漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
第二防衛線を放棄してからの数日間、私たちは何度もレーヴェン軍と交戦し、そのほとんどで敵を退けていた。
追撃してきた部隊を狭い街道へ誘い込んで叩き、撤退路を塞ごうと山間部へ回り込んだ別働隊を迎撃し、時にはこちらから反撃して大きな損害を与える。ハインリヒの指揮する部隊は強く、何日も戦い続けているとは思えないほど統率が取れていた。
そして、そんな彼らの中で戦う私自身も、初めて戦場へ立った時とは明らかに変わっていた。
人を斬ることに慣れた、とは思いたくない。今でも剣が肉を断つ感触は好きになれないし、戦いが終わったあとに動かなくなった敵兵を見れば、胸の奥には重いものが残る。
それでも戦っている最中に身体が止まることはなくなった。
敵の剣を受け流し、槍を弾き、魔術師が詠唱を始めれば先に潰す。味方の陣形が崩れかければ、考えるより先に身体がそこへ向かうようになっていた。
初陣の時より、ずっと上手く戦えている。
味方の被害も減らせている。
それなのに、戦闘が終わるたびに届く命令は決まっていた。
「……また撤退?」
「ええ」
戦いを終えたばかりの野営地で、広げられた地図を見ながら私は肩を落とした。
ハインリヒは地図の上に置かれていた駒を一つ取り上げ、また王都へ近い位置へ移していく。
「北東では本日も敵を押し返しました。しかし、その西側へ回り込んだ別働隊が防衛線の一部を突破しております。南でもヴァルディア軍が前進を続けており、この街道も明朝までには維持できなくなるでしょうな」
「今日の戦いでは勝ったよね?」
「勝ちました」
「昨日も勝った」
「ええ」
「その前も」
「そうですな」
私は地図を見つめたまま、思わず深く息を吐いた。
「……毎日勝ってるのに、毎日王都が近くなる」
口にしてみると、ひどく嫌な言葉だった。
もちろん王都そのものがこちらへ近づいているわけではない。戦うたびに私たちが後ろへ下がり、戦場の方が王都へ近づいているだけだ。
「戦争とは、そのようなものですな」
ハインリヒは淡々と答えた。
「我々が直接戦っている場所では、今も敵に対して優勢です。しかし、それだけで戦争全体が決まるわけではありません」
指先が地図上の北東から南へ動いていく。
「レーヴェンは正面から我々を押さえながら、別働隊を何度も迂回させています。その全てを塞げるほど、こちらには兵がいない。南ではヴァルディアも進んでおりますからな」
「向こうは損害が出ても、次の兵を出せる」
「その通りです」
こちらが一人を失う間に敵を三人倒したとしても、相手に四人目、五人目がいるなら、最後にはこちらが先に立てなくなる。
敵は疲れた部隊を交代させ、新しい兵を前へ送り込める。一方の私たちは、負傷者が一人出ればその分だけ翌日の戦力が減り、死者が出ればその穴をすぐに埋めることさえできない。
戦えば勝つ。
けれど勝つたびに、こちらも少しずつ削られていく。
「……私、まだもっと戦えるよ」
思わず口にすると、ハインリヒがこちらを見る。
「魔力も残ってる。普通の兵士なら、何人来たって――」
「姫殿下」
「分かってる」
何を言われるのかは、もう聞かなくても分かっていた。
「私一人じゃ、全部は守れない」
「ですな」
「でも、悔しい」
「それでよろしい」
「よくないよ」
「悔しいと思えるうちは、まだよろしいという意味です」
ハインリヒは地図から目を離し、私を真っ直ぐに見た。
「人を斬ることにも、国土を失うことにも何も感じなくなれば、その時はいよいよ危険ですからな」
たぶん、その両方を言っているのだと思う。
私が何も答えられずにいると、ハインリヒは地図上の次の地点へ駒を置いた。
「明日、さらに後退します」
「次は?」
「王都外縁部です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が沈んだ。
「……王都から、どのくらい?」
「半日もかかりません」
地図を見れば、そこまで追い込まれていることは分かっていた。それでも「王都外縁部」という言葉にされると、それまで地図の上にしかなかった危機が急に現実味を帯びる。
「王都の人たちは?」
「すでに避難を始めております。陛下の命令で、子供や老人を優先して西方へ移しておりますな」
「そんなところまで……」
「最悪の場合に備えて、です。必要になってから避難を始めたのでは遅い」
父上なら、そうするだろうと思った。
国を守る準備だけではなく、守れなかった時に民を逃がす準備もしている。
きっと私が認めたくなかっただけなのだ。
父上はずっと、この国が本当に負ける可能性まで考えていた。
◇ ◇ ◇
翌日の午後、撤退する部隊と共に丘を越えたところで、久しぶりに王都の姿が見えた。
「…………」
思わず馬の速度を落とした。
中央に王宮の塔がそびえ、その周囲には城下町が広がっている。さらにその外側を頑丈な石造りの城壁が取り囲み、遠目には昔から何度も見てきた王都とほとんど変わらないように見えた。
けれど、そこへ続く道を見れば、今が平時ではないことはすぐに分かる。
荷物を山のように積んだ馬車が私たちとは逆方向へ向かい、その脇を大勢の人々が歩いていた。背負えるだけの荷物を抱えた人、小さな子供の手を引く母親、家族に支えられながら歩く老人。
みんな、私が生まれ育った王都から逃げている。
「……本当に、ここまで来ちゃったんだ」
自分の声が、妙に遠く感じられた。
「姫様」
「うん。行こう」
ここで止まっていても何も変わらない。
私たちは避難する人々とすれ違いながら王都近郊へ向かい、最後の防衛陣地へ入った。
そこには、これまでのどの防衛線よりも多くの兵が集まっていた。
王都守備隊や近衛騎士、北東から撤退してきた部隊、南方から辛うじて帰還した兵士たち。各地で戦っていた戦力が、最後に残された場所へ少しずつ集結している。
人数だけを見れば大軍に思える。
けれど鎧には無数の傷が刻まれ、最初に出陣した時より明らかに人数を減らしている部隊も多い。腕や頭へ包帯を巻いたまま、武器を握っている者さえいた。
「姫殿下」
ハインリヒが馬を寄せてくる。
「今日から、ここが最終防衛線になります」
「……最終」
「ここを抜かれれば、次は王都城壁です」
私は城壁の向こうへ視線を向けた。
あそこには父上と母上がいる。
王宮で働いていた人たちもいる。
全ての市民が避難できたわけでもない。
「守ろう」
「はい?」
「ここを守ろう。今までみたいに、来た敵を押し返せばいい」
ハインリヒが少しだけ目を細める。
「簡単ではありませんぞ」
「知ってる」
「南からも敵が迫っております」
「それも知ってる」
「敵は、これまで以上の戦力を投入してくるでしょう」
「それでも」
腰の剣へ手を置き、もう一度王都を見た。
「ここから先には、行かせたくない」
ハインリヒは数秒だけ私を見つめ、それから僅かに口元を緩めた。
「では、そのために最善を尽くしましょう」
◇ ◇ ◇
王都外縁部で本格的な戦闘が始まったのは、その翌朝だった。
夜のうちから丘の向こうや街道の先には次々とレーヴェン軍の旗が現れ、夜明けとほとんど同時に角笛が鳴り響く。
「来るぞ!」
兵士の叫び声と共に敵軍が動き始めた。
街道だけではなく、左右へ大きく広がった歩兵部隊が防衛線全体へ向かって進み、その後方には魔術師部隊と大型の攻城魔導具まで並んでいる。
「防壁展開!」
こちらも即座に魔導防壁を起動し、前方へ光の壁を展開する。
直後、敵陣から放たれた炎や岩、刃のように圧縮された風が次々と防壁へ激突し、白い光と爆煙が視界を埋め尽くした。
「魔石を追加しろ!」
「第二列、前へ!」
激しく揺さぶられながらも防壁は持ちこたえている。
「姫殿下!」
「行く!」
呼びかけに応じて前へ出ると、私に合わせて防壁の一部が開いた。
その隙間から敵軍を見据え、集めた魔力を一気に解放する。
放たれた風が地面を抉りながら敵前列へ突き刺さり、数十人の兵士をまとめて宙へ吹き飛ばす。崩れた隊列へ向かって、今度はこちらの魔術師と弓兵が一斉に攻撃を開始した。
その中には、普通の人間なら引くことさえ難しそうな巨大な弓を扱う射手もいる。
身体強化によって強引に弦を引き絞り、さらに放つ矢そのものへ魔力を定着させる。太い矢が敵の盾を貫き、その後ろにいた兵士までまとめて弾き飛ばした。
別の射手が上空を飛んでいた小型飛竜を狙うと、放たれた矢は翼を貫き、そのまま敵陣の後方へ墜落させる。
「……すごい」
「姫殿下、余所見をなさらぬよう!」
「分かってる!」
見入っている場合ではない。
こちらが前列を崩しても、その後ろからすぐに次の部隊が押し寄せてくる。
私は前衛へ混じり、突破してきた敵兵の槍を避けながら剣を走らせた。続く敵の剣を受け流し、体勢を崩したところへ蹴りを入れ、そのさらに後ろで詠唱していた魔術師へ魔力弾を放つ。
初めて戦場へ立った時のような迷いは、もう戦っている最中には出てこない。
それが良いことなのかは分からない。
それでも今は、背後に王都があるという事実だけで、足を止めない理由としては十分だった。
「姫殿下! 中央が押されています!」
「行く!」
声のした方向へ駆けつけ、崩れかけていた戦線へ魔術を叩き込む。
敵兵をまとめて吹き飛ばし、空いた場所へ味方が前進して穴を埋める。そこを押し返した頃には、今度は少し離れた場所へ敵が食い込んでいた。
そこからは、ひたすら崩れかけた場所を渡り歩く戦いになった。
右が押されれば走り、中央が薄くなれば戻り、敵が密集すれば魔術を撃ち込む。私が入った場所では敵を押し返せても、その間に別の場所が薄くなり、そちらへ向かえばまた別の場所が危なくなる。
まるで、いくつも開き続ける穴を両手だけで塞いでいるようだった。
そして昼を過ぎた頃、一人の伝令が慌ただしくハインリヒの元へ駆け込んできた。
「団長!」
「どうした!」
「南方より報告! ヴァルディア軍が王都南側の外郭防衛線へ到達! 南門方面で交戦が始まりました!」
ハインリヒの表情が険しくなる。
「南門の兵力は?」
「近衛を含めておよそ千五百! 南方軍の残存兵も順次合流しております!」
「敵は?」
「確認できただけでも四千以上です!」
北東だけでも、これだけの敵を相手にしている。
そのうえ南側でも、別の軍が王都へ到達した。
「姫殿下」
「南へ行けって?」
「いいえ」
「え?」
「ここを離れてはなりません」
ハインリヒは迷うことなく答えた。
「でも南も危ないんでしょ? 私なら――」
「姫殿下が南へ向かえば、その間ここはどうなります?」
言葉に詰まった。
「今の姫殿下は、この戦線にとって重要な戦力です。だからこそ、思いつきで戦場を移動してはならない」
「南には南の指揮官がいる、ってこと?」
「その通りです」
正しいのは分かっている。
自分が行けば助けられるかもしれない場所があるのに、そこへ自由に向かうことさえできないのが苦しかった。
けれど、私をここへ留める理由はそれだけではない。
もし私が王女ではなく、ただ強いだけの兵士だったなら、危険な場所へ次々と送り込んだ方が効率は良かったのかもしれない。けれどレーヴェンが狙っているのはルヴェルティアという国だけではなく、私自身もまた重要な目的の一つに含まれている。
だから父上は、私をハインリヒの指揮下から外さず、エルミナにも常に傍を離れないよう命じた。
エルミナは私の専属護衛だから当然としても、ハインリヒは本来この戦線全体を預かる指揮官で、私一人を守るための護衛ではない。それでも私を前線へ出す以上、敵の精鋭に狙われた時に対応できる戦力を近くへ置く必要がある。
私一人を南へ送れば、敵から見れば王位継承者が護衛の薄い状態で移動してくるようなものだ。
強い人間を一か所へ集めているというより、敵にとって価値の高すぎる私を戦力として使うには、それだけの護衛が必要になる。
頭では分かっている。
それでも悔しさが消えるわけではなかった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
ハインリヒが短く頷いた。
そして、その直後だった。
前方から、それまでとは明らかに違う角笛の音が響いた。
「何?」
音に合わせるように、レーヴェン兵の動きが変わっていく。
前線へ出ていた部隊が少しずつ左右へ分かれ、中央へ一本の道を作るように陣形を変え始めた。
「……まさか」
ハインリヒが小さく呟く。
「知ってるの?」
「ええ」
敵陣の奥から、一騎の騎兵がゆっくりと前へ進み出てきた。
身につけているのは黒に近い深紅の鎧で、背中から長い外套を垂らしている。手には騎乗したまま扱うには異様なほど巨大な長剣が握られており、その男が姿を見せただけで、周囲の兵士たちの空気まで変わったように感じられた。
兵士たちは自分から道を空け、その人物を中心として陣形を整えていく。
つい先ほどまで騒がしかった戦場が、一瞬だけ静かになったようにさえ思えた。
「誰?」
私が尋ねると、ハインリヒはその男から目を離さないまま答えた。
「レーヴェン王国第一軍団長――ディートリヒ・バルツァー」
「第一軍団長……」
「向こうの軍でも、指折りの騎士ですな」
以前父上たちから聞いた話を思い出す。
レーヴェンでは長期的に国民の魔力量が低下し、一般兵の質ではルヴェルティアに劣る者も多い。
だからといって、強者まで存在しないわけではない。
国土も人口も遥かに大きい大国なのだから、その頂点に立つ人間が弱いはずもなかった。
「あの人、ハインリヒより強い?」
「さて」
ハインリヒは珍しく、ほんの少し楽しそうに口元を歪めた。
「それは剣を交えてみなければ分かりませんな」
「そういう返事すると思った」
ディートリヒが馬を止めた。
こちらとの距離はまだかなりある。
それでも、あの男がどこを見ているのかは分かった。
「……私を見てる?」
「おそらく」
考えてみれば当然だ。
膝近くまで届く黒髪を晒しながら、何日も戦場で大規模な魔術を撃っている。私が前線へ出ていることなど、とっくに敵へ知られているだろう。
ディートリヒが手にしていた長剣を高く掲げた。
それを合図に周囲の兵士たちが武器を構え、敵陣の奥から大声が響き渡る。
「ルヴェルティアの黒髪の王女を殺すな!」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「生きたまま確保せよ! 陛下よりの厳命である!」
「……やっぱり、それか」
分かっていたことだった。
父上から、自分が敵にとってどれほど価値のある存在なのかも聞かされている。
それでも敵兵の口から実際に「殺すな」「生きたまま捕らえろ」と命令されると、頭で理解していた時とはまるで違う重さがあった。
「姫様」
エルミナがすぐ隣へ立つ。
声はいつもと変わらない。
けれど、剣を握る手には普段以上の力が込められていた。
「大丈夫」
一度息を吐き、前を向く。
「捕まるつもりはないよ」
「それでこそでございます」
前方では、ディートリヒがゆっくりと馬から降りていた。
巨大な長剣を肩へ担ぎ、そのままこちらへ歩き始める。それに合わせて周囲の兵士たちも再び前進を開始し、両軍の距離が徐々に縮まっていった。
「姫殿下」
「うん」
ハインリヒが剣を抜く。
「私から離れぬように」
「分かった」
私も腰の剣を抜いた。
背後には王都がある。
父上と母上がいる王宮があり、十八年間暮らしてきた街がある。エルミナと過ごした部屋も、ハインリヒに何度も叩きのめされながら剣を学んだ訓練場も、地球へ帰る方法を求めて通い続けた図書館も、すべてあの城壁の向こうに残されている。
つい少し前まで、あそこは何があっても帰れば存在している場所だった。
けれど、今ここで退けば、本当に敵の手が届く。
レーヴェン軍の角笛が、もう一度戦場へ響き渡った。
こちらでも号令が飛び、兵士たちが一斉に武器を構える。再び展開された魔導防壁の向こうでは、敵の第一軍団長が巨大な剣を携えたまま、真っ直ぐこちらへ近づいてきていた。
私たちはこれまで何度も目の前の戦いに勝ちながら、それでも少しずつ後退し続けてきた。
そしてとうとう今、その背後にはもう、守るべき王都しか残されていなかった。