は万全の護衛をつけている。危険を完全になくすことはできなくとも、無謀な挑戦をさせるつもりはない。
「……陛下」
「何だ?」
「そのお考えには、父君としてのお気持ちも含まれておられますかな?」
宰相の問いに、私は少しだけ考えた。
「……まあ、否定はせん」
「左様でございますか」
「何だ、その顔は」
「いえ。姫殿下のこととなると、陛下は少々甘くなられるものですから」
「失礼な奴だな」
私は呆れたように返したものの、否定する気にはなれなかった。
確かに、娘のこととなると多少は判断が甘くなるのかもしれない。だが、それは私とて一人の父親だからだ。
国王という立場にある以上、国家の利益を第一に考えなければならない。娘の婚姻さえも政治的な問題として扱わなければならないことは、十分に理解している。
それでも、まだ十三歳の娘が楽しそうに目を輝かせている姿を見れば、できる限りその望みを叶えてやりたいと思ってしまう。
少なくとも、今のうちくらいは。
「……まったく、難しいものだな」
「何がでございますか?」
「王であることと、父親であることだ」
思わず漏らした言葉に、宰相はすぐには答えなかった。
少しばかり気恥ずかしくなり、私は手元の書類へ視線を戻す。
「……今のは忘れろ」
「承知いたしました」
「本当だな?」
「もちろんでございます」
どうにも信用できない返事だった。そんなやり取りを交わしたあとも執務を続けていると、やがて扉が静かに叩かれた。
「陛下、王妃殿下がお見えでございます」
「通してくれ」
私が答えると、扉が開き、侍女を伴った王妃が姿を現した。
午後の予定を終えたばかりなのだろう。落ち着いた色合いのドレスを身にまとい、いつものように穏やかな表情を浮かべている。
「お忙しいところ、失礼いたします」
「構わん。どうかしたのか?」
「セレフィーナのことで、少しお話がございまして」
その名前を聞き、私は思わず顔を上げた。
「何かあったのか?」
「いいえ。まだ何も報告は届いておりませんわ」
「……そうか」
思わず安堵の息を吐いてしまうと、王妃が僅かに微笑んだ。どうやら、私が娘のことを気にかけているのはお見通しらしい。
「ですが、少し気になりまして」
王妃はそう言いながら、執務机に置かれた書簡へ目を向けた。
「また、各国からの婚姻の申し出ですか?」
「ああ。今日も随分と熱心な手紙が届いている」
「そうでございますか」
王妃は一瞬だけ考え込むと、静かに言葉を続けた。
「……あの子は、まだ結婚について深く考えていないのでしょうね」
「だろうな。今頃は迷宮の中で、初めて見る魔物に目を輝かせているのではないか?」
「ふふ。それは十分にありそうですわ」
王妃の口元が僅かに緩んだ。
我々の娘は、幼い頃から少々変わったところがある。同年代の令嬢たちが美しい衣装や装飾品へ興味を示す一方で、セレフィーナは剣術や魔術、果ては古い書物に記された不思議な伝承にまで関心を持っていた。
もちろん、王女としての礼儀作法も完璧に身につけているし、必要とあれば誰よりも優雅に振る舞うこともできるだろう。
だが、その本質が好奇心の強い少女であることは、父親である私にもよく分かっていた。
「……陛下」
王妃が静かに呼びかけてくる。
「いずれ、あの子にも婚姻について真剣に考えてもらわなければなりません」
「分かっている」
「ですが、今すぐ結論を急がせる必要はないのではありませんか?」
私は王妃を見た。
「……お前も、そう思うか」
「ええ。あの子はまだ十三歳です。王族としての責任を教えることは大切ですが、それと同時に、今しかできない経験もあるはずです」
王妃は一度言葉を切り、机に並ぶ書簡へ静かに視線を落とした。
「それに、あの子がどれほど優れた才能を持っていても、私たちの娘であることに変わりはありませんもの」
「……そうだな」
その言葉に、私は小さく頷いた。
王国の独立を守るため、セレフィーナの婚姻を慎重に扱わなければならない。同時に、父親として娘の人生を尊重したいという気持ちも、決して捨てることはできなかった。
その二つは必ずしも矛盾するものではないはずだ。ただ、それらを両立させるためには、我々大人がもう少し努力しなければならないのだろう。
「……宰相」
「はい」
「各国への返答は、先ほど決めた通りに進めてくれ」
「承知いたしました」
「それと、婚姻候補の調査については急がせる必要はない。十分な時間をかけ、人柄まで見極めるように」
「かしこまりました」
宰相が一礼する。その表情は、先ほどよりも少しだけ柔らかくなっていた。
もっとも、今回の決定によって彼の仕事が減るわけではない。今後も各国との難しい交渉が続くことを考えれば、むしろ苦労は増える一方だろう。
「……苦労をかけるな」
私がそう告げると、宰相は一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、すぐに小さく笑った。
「何をおっしゃいます。陛下が国を守ろうとなさるのであれば、我々臣下もまた、そのために働くのみでございます」
「……そうか」
「それに、私とてルヴェルティアを他国の属国にするつもりはございませんので」
その言葉に、私は思わず笑みを浮かべた。
「頼もしいことを言うではないか」
「長年、陛下にお仕えしておりますからな」
「ならば、これからも頼りにしているぞ」
「承知いたしました」
宰相が深々と頭を下げる姿を眺めながら、私は改めて、自分が多くの者たちに支えられていることを実感していた。
国王一人で国を守ることなどできない。王国のために働く臣下がいて、国境を守る騎士たちがいて、日々の暮らしを営む民がいる。その全てが揃って、初めて一つの国家が成り立っているのだ。
そして、その国をいずれ娘へ引き継がせることが、私に課せられた責務でもあった。
そんなことを考えていた時、再び執務室の扉が叩かれた。
「陛下、失礼いたします」
「何だ?」
「姫殿下のご一行が、黒岩迷宮より無事に帰還されたとの報告が届きました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな重石が取り除かれたような気がした。
「……そうか。怪我は?」
「ございません。姫殿下を含め、全員が無事とのことです」
「探索はどうだった?」
「予定していた浅層の範囲内で訓練を行い、魔物との実戦も無事に終えられたそうです。現在は王都への帰路に就いておられます」
「そうか……」
私は椅子の背もたれへ身体を預け、ようやく安堵の息を吐いた。
危険は十分に管理しているし、ハインリヒもエルミナも同行している。万が一の事態にも対応できるよう、必要な準備は全て整えていた。
そう理解していても、やはり心配なものは心配なのだ。
「良かったですわね、陛下」
王妃が微笑む。
「ああ。本当に良かった」
素直にそう答えると、隣にいた宰相が何やら微妙な表情を浮かべた。
「……何だ?」
「いえ。陛下もやはり、一人の父親であらせられるのだなと」
「当たり前だろう」
「失礼いたしました」
まったく、どいつもこいつも。
私は苦笑しながら、再び机の上へ視線を戻した。
そこには、今日一日かけて整理した各国からの書簡が積まれている。レーヴェン王国をはじめ、我が娘との婚姻を望む国々からの申し出だ。
王位継承権、血統、魔力、政治的な影響力。
他国から見れば、セレフィーナはそれら全てを兼ね備えた、極めて価値の高い王女なのだろう。国王としての私も、その価値を誰より理解しているつもりだった。
だが、父親としての私にとっては、何よりも大切な娘であることに変わりはない。
「……今夜は、少し早めに仕事を切り上げるとするか」
「陛下?」
「娘が帰ってくるのだ。初めての迷宮探索がどうだったのか、話くらい聞いてやりたい」
そう告げると、宰相はどこか安堵したような表情を浮かべた。
「それはよろしゅうございますな」
「お前も少しは休め。今日は随分と働かせたからな」
「ありがたきお言葉」
王妃も静かに微笑んでいる。
私はもう一度、机の上に積まれた書簡へ目を向けた。
国王として考えなければならない問題は山ほどある。どれほど頭を悩ませようと、明日になればまた新しい書簡が届き、新しい判断を求められるのだろう。
それでも、今日くらいは娘の冒険譚を聞く時間があってもいいはずだ。
あの子が迷宮で何を見て、何を学び、どんな顔をして帰ってくるのか。きっと、こちらが尋ねるより先に、あれこれと話し始めるに違いない。
私はそんな光景を思い浮かべながら、机の上に残っていた書類を整理し、窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの王都は、いつもと変わらず穏やかな姿を見せている。
今日も多くの人々が働き、商いを営み、家族の待つ家へと帰っていくのだろう。
その当たり前の光景が、明日も、明後日も続くように。そして、いつの日か娘がこの国を受け継いだ時にも、同じ景色を眺められるように。
それこそが、ルヴェルティア国王である私の、何より大切な務めなのだから。