漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
北東砦が放棄されてから、さらに三日が経った。
その三日間で戦況が好転することはなく、むしろ時間が経つほどルヴェルティアの置かれた状況は悪化していた。
北東砦から撤退した兵たちはハインリヒと合流し、王都へ続く街道を守る第二防衛線へ布陣している。砦を失ったとはいえ、こちらはまだ地形の利を活かせる場所を選んで陣を構えることができており、レーヴェン王国軍の進撃も完全に自由になったわけではない。
問題は、もはや北東だけを見ていれば済む状況ではなくなったことだった。
南から侵入したヴァルディア王国軍は、国境守備隊を押し退けながら北上を続けている。こちらも中央から兵を送って食い止めているものの、本来なら北東へ回す予定だった予備兵力まで南へ割かなければならなくなり、結果としてどちらの戦線にも十分な増援を送れなくなっていた。
一方向から攻められていた時でさえ、ルヴェルティアの限られた兵力では苦しい戦いを強いられていた。それが今では、二つの方向から同時に侵攻してくる敵軍を受け止めなければならない。
さらに西方の国々が今後どう動くかも分からない以上、王都の守備まで空にすることはできなかった。
北東を守り、南を守り、西へ備え、さらに王都にも兵を残す。
限られた兵力をいくつもの場所へ分けなければならない以上、どこか一つへ十分な戦力を集中することなどできない。その結果が、今の苦しい戦況だった。
「……もう一度、言ってください」
父上の執務室で、私は聞き間違いではないことを確認するようにそう尋ねた。
父上は机の向こうから私を真っ直ぐに見つめると、先ほどとまったく同じ言葉を繰り返した。
「第二防衛線へ向かってもらう」
「私が?」
「ああ」
数日前まで、私は王宮の外へ出ることすら禁じられていた。
その命令を出した父上本人から、今度は突然前線へ向かえと言われたのだから、驚かない方が無理というものだ。
「……いいんですか?」
「良くはない」
返事は即座に返ってきた。
「できることなら、お前を戦場へ出したくはない。今でもその考えは変わっておらん」
「だったら、どうして?」
父上はすぐには答えず、机の上に広げられていた地図へ視線を落とした。
北東から王都へ伸びる街道。その途中に設けられた第二防衛線を示す駒の周囲には、レーヴェン軍を示す赤い駒がいくつも置かれている。
「昨日から敵軍の攻勢がさらに激しくなった。第二防衛線そのものはハインリヒが維持しているが、南方へ兵を取られたことで予備兵力が足りん」
「…………」
「このまま敵が兵を増やし続ければ、いずれ維持できなくなる」
父上の指が、地図の上をゆっくりと動いていく。
「だからといって、北東へさらに兵を送れば南が崩れる。南へ送れば北東が崩れる。王都の守備を削れば、別の国が動いた時に対応できん」
どこか一つへ兵を集中させれば、その分だけ別の場所に穴が開く。今のルヴェルティアには、その穴を後から埋められるだけの兵力そのものが残されていないのだ。
「そこで私、ですか」
「ああ」
父上は苦々しそうに頷いた。
「お前一人で、一個部隊に近い働きができることは分かっている」
「それなら最初から――」
「調子に乗るな」
「……はい」
言い終えるより先に釘を刺され、私は思わず背筋を正した。
「お前が強いことと、お前を気軽に戦場へ送ってよいことは別問題だ。まして、敵はお前を欲しがっている」
それについては、もう嫌というほど聞かされている。
私が捕まれば、単なる捕虜では済まない。王位継承権も、ルヴェルティア王家の血も、そして私自身が持つ魔力さえも、レーヴェンにとって利用価値の高いものになる。
しかも私は、それら全てを一人で持っている。
「だから条件を付ける」
「条件?」
「ハインリヒの指揮下から外れるな。独断で敵を追うな。戦線が崩れた場合は、何を置いてでも撤退しろ」
「何を置いてでも……」
「そしてエルミナから離れるな」
私の後ろに控えていたエルミナが、当然とばかりに一礼した。
「承知しております」
「私はまだ何も言ってないんだけど」
「姫様の御意見を伺う場面ではございませんので」
「最近それ多くない?」
思わずそう返したものの、エルミナの表情は少しも変わらない。それどころか父上まで何となく納得した顔をしているので、この場で私の味方をしてくれる人間はいないらしい。
「……分かりました」
諦めて頷いたあと、私は改めて父上を見た。
「でも、行くからには役に立ちます」
「ああ」
父上の表情から、僅かに残っていた冗談めいたものが消える。
「そのために行かせる」
短い言葉だったけれど、それでも自分が本当に一人の戦力として必要とされているのだということだけは十分に伝わってきた。
今までの私は、王位継承者として守られる側だった。剣も魔術も学び、迷宮へ入り、魔物を相手にした実戦経験だって積んできたけれど、これから向かう場所はそのどれとも違う。
相手は魔物ではない。
同じ言葉を話し、同じように考え、家族だっているかもしれない人間だ。
その事実を改めて意識した瞬間、胸の奥に言葉では上手く表せない重さが生まれた。
「セレフィーナ」
「はい」
「最後に一つだけ」
父上は椅子から立ち上がると、机を回り込んで私の前まで歩いてきた。
「勝とうとするな」
「……え?」
「お前一人で戦争に勝とうとするな、と言っている」
思いもよらなかった言葉に、私は何も答えられなかった。
「命じられた場所を守れ。味方を助けろ。撤退を命じられたなら戻ってこい。それで十分だ」
「でも……」
「一人で国を背負おうとするな」
以前、エルミナにも似たようなことを言われたことがある。
あの時は分かったつもりになっていた。
けれど、本当に戦場へ向かうことになった今、父上から同じ意味の言葉を告げられると、その重さは以前とはまるで違って感じられた。
「……はい」
「よし」
父上は小さく頷くと、それ以上何も言わなかった。
「行ってこい」
◇ ◇ ◇
王都を出てから半日ほど馬車を走らせた頃には、まだ戦場そのものが見えない距離にいるにもかかわらず、確実にそこへ近づいていることが分かるようになっていた。
最初に気づいたのは空だった。進行方向の先では黒い煙が何本も立ち上り、晴れていたはずの青空の一部を薄暗く染めている。
さらに距離が縮まるにつれ、今度は地面の奥まで震わせるような低い轟音が、一定の間隔を置いて聞こえてくるようになった。
「あれが……攻城魔導具?」
「おそらくは」
私の向かいに座るエルミナが答える。
王都を出た時から、彼女は完全な戦装束だった。普段の侍女服ではなく、身体の動きを妨げない軽装鎧に剣を佩き、その上から外套を羽織っている。
私も同じように、今日は王女としての衣装ではない。
動きやすさを優先した戦闘服の上から軽い魔導防具を身につけ、腰には剣を差している。長い黒髪だけはどうにもならないため、普段より厳重にまとめた上で外套の内側へ収めていた。
それでも、私のことを知っている人間が見れば、すぐに正体を見抜かれてしまうだろう。
「緊張なさっておられますか?」
「……してる」
今回は誤魔化さず、素直に認めた。
「魔物と戦うのとは違うから」
「はい」
「エルミナは?」
「しております」
「そう見えないんだけど」
「顔に出さないよう努めておりますので」
いつものような返答だった。
けれど、彼女の右手がいつでも剣へ伸ばせる位置に置かれていることに気づき、エルミナも普段とまったく同じというわけではないのだと思い直す。
やがて馬車は街道を外れ、軍が敷いた臨時の野営地へ入った。
そこでは負傷兵を運ぶ者や、武器を抱えて走る兵士、魔導具へ魔石を補充する技術者、さらには大鍋で大量の食事を作る者まで、王宮の訓練場とは比較にならないほど多くの人間が慌ただしく動き回っていた。
その中でも、私の目を最も引いたのは負傷者だった。
腕へ何重にも包帯を巻かれた者がいる。鎧に血を滲ませながら、誰かの肩を借りて歩いている者もいる。担架に乗せられて運ばれていく者の中には、こちらから顔を見ることすらできないほど身体を覆われた者までいた。
戦争なのだ。
報告書に書かれた「死傷者」という二文字ではなく、実際に傷つき、苦しんでいる人間を目の前で見たことで、ようやくその意味が現実のものとして迫ってくる。
「姫殿下!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、こちらへ歩いてきたのはハインリヒだった。
「ハインリヒ」
「本当に来られましたか」
「父上から聞いてなかったの?」
「聞いておりました。ですが、陛下が土壇場でお気持ちを変えられる可能性もあるかと思いましてな」
「私も少し思った」
そんな会話を交わしていても、ハインリヒの顔には訓練場で見せていた頃のような余裕はほとんど残っていなかった。
鎧の表面には細かな傷が増え、肩には乾いた泥が付着している。目の下にも僅かに疲労が見え、ここ数日まともに休めていないことが、その姿を見るだけで分かった。
「状況は?」
「よろしくありません」
遠慮のない返事だった。
「敵軍は昨日からさらに二千ほど増えました。こちらも砦から撤退した兵を再編し、第二防衛線を維持しておりますが……」
「数が足りない?」
「それもあります。しかし、何より休めません」
ハインリヒは苦い顔をしながら、前線の方向へ視線を向けた。
「向こうは部隊を入れ替えながら攻めてきます。第一陣が退けば第二陣、その後ろには第三陣。対する我々は、一度敵を退けても同じ兵が次の攻撃を受けねばならない」
体力も魔力も無限ではない。
たとえ一人ひとりの実力で上回っていたとしても、眠らず、休まず、何日も戦い続けられる人間などいるはずがなかった。
「姫殿下には、防衛線の東側を支えていただきます」
「東側?」
「丘陵地帯です。地形が狭く、一度に投入できる兵数が限られるため、比較的少数でも守りやすい。その代わり、突破されれば我が軍の側面へ回り込まれます」
重要な場所ではある。ただ、大軍をそのままぶつけられる場所ではない。おそらくハインリヒも、私の力を使いながら、できるだけ危険を小さくできる場所を選んだのだろう。
「分かりました」
「それと」
ハインリヒの表情が、僅かに険しくなる。
「敵は人間です」
「……分かってる」
「頭で分かっていることと、実際に剣を振ることは違います」
返す言葉がなかった。
「無理だと思われたなら、下がってください」
「でも――」
「恥ではありません」
ハインリヒは私の言葉を遮り、はっきりと言った。
「初めて人を斬る時に、何も感じない方が私は心配ですな。ただし、迷っている間にも敵は剣を振ります。それだけは忘れないでください」
「……うん」
私は一度深く息を吸い、静かに頷いた。
「分かった」
「では、参りましょう」
◇ ◇ ◇
実際に足を踏み入れた戦場は、私が想像していた以上に騒がしい場所だった。
剣と剣が激しくぶつかる金属音。兵士たちの怒号。どこかから上がる悲鳴。魔術が地面へ着弾するたびに響く轟音。
さらに魔導具が作動する低い振動までが絶え間なく重なり合い、少し離れた場所にいる人間の声すら聞き取りにくい。
「前列、盾を上げろ!」
「魔術来るぞ!」
「防壁展開!」
兵士たちの叫び声と同時に、私たちの前方へ薄い光の壁が展開された。
直後、空から飛来した炎の塊がそこへ激突する。耳を塞ぎたくなるような轟音と共に爆炎が広がったものの、魔導防壁は激しく揺らめきながらも、その攻撃を受け止めていた。
「……すご」
「姫様」
「分かってる」
思わず見入ってしまった私を、エルミナの声が現実へ引き戻す。ここへ見学に来たわけではない。
「敵、来ます!」
前方にいた兵士の叫び声に視線を向けると、残った煙の向こうからいくつもの人影が飛び出してきた。
レーヴェン兵だ。
最初に十人ほどが姿を現し、その後ろからさらに二十、三十と続いてくる。誰もが同じ形式の鎧を身につけ、長槍や剣を手にしてこちらへ迫っていた。
魔物ではない。
私と同じ、人間だ。
「構えろ!」
ルヴェルティア兵たちが一斉に武器を構えるのを見て、私も反射的に腰の剣へ手をかけた。
敵との距離が急速に縮まっていく。
三十メートル。
二十。
十。
そして、一人の兵士が私へ向かって剣を振り上げた。
「姫様!」
エルミナの声が届いた時には、すでに身体が動いていた。
足へ魔力を流して一気に距離を詰め、いつもの訓練と同じように相手の剣筋を見切る。そのまま刃の内側へ潜り込み、ほとんど反射だけで自分の剣を振り抜いた。
手に、今まで訓練では感じたことのない抵抗が伝わった。
「――っ」
刃が鎧の隙間へ入り込み、そのまま相手の身体を抜ける。
赤いものが視界へ飛び散った。敵兵の目が大きく見開かれ、何かを言おうとしたように口が動く。けれど、最後まで声にはならなかった。力を失った身体が、私の目の前でそのまま地面へ崩れ落ちる。
「…………」
流れているのは、血だった。
迷宮で何度も見た魔物のものとは違う。
迷宮に棲む魔物なら、死ねば身体ごと光へ変わって消えていく。多少血を浴びたところで、それさえ最後には跡形もなく消えてしまう。
でも、この人は消えない。
地面に倒れたまま、その身体の下へ赤い血だけが少しずつ広がっていく。
私が斬った。
今、自分の手で一人の人間を殺した。
「姫様!」
鋭い声が響いた直後、横から何かが迫ってくる気配を感じた。考えるより先に身体を反らすと、振り抜かれた剣が鼻先を掠めていく。
「っ!」
もう一人の敵兵が、私を殺そうと剣を振っていた。
その顔に浮かんでいるのは怒りだけではない。恐怖もある。私と同じ人間で、おそらく死ぬのは怖いのだ。それでも相手は止まらない。
そして私も、ここで止まれば斬られる。
「……っ!」
剣を振り上げ、今度は迷わず相手の武器を弾いた。返す刃で肩口を斬り、そのまま踏み込んでもう一撃を加える。敵兵が地面へ崩れ落ちると、その後ろからすぐに三人目が迫ってきた。
もう考えている暇はなかった。
次々と迫ってくる剣や槍、そして飛んでくる魔術を視界へ入った順に判断し、避け、弾き、斬る。
最初に人を斬った瞬間に感じた吐き気のようなものは、いつの間にか胸の奥へ押し込められていた。
消えたわけではない。
ただ、それに向き合っている時間が今の私にはなかった。
「右から来ます!」
「分かった!」
エルミナの声を頼りに身体を回転させ、突き出された槍を剣で外側へ逸らす。そのまま懐へ踏み込み、柄で相手の顎を打ち抜くと、倒れた兵士を飛び越えて次へ備える。
「姫殿下を前へ出しすぎるな!」
どこかで味方の騎士が叫んでいる。
けれど、実際に戦い始めてみたことで一つはっきりと分かった。レーヴェン兵は、やはり一人ひとりなら私より遥かに弱い。
少なくとも、ハインリヒとの訓練を何年も続けてきた私にとって、一対一で真正面から戦って脅威になるような相手はほとんどいなかった。
身体強化の出力も、動きの速さも、剣を振る速度も私の方が明らかに上回っている。それなら、わざわざ相手の得意な数の勝負に付き合う必要もない。
「下がって!」
味方へ声をかけながら左手を前へ向け、一気に魔力を集める。
「姫様、範囲を!」
「分かってる!」
味方の位置を素早く確認し、敵だけが密集している場所へ狙いを定めた。
「――吹き飛べ!」
解き放った風の魔術が地面を抉りながら突き進み、そのまま敵部隊の中央へ直撃する。
数十人の兵士がまとめて宙へ舞った。
鎧を身につけた人間が、まるで風に巻き上げられた木の葉のように吹き飛ばされ、何人かは地面へ激しく叩きつけられたまま動かなくなる。
その光景を見たレーヴェン兵たちの動きが、明らかに鈍った。
「……何だ、あれ」
「魔術師か!?」
「違う! 黒髪だ!」
「まさか……王女!?」
ざわめきが敵兵の間へ広がっていく。どうやら私の存在に気づかれたらしい。
「姫様!」
「うん、分かってる!」
ここで前へ出れば、今度は私自身が集中的に狙われる。父上から何度も言われたことを思い出し、敵を追おうとする身体を無理やり止めた。その代わりに、私を庇うように味方の兵士たちが前へ出る。
「姫殿下の前を空けるな!」
「押し返せ!」
「今だ!」
それまで防戦一方だったルヴェルティア兵たちが、一斉に反撃へ移った。
敵は私の魔術を警戒している。なら、その警戒そのものを利用すればいい。私は前へ出すぎないよう意識しながら、味方の頭越しに魔術を放ち続けた。
敵の足元を崩し、槍を構えた部隊へ横から風を叩きつける。こちらへ火球を放とうとした魔術師には先に魔力弾を撃ち込み、まとまって動こうとする部隊を見つければ、その中心へ攻撃を加えて散らしていく。
そうして私が敵の隊列を崩したところへ、ルヴェルティア兵たちが一気に踏み込んだ。
「行ける……!」
戦える。
私の力は、ちゃんと役に立っている。
「前進! 押し返せ!」
味方の指揮官が叫ぶと、とうとうレーヴェン兵が後退を始めた。
一人が下がれば、その後ろにいた兵もつられるように下がる。その動きはやがて部隊全体へ広がり、ついには丘陵地帯へ攻め込んできた敵兵たちがまとまって撤退を始めた。
「敵、退きます!」
「追撃はするな!」
反射的に敵を追おうとして一歩前へ出かけたものの、その命令を耳にして足を止める。
父上からも言われていた。
独断で敵を追うな、と。
荒くなっていた呼吸を整えながら周囲を見ると、味方の兵士たちから次々と歓声が上がっていた。
「押し返したぞ!」
「姫殿下だ!」
「王女殿下が来てくださった!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に僅かな熱が生まれた。
勝ったのだ。少なくとも、この場所では確かに敵を退けることができた。
「姫様」
「……うん」
エルミナに声をかけられ、私は何気なく足元へ視線を落とした。
そこには、先ほど私が最初に斬った兵士が倒れたままになっている。もう動いてはいなかった。ほんの少し前まで感じていた勝利の喜びが、一瞬で薄れていく。
「私……殺したんだよね」
「はい」
エルミナは誤魔化すことなく答えた。
「何人も」
「はい」
「…………」
手にしている剣へ目を落とすと、その刃にはまだ赤い血が付いていた。そこで初めて、自分の手が僅かに震えていることに気づく。
「気持ち悪い」
「はい」
「怖い」
「はい」
「でも……」
私はそこで、今度は周囲にいる味方の兵士たちへ視線を向けた。
私がここへ来る前から何度も敵の攻撃を受け、傷つきながら、それでもこの場所を守り続けていた人たちだ。
「私が斬らなかったら、こっちが死んでたんだよね」
「そうでございましょう」
「……そっか」
納得できたわけではない。
自分がしたことは正しかったのだと、胸を張って言えるわけでもなかった。ただ、今はそれ以上考えている余裕がないということだけは分かっていた。
「姫殿下!」
別の方向から呼びかけられ、振り返る。
見ると、伝令らしい騎士がこちらへ向かって走ってきていた。
「ハインリヒ団長より伝令です! 姫殿下は中央陣地へ!」
「何かあったの?」
「至急とのことです!」
「分かった」
私は剣についた血を振り払ってから鞘へ戻し、エルミナと共に中央陣地へ向かった。
◇ ◇ ◇
「よくやられましたな」
中央陣地へ戻ると、ハインリヒは私の姿を確認するなり、最初にそう言った。
「東側は完全に敵を押し返しております。あの損害であれば、しばらく大きな攻撃を仕掛けてくることはないでしょう」
「じゃあ……勝った?」
思わずそう尋ねると、ハインリヒは一瞬だけ黙った。その僅かな間だけで、何かがおかしいことが分かった。
「ここでは、ですな」
「……ここでは?」
ハインリヒは机の上に広げられている地図へ目を落とし、そこに置かれた駒を動かした。
「姫殿下がおられた東側では、敵軍を後退させました。中央も現在は維持しております」
「だったら――」
「西側部隊が先ほど後退しました」
続けようとした言葉が止まる。
「敵の別働隊が街道を外れ、山間部からこちらの側面へ回り込んだようです。西側の防衛部隊は包囲される前に撤退しております」
「でも、それならそっちへ私が――」
「さらに南方からも連絡が来ました」
ハインリヒは私の言葉を遮るように続けた。
「ヴァルディア王国軍が第三防衛地点を突破。南方軍は王都方面へ後退を開始しています」
「…………」
「加えて、北東の敵本隊はまだ後方に予備兵力を残しております。姫殿下が退けた部隊も、向こうの全戦力ではありません」
私は改めて地図へ視線を落とした。
自分たちのいる場所だけを見れば、確かに青い駒が赤い駒を押し返している。でも、少し視線をずらせばまったく違う光景が広がっていた。
西側では青い駒が後方へ移され、南ではそれ以上の距離を後退している。さらに、このまま第二防衛線に留まり続ければ、別働隊に横から回り込まれ、退路そのものを断たれる危険まで生まれていた。
「……でも」
自分でも何を言いたいのか分からないまま、声だけが漏れた。
「私たち、勝ったよね?」
「ああ」
ハインリヒは、それ自体を否定しなかった。
「この場所では勝ちました」
「なのに、下がるの?」
「下がります」
答えには、少しの迷いもなかった。
「どうして……」
「戦争だからですな」
ハインリヒは地図を見つめたまま、静かに答えた。
「一つの戦場で勝つことと、戦争そのものに勝つことは同じではありません」
その言葉が、胸の奥へ重く刺さった。
「姫殿下がここで敵を百人倒そうと、千人倒そうと、別の場所を突破されれば国は守れません。私がこの場で敵将を討ち取ったとしても、その間に南から王都へ進軍されれば意味がない」
「…………」
「もちろん、局地的な勝利にも意味はあります。それによって撤退する時間を稼げる。多くの味方を救える。敵の進撃を遅らせることもできる」
そう言いながら、ハインリヒは地図上に置かれている青い駒を、少しずつ王都側へ移していった。
「ですが、一人の強者だけで国中全ての戦場に立つことはできない」
私がどれだけ速く走れたとしても、北東と南へ同時にいることはできない。どれだけ魔力が多かったとしても、この国の全てを一度に守ることなどできない。
目の前にいる敵を倒し続けたとしても、その間に別の場所から侵攻されれば、国全体としては押し込まれていく。
「……一人で国は守れない」
「ですな」
父上にも、エルミナにも、これまで何度も言われてきたことだった。私はそのたびに、分かっているつもりになっていたのだと思う。
けれど、自分が実際に戦場へ立ち、目の前の敵を退け、それでもなお撤退しなければならなくなった今になって、ようやくその言葉の本当の意味を理解した気がした。
「第二防衛線を放棄します」
ハインリヒが静かに告げた。
「日が落ち次第、全軍を次の防衛地点まで後退させます」
「……分かりました」
悔しくないと言えば嘘になる。
敵を退けることはできた。味方の兵士たちも喜んでくれたし、自分の力が実際に誰かの役に立つことも分かった。
それでも、守ったはずのこの場所を自分たちの手で捨て、後ろへ下がらなければならない。目の前の戦いには勝ったのに、地図の上で前へ進んでいるのは敵の方だった。
「姫様」
エルミナが私の隣へ静かに立つ。
「大丈夫」
そう答えてみたものの、自分でも何が大丈夫なのかはよく分からなかった。
私はもう一度地図を見つめた。北東から、そして南から伸びている二つの敵軍の駒は、少しずつ、けれど確実に王都との距離を縮めている。
今日、私は初めて人を殺した。
そして初めて、本物の戦場で戦った。敵兵を斬り、魔術で吹き飛ばし、一つの戦場だけを見れば確かに勝つことができた。それでも戦争全体を見渡せば、ルヴェルティアは今も少しずつ負け続けている。
一人の人間がどれほど強かったとしても、その力だけで広大な戦場の全てを埋めることはできない。一つの場所を守ることができても、その間に別の場所を突破されれば、国そのものは後退せざるを得ない。
その当たり前の事実を、私はこの日初めて、自分自身の身体で思い知らされた。