漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
――あの日から、五年の月日が流れた。
「――はあっ!」
気合いと共に地面を蹴った私は、正面に立つハインリヒへ向けて訓練用の剣を振り下ろした。狙いは肩口。身体強化によって一気に踏み込みを加速させた一撃だったが、ハインリヒは慌てることなく半歩だけ身を引き、私の剣を斜めに受け流そうとする。
五年前の私なら、ここで簡単に体勢を崩されていただろう。けれど、今は相手が何をしようとしているのか、それくらいなら剣が触れるより先に分かる。
ハインリヒが私の剣を受け止める瞬間、手首からふっと力を抜き、刃を滑らせるように軌道を変える。そのまま身体を回転させ、今度は反対側から脇腹を狙って斬り込んだ。
「ほう!」
ハインリヒが感心したような声を上げるものの、その表情にはまだ十分な余裕が残っている。
……あ、これも防がれる。
そう思った時には、すでにハインリヒの剣が動いていた。こちらの斬撃を最小限の動きで受け流すと、その勢いを殺すことなく鋭い突きへ繋げ、私の胸元へ向かって剣先を伸ばしてくる。
まともに受ければ、訓練用の剣とはいえ相当痛い。私は咄嗟に身体を捻って剣先をかわし、そのまま横へ跳んで一度距離を取った。
「相変わらず容赦ないですね!」
「姫殿下こそ、随分と容赦がなくなられましたな!」
楽しそうな声が返ってきて、思わず口元が緩む。
まったく、この人は相変わらず元気だ。私が十八歳になったということは、当然ハインリヒも五つ年を重ねたわけで、以前より白髪は増え、顔に刻まれた皺も深くなっている。
本人は頑として認めようとしないものの、純粋な身体能力については多少なりとも年齢の影響が出ているのだろう。それでも、長年にわたって騎士団を率いてきた経験と、何十年もかけて磨き上げた剣技が失われたわけではない。
今だってこうして剣を交えていると、こちらの次の動きを読んでいるとしか思えない攻撃を何度も繰り出される。体力や速度で私が優位に立っているはずなのに、いつの間にかハインリヒの得意な間合いへ誘い込まれていることさえ珍しくなかった。
とはいえ、私だってこの五年間、ただ遊んでいたわけではない。
十三歳の時に初めて黒岩迷宮へ踏み込んで以来、剣術と魔術の鍛錬を続け、ハインリヒの許可を得て何度も迷宮や討伐訓練へ参加してきた。最初はたった一匹の魔物を前にするだけでも身体が強張っていたのに、今では複数を相手にしても周囲を確認しながら戦える程度には実戦経験も積んでいる。
もちろん、それで油断するつもりはない。実力があることと、油断しても死なないことはまったく別の話なのだと、あの日の迷宮で嫌というほど教えられたのだから。
「少し考え事が過ぎますぞ!」
「おっと!」
ハインリヒの声と同時に横薙ぎの一撃が迫り、私は剣を立てて受け止める。腕へ伝わってきた衝撃を真正面から押し返すことはせず、あえてその力を利用して後方へ跳ぶと、靴底が砂を削って訓練場に乾いた音を響かせた。
再び間合いが開き、互いに訓練用の剣を構え直して向かい合う。
「……ねえ、ハインリヒ」
「何でございましょう?」
「今日こそ勝たせてもらいますからね」
「はっはっは! それは楽しみですな!」
相変わらず余裕たっぷりの返事である。
実際、この五年間で何度模擬戦を行っても、私はまだハインリヒから一本を取ったことがない。純粋な身体能力ならすでに私の方が上だし、魔力量に至っては比較すること自体が気の毒になるくらい差があるのに、いざ剣を持って向かい合えば、最後の最後で読み負けてしまう。
しかも厄介なことに、この人は自分が追い込まれるほど楽しそうな顔をするのだ。あの顔が出た時こそ何か仕掛けてくる前触れだと、これまで何度痛い目を見せられたことか。
ただ、今日の私は少しだけ違う。
ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えながら、剣を構える位置を僅かに下げる。その変化を見逃すはずもなく、ハインリヒの視線が私の剣先へほんの一瞬だけ向けられた。
――待っていた。
「――っ!」
私は一気に地面を蹴った。
最初に放ったのは、右肩を狙った素直な斬撃。当然のように受け流されたが、私はそこで剣を引かず、相手の刃に沿わせるように滑らせながら一気に間合いを詰めていく。
するとハインリヒも、こちらの剣が懐へ入り込むより早く踏み込んできた。
やっぱり、そう来る。
剣の間合いを潰して身体を密着させ、こちらの動きを封じるつもりなのだ。これまで何度も同じ形から足を払われたり、肩を当てられて体勢を崩されたりして、気づけば地面へ転がされてきた。
だからこそ、今回はその動きを待っていた。
私は無理に剣を押し込まず、踏み込んできたハインリヒに合わせて半歩だけ身体を横へずらす。相手が私の変化を察し、剣を切り返そうとしたその瞬間、手首を返して鍔元へ強く打ち込んだ。
「――むっ!」
そこで初めて、ハインリヒの表情から余裕が消えた。
剣同士が激しくぶつかり、その衝撃で相手の手元が僅かに浮き上がる。もちろん、この程度で熟練の騎士が武器を落とすはずもなく、ハインリヒは即座に握りを立て直そうとした。
けれど、その動きまで何度も見てきた私は、もう待たない。
身体が完全に立ち直るより早く、さらに一歩踏み込み、剣を下から鋭く跳ね上げた。
次の瞬間、甲高い音と共にハインリヒの訓練剣が宙を舞った。
「……!」
自分でも一瞬信じられなかったが、身体は止まらない。私は剣を振り抜かず、そのままハインリヒの首元へ刃を添えるようにして寸前で止めた。
ほんの数秒、どちらも言葉を発しなかった。
少し離れた地面へ落ちた訓練剣が、からん、と乾いた音を立てる。
「…………勝った?」
気づけば、そんな間の抜けた言葉が口から漏れていた。ハインリヒは自分の首元に突きつけられた剣を一瞥すると、やがて諦めたようにゆっくりと両手を上げる。
「……参りました」
「本当に?」
「この状況で私が勝ったと言い張れば、さすがに見苦しいでしょう」
そう言って笑うハインリヒを見て、ようやく勝利したのだという実感が胸の奥から込み上げてきた。
「……やった!」
思わず剣を下ろし、年甲斐もなく歓声を上げてしまう。
何しろ五年間、何度挑んでも勝てなかった相手なのだ。あと少しで一本が取れそうになったことも、途中まで優勢だったことも何度もある。それでも最後には必ずハインリヒにひっくり返され、地面へ転がされるのがいつもの結末だった。
だからこそ、たった一度の勝利だとしても素直に嬉しい。
「お見事でした、姫殿下」
ハインリヒは地面に落ちた訓練剣を拾い上げると、いつになく満足そうな表情で頷いた。
「私の動きを完全に読んでおられましたな」
「だって、同じ手で何回も負けてるんだもの。さすがに覚えますよ」
「覚えただけでは意味がありません。それを実際の攻防の中で使えるようになられたからこそ、今の一本が取れたのです。大した成長でございますぞ」
真正面からそんなふうに褒められると、何だか少し照れくさい。それでも、嬉しいからといって浮かれてばかりもいられなかった。
「……でも、模擬戦ですからね」
「ほう?」
「本当の戦いだったら、どうなってたか分かりませんし。魔術だって制限してますから」
今回の模擬戦では、互いに身体強化までは使用しているものの、攻撃魔術は禁止されている。本来の私は剣術だけでなく魔術も使うので、別に私だけが不利な条件というわけではないが、命の奪い合いとなればハインリヒにも模擬戦では使わない技術があるだろう。
何より、目の前にいるのは長年にわたって戦場を生き抜いてきた騎士団長なのだ。模擬戦で一度勝っただけで、自分の方が実戦でも強いなどと思えるほど、私はもう経験不足ではなかった。
「確かに、実戦と模擬戦は違いますな」
ハインリヒは私の言葉を否定せず、拾い上げた剣を腰へ戻した。
「ですが、模擬戦であることは私も姫殿下も同じ条件ですぞ」
「……それはそうですけど」
「それに、剣術の技量というものは一度の勝敗だけで決まるものではありません。少なくとも今日の姫殿下は私の動きを読み、そのうえで見事な一撃を決められた。それは紛れもない事実です」
そう言って穏やかに笑うハインリヒの顔は、騎士団長というより、長年教えてきた弟子の成長を喜ぶ師匠そのものだった。
「胸を張りなされ。師として、これほど嬉しいことはありませんからな」
「……はい!」
私も嬉しくなり、今度は素直に笑顔で頷いた。
もっとも、この人が一度負けた程度で満足して引き下がるとは思っていない。案の定、ハインリヒは少し悪戯っぽい笑みを浮かべると、もう一度訓練剣を構えて私へ向けてきた。
「さて、姫殿下。もう一本いかがですかな?」
「えっ」
「一度負けたままでは、師匠として少々格好がつきませんので」
「……大人気ない!」
「はっはっは! 勝負の世界とは、そういうものでございましょう!」
まったく、本当に元気な人である。
結局、その後も何度か剣を交えることになり、全ての訓練を終えた頃には私もハインリヒもすっかり汗だくになっていた。
ちなみに、続けて行われた模擬戦では私が一度負け、最後の一本は引き分けに終わっている。どうやら、今日一度勝ったくらいで「師匠を完全に超えた」と胸を張るには、まだ少し早いらしい。
それでも、初めて一本を取れたという事実は変わらなかった。
私は訓練剣を片づけながら、少しだけ誇らしい気持ちで青い空を見上げる。
十三歳の頃には、まだずっと遠くにあるように思えた師匠の背中。その背中へようやく手が届いたのだと思えば、積み重ねてきた五年間も決して無駄ではなかったのだろう。
◇ ◇ ◇
「……はあ。生き返る……」
訓練を終えて自室へ戻った私は、汗を流すために浴室へ向かい、温かな湯へ肩までゆっくりと身体を沈めていた。
王宮にある私専用の浴室は、相変わらず一人で使うには無駄に広い。磨き上げられた白い石材で囲まれた浴槽は足を伸ばしても余裕があり、湯の温度も魔導具によって常に一定に保たれている。
前世の日本にいた頃から風呂は好きだったので、好きな時に温かい湯へ浸かれる生活は、この世界でも素直にありがたい。ただ、そのために湯を用意し、浴室を整え、後片づけまでしてくれている人たちがいると考えると、未だに少しだけ贅沢が過ぎるような気もする。
湯船の縁へ頭を預けながら目を閉じると、訓練で張っていた筋肉から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
私はもう十八歳になっている。正確には誕生日から多少日は経っているのだが、改めて数字にして考えると、この世界へ生まれてから随分と長い時間が過ぎたものだ。
前世の日本で生きたのは十六年。それに対して、こちらの世界ではすでに十八年を過ごしているのだから、今ではセレフィーナとして生きてきた時間の方が長い。
前世ではごく普通の男子高校生だった私が、気づけば異世界の王女として成人しているのだから、人生とは本当に何が起こるか分からない。
……いや、さすがにこんな展開まで予想できる人間がいたら、その人は人生を語る前に占い師として大成功できると思うけれど。
そんなことを考えながらふと視線を落とすと、湯気と揺れる水面の向こうに、今の自分の姿がぼんやりと映り込んでいた。
十三歳の頃と比べれば、当然ながら身体つきも大きく変わっている。あの頃に残っていた少女らしい幼さはほとんど抜け、今では誰が見ても成人した女性の身体になっていた。
長年剣術を続けてきたおかげで手足や腰回りには余計な肉がなく、身体はしなやかに引き締まっている。それでいて女性らしい丸みまで失われているわけではないので、服を着て黙っていれば、日頃から剣を振り回して魔物まで斬っている人間にはあまり見えないだろう。
顔立ちについても、この五年間で随分と大人びた。
鏡を覗けば、艶のある漆黒の髪に紫色の瞳を持った女性がこちらを見返してくる。王宮の人間たちからは美しいだの、王家の至宝だのと言われ慣れてしまったけれど、改めて客観的に見れば、確かに随分と目立つ容姿になったものだと思う。
もっとも、これは努力して手に入れたものではなく、ほとんどが生まれ持った身体のおかげだ。
しかも当の本人には、前世で日本人の男子高校生だった記憶が残っている。
……いや、十八年も女性として生きている人間が、いつまでも「中身は男子高校生です」と言い張るのも、それはそれで無理があるのだろうか。
昔は女の子の身体になってしまったことに驚いたり、戸惑ったりする場面も多かったけれど、さすがにこれだけ長く生活していれば、普段から性別を意識することなどほとんどなくなっている。むしろ今さら突然男の身体へ戻された方が、生活のあらゆるところで戸惑いそうな気さえする。
……何だか、それを認めると負けたような気もするけれど、何に負けたのかは自分でもよく分からない。
「それにしても……本当に長くなったなあ」
私は浴槽の外へまとめて置いてある自分の髪を眺めた。
幼い頃から切ることなく伸ばし続けてきた漆黒の髪は、今では膝よりも下まで届いている。本当なら、せめてもう少し扱いやすい長さまで整えたいところなのだが、この髪は単なる飾りではない。
私の髪には魔力を蓄える性質があり、長くなればなるほど保持できる魔力量も増える。そのため不用意に切れば能力面でも損をするし、何より切り離した髪そのものが本人と強く結びついた高品質な魔術触媒として利用できてしまう。
王位継承者である私の髪など、悪意ある相手の手に渡れば何に使われるか分かったものではない。
そして、もう一つ。
この髪は、幼い頃からずっとエルミナが大切に手入れしてくれている。
あれほど毎日苦労して整えてもらっておいて、「長すぎて邪魔だから切るね」と簡単に言うのも何となく申し訳ない。もっとも、これほど長い髪を毎日世話させている現状とどちらがエルミナに優しいのかと聞かれると、少々答えに困るのだけれど。
私は湯船の中で軽く肩を回し、訓練で疲れた身体をほぐしながら、自然と今日の模擬戦を思い返した。
初めてハインリヒから一本を取れたのは、やはり嬉しい。この五年間、剣術や魔術を鍛え続け、王女としての教育も受け、その合間には迷宮や王都の外へ出て実戦経験まで積んできた。
そうした日々を繰り返しているうちに、気づけば十三歳だった私は十八歳になっていた。
ただし、この五年間で何もかも前へ進んだわけではない。むしろ、私が最も知りたかったことについては、今でもほとんど何も分かっていなかった。
――地球へ帰る方法だ。
この世界に生まれて以来、私はずっと元の世界へ帰る手段を探してきた。王宮の図書館にある古文書や魔術書を読み漁り、空間魔術や転移魔術についても、教師や宮廷魔術師たちへ怪しまれない範囲で可能な限り調べている。
それでも、十八歳になった今に至るまで、手がかりと呼べるものすらほとんど見つかっていない。
そもそも、この世界では同じ世界の遠方へ人間を転移させる魔術ですら非常に高度なのだ。世界そのものを越え、存在するかどうかさえ証明されていない別世界へ移動する方法など、王宮の図書館を調べた程度で簡単に見つかるはずもないのだろう。
「……父さん、母さん、それに妹。みんな元気にしてるかな」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、湯気の立ち込める浴室へ静かに響いた。
前世の家族とは、私の感覚ではもう十八年も会っていない。向こうの世界でも同じだけの時間が流れているのか、それともこちらとは時間の流れ自体が違うのか、その程度のことさえ分からない。
それでも、顔を忘れたことはなかった。
父さんも、母さんも、妹も、今でも目を閉じれば思い浮かべることができる。何気なく食卓を囲んだことや、どうでもいいことで言い合ったこと、一緒に出かけた時のことまで、十八年経った今も記憶の中に残っている。
だから、いつかもう一度会いたいという気持ちは今でも変わっていない。ただ、その願いについて考える時、昔とは違う感情も一緒に浮かんでくるようになっていた。
「……こっちにも、家族がいるんだよね」
思わず口にした言葉に、自分自身が少しだけ困ってしまう。
この世界にも父上と母上がいる。生まれた時から私を育て、何不自由なく成長できるようにしてくれた両親がいて、幼い頃からほとんど毎日のように傍へいてくれたエルミナもいる。
ハインリヒをはじめ、王宮で長く世話になってきた人たちだって、もうただの他人とは思えない。
幼い頃の私は、いつか地球へ帰るということをほとんど疑っていなかった。ここは異世界で、日本こそが本当の故郷なのだから、帰る方法さえ見つければそれでいいと思っていたところもある。
もちろん、今だって地球へ帰りたい。それなのに最近は、もし本当にその方法が見つかったとして、自分はここにいる人たちを何もかも置いて帰れるのだろうかと考えてしまう。
十八年間育ててくれた両親に「実は前世の家族のところへ帰ります」と告げて、それで終わりにできるのだろうか。エルミナとは、そこで二度と会えなくなってもいいのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「…………まあ、帰り方も分かってないのに考えても仕方ないか」
そもそも、まだ選択肢そのものが存在していないのだ。今から答えの出ないことを延々と悩んでも仕方がない。私はそう自分に言い聞かせると、もう一度肩まで湯へ浸かり、長く息を吐いた。
それにしても、風呂に入ると妙に考え事が増えるところだけは、前世からまるで変わっていないらしい。
◇ ◇ ◇
「姫様、もう少しこちらへお寄りくださいませ」
「はいはい」
入浴を終えて自室へ戻った私は、エルミナに促されるまま鏡台の前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
背後では、いつもの侍女服を身につけたエルミナが、私の長い髪を少しずつ分けながら丁寧に梳いている。
銀色の長い髪に、落ち着いた青灰色の瞳。彼女も当然五つ年齢を重ねているのだが、その整った容姿と穏やかな所作は、私から見れば五年前とほとんど変わっていない。
もちろん本人に言わせれば色々と変わっているらしいし、よく見れば以前より大人の女性らしい落ち着きが増しているのだけれど。
「それにしても、また随分と長くなりましたね」
鏡越しに私の髪を眺めながら、エルミナが小さく呟いた。
「そうだね。もう、自分じゃまともに手入れできない気がする」
「今さらでございますね」
「……それ、どういう意味?」
「姫様の髪は、昔から私がお手入れしておりますので」
あまりにも当然のように返されてしまい、思わず口を閉じる。確かに、それはそうなのだけれど。
エルミナは手慣れた様子で私の髪を小分けにすると、魔導具で水分を飛ばしながら、専用の櫛を使って根元から毛先まで丁寧に整えていく。膝よりも下まで伸びた髪を扱っているというのに、引っ張られたり櫛が引っ掛かったりする感覚はほとんどない。
長年やってもらっていることもあって、こうしてエルミナに髪を任せている時間は、今では私にとって完全に日常の一部だった。
「……ねえ、エルミナ」
「何でございましょう?」
「私、もう十八歳なんだけど」
「存じております」
「いつまで、こうして髪の世話をしてくれるの?」
何気なく尋ねてみると、滑らかに動いていたエルミナの手がほんの一瞬だけ止まった。
けれど、それも僅かなことで、すぐに何事もなかったように櫛を動かしながら、いつもの穏やかな声が返ってくる。
「姫様がお望みになる限り、いつまでも」
「……そっか」
「はい。姫様が何歳になられようと、私のお仕事は変わりませんので」
鏡越しに見えるエルミナは、いつものように微笑んでいた。その表情を眺めているだけで、どういうわけか少しだけ安心する。
「でも、エルミナだって自分の時間が欲しくなることもあるでしょ?」
「ございますよ」
「あるんだ」
「もちろんでございます。私も人間ですから」
あまりにもあっさり肯定され、思わず笑ってしまった。
「じゃあ、その時間は何をしてるの?」
「読書をしたり、身体を鍛えたりしておりますね」
「……それ、仕事とあんまり変わらなくない?」
「趣味も兼ねておりますので」
「そっかあ」
何ともエルミナらしい答えである。
幼い頃からずっと一緒にいるけれど、彼女が自分のためだけに何かを楽しんでいる姿を、私はあまり見た記憶がない。
もちろん休暇だって取っているし、私の知らないところで友人と過ごす時間もあるのだろう。それでも、エルミナの生活の中心にはいつも私がいるような気がしてしまう。
「……ねえ、エルミナ」
「はい」
「いつもありがとうね」
自分でも少し唐突だったと思う。
案の定、背後で髪を梳いていた手が今度こそはっきりと止まり、鏡越しに見えるエルミナが珍しく驚いた表情を浮かべた。
「……突然、どうなさいました?」
「別に。何となく言いたくなっただけ」
「左様でございますか」
エルミナは少しだけ目を細めると、再びゆっくりと櫛を動かし始めた。
「そのお言葉だけで、十分でございます」
「……そっか」
「はい」
穏やかな声を聞きながら、私は鏡越しに彼女を見て小さく笑った。
この世界に生まれてから十八年もの時間が過ぎ、私自身も随分と変わった。それでも、こうしてエルミナに髪を梳いてもらう時間だけは、幼い頃から何も変わっていないような気がする。
……まあ、髪の長さだけは、とんでもなく変わったけれど。
「姫様」
「なに?」
「本日の模擬戦では、ついにハインリヒ様から一本をお取りになられたそうですね」
「あ、聞いた?」
「はい。訓練場にいた騎士たちの間でも、随分と話題になっております」
「……そんなに?」
「それはもう。姫様があのハインリヒ様に勝利されたのですから」
エルミナはまるで自分のことのように誇らしそうな笑みを浮かべている。
……何だか、本人である私より嬉しそうなんだけど。
「でも、そのあとは負けちゃったし、最後は引き分けだったよ」
「それでも、初めて勝利されたことに変わりはございません」
「そうかな?」
「もちろんでございます。それに、姫様はこの五年間、ずっと努力を重ねてこられました。その成果が形になったことを、私も嬉しく思います」
そんなことを真顔で言われると、こちらまで照れてしまう。
「……ありがと」
「どういたしまして」
エルミナはそう言って微笑むと、最後に髪全体の流れを整え、手にしていた櫛を静かに鏡台へ置いた。
「はい。これでよろしいかと」
「ん、ありがとう」
促されるまま鏡を覗き込むと、そこには艶やかな漆黒の髪を背中へ流した一人の女性が映っていた。
紫色の瞳と整った顔立ちには、十三歳だった頃の面影もわずかに残っている。それでも輪郭や目元にはもう幼さより大人らしい落ち着きの方が強く、改めて見れば、自分でも随分と綺麗な女性へ成長したものだと思う。
何だか他人事のような感想だけれど、十八年経った今でも、ときどきこうして鏡の中の自分を客観的に眺めてしまうことがある。
元男の転生者としては、そのあたりだけは未だに少々複雑なのである。
「姫様、そろそろお召し替えを」
「あ、そうだった」
エルミナに促され、私は椅子から立ち上がった。
そういえば、今日は午後から父上に呼ばれていた。普段なら訓練後くらいもう少しのんびりしていたいところだが、最近の父上は以前にも増して忙しくしているので、わざわざ時間を取って呼び出した以上、何か大切な話があるのだろう。
私はエルミナに手伝ってもらいながら、動きやすい部屋着から王女として相応しいドレスへ着替えていく。
十八歳になったというのに、今でもこうして着替えや髪の手入れをしてもらっているあたり、私は本当に恵まれた生活を送っているのだと思う。
いつか本当に地球へ帰れたとして、この生活に慣れきった私が掃除も洗濯も食事の用意も全部自分でする生活へ戻れるのか。
……何だか別の意味で、地球帰還への不安要素が増えてしまった気がする。