漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
「セレフィーナ、よく来たな」
「お呼びでしょうか、父上」
身支度を終えて執務室へ向かうと、父上は五年前と変わらず、大量の書類に囲まれて机へ向かっていた。
ただし、父上自身まで五年前のままというわけではない。髪には目立つほど白いものが増え、目元に刻まれた皺も以前より深くなっている。最近は国政が忙しいせいなのか、疲労の色を浮かべていることも多くなった。
それでも、国王としての威厳が衰えたようには見えない。むしろ私が幼かった頃より、一国を背負う者としての厳しさが、その表情に強く表れるようになった気がしていた。
「先ほどハインリヒから報告を受けたぞ。ついに一本取ったそうではないか」
「はい。もっとも、その後は負けてしまいましたけれど」
「それでも大したものだ。あやつは剣術だけなら、今でも王国屈指の腕前だからな」
父上は満足そうに笑うと、机の上に積まれていた書類の一部を脇へ寄せ、私のために少しばかり場所を空けた。
昔なら、剣術の話だけでもしばらく盛り上がったかもしれない。けれど、今日わざわざ私を執務室まで呼び出した理由がそれだけではないことくらい、その机に積み上がった書類を見れば分かった。
「……さて。せっかく来てもらったところで悪いが、今日は少し真面目な話をせねばならん」
「……婚姻のお話でしょうか?」
私が先回りして尋ねると、父上は僅かに眉を上げた。
「分かるか」
「最近は、そのお話ばかりですから」
思わず苦笑してしまう。
十三歳の頃から各国より届いていた婚姻の申し出は、十八歳となった今も途切れるどころか、年齢を重ねるにつれてますます増えている。
以前であれば「将来的に婚約を検討してほしい」という程度だったものが、最近では具体的な婚姻時期や条件を示した正式な交渉へ変わりつつあった。各国の使節が王都を訪れる機会も増え、そのたびに父上や宰相が対応へ追われていることは、私もよく知っている。
何しろ、私ももう十八歳だ。
王位継承者として外交や国政について本格的な教育を受けている以上、十三歳の頃のように、大人たちが何に頭を悩ませているのか何も知らずに暮らしているわけではない。
「……レーヴェン王国から、また何か?」
「ああ。今回は以前よりも強い調子だ」
父上は机の上から一通の書簡を取り出すと、私の前へ差し出した。
封蝋に刻まれているのは、もう何度も目にしてきた紋章だった。
レーヴェン王国。ルヴェルティアの東方に位置し、人口も領土も軍事力も、我が国を遥かに上回る大国である。私は書簡を受け取り、そこに記されている文章へ順番に目を通していった。
「……婚姻に関する正式な回答を、年内に求める?」
「そうだ」
「これまでは、こちらの返答を待つという形だったはずですよね」
「向こうも、いつまでも待つつもりはないということだろう」
私は書簡を机へ戻し、そこに並べられていた条件を頭の中で整理する。
提示されている内容そのものは、以前から大きく変わっていない。私とレーヴェン王国の王太子との婚姻。その成立を前提とした交易関係と軍事協力の強化。そして将来的には、私たちの間に生まれる子供が持つ両国の王位継承権について協議する。
書面の上だけを見れば、両国に利益のある提案にも思える。
けれど、五年前とは違う。今の私には、その条件を受け入れた先に何が待っているのかも、それなりに理解できていた。
「……私がレーヴェンへ嫁げば、将来的には両国の王位が同じ血統へ纏まる可能性がありますね」
「その通りだ」
「制度上は別々の国のままでいられたとしても、国力には大きな差がある。何代も続けば、ルヴェルティアが実質的にレーヴェンへ取り込まれる可能性もある」
「よく勉強しているな」
父上が小さく頷く。
「婚姻を結んだからといって、すぐさま国が消えるわけではない。だが、我が国が小国である以上、結びつきが強くなればなるほど、相手国の影響を無視することは難しくなる。それが一代、二代と続いた先にどうなるかまでは、誰にも保証できん」
「……そうですよね」
私も小さく頷いた。
五年前なら、父上から説明されなければ分からなかったことかもしれない。けれど、今では私自身がこの国の行く末に関わる立場である。
結婚相手を選ぶというだけなら、まだ個人の問題として考えることもできる。だが私の場合、その相手が誰になるかによって、王国そのものの立場まで変わってしまう。
正直に言えば、随分と面倒な身分に生まれてしまったものだと思う。
「お断りすることは?」
「無論できる。婚姻は双方の合意によって成立するものだからな。レーヴェン王国とて、書簡一つでお前を王太子妃にできるわけではない」
「では……」
「だが、断ったあとに何が起こるかまでは、我々には決められん」
父上の言葉を聞き、その先を言おうとしていた私は口を閉ざした。
そう。
そこが一番厄介なのだ。
十三歳だった頃なら、「嫌なら断ればいい」と単純に考えていたかもしれない。けれど今では、王族の婚姻が本人同士だけの問題ではなく、国家間の関係を左右する外交手段でもあることくらい理解している。
婚姻を断ること自体はできる。けれど、その結果として相手国との関係が悪化することまで拒絶できるわけではない。
「……最近、交易関係も以前より悪くなっていると聞きました」
「ああ。南方の交易路では、この数年で関税が段階的に引き上げられた。一部の商隊はすでに別の経路を利用するようになっている」
「北東の国境付近でも、軍の動きが活発になっているとか」
「よく知っているな」
「一応、王位継承者ですので」
少しだけ胸を張ってみせると、父上は一瞬意外そうな顔をしたあと、どこか嬉しそうに苦笑した。
「それは頼もしい」
もっとも、笑っていられるような状況ではない。ここ数年、ルヴェルティアを取り巻く国際情勢が少しずつ変化していることは、王宮にいる私にも感じ取れていた。
以前は友好的だった国が交易条件の見直しを求め、また別の国では国境付近で行われる軍事演習の規模が拡大している。外交使節が王都を訪れた際の言葉遣いも、五年前と比べれば明らかに強硬になっていた。
もちろん、それら全てがルヴェルティアへの敵意から行われていると決めつけるわけにはいかない。
他国には他国の事情がある。関税を引き上げるにも軍事演習を増やすにも、それぞれ正当な理由がある場合だって当然存在するだろう。
それでも、一つひとつなら偶然や各国の事情として片づけられる変化が、同じ時期にいくつも重なっている。何も意味がないと思う方が、むしろ不自然だった。
「……父上は、戦争になると思われますか?」
思い切って尋ねると、父上はすぐには答えなかった。机の上に置かれた書類へ視線を落とし、言葉を慎重に選ぶようにしばらく考えてから、静かに口を開く。
「分からん」
「……分からない、ですか」
「ああ。少なくとも現時点では、近いうちに戦争になると断言できるだけの情報はない」
そこで父上は一度言葉を切り、今度は私の目を真っ直ぐに見た。
「だが、そうならないと保証することもできん」
「…………」
「国家というものは、自国の利益を求めて動く。昨日まで友好的だった相手が明日も同じであるとは限らんし、逆に今日関係が悪いからといって、必ず戦争になるわけでもない」
父上は静かに言葉を続ける。
「だからこそ、希望的観測だけで判断するわけにはいかん。戦争にならぬよう外交を続けながら、それでも起きた時に備える。それが国を預かる者の仕事だ」
その言葉には、長年国王として国を治めてきた人だからこその重みがあった。
父上は戦争を望んでいない。けれど、「きっと大丈夫だ」と楽観しているわけでもない。その二つを同時に考え続けなければならないのが、国王という立場なのだろう。
私はしばらく考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「……私にできることはありますか?」
そう尋ねると、父上は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「ほう?」
「私も、もう十八歳です。いつまでも父上に守っていただくだけというわけにはいきません」
もちろん、自分一人で国を救えるなどと思っているわけではない。
どれだけ剣術や魔術を磨いたところで、それだけで関税が下がるわけでも、他国の政策を変えられるわけでもない。それくらいのことは、私にも分かっている。
それでも、この国の王位継承者でありながら、何も知らず、何もせず、ただ周囲に守られているだけなのは嫌だった。
「……立派になったものだな」
父上は少しだけ目を細め、どこか懐かしいものを見るような表情を浮かべた。
「だが、焦る必要はない。お前にはお前の役割がある」
「私の役割、ですか?」
「ああ。まずは今まで通り学べ。王位を継ぐ者として必要な知識を身につけ、剣術や魔術の腕を磨き、国の内外をよく見る」
父上はそこで少し考えるように間を置いた。
「それに、これからは書類だけでなく、実際の政務にも少しずつ加わってもらうつもりだ。いつまでも勉強だけをしていればよい年齢ではないからな」
「……はい!」
思っていたよりも具体的な話が出てきて、自然と背筋が伸びる。
これまでも議会や謁見へ同席することはあったけれど、それはあくまで王位継承者として学ぶためだった。これからは、自分自身の意見や判断を求められることになるのだろう。
少し怖くもある。
けれど、それ以上に嬉しかった。
「それと、婚姻については今後、お前自身の意見も今まで以上に聞かなければならん」
「……やっぱり、そちらは避けては通れませんか」
「残念ながらな」
父上は、国王というより父親らしい顔で苦笑した。
「だが、お前の知らぬところで勝手に婚約を決めるつもりはない。その点だけは安心してよい」
「……ありがとうございます」
素直に頭を下げると、父上は穏やかに頷いた。
そんな父上の姿を見ていると、胸の奥が少しだけ痛くなる。
私のことを大切にしてくれているのは知っている。幼い頃から、父上も母上も、王族として必要な厳しさを持ちながら、それでも一人の娘として私を育ててくれた。
だからこそ、いつか本当に地球へ帰る方法が見つかった時、私は二人に何と話せばいいのだろう。
先ほど風呂の中でも考えていたその問いに、十八歳になった今の私も答えを持っていなかった。
「……セレフィーナ?」
「あ、いえ。何でもありません」
慌てて首を振ると、父上は少しだけ不思議そうな顔をしたものの、それ以上追及してくることはなかった。代わりに机の上から別の書類を取り出し、私の前へ差し出す。
「こちらも目を通しておけ。最近の周辺諸国の動向をまとめたものだ」
「はい」
「ただし、これを読んだからといって、すぐに何かを決める必要はない。今はまず、状況を正しく理解しておくだけでよい」
「承知しました」
私は書類を受け取り、改めて父上へ頭を下げた。
少なくとも今日のところは、これで話は終わりなのだろう。そう思った時だった。
執務室の扉が、先ほどまでとは明らかに違う、少し強い調子で叩かれた。
「陛下、失礼いたします」
「何だ?」
許可を得て入ってきた侍従は、普段よりも僅かに呼吸を乱していた。
「北東方面の守備隊より、至急の報告が届いております」
その言葉を聞いた瞬間、父上の表情から先ほどまでの柔らかさが消えた。
「……内容は?」
「国境付近で、隣国の部隊が新たに確認されたとのことです。規模はまだ不明ですが、これまでよりも多くの兵が集結している可能性があると」
その場に、僅かな沈黙が落ちた。
父上は侍従から差し出された報告書を受け取ると、素早く内容へ目を走らせていく。その隣で私は何も言わず様子を見守っていたが、気づけば無意識のうちに片手を強く握り締めていた。
国境付近への軍の集結。
つい先ほど、戦争になるかもしれないという話をしたばかりだからこそ、その言葉が嫌な形で胸へ引っ掛かる。
「……まだ、演習の可能性もあるな」
報告書を読み終えた父上が、慎重にそう口にした。
「はい。守備隊からも、現時点では敵対行動は確認されていないとの報告です」
「ならば、まずは事実関係の確認を急がせろ。こちらから挑発するような行動は慎みつつ、国境の警戒だけは強化するよう伝えよ」
「かしこまりました」
「それと、宰相と軍務を担当する者たちを呼べ。今後の対応について協議する」
「はっ!」
命令を受けた侍従が、慌ただしく執務室を退出していく。父上は扉が閉じたあともしばらく報告書へ目を落としていたが、やがて小さく息を吐くと、申し訳なさそうにこちらを見た。
「……すまんな、セレフィーナ。今日はここまでにしよう」
「いえ。お気になさらないでください」
私は立ち上がり、静かに頭を下げた。
「父上も、どうかご無理はなさらないでください」
「ああ。分かっている」
父上はそう答え、いつものように穏やかな笑みを見せてくれた。けれど、その目には先ほどまでとは違う、鋭く厳しい光が宿っている。
「では、失礼いたします」
もう一度頭を下げ、私は執務室を後にする。
扉が閉まる直前に振り返ると、そこには再び報告書へ視線を落とす父上の姿があった。その横顔は、娘である私に向けられる優しい父親のものではない。一つの国と、そこに暮らす大勢の人間を背負う、ルヴェルティア国王の顔だった。
◇ ◇ ◇
「……姫様?」
執務室を出て廊下を歩いていると、少し後ろからエルミナの声が聞こえてきた。
「何か、ございましたか?」
「……ううん。ちょっと考え事」
そう答えると、エルミナは無理に聞き出そうとはせず、いつものように私の隣へ歩調を合わせてくれた。
廊下の大きな窓からは、夕暮れに染まり始めた王都の街並みを見渡すことができる。道には今日も多くの人々が行き交い、店を畳み始める商人や家路へ向かう人々が、それぞれいつも通りの日常を過ごしているのだろう。
見えている景色そのものは、五年前と何も変わっていないように思える。けれど、王宮の中では明らかに何かが変わり始めていた。
十三歳だった頃から続いている各国からの婚姻の申し出は、今では正式な回答を迫られるところまで来ている。交易条件は少しずつ悪化し、国境付近では他国の軍隊が以前よりも大きな規模で動くようになった。
今日届いた報告も、その一つだ。
ただの軍事演習かもしれないし、本当に我が国を意識した動きなのかもしれない。今の私には、それを判断できるだけの情報はない。
けれど、これまで当たり前のように安全だと思っていたこの国が、永遠に今のままでいられるわけではないということだけは、少しずつ理解し始めていた。
「……エルミナ」
「はい」
「もし、何か大変なことが起きたら……どうする?」
自分でも、どうしてそんなことを尋ねたのか分からなかった。先ほど見た父上の表情が頭に残っていたからかもしれないし、国境へ兵が集まっているという報告を聞いたせいかもしれない。
エルミナは少しだけ考えるように私を見たものの、答えそのものにはほとんど時間をかけなかった。
「その時は、姫様をお守りいたします」
「……即答なんだ」
「当然でございます」
あまりにも迷いのない返事だったので、思わず苦笑してしまう。
「でも、私だって結構強くなったんだけど?」
「存じております。今日もハインリヒ様から一本をお取りになられましたから」
「なら、エルミナが守らなくても大丈夫かもしれないよ?」
「それとこれとは別の話でございます」
きっぱりと言い切られてしまった。
まったく、本当にこの人は昔から変わらない。
「……そっか」
「はい」
私は小さく笑い、それ以上言い返すことはせず、再び窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの王都の向こうには山々が連なり、さらにその先には私の知らない土地と、いくつもの国が存在している。
この世界へ生まれ変わってから、ずっと見てきた景色だ。
私は今でも、いつか地球へ帰りたいと思っている。その気持ちは幼い頃から変わっていないし、前世の家族へもう一度会いたいという願いを諦めたつもりもない。
けれど、この景色を眺めていると、昔にはなかった感情が胸の奥へ浮かんでくるようになっていた。
私はもう、十八年もこの国で生きている。ここで生まれ、育ち、学び、笑い、大勢の人たちと出会ってきた。こちらで過ごした時間は、すでに前世の日本で過ごした時間よりも長い。
だからなのだろうか。
最近になって私は、以前ならほとんど考えなかったことを時々想像するようになっていた。
もし、この国がなくなってしまったら。
父上や母上がいる城も、エルミナと暮らしてきた部屋も、ハインリヒと剣を交えた訓練場も、地球へ帰る方法を探して何度も通った図書館も、窓の外に広がっているこの街並みも。
その全てがなくなってしまったら、自分はどう思うのだろう。
そんなことは考えたくもない。
そもそも、国境に兵が集まったというだけで、本当に戦争になると決まったわけでもないのだ。父上だってそう言っていたし、こちらから無闇に不安になる必要はない。
それでも、報告書を読む父上の横顔を思い出すと、胸の奥に生まれた小さなざわめきはどうしても消えてくれなかった。
「姫様」
エルミナの静かな声に呼ばれ、私は考え事から現実へ引き戻された。
「お部屋へ戻りましょう。そろそろ夕食のお時間でございます」
「……うん。そうだね」
私は小さく頷き、エルミナと並んで再び廊下を歩き始めた。
明日になれば、また剣術や魔術の鍛錬をして、王位継承者として必要なことを学ぶのだろう。父上から渡された書類にも目を通さなければならないし、時間ができれば図書館へ行って地球へ帰るための手がかりを探したい。
そんな、これまでと変わらない日常を思い浮かべる。
けれど、窓の外に広がる穏やかな王都の景色を眺めても、胸の奥に残った小さな不安だけは、いつまで経っても消えてくれなかった。