漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
父上の執務室で国境付近の軍事活動について聞かされてから、七日が経った。
その一週間で状況が好転したかと聞かれれば、残念ながら答えは否だった。北東の国境付近で確認されていた兵は日を追うごとに増え、偵察へ出た騎士団からも、レーヴェン王国側へ補給物資や天幕が次々と運び込まれているとの報告が上がっている。
もちろん、軍を集めているという事実だけで戦争が始まるわけではない。大規模な軍事演習だと言われてしまえば、それだけで相手国を責めることは難しいし、こちらが過剰に反応して先に兵を動かせば、それこそ侵攻の口実として利用される可能性もある。
だからこそ父上は国境警備を強化しながらも、こちらから挑発するような行動だけは厳しく禁じていた。
けれど、日に日に増えていく報告書の数を見れば、楽観できる状況でないことくらい私にも分かる。
そして今日、私は父上に命じられ、初めて国政会議へ正式な出席者として参加することになっていた。
「……緊張なさっておられますか?」
会議室へ向かう廊下を歩いていると、隣を歩くエルミナが静かに尋ねてきた。
「少しだけね」
「少し、でございますか?」
「……かなり」
誤魔化しても仕方がないので正直に言い直すと、エルミナが僅かに口元を緩める。
これまでだって父上に伴われ、会議や謁見の場へ同席したことは何度もあった。ただし、それはあくまで王位継承者として見学し、国政というものを学ぶための席でしかない。
今日からは立場が違う。
父上は先日、これから少しずつ実際の政務にも参加させると言っていた。つまり今日の私は、ただ黙って座り、大人たちの話を聞いていればいいわけではない。状況によっては意見を求められ、自分自身の考えを口にしなければならないのだろう。
「失敗したらどうしよう」
「姫様なら問題ございません」
「そう言い切れる根拠は?」
「十三年間、姫様を見て参りましたので」
「……それ、根拠になってる?」
「私にとっては十分でございます」
相変わらず、こちらが恥ずかしくなるようなことを平然と言う人である。
けれど、そのいつもと変わらない調子のおかげなのか、不思議と張り詰めていた肩から少しだけ力が抜けた。
「ありがとう、エルミナ」
「どういたしまして」
そんな短いやり取りを交わしているうちに、目的の会議室が見えてくる。
扉の前には二人の近衛騎士が立っており、私の姿を認めると揃って姿勢を正し、深く頭を下げた。
「姫殿下。陛下がお待ちでございます」
「分かりました」
私は扉の前で一度だけ深く息を吸い、緊張を押し込めるようにゆっくりと吐き出してから、その向こうへ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「来たか、セレフィーナ」
「お待たせいたしました、父上」
広い会議室には、すでに王国の重臣たちが集まっていた。
中央に置かれた長机の上にはルヴェルティアと周辺諸国を記した大きな地図が広げられ、その周囲にはいくつもの書簡や報告書が積まれている。上座には父上が座り、そのすぐ近くには宰相。さらに軍務を預かる者たちや、外交を担当する文官たちが並んでいた。
その中には、私にとって見慣れた人物の姿もある。
「姫殿下」
「ハインリヒ」
騎士団長であるハインリヒも、今日は訓練場で見せる気さくな表情ではなく、一人の軍人として険しい顔をしていた。
私は父上に示された席へ腰を下ろし、その背後へエルミナが静かに控える。私が席に着いたことで全員が揃ったらしく、父上は周囲を一度見渡してから会議を再開した。
「では、続けよう。まず北東方面の状況を」
「はっ」
ハインリヒが立ち上がり、机に広げられた地図の北東部を指し示した。
「七日前より確認されていたレーヴェン王国軍ですが、その後も兵数を増しております。正確な数は把握できておりませんが、現在確認できているだけでも数千。さらに後方にも部隊が存在する可能性が高いとのことです」
「数千……」
思わず、小さく声が漏れてしまった。
私がこれまで相手にしてきた魔物とは、あまりにも桁が違う。もちろん数千人全員が一度に我が国へ攻め込んでくると決まったわけではないが、それでも小規模な軍事演習と呼ぶには少々大きすぎる数字だった。
「国境線は?」
「まだ越えておりません。ただし、昨日より一部の偵察隊が国境近くまで接近しております。我が方の斥候と、互いの姿を確認できる距離まで近づいた例もございます」
「衝突は?」
「ございません。陛下のご命令通り、こちらから手を出すことは厳禁としております」
「それでよい」
父上は短く頷き、地図上の国境線へ視線を落とした。
「こちらから戦端を開く理由を与える必要はない。向こうが何を考えていようと、最初に国境を越えたのが我々だという形だけは避けねばならん」
「御意」
ハインリヒが一礼して着席すると、今度は宰相が手元の書類を開いた。
「問題は軍事面だけではございません。南方の交易路についてですが、昨日より一部の商隊が通行を拒否されております」
「……拒否?」
父上の眉が僅かに寄る。
「はい。先方は一時的な治安上の措置と説明しているようですが、再開時期については未定とのことです」
「随分と都合のよい時期に治安が悪化したものだな」
「まったくでございます」
宰相の答えは淡々としていたものの、その声には隠しきれない不快感が滲んでいた。
私も机に置かれた地図へ視線を落とす。
北東ではレーヴェン軍が兵を集め、その一方で南方では交易路が止まり始めている。もちろん、二つの出来事が偶然同じ時期に起きただけだと考えることもできなくはない。
けれど、胸の奥では別の可能性が浮かび始めていた。
「……示し合わせている可能性はありませんか?」
気づけば、私はそう口にしていた。
会議室にいる何人かの視線が一斉にこちらへ向けられ、ほんの一瞬だけ喉が詰まりそうになる。それでも、ここで黙って大人たちの話を聞くだけなら、正式に会議へ参加する意味がない。
「レーヴェンが北東に兵を集めている時期と、南方の交易路が止められた時期が近すぎます。偶然の可能性もあるとは思いますが、もし複数の国が何らかの形で連携しているのなら……」
「兵站と経済の両方から、我が国へ圧力を加えられる」
父上が私の言葉を引き継いだ。
「はい」
「私も同じことを考えている」
父上はそう答えたものの、その表情は少しも明るくならなかった。
「ただし、今のところ証拠はない。疑わしいという理由だけで他国を敵と決めつければ、それこそ相手の思う壺になりかねん」
「……そうですね」
私は素直に頷いた。
理屈では分かっている。けれど、複数の国から少しずつ包囲網を狭められているような感覚だけは、どうしても拭えなかった。
「実際、南方の国からは何か?」
父上の問いに、外交を担当する文官が書類へ目を落としながら答える。
「正式な抗議への返答はまだ届いておりません。先方からは、今回の通行制限は我が国だけを対象としたものではないとの説明が来ております」
「確認は?」
「他国の商隊にも一部制限は出ております。しかし、我が国の商隊に対する検査と待機時間だけが明らかに長いとの報告もございます」
「なるほど。言い逃れができる程度には公平に扱っている、というわけか」
父上が疲れたように息を吐いた。
やり方が嫌らしい。
露骨にルヴェルティアの商人だけを止めれば、こちらも強く抗議できる。けれど他国にも同じ措置を取ったうえで、我が国だけ少し厳しく扱う程度なら、それを明確な敵対行為だと断言するのは難しい。
考えてみれば、軍隊を国境へ置くことも同じだった。兵は集めているものの、まだ国境を越えてはいない。交易路も完全に封鎖されたわけではなく、婚姻についても、表向きはあくまで正式な申し入れという形を取っている。
一つひとつだけを見れば、戦争を始めるほどの理由にはならない。それなのに、その全てが同じ時期に、こちらへ向けられている。
私は改めて、外交というものの厄介さを思い知らされていた。
「陛下」
そこで宰相が一通の書簡を机へ置いた。
「そして、本日早朝。レーヴェン王国より新たな使節が到着しております」
「……予定より早いな」
「はい。当初は三日後の予定でございましたが、先方の都合により日程を前倒ししたとのことです」
「用件は?」
「姫殿下との婚姻について、改めて正式な協議を求めております」
その言葉を聞いた瞬間、それまで張り詰めていた室内の空気がさらに重くなったように感じられた。
私自身も無意識に背筋を伸ばす。
「条件は?」
「先ほど書面が提出されました」
宰相が父上へ書簡を差し出す。
父上は無言のまま受け取ると、ゆっくりと文章へ目を通していった。最初のうちは表情を変えなかったが、読み進めるにつれて眉間の皺が少しずつ深くなっていく。
「……なるほど。随分と分かりやすくなったものだ」
やがて父上は低い声でそう呟き、書簡を机へ置いた。
「何と書かれているのですか?」
私が尋ねると、父上は少しだけ考えたあと、その書簡をこちらへ滑らせた。
「読んでみろ」
「はい」
私は紙を受け取り、記されている内容を順番に追っていく。
前半部分については、これまで届いたものとほとんど変わらなかった。レーヴェン王国とルヴェルティア王国の長きにわたる友好を称え、両国がより強い関係を築くことの重要性を説き、私と王太子が婚姻することで両国が得られる利益を丁寧な言葉で並べている。
問題は、その先だった。
「……周辺情勢が不安定化する中、婚姻が成立した場合には、レーヴェン王国はルヴェルティア王国の安全と国境防衛について、最大限の支援を行う用意がある……?」
声に出して読み上げたところで、私は思わず言葉を止めた。
「これ……」
「ああ」
父上が短く答える。
直接的なことは何一つ書かれていない。
婚姻しなければ攻めるとも、今集めている兵を引かせないとも記されていない。ただ、国境に数千もの兵を集めている国が、その状態で「婚姻が成立すれば安全保障を支援する」と言っている。
さすがに、その意味が分からないほど鈍くはなかった。
「……脅しているんですか?」
「向こうに聞けば、否定するだろうな」
父上は皮肉げに苦笑した。
「我が国を心配し、親切にも力を貸そうとしているだけだと言うはずだ」
「その心配の原因の一つが、国境にいるレーヴェン軍なのに?」
「そこについては、以前から予定されていた軍事演習だと説明するだろう」
私は書簡へもう一度目を落とした。
そこに並んでいるのは丁寧で礼儀正しい言葉ばかりだ。それなのに、その裏に透けて見える意図を理解してしまうと、かえって腹立たしく思えてくる。
これなら正面から「結婚しなければ攻める」と言われた方が、まだ分かりやすいくらいだった。
「姫殿下」
宰相が私へ視線を向ける。
「どのようにお感じになられますか?」
「私、ですか?」
「はい。いずれにせよ、これは姫殿下ご自身の婚姻に関する問題でもございます」
急に意見を求められ、一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど父上は助け舟を出すことも、代わりに答えることもしない。おそらく本当に、私自身がどう考えるのかを聞こうとしているのだろう。
私はもう一度だけ書簡へ目を通し、それからゆっくりと口を開いた。
「……受け入れたくありません」
自分でも意外なくらい、その言葉はすんなりと出てきた。
「理由を聞こう」
父上が静かに促す。
「もし純粋な婚姻の申し入れなら、条件を比較しながら話し合うことはできると思います。でも、国境に軍を集めた状態で安全保障を条件に出されれば、私は対等な婚姻の申し入れだとは思えません」
頭の中で考えを整理しながら、慎重に言葉を続ける。
「今ここで受け入れれば、これから先も何か要求されるたびに、同じ方法を使われる可能性があります。そうなれば、それはもう対等な同盟ではなく……服従に近いものになってしまうと思います」
私がそう言い切ると、会議室が静かになった。
父上はしばらく何も言わずに私を見ていたが、やがて小さく頷く。
「私も同意見だ」
その言葉に胸の奥が少しだけ軽くなったものの、父上はすぐに表情を引き締めた。
「だが、問題はここからだ。拒絶すれば、それで終わりとは限らん」
「……はい」
「国王として、一人の娘の意思だけで国民を戦争へ巻き込むわけにはいかない。逆に、戦争を避けたいという理由だけで娘を差し出すこともできん。だから我々は、その間で可能な限り最善の道を探すしかない」
父上が机の上で両手を組むと、誰もすぐには答えなかった。
以前の私なら、ここで「自分一人が結婚すれば済むのなら」と考えていたかもしれない。
けれど、今は違う。
自分一人が我慢すれば、全て丸く収まるような問題ではないのだ。
ここで軍事的な圧力に屈して婚姻を受け入れれば、今後ルヴェルティアが独立した判断を下すたびに、同じような圧力を受ける可能性がある。だからといって拒絶すれば、その結果として本当に戦争が起こるかもしれない。
どちらを選んでも、何かを失う可能性がある。
国を背負うというのは、こういうことなのだろうか。
「使節には何と返答されるのですか?」
「まずは会う」
父上は迷う様子もなく即答した。
「こちらから交渉の道を閉ざすつもりはない。軍の配置についても説明を求める。婚姻については、従来通り慎重に検討すると伝える」
「それで向こうが納得しますか?」
「しないだろうな」
「……ですよね」
つい本音が漏れると、こんな状況だというのに父上が僅かに笑った。
「だが、外交とはそういうものだ。相手が納得しなくとも、話す余地が残っている間は話す」
その言葉を聞き、私は先日父上から教えられたことを思い出す。
戦争にならないよう外交を続け、それでも戦争が起きた時に備える。まさに今、父上はそれを実行しているのだ。
「ハインリヒ」
「はっ」
「北東方面へ増援を送る。ただし、国境線からは十分な距離を置かせろ。あくまで国内の防衛配置だと、向こうから見ても明確に分かる位置にな」
「承知いたしました」
「各都市の備蓄も再確認しろ。特に食料と魔導防壁用の触媒だ。買い占めによる混乱が起きぬよう、商人たちとも話をつけておけ」
「そちらは、すでに準備を進めております」
宰相が即座に答えた。
「よし。セレフィーナ」
「はい」
突然名前を呼ばれ、私は父上を見る。
「お前も今日の議事録と報告書には全て目を通しておけ。分からないことがあれば宰相に聞け」
「承知しました」
「これも政務だ。華やかな仕事ばかりではないぞ」
「最初から期待していません」
「それは何よりだ」
僅かな笑いが起こり、張り詰めていた会議室の空気がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、その穏やかな時間は長く続かなかった。
会議室の外から、激しく廊下を走る足音が聞こえてきたからだ。足音は急速に近づき、やがて扉の前で止まると、直後に乱暴と言ってもいいほど強く扉が叩かれた。
「陛下!」
先ほどまでとは比べものにならない、切迫した声だった。その一声だけで父上の表情が一瞬にして変わる。
「入れ!」
扉が勢いよく開き、一人の騎士が転がり込むように室内へ入ってきた。
鎧こそ着ているものの兜はなく、額には大粒の汗が浮かんでいる。騎士は父上の前まで進むと、その勢いのまま片膝をついた。
「北東砦より、緊急通信です!」
その一言だけで、それまで僅かに緩んでいた会議室の空気が一気に凍りついた。
「言え」
「先ほど、レーヴェン王国軍の一部が国境を越えました!」
誰かが息を呑む音が聞こえ、私も一瞬言葉を失った。
「規模は?」
「現在確認できているだけで、およそ千五百! さらに後続部隊も国境へ向けて進軍中とのことです!」
「砦への攻撃は?」
「すでに始まっております!」
その答えを聞いた瞬間、ハインリヒが椅子を押し退けるように勢いよく立ち上がった。
「宣戦布告は!?」
「ございません! 少なくとも王都には届いておりません!」
「向こうの旗は確認したのか?」
「はい! レーヴェン王国軍の軍旗を掲げております!」
そこまで聞いてしまえば、間違いである可能性はもうなかった。
軍事演習でもなければ、偶発的な国境侵犯でもない。レーヴェン王国軍が明確な軍旗を掲げたまま国境を越え、我が国の砦へ攻撃を開始している。
もう、別の言葉で言い換える余地など存在しなかった。
戦争だ。
その二文字が頭に浮かんだ瞬間、身体の奥が急速に冷えていく。
つい先ほどまで、私たちは戦争にならないために何ができるのかを話し合っていた。それなのに、こちらがまだ交渉の道を探している間に、国境ではすでに戦端が開かれてしまったのだ。
「北東砦の状況は?」
父上の声だけが、こんな時とは思えないほど落ち着いていた。
「現在は魔導防壁を展開し、籠城しております! ただ、敵軍には大型の攻城魔導具が確認されており、砦司令より早急な増援要請が届いております!」
「ハインリヒ」
「はっ!」
「先ほど命じた増援を即時出発させろ。予定していた兵数では足りん。王都駐留軍から追加で回せ」
「承知!」
「ただし、王都の守備を空にするな。敵が北東だけから来ると決まったわけではない」
「御意!」
ハインリヒは一礼するや否や、すぐに周囲の部下へ具体的な指示を飛ばし始める。
「宰相!」
「はい!」
「各地へ非常態勢を布告。国境近くの村には避難準備を命じろ。南方と西方にも警戒を出せ。交易路の件が偶然とは思えん」
「直ちに!」
「レーヴェンの使節は?」
「王都の迎賓館におります!」
「動きを監視しろ。ただし拘束はするな。今この時点で使節へ危害を加えれば、こちらが国際慣例を破ったことになる」
「承知いたしました」
父上から次々と命令が飛び、それを受けた者たちが即座に動き始める。
つい数秒前まで静かに話し合っていた会議室とは思えないほど、状況は一変していた。それでも、誰一人として混乱してはいない。
父上が国王として命令を下し、宰相がそれを行政へ落とし込み、ハインリヒが軍を動かしていく。これほど突然戦争が始まったというのに、三人とも迷うことなく、それぞれがやるべきことへ取り掛かっていた。
この人たちは、ずっとこの事態に備えていたのだ。
戦争にならないことを願い、そうならないために外交を続けながらも、それでも始まってしまった時のために準備だけは怠らなかった。
私は椅子に座ったまま、その光景をただ見つめていた。
何かしなければならないという思いだけが胸の中で強くなる。けれど、今の自分が具体的に何をすればいいのかは分からない。
剣なら振れるし、魔術も使える。魔物を相手にした実戦経験だって、この五年間でそれなりに積んできた。
けれど、今この場で必要とされているのは、どうやらそういう力ではなかった。
「……父上」
気づけば、自分でも意識しないまま声を出していた。
父上がこちらへ振り返る。
「何だ?」
「私にも何か――」
そう言いかけたところで、再び会議室の扉が叩かれた。今度は先ほど以上に激しい。
「陛下! 追加報告です!」
「入れ!」
別の文官が息を切らしながら駆け込んでくる。
「南方国境より報告! 南方街道を管理する隣国が、国境門を完全に封鎖いたしました!」
「完全封鎖だと?」
「はい! 商人だけではなく、一般の通行も全て停止しております! 加えて、国境近くで軍部隊の移動が確認されたとのことです!」
その報告によって、ただでさえ重かった室内の空気がさらに沈み込む。父上は目を閉じ、ほんの一瞬だけ考え込むような仕草を見せたあと、低い声で呟いた。
「……やはり、偶然ではなかったか」
その声が、妙にはっきりと耳に届いた。
北東からはレーヴェン王国軍が国境を越え、すでに砦への攻撃を開始している。そして南方では、交易路どころか国境そのものが封鎖され、その近くで軍の移動まで確認された。
まだ南から攻め込まれたわけではない。それでも、この状況が一つの国だけの問題ではないことくらい、私にだって分かる。
「複数の国が……示し合わせている?」
私が呟くと、父上はこちらへ視線を向けた。
「その可能性が高い」
「でも、どうして……」
「理由ならいくらでもございます」
答えたのは宰相だった。
「領土、交易路、資源、魔導技術。我が国が持つものを欲する者はおります。そして、レーヴェン王国が動くのであれば、その機会を利用したいと考える国が現れても不思議ではございません」
「そんな……」
「国家は必ずしも、同じ目的を持っていなければ手を結べないわけではないのです、姫殿下。互いに求めているものが違っていても、今この瞬間だけ利害が一致しているのであれば、それだけで協力する理由にはなります」
宰相の言葉が、ひどく冷たく感じられた。
レーヴェン王国が欲しているのは、私との婚姻と、その先にある王位継承権かもしれない。
別の国が求めているのは領土かもしれないし、また別の国は交易路や資源、あるいはルヴェルティアの魔導技術を狙っているのかもしれない。
目的は、それぞれ違う。
それでも、ルヴェルティアを弱らせれば自国の利益になるという一点だけで、手を結ぶことができてしまう。
「セレフィーナ」
父上が私の名前を呼んだ。
「はい」
「お前は自室へ戻れ」
「……え?」
「今日の会議はここまでだ。エルミナと共に部屋へ戻り、次の指示があるまで王宮から出るな」
思わず椅子から立ち上がる。
「待ってください。私にもできることがあります」
「分かっている」
「なら――」
「だからこそだ」
父上の声は厳しかったが、私に怒っているわけではないことも分かった。
「今のお前には、まだ状況が見えていない。それは私も同じだ。敵がどこまで動くつもりなのか、どの国が関わっているのか、そもそも王都が本当に安全なのかさえ、今はまだ分からん」
「でも、私は戦えます」
「ああ。それは知っている」
「なら!」
「剣を振れる者から順番に戦場へ送ればよいという話ではない!」
父上の強い声が会議室へ響き渡り、私は反射的に口を閉ざした。
「……すまん」
父上はすぐに声を落とすと、私を真っ直ぐに見つめる。
「だが、覚えておけ。お前が強いことは私も知っている。剣も魔術も、戦う力だけを比べれば私などより遥かに優れているだろう。それでも、お前はただの一兵士ではない」
そこで父上は一度言葉を切った。
「ルヴェルティアの王位継承者だ」
その言葉が、胸の奥へ重く落ちた。
「国が危機に陥った時、王族自ら最前線へ出れば勇敢だと褒められるかもしれん。だが、その結果としてお前が死ねばどうなる?」
「それは……」
「お前には、お前にしかできない役目がある」
数日前にも、父上から同じようなことを言われた。あの時は、王位継承者として政務を学び、自分にできることを増やせという意味だった。
けれど今は、同じ言葉がまるで違う重さを持っている。
「今は待て。必要になれば、必ずお前にも力を借りる」
「……分かりました」
完全に納得できたわけではない。それでも、この状況で父上の命令に逆らい、勝手に動くことが正しいとも思えなかった。
私は握り締めていた拳からゆっくりと力を抜き、静かに頭を下げる。
「失礼いたします」
「ああ」
父上は短く答えると、すぐに机の上の地図へ視線を戻した。その顔にはもう、娘へ向ける父親としての柔らかさは残っていない。
「エルミナ」
「はい」
「セレフィーナを頼む」
「命に代えましても」
「……それはやめて」
思わず横から口を挟むと、こんな時だというのにエルミナが僅かに目を細めた。
「善処いたします」
「善処じゃなくて……」
「セレフィーナ」
父上の声に振り返る。
「行け」
「……はい」
その表情を見れば、もうこれ以上何を言っても父上の考えが変わらないことは分かった。
私はエルミナと共に、会議室を後にした。
◇ ◇ ◇
会議室を出たあと、私はエルミナと並んで王宮の廊下を歩いていた。
ほんの一時間ほど前にも通ったはずの場所なのに、今は景色そのものがまるで違って見える。廊下を行き交う騎士たちの足取りは速く、文官たちは何枚もの書類を抱えて慌ただしく走っている。侍女や使用人たちにも非常時の指示が伝わり始めたらしく、王宮全体が急速に慌ただしさを増していた。
「……本当に、始まったんだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に、エルミナは少しだけ間を置いてから静かに頷いた。
「はい」
「戦争……なんだよね」
「レーヴェン王国軍が国境を越え、我が国の砦へ攻撃を加えたのであれば、残念ながら」
「そう……だよね」
そんなことは分かっている。理解はしているはずなのに、実感だけが追いついてこない。
つい今朝まで、私は昨日と同じように朝食を食べ、少しだけ剣を振り、初めて正式に国政会議へ参加することを緊張していた。
数日前にはハインリヒから初めて一本を取れたことを喜び、風呂の中では地球へ戻ったあと、一人で掃除や洗濯ができるのかなどという呑気な心配までしていたのだ。
それが今、この瞬間には国境で人と人が殺し合っている。
「姫様」
「……なに?」
「お部屋へ戻りましょう」
「うん」
私は小さく頷き、再び歩き始めた。
けれど、その途中でふと廊下の窓が目に入り、思わず足を緩める。窓の向こうに広がっているのは、いつもと変わらない王都の景色だった。
道には人々が行き交い、家々の屋根が連なり、商店の煙突からは夕食の準備なのか白い煙が立ち上っている。遠くから聞こえてくる鐘の音さえ、昨日までと何も変わらない。
おそらく王都に暮らす人々の多くは、まだ戦争が始まったことを知らないのだろう。
夕方になれば家族と食卓を囲み、明日の仕事について話し、いつもと同じように夜を迎えるつもりでいる人たちが大勢いる。
けれど、間もなく知らせは広がる。
レーヴェン王国軍が国境を越えたことも、北東の砦が攻撃を受けていることも、南方の国まで不穏な動きを見せていることも。
そうなれば、この穏やかな景色は明日にはもう同じではないのかもしれない。
「……エルミナ」
「はい」
「私、この国を守れるかな」
口にしてから、自分でも随分と大きなことを言ったと思った。エルミナはすぐには答えず、少しだけ私の横顔を見つめてから静かに問い返す。
「姫様お一人で、でございますか?」
「……うん」
「それは無理でございましょう」
あまりにも迷いのない即答だったので、思わず彼女の顔を見る。
「そこは少しくらい励ましてくれてもいいんじゃない?」
「できないことをできると申し上げる方が、姫様に対して不誠実でございますので」
「それはそうだけど……」
「ですが」
エルミナはそこで歩みを止めた。私もつられるように足を止め、彼女を見る。
「姫様お一人では無理でも、この国には陛下がおられます。宰相がおり、ハインリヒ様がおり、騎士たちがおり、魔術師たちがおり、多くの民がおります」
「…………」
「そして、その中には姫様もおられます」
エルミナはいつものように穏やかに微笑んだ。
「お一人で全てを背負う必要はございません」
「……そっか」
「はい」
その言葉を聞きながら、十三歳の時に初めて黒岩迷宮へ入った日のことを思い出す。
あの日、ハインリヒは私に、一人で強ければそれでいいわけではないと教えてくれた。自分だけが生き残るのではなく、仲間と共に戻って初めて探索は成功なのだと。
あれから五年が経ち、私も少しは強くなったつもりだった。
けれど、今度の相手は迷宮に棲む魔物ではない。
一つの国であり、その背後にはさらに別の国々がいるかもしれない。一人の剣士がどれほど強くなったところで、それだけでどうにかできる相手ではなかった。
「じゃあ、私にできることをする」
「それがよろしいかと」
私はエルミナへ小さく頷き、もう一度だけ窓の外へ視線を向けた。
夕暮れに染まり始めた王都は、まだ昨日までと変わらない穏やかな姿を保っている。けれど、その遥か遠く、この窓からは決して見ることのできない北東の国境では、すでに剣が振るわれ、魔術が飛び交い、人が傷ついている。
父上が何年も避けようとしてきたもの。私がつい先日まで、まだ本当に起きると決まったわけではないと思っていたもの。
それが、とうとう現実になってしまった。
ルヴェルティア王国とレーヴェン王国の間で、ついに戦端が開かれた。