漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
レーヴェン王国軍が国境を越えてから、四日が経った。
時間にしてしまえば、まだたった四日でしかない。それなのに王宮の中にいると、もう何週間も戦争が続いているような錯覚さえ覚えてしまうほど、以前とは何もかもが変わっていた。
開戦が公表された翌日から王都の空気も一変し、街では食料や生活必需品を求める人が増えたという。父上たちが事前に商人へ働きかけていたおかげで、今のところ大規模な買い占めや暴動までは起きていないらしいけれど、人々が戦争というものを現実の脅威として意識し始めたことだけは間違いない。
王宮でも、昼夜を問わず伝令が出入りし、廊下を歩けば必ずと言っていいほど書類を抱えた文官や武装した騎士とすれ違うようになった。父上の執務室から夜遅くまで灯りが消えないことも珍しくなく、ハインリヒに至っては開戦の日以来、ほとんど訓練場で姿を見ることがなくなっている。
私自身も剣術の鍛錬だけは欠かしていないものの、それ以外の時間のほとんどを、戦況報告や各地から届く書類へ目を通すことに使っていた。父上から王宮の外へ出ることを禁じられている以上、今の私にできることは状況を知り、必要になった時に動けるよう備えておくことくらいしかない。
「……また増えた」
自室の机へ新たに運び込まれた報告書の束を見て、思わず溜息が漏れる。今朝に入ってから、これでもう三束目だった。
一枚一枚はそれほど分厚いものではない。それでも各地から届く報告が積み重なれば、机の上を占領するには十分すぎる量になる。
「戦時下でございますから」
向かいで紅茶を用意していたエルミナが、いつもと変わらない声で答えた。
「分かってるけどさ……」
私は椅子へ深く腰掛け、読みかけだった報告書へもう一度視線を落とした。
そこに記されているのは、北東方面での戦況だった。
開戦初日に攻撃を受けた北東砦は、今も持ちこたえている。敵軍による最初の攻撃を魔導防壁で防ぎ、翌日に到着した増援と協力することで、少なくとも三度の大規模な攻勢を退けたらしい。
報告だけを読めば、ルヴェルティア軍はかなり善戦していると言っていい。実際、兵士一人ひとりの力量だけを比較するなら、こちらの方が優勢だという話だった。
「レーヴェンの兵士って、思っていたより強くないんだね」
「個々の兵を比較するのであれば、そうなのでございましょう」
エルミナは紅茶を私の前へ置きながら、静かに頷いた。
もちろん、強くないと言っても一般人とは比べものにならない。レーヴェン王国の正規兵も身体強化を使えるし、武器の扱いにも慣れている。国によって正式に訓練された兵士なのだから、そこらの盗賊などとは比べるべくもないだろう。
ただし、ルヴェルティアの正規兵や騎士と比較すると、魔力量も身体強化の水準も一段落ちる者が多いらしい。実際、小規模な部隊同士が正面からぶつかった戦闘では、こちらが明確に優勢だったという報告も届いている。
それだけを聞けば安心できそうなものだけれど、問題はそこではなかった。
「……でも、減らないんだよね」
私は次のページをめくり、そこに記されている敵軍の推定兵力へ目を落とした。
開戦前に国境付近で確認されていたレーヴェン軍は数千。その中から最初に国境を越えた部隊がおよそ千五百だったけれど、その後も後続部隊は次々と到着し続け、現在では北東方面だけで一万を超える兵力が展開している可能性が高いという。
対するルヴェルティア側も各地から北東方面へ増援を送り続けているものの、その全てを合わせたとしても数では大きく劣っていた。
「一度退けても、また来る。そっちを退けても、その後ろからさらに来る……か」
実際の戦場を見たわけではない。それでも報告書を読むだけで、こちらにとってひどく嫌な戦い方だということくらいは理解できる。
一人ひとりの兵士の強さで劣るのなら、数を揃えればいい。ルヴェルティア兵一人を倒すために二人、三人と兵をぶつけ、その何人かを失ったとしても、それを補えるだけの人口と国力がレーヴェンにはある。
もちろん、向こうだって人間を無限に使い潰せるわけではないだろう。けれど、小国であるルヴェルティアと大国であるレーヴェンでは、一人の兵士を失った時に受ける痛手も、その後に補充できる余力もまるで違う。
「個人では勝てても、国同士だとこうなるのか……」
そんなことを考えているうちに、黒岩迷宮で初めて灰牙狼の群れを相手にした時のことが、ふと頭を過った。
一体だけなら、それほど恐ろしい相手ではなかった。けれど、複数が互いに連携しながらこちらを囲み始めた途端、戦いの難しさは一変した。
もちろん、今回の戦争とは規模も何もかも違う。それでも、一人ひとりの強さだけでは決まらないという点では、どこか似ているような気がする。
「それだけではございません」
「え?」
「レーヴェン王国は、兵の質が我が国ほど高くないことを理解した上で軍を作っております」
エルミナは、私の机に置かれた別の報告書へ視線を向けた。
「魔導具の規格化、部隊単位での集団強化術式、大型攻城兵器。個々人の力量へ頼らずとも、一定の戦力を確保できる仕組みを長年整えてきた国でございます」
「……なるほど」
つまり、自分たちの弱点を理解していながら、それを放置しているわけではないのだ。
大国だから単純に数だけで押し潰すという話ではなく、最初から大量の兵を効率よく動かすことを前提として、軍隊そのものが作られている。
北東砦を攻撃している大型の攻城魔導具も、その一つなのだろう。高い魔力を持った術者一人へ頼るのではなく、魔石や術式を組み込んだ兵器を複数人で運用することで、一人の優秀な魔術師に匹敵するだけの火力を作り出す。
個人の力で劣るなら、技術と物量で補う。合理的と言えば、恐ろしいほど合理的な軍だった。
「……どうして、そこまで兵士の魔力が低いんだろう」
何気なく口にした疑問に、エルミナが僅かに目を細めた。
「その辺りについては、陛下から直接お聞きになった方がよろしいかと」
「父上から?」
「はい」
何やら含みのある答えだった。
私が首を傾げたところで、まるで話を聞いていたかのようなタイミングで部屋の扉が叩かれる。
「姫殿下。陛下がお呼びでございます」
外から聞こえてきた侍従の声に、私はエルミナと顔を見合わせた。
「……噂をすれば、かな」
「そのようでございますね」
私は読みかけの報告書を閉じると、椅子から立ち上がった。
◇ ◇ ◇
「来たか」
「はい、父上」
呼ばれて向かったのは、四日前にも使われた会議室だった。
ただし、今日は開戦の日ほど多くの人間が集まっているわけではない。父上と宰相、それからハインリヒを含む数人の軍務担当者だけが机を囲んでいた。
ハインリヒは今朝、前線へ向かう準備をしていると聞いている。腰には剣を佩き、普段よりも厚い軍装を纏っているところを見ると、この会議が終われば本当に王都を発つのだろう。
「座れ、セレフィーナ」
「はい」
私は父上に示された席へ腰を下ろし、その後ろへエルミナが静かに控えた。
「北東の戦況については?」
「今朝届いたものまでは確認しました。砦はまだ持ちこたえているものの、レーヴェン軍の規模は一万を超えている可能性があると」
「その通りだ」
父上はそう答えると、机の上に広げられた地図へ視線を落とした。
開戦の日と比べれば、地図上に置かれている駒は明らかに増えている。北東にはレーヴェン軍を示す赤い駒が密集し、それに対抗するように、ルヴェルティア側の青い駒が砦や街道沿いへ並べられていた。
「北東砦は想定以上によく耐えている」
ハインリヒが地図を指しながら説明を始める。
「現時点で砦そのものに致命的な損傷はありません。魔導防壁も機能しておりますし、守備隊の士気も高い。我が軍の損害に対し、敵軍にはその数倍の損害を与えているとの報告もあります」
「それなら……」
「だが、向こうにはその損害を許容できるだけの余力があります」
私が安堵しかけたところで、ハインリヒが静かに言葉を継いだ。
「こちらが百を失うことと、向こうが三百を失うことでは意味が違うのです」
「……人口の差?」
「ですな。我が国にとって百人の正規兵は決して軽い損害ではありません。しかしレーヴェンにとって三百は、痛手ではあっても軍全体が立ち行かなくなる数字ではない。さらに後方から新たな部隊が進軍していることも確認されています」
目の前の戦闘では勝っているのに、勝つたびにこちらも少しずつ削られていく。それを何度も繰り返していけば、最終的にはより多くの兵を用意できる国が有利になる。
もしかするとレーヴェンは、最初からそういう戦争をするつもりなのかもしれない。
「レーヴェン軍が物量を重視するようになった理由について、お前はどこまで知っている?」
父上からそう尋ねられ、私は少し考えてから答えた。
「人口が多く、国力もありますから、それを最大限利用するためだと思っていました。ただ……」
「ただ?」
「エルミナから、兵士一人ひとりの魔力量が我が国より低い傾向にあると聞きました」
父上はエルミナへ一度視線を向けたあと、静かに頷いた。
「間違いではない。レーヴェン王国では、ここ百年ほど国民の平均魔力量が緩やかに低下している」
「国民全体が?」
「ああ。原因については諸説あるが、明確な答えは出ていない。土地そのものの魔力環境が変化したという者もいれば、長年にわたる人口増加が何らかの影響を与えているという学者もいる。いずれにせよ、低下しているという事実そのものは向こうも認識しているはずだ」
初めて聞く話だった。
いや、正確には歴史の授業で似たような話を耳にした記憶はある。ただ、それを現在の軍事事情や、今まさに起きている戦争と結びつけて考えたことがなかったのだ。
「王族も同じなんですか?」
「むしろ、そちらの方を彼らは深刻に考えているだろう」
今度は宰相が答えた。
「レーヴェン王家は、かつて強大な魔術師を何人も輩出した血筋でございます。しかし、ここ数代の王族には、過去の記録に残るほどの魔力量を持つ者がほとんど生まれておりません」
「……だから」
その説明を聞いた瞬間、何となく嫌な予感がした。
父上と宰相が何を言おうとしているのか。これまで何度も聞かされてきた婚姻の話と、今聞いたレーヴェン王家の事情が、頭の中で一つに繋がっていく。
「私?」
「そうだ」
父上が静かに答えた。
「お前は生まれた時から、王国でも例を見ないほど大量の魔力を持っていた。それは十八歳となった今も変わらん」
むしろ、自分では以前より増えているようにさえ感じる。
単に魔力の扱いに慣れたからなのか、それとも成長に伴って器そのものが大きくなったのかは分からない。けれど、幼い頃と比べれば、今では遥かに大きな魔術を扱えるようになっていた。
「魔力量がどの程度子へ遺伝するのかについて、完全に解明されているわけではない。だが、強い魔力を持つ家系から、同じように強い魔力を持つ者が生まれやすい傾向があることは広く知られている」
「……つまり、レーヴェン王家は私の魔力を次の世代へ取り込みたい?」
「その可能性は非常に高いでしょう」
宰相が頷いた。
「姫殿下が王太子へ嫁がれ、その間に強い魔力を持つ御子が生まれれば、レーヴェン王家にとっては長年抱えている問題を改善できる可能性が生まれます」
そこまで説明されれば、さすがに理解できる。けれど、理解できればできるほど、あまり気持ちのいい話ではなかった。
「……でも、それだけで本当に戦争まで起こすものなんですか?」
私は地図へ視線を落としたまま、以前から引っ掛かっていた疑問を口にした。
自分で言うのも妙な話だけれど、私は一人の人間でしかない。
いくら王女で、魔力が多くて、珍しい黒髪を持っているとしても、そのためだけに何千、何万という人間を動かし、実際に死人まで出すことが釣り合っているようには思えなかった。
「……私は、そこまで価値があるんですか?」
「セレフィーナ」
父上はすぐには答えず、少しの沈黙を挟んでから静かに口を開いた。
「お前は、自分を一人の人間として見ればそう考えるのだろう」
「違うんですか?」
「国家が見ているものは、それだけではない」
父上はそう言うと、地図上のルヴェルティアへ指を置いた。
「お前は私の娘であり、同時にルヴェルティア王国唯一の王位継承者だ。お前とレーヴェン王太子との間に子が生まれれば、その子にはレーヴェン王家の血と同時に、ルヴェルティア王家の血も流れる」
「…………」
それ自体は、これまで何度も説明されてきたことだ。けれど今は、以前とは比べものにならないほど重い意味を持って聞こえる。
「お前を妃として迎えることができれば、レーヴェンは将来的に我が国の王位へ正統な繋がりを得る。軍を使わずとも、時間をかけてこの国を自国の勢力下へ置くことすらできるかもしれん」
「それに加えて、私の魔力まで欲しい……」
「そういうことだ」
父上は頷いた。
「レーヴェンにとって、お前との婚姻は一つの問題を解決するためだけのものではない。王家の魔力、ルヴェルティア王位への正統性、そして両国を結びつける政治的な理由。その全てを一度に得られる」
「……随分、お得な結婚ですね」
思わず皮肉が口から漏れる。
「向こうにとってはな」
父上も否定しなかった。
「だが、勘違いするな。今回の戦争が、お前一人を欲しがった結果だというわけでもない」
「え?」
「婚姻は、レーヴェンがルヴェルティアへ影響力を伸ばすために、最も損害の少ない手段だったというだけだ」
そこで宰相が説明を引き継いだ。
「姫殿下との婚姻が成立すれば、国土を焼く必要も、兵を失う必要もございません。交易網も鉱山も港も魔導技術も損なわず、そのまま影響下へ置ける可能性がございました」
「でも、それが上手くいかなかったから……」
「別の手段へ移ったのでしょう」
宰相の声は淡々としていた。
「我が国そのものに価値がなければ、姫殿下一人を得るためだけに、ここまでの兵を動かすことはまずありますまい」
その説明を聞いて、ようやく少しだけ納得できた。同時に、別の意味ではひどく嫌な納得でもある。
私一人のために戦争が始まったわけではない。それでも私は、この戦争が起きた理由の一つではある。
そしてレーヴェンにとって私は、一人の人間である以前に、王位と魔力と血統をまとめて手に入れることのできる存在として見られているのだ。
「……もし私が捕まったら、どうなるんですか?」
そこまで考えたところで新たな疑問が浮かび、私はそのまま口にした。
父上の表情が僅かに変わったのが分かった。
「姫様」
背後に立つエルミナの声も、いつもより低い。
もしかすると、聞かない方がよかったことなのかもしれない。けれど、今さら知らないままでいる方が怖かった。
「王太子との結婚を求めているなら、捕虜になっても、すぐ殺されることはないですよね?」
「おそらくな」
「それなら――」
「だから安全だ、とは思うな」
私の言葉を遮った父上の声が、それまでよりも強くなった。
「正式に王太子妃として迎えられる可能性はある。少なくともレーヴェンは、そのように主張するだろう。だが、我が国を武力で屈服させた後まで、お前の意思を尊重する保証などどこにもない」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……それって」
「お前には、ルヴェルティア王家の血がある。そして、他に例のないほど強い魔力がある」
父上の手が、机の上で強く握られる。
「最悪の場合、お前は一人の王女としてではなく、レーヴェン王家へ強い魔力を持つ血を残すための道具として扱われる」
言われた意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。けれど、その意味が頭の中で形になった瞬間、胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。
要するに、子供を産ませるための道具として扱われる可能性があるということだ。
前世では男だったからなのか、それとも単純に自分自身の問題として考えたことがなかったからなのか、今までそこまで具体的に想像したことはなかった。
婚姻の話を持ち出されても、政治的に面倒だとか、知らない男と結婚するのは嫌だとか、その程度のことしか考えていなかったのだ。
でも、戦争に負けて捕虜になれば話は違う。そこには、私自身が相手を選ぶ権利どころか、自分の身体について決める権利さえ残されない可能性がある。
「……冗談じゃない」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「そう思うのであれば、決して忘れるな」
父上は私から目を逸らすことなく、真っ直ぐに見つめてくる。
「この戦争で、お前はただ守られるべき王女なのではない。敵にとって、極めて価値の高い戦利品でもある」
戦利品という言葉が、ひどく嫌だった。
けれど、おそらく父上はわざとそう表現したのだろう。私に、この戦争で自分が置かれている立場を理解させるために。
「だから、今後何があろうと敵に捕まるな」
「……はい」
「戦えという意味ではない。逃げなければならない時は逃げろ。お前には、それを恥じる権利すらないと思え」
あまりにも強い言い方に、私は思わず父上を見つめ返した。
「私には、逃げるかどうかを選ぶ権利もないんですか?」
「ない」
父上は迷うことなく即答した。
「国王である私が命じる」
普段の父上なら、私自身の意思を尊重してくれる。婚姻についてさえ、私の知らないところで勝手に決めるつもりはないと言ってくれた。
そんな人が、今は逃げるかどうかについて私の意思を認めようとしない。それだけ、私が敵へ捕らえられるということが、この国にとって大きな危険なのだろう。
「お前が死ねば、ルヴェルティア王家は途絶える。お前が捕まれば、お前の血と王位継承権を敵に利用される」
父上は静かに言葉を続けた。
「だから、いずれかを選ばねばならぬ時が来たなら、生きて逃げろ。王家の血を残せ。そして、自由でいろ」
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
父上はまるで、この戦争でルヴェルティアが本当に負ける可能性まで考えているように聞こえる。そんな考えが頭を過った途端、胸の奥が急にざわつき始めた。
「……そんなに、状況は悪いんですか?」
私の問いに、誰もすぐには答えなかった。代わりにハインリヒが地図へ視線を落とし、やがて静かに口を開く。
「現時点で、負けると決まったわけではありません」
「でも?」
「楽観できる状況ではありませんな」
ハインリヒは地図上の北東を指差した。
「北東砦が健在なうちは、レーヴェン軍をそこで止められます。しかし南方の国境は現在閉鎖され、軍の集結も続いている。もしあちらまで参戦すれば、我が国は二方向から兵を受けることになります」
「西は?」
「今のところ大きな動きはありません。ただし、西方諸国が最後まで中立を保つ保証もない」
その言葉を聞きながら、私は改めて地図を見つめた。
ルヴェルティアは小さな国であり、人口も兵力も大国とは比較にならない。一方向からの攻撃だけなら、個々の兵士の質や魔導技術を活かして耐えることができるかもしれない。
けれど、二方向から同時に攻め込まれれば、限られた兵力を分けなければならなくなる。まして、それが三方向にまで増えれば、いくら一人ひとりが強くても国全体を守り切ることは難しくなるだろう。
そこまで考えた時、会議室の扉が強く叩かれた。
四日前、戦争が始まったことを知らせた時にも聞いた、あの日と同じような切迫した叩き方だった。その音を耳にしただけで、嫌な予感が胸の中へ広がっていく。
「入れ」
父上の許可と同時に扉が開き、一人の文官が慌ただしく室内へ駆け込んできた。
「陛下! 南方国境より緊急報告です!」
どうやら、嫌な予感は当たってしまったらしい。
「申せ」
「南方のヴァルディア王国軍が国境を越えました!」
その報告を聞いた瞬間、室内の空気が凍りついた。
「規模は?」
「先遣部隊だけでおよそ三千! 後方にも複数の部隊を確認! 国境守備隊とすでに交戦状態に入っております!」
開戦の日から可能性として予想されていた事態が、とうとう現実になってしまった。
「正式な宣戦布告は?」
「先ほど使者が到着しております!」
「内容は」
「我が国がレーヴェン王国との間に生じた混乱を周辺地域へ拡大させ、南方交易の安定を脅かしているとして、秩序回復のため軍事介入を行う、と」
「……よく言う」
宰相が吐き捨てるように呟いた。
南方の交易路を先に閉ざしたのは向こうだ。それなのに今度は、こちらが地域の安定を乱したことになっているらしい。
「父上……」
「ああ」
父上は静かに頷いた。
「これで二国だ」
レーヴェン王国が北東から攻め込み、今度はヴァルディア王国が南から国境を越えた。
ルヴェルティアは、とうとう二つの国から同時に攻撃を受けることになったのだ。
「ハインリヒ」
「はっ」
「予定通り北東へ向かえ。砦を可能な限り維持しろ」
「御意」
「ただし、全滅するまで守れとは言わん。砦を維持できぬと判断した時点で、兵を後方へ下げろ」
「……承知いたしました」
「兵を失えば、次の防衛線すら作れん。砦より人を優先しろ」
ハインリヒは一瞬だけ目を細めたあと、深く頭を下げた。
「必ずや」
「頼む」
父上とハインリヒが短く視線を交わす。そのやり取りを見ていると、これが訓練でも演習でもないことを改めて思い知らされ、胸の奥が苦しくなった。
「南方は?」
宰相の問いに、父上は再び地図へ視線を落とした。
「王都近衛の一部と中央守備隊を回す。西方の警戒も解くな。ヴァルディアだけだと決めつけるな」
「承知いたしました」
北東へ送り、南にも送り、それでも王都と西方の守備を残さなければならない。ただでさえ限られているルヴェルティアの兵力を、さらにいくつもの方面へ分散させる必要が生まれてしまった。
戦争が始まって、まだ四日しか経っていない。それなのに状況は、こちらが対応するより早い速度で悪化し続けている。
「セレフィーナ」
「はい」
父上が私を見る。
「先ほど言ったことを忘れるな」
「……捕まるな、ですよね」
「ああ」
「分かっています」
今度は、はっきりと頷いた。
戦いたいという気持ちはある。この国のために、自分が持っている力を使いたいとも思っている。
けれど、自分がただ強いだけの戦力ではなく、王位継承者として別の意味でも重要な存在なのだということは、ようやく理解できた。
「エルミナ」
「はい」
「今後は常にセレフィーナの傍にいろ」
「もちろんでございます」
「緊急時には、私の命令を待つ必要はない。セレフィーナの身に危険が迫ったと判断したなら、お前の判断で動け」
「承知いたしました」
「ちょっと待って」
思わず口を挟んだ。
「それ、私の意見は?」
「ございません」
答えたのはエルミナだった。
「……即答?」
「はい」
「父上まで頷かないでください」
こんな状況だというのに、父上の口元がほんの僅かに緩んだ。
「少しくらいは、いつもの調子でいてくれ。その方がこちらも安心する」
「……善処します」
「それでいい」
ほんの一瞬だけ、それまで張り詰めていた部屋の空気が柔らかくなった。
けれど、その時間も長くは続かなかった。
今度は扉が叩かれるより先に、廊下の向こうから誰かが激しく走ってくる足音が聞こえてきた。音は急速に近づき、次の瞬間には会議室の扉が勢いよく開かれる。
「陛下!」
「今度は何だ!」
さすがの父上の声にも、僅かな苛立ちが混じっていた。
駆け込んできた騎士は肩で息をしながら、緊張に震える声で報告する。
「北東砦より、最終通信!」
その言葉だけで、ハインリヒの表情が変わった。
「最終、だと?」
「本日夕刻より、敵軍がこれまでにない規模で総攻撃を開始! 大型攻城魔導具による集中攻撃によって外郭防壁が破壊され、敵兵が砦内部へ侵入したとのことです!」
「守備隊は!」
「砦司令は残存兵力を後方へ退避させると!」
全員が砦と運命を共にするわけではないと分かり、ほんの少しだけ胸を撫で下ろす。
けれど、報告はまだ終わっていなかった。
「退避完了後、砦の魔導炉を破壊。敵に設備を利用させぬよう処置したのち……北東砦を放棄するとのことです!」
その言葉を最後に、誰もすぐには口を開かなかった。
開戦から四日間、レーヴェン王国軍を食い止め続けていた場所であり、王都へ続く北東街道を守っていた最初の大きな防壁。その北東砦が、とうとう失われる。
「……分かった」
父上は目を閉じ、短い沈黙のあと静かに答えた。
「守備隊へ伝えろ。よく持ちこたえた。生きて戻れ、と」
「はっ!」
騎士が深く頭を下げ、再び部屋を飛び出していく。
残されたハインリヒは地図から目を離さないまま、低い声で呟いた。
「北東砦が落ちれば、次は第二防衛線ですな」
「ああ」
父上は地図上に置かれていた青い駒を一つ取り、北東砦から後方へ移した。
「ハインリヒ。先ほどの命令を変更する。北東砦へ向かう必要はない。退却してくる守備隊を収容し、そのまま第二防衛線の指揮を執れ」
「承知いたしました」
「砦を失った以上、次はそこが北東方面の要になる。ただし、先ほどと同じだ。維持できぬと判断したなら、兵を無駄に死なせるな」
「御意」
ハインリヒが深く頷くのを見届けてから、私は地図上に示された第二防衛線へ視線を向けた。
「距離は?」
私が尋ねると、ハインリヒはすぐには答えず、ほんの僅かに間を置いた。
その沈黙が、どうしようもなく嫌だった。
「敵の進軍速度にもよりますが……北東街道をそのまま進まれれば、早ければ数日で第二防衛線へ到達します」
「そこを突破されたら?」
今度は父上が答えた。
「王都まで、大きな要害は残っていない」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく私は、この戦争が持つ本当の意味を理解したような気がした。
戦争が始まったと聞いた時も怖かったし、南方の国が参戦したと知った時も不安になった。それでも心のどこかでは、戦争というものを遠い国境で起きている出来事として捉えていたのかもしれない。
けれど、もう違う。
敵軍は、本当にこちらへ向かって進んでいる。
私が生まれ育った王都へ。父上と母上がいるこの城へ。エルミナと何年も暮らしてきた部屋へ。ハインリヒと何度も剣を振った訓練場へ。そして、地球へ帰る方法を探し続けるために、数えきれないほど通った図書館へ。
少し前、窓の外を眺めながら「もしこの国がなくなったら」と想像したことがある。
あの時は、そんなものはただの不安に過ぎなかった。けれど今、その最悪の想像が現実になる可能性は、もう決して小さくなかった。
それでもまだ、王都の外から戦いの音は聞こえてこない。窓の向こうには、昨日までと変わらない街並みが広がっている。
けれど、その平穏へ向かって、レーヴェン王国軍は確実に近づき始めていた。