漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
レーヴェン王国第一軍団長、ディートリヒ・バルツァーが前線へ姿を現した直後、それまで一瞬だけ止まっていた戦場が再び動き始めた。
敵軍の角笛が鳴り響き、左右へ分かれていた兵士たちが一斉に前進する。その中央を悠然と歩いてくるディートリヒだけは、巨大な長剣を肩へ担いでいるというのに、その足取りに武器の重さを感じさせるところがなかった。
「来ますぞ」
「うん」
ハインリヒが一歩前へ出るのに合わせ、私も剣を握り直す。
敵が私を生け捕りにしようとしていることは、もう分かっている。だからといって、大人しく捕まるつもりなど当然なかった。むしろ捕まった先で自分がどう利用されるのかを知ってしまった以上、今まで以上に負けるわけにはいかない。
「姫様、右から来ます」
「分かった。そっちはお願い」
「はい」
エルミナが私から離れすぎない位置で右へ回り込み、こちらを囲もうとしていた敵兵の前へ出た。
その直後、ディートリヒの姿が掻き消える。
「――っ!」
速い。
そう思った時には、もう巨大な長剣が目の前まで迫っていた。
けれど、その刃が私へ届くより早く、甲高い金属音が戦場へ響き渡った。
「姫殿下に用があるのでしたら、まず私を退けていただきましょうか」
横から割り込んだハインリヒが、ディートリヒの一撃を受け止めていた。
「ルヴェルティアの騎士団長、ハインリヒか」
「名をご存じとは光栄ですな」
二人は軽口でも交わすような調子だったが、その足元では地面が僅かに沈み込んでいる。
互いに身体強化を施し、剣にも魔力を流しているのだろう。普通の兵士があの間へ入れば、一撃に巻き込まれただけで命を落としかねない。
「黒髪の王女だ!」
「殺すな! 囲め!」
「足を狙え!」
「簡単に言わないでよ!」
ハインリヒへ意識を向けている暇もなく、今度は私の周囲へ敵兵が殺到してきた。
殺傷ではなく捕縛が目的だからか、腕や脚を狙い、何人も同時に取りついて動きを止めようとしてくる。攻撃そのものは読みやすい反面、最初から数で押さえ込むつもりなのだから厄介だった。
「邪魔!」
足元へ魔力を流し、一気に風を解放する。
爆発するように広がった風が土煙を巻き上げ、周囲を囲みかけていた兵士たちをまとめて吹き飛ばした。
「姫様!」
「大丈夫!」
エルミナも近くで複数の敵を相手にしている。
そのさらに向こうでは、ハインリヒとディートリヒの剣が何度も激突していた。
巨大な剣を振るうディートリヒに対し、ハインリヒは正面から力比べをせず、軌道を逸らして懐へ入る。けれどディートリヒもその刃を紙一重で躱し、すぐさま横薙ぎの一撃を返していた。
どちらかが一方的に押しているようには見えない。
「……互角なんだ」
レーヴェンの一般兵がルヴェルティア兵より魔力や個人戦闘力で劣ることが多いからといって、大国の頂点に立つ者まで弱いはずはなかった。
「姫殿下! 前を!」
「分かってる!」
私はすぐに意識を目の前へ戻した。
ハインリヒにはハインリヒの戦いがある。
今の私には、私が守らなければならない場所があった。
◇ ◇ ◇
それからどれだけ戦ったのか、途中から時間の感覚がなくなっていた。
迫ってくる敵を倒し、崩れかけた陣形を支え、敵が密集すれば魔術で押し返す。少なくとも私たちが守っている中央部だけなら、まだ防衛線は維持できていた。
けれど、それは戦場全体が保っているという意味ではない。
「団長!」
一人の伝令が血相を変えて駆け込んでくる。
「東側の外縁防衛線が突破されました! 敵別働隊が王都城壁へ向かっています!」
「予備隊を回せ!」
「すでに出しています! ですが、数が足りません!」
ハインリヒの表情が険しくなったところへ、さらに別の伝令が飛び込んできた。
「南門方面より急報! ヴァルディア軍が外郭陣地を突破! 守備隊は王都城壁まで後退しております!」
「…………」
まただった。
私たちが戦っている場所では押し返せている。それでも、その間に別の場所が崩れていく。
「姫殿下」
「分かってる」
ハインリヒが何を言おうとしているのか、もう最後まで聞かなくても理解できた。
「撤退します」
「……うん」
今ここへ残れば、やがて東と南から回り込まれ、この部隊そのものが包囲される。
少し前の私なら、まだ戦えるのにと食い下がっていたかもしれない。けれど、ここ数日の戦いで嫌というほど思い知らされていた。
目の前で勝つことと、戦争に勝つことは違う。
「全軍、王都へ後退! 負傷者を優先しろ! 前列から順次下がれ!」
ハインリヒの号令で、ルヴェルティア軍が王都へ向けて動き始める。
「追え!」
当然ながら、敵もそれを黙って見送ってはくれなかった。
「王女を逃がすな!」
「エルミナ!」
「はい!」
私は最後尾近くまで残り、追撃してくる敵へ広範囲の風魔術を放った。
土と砂を巻き上げ、視界を奪い、敵の進軍を少しでも遅らせる。その間に一人でも多くの味方を城壁の内側へ戻す。
もう、できることはそれしかなかった。
◇ ◇ ◇
巨大な王都城門が閉ざされた時、ようやく私は自分の脚が震えていることに気づいた。
魔力はまだ残っている。
けれど、何日もまともに休まず戦い続けてきた身体は、とっくに限界へ近づいていた。
疲れているのは私だけではない。城壁の内側へ戻った兵士たちの多くが、その場へ座り込み、武器を握ったまま俯いている。中には立ったまま眠ってしまいそうな者までいた。
それでも休む時間は与えられなかった。
「城壁へ上がれ!」
「魔導防壁、最大出力!」
「予備魔石を全部運べ!」
あちこちから命令が飛び交う。
エルミナと共に城壁へ上がり、外を見た瞬間、私は言葉を失った。
「……こんなに」
王都の外を、敵軍が取り囲んでいる。
北東から追ってきたレーヴェン軍だけではない。南側にはヴァルディア軍の旗まで並び、二つの国の軍勢がとうとう同時に王都へ辿り着いていた。
「姫殿下」
振り返ると、ハインリヒがこちらへ歩いてきていた。鎧には先ほどまでなかった傷がいくつも増えている。
「怪我は?」
「かすり傷ですな」
「本当に?」
「姫殿下と似たようなものです」
明らかに左腕の鎧には深い傷が刻まれていたけれど、今は問い詰めている場合ではなかった。
「……ディートリヒは?」
「健在でしょうな。残念ながら」
「ハインリヒでも倒せなかった?」
「向こうも同じことを考えているかもしれませんぞ」
そんな軽口を交わしている間にも、城外では大型の攻城魔導具が次々と前へ運ばれていく。
「来ます!」
誰かが叫んだ直後、敵陣が眩しく光った。
巨大な光弾が空を走り、王都を覆う魔導防壁へ直撃する。凄まじい轟音と共に、私たちが立つ城壁まで大きく揺れた。
「防壁出力維持!」
「北東区画へ魔力を回せ!」
王都を守る防御設備は、これまでの砦とは規模が違う。
何世代にもわたって増築と改良を繰り返してきた、ルヴェルティア最大の魔導防壁だ。一発や二発で破壊されるようなものではなく、敵の砲撃は光の膜に阻まれ、城壁へ届く前に消えていく。
「……耐えられる?」
「しばらくは」
ハインリヒは敵陣を見つめたまま答えた。
「問題は、どちらが先に尽きるかですな」
その意味はすぐに分かった。
防壁が攻撃を受けるたび、魔石も術者の魔力も消費される。一方で敵は、壊された攻城魔導具を後ろのものと入れ替え、疲れた部隊を休ませながら攻撃を続けることができる。
こちらも城壁上の魔導砲や魔弓兵で反撃し、敵へ被害を与えていた。
それでも、一台壊せば次が出る。
一部隊を退けても、次の部隊が前へ出る。
ここまで何度も見てきた光景だった。
ただ一つ違うのは、今度はこちらに、もう下がる場所が残されていないことだった。
◇ ◇ ◇
敵の砲撃は、夜になっても止まらなかった。
夜通し断続的に防壁が揺れ、翌朝になっても敵軍は部隊を交代させながら攻撃を続けている。一方のこちらは、ほとんど同じ人間が城壁へ立ち続けていた。
僅かな時間だけ眠り、起こされればまた持ち場へ戻る。
私も何度目か分からない攻撃を防いだあと、城壁の上で膝へ手をついた。
「はぁ……はぁ……」
「姫様」
「大丈夫。まだ動ける」
エルミナも疲れているはずなのに、私の傍から離れようとはしない。
その時だった。
「北東防壁、出力低下!」
「予備魔石を!」
「ありません!」
思わず顔を上げた。
「……ない?」
「備蓄庫も残り僅かです!」
嫌な予感が胸の奥へ広がっていく。
ルヴェルティアは長期戦に備え、大量の魔石を蓄えていたはずだった。
けれど砦からここへ至るまで、私たちはそれを使い続けてきた。
どれほど多く蓄えても、消費し続ければいつかは尽きる。
「南側防壁、被弾!」
「北東も限界です!」
王都全体を覆う光が大きく揺らぐ。
残った魔力を北東へ回すのか、南へ回すのか。
最後まで同じだった。
足りないものを、足りないまま分けなければならない。
「ハインリヒ!」
「南へ回せ!」
「ですが北東が!」
「こちらは騎士団で補います! 南門を抜かれれば市街へ直結する!」
魔力の配分が切り替わり、南側の光が少しだけ強くなった。
代わりに、私たちがいる北東側の防壁が目に見えて薄くなる。
「来るぞ!」
敵もその変化を見逃さなかった。
前方にいたディートリヒが巨大な剣を振り下ろす。
それを合図に、複数の攻城魔導具が同時に光を放った。
「伏せろ!」
ハインリヒの叫びとほとんど同時に、視界が真っ白に染まった。
凄まじい衝撃に身体が浮き、そのまま背中から城壁へ叩きつけられる。
「っ……!」
耳鳴りの中で顔を上げる。
先ほどまで目の前にあった光の防壁が、消えていた。
「北東区画、防壁消失!」
「次が来るぞ!」
今度は、受け止めるものがない。
巨大な光弾が城壁へ直接激突し、分厚い石材が爆発するように弾け飛んだ。
「敵が来る!」
崩れた箇所へ向け、待ち構えていたレーヴェン兵が一斉に殺到する。
「止めろ!」
私は痛む身体を無理やり起こし、崩れた城壁へ走った。
登ってきた兵士を魔術で吹き飛ばし、続く者へ剣を振るう。エルミナも隣へ入り、騎士たちと共に穴を塞いでいく。
まだ守れる。
少なくとも、ここだけなら――。
「南門突破!」
遠くから響いた叫びに、身体が固まった。
「ヴァルディア軍、市街へ侵入!」
「…………」
南も破られた。
一瞬だけ、では今ここを守る意味はあるのかという考えが頭をよぎる。
「姫殿下!」
ハインリヒの声で我に返った。
「まだです!」
そうだった。
一分でも長く敵を止めれば、その分だけ逃げられる人が増える。
なら、まだ剣を置く理由はなかった。
◇ ◇ ◇
王都の防衛線がいつ完全に崩れたのか、後になっても私には分からなかった。
気づいた時には、もう城壁の外ではなく、見慣れた街の中で戦っていた。
何度も歩いた石畳を敵兵が走り、馴染みのある店の看板が砕け、家々から黒煙が立ち上っている。その横を逃げ遅れた市民が西門へ向かって走り、騎士たちが敵兵を食い止めるため逆方向へ駆け抜けていく。
昨日まで普通に人が暮らしていた場所だった。
市場には買い物客がいて、子供たちが道を走り回り、夕方になれば家々から料理の匂いが漂っていた。
その同じ道が、今は戦場になっている。
「王女だ!」
「捕らえろ!」
「邪魔!」
角を曲がってきた敵兵を魔術でまとめて吹き飛ばす。
もはや何人倒したのかなど覚えていない。それでも敵は次々と王都へ入り続けていた。
「姫殿下!」
後方から一頭の馬が駆けてきた。
乗っていた近衛騎士が私たちの前で飛び降り、息を切らしながら声を上げる。
「陛下より緊急の召喚です! ただちに王宮へ!」
「父上が?」
「はい!」
「でも、ここは――」
「姫殿下」
ハインリヒが私を見る。
「参りましょう」
「……分かった」
まだ戦い続けている兵士たちを一度だけ振り返り、私は王宮へ向かって走り出した。
◇ ◇ ◇
王宮の中も、すでに私が知っている静かな場所ではなくなっていた。
廊下を兵士や使用人たちが慌ただしく行き交い、重要な書類や物資が次々と運び出されている。窓の外には黒煙が立ち上り、遠くから絶えず戦闘音が響いていた。
私たちは謁見の間ではなく、父上が臨時の指揮所として使っている広間へ急いだ。
「父上!」
「来たか」
父上は大きな地図の前に立っていた。
その傍には母上と宰相、そして僅かな近衛騎士たちがいる。
「王都南側はすでに突破された。北東も城壁の一部を失った」
私が口を開くより先に、父上が現状を告げた。
「西門からの避難は?」
「続いております。しかし、敵別働隊が西へ回り込みつつあり、長くは保ちません」
「最後まで市民の退路を確保しろ」
「御意」
宰相へ指示を出す父上を見ながら、私は剣を握り直した。
「父上、私も戻る」
「何?」
「まだ戦える。南でも北でも敵が入ってきてるなら、私が行けば――」
「駄目だ」
「でも!」
「セレフィーナ」
父上の声が低くなる。
「お前は王都を出ろ」
「…………え?」
言われた意味を理解するまで、一瞬だけ時間がかかった。
「何言ってるの?」
「聞こえなかったか。王都を出ろ」
「嫌だ」
考えるより先に答えていた。
「まだ戦える」
「知っている」
「魔力だって残ってる。私が行けば、まだ――」
「戦えるかどうかの話をしているのではない!」
父上の声が広間へ響いた。
「この戦は、もう勝てん」
「…………」
誰も、その言葉を否定しなかった。
母上も、宰相も、ハインリヒも。
分かっていたはずだった。
南も北東も突破され、敵兵はすでに王都へ入り込んでいる。
それでも父上の口から「勝てない」とはっきり言われるまでは、心のどこかで認めたくなかった。
「西門も間もなく塞がれる。王宮まで敵が来るのも時間の問題だ」
「だったら、一緒に逃げればいいじゃん」
父上が黙った。
「父上も、母上も。一緒に行こう」
「それはできん」
「なんで!」
「王が民より先に逃げるわけにはいかん」
「そんなの今はどうでも――」
「どうでもよくはない」
父上は静かに、けれど揺るがない声で言った。
「私はルヴェルティア国王だ。最後まで、この国の王でなければならん」
「……母上も?」
「私は陛下と共におります」
「なんで……」
声が震える。
母上はゆっくりと私のところまで歩いてくると、血と土で汚れた私の頬へ手を添えた。
「立派になりましたね、セレフィーナ」
「今、そんなこと……」
「言わせてください」
母上の指が、頬についた汚れをそっと拭う。
「あなたが剣を学びたいと言った時も、迷宮へ行きたいと言った時も、私は心配してばかりでした」
「…………」
「それでも、あなたは誰かを守れる人になった」
「守れてないよ」
気づけば、言葉が零れていた。
「何も守れてない。ずっと戦ってたのに、ここまで来られて……王都まで入られて……」
「それでもです」
母上は首を横へ振った。
「あなたがいたから助かった人も、大勢いるのでしょう?」
「…………」
「なら、それで十分です」
「十分じゃないよ……」
母上の後ろから、父上がこちらへ歩いてくる。
「セレフィーナ」
「嫌だ」
「まだ何も言っておらん」
「どうせ逃げろって言うんでしょ」
「そうだ」
「嫌」
父上は困ったように、ほんの僅かに笑った。
「昔から妙なところで頑固だったな」
「父上に似たんじゃない?」
「それは否定できんな」
こんな時なのに、ほんの一瞬だけ、いつもの父上と話しているような気がした。
けれど、その表情はすぐに国王のものへ戻る。
「以前、お前に言ったはずだ」
その一言だけで、胸の奥が詰まった。
「いずれかを選ばねばならぬ時が来たなら、生きて逃げろ」
「…………」
「王家の血を残せ。そして、自由でいろ」
「でも……」
「お前を敵への褒美として渡すつもりはない」
父上の声には、少しの迷いもなかった。
「この国を奪われた上に、お前まで奪われてたまるか」
そう言うと、父上は姿勢を正した。
「これは父親としての頼みではない」
そして国王として、私を見る。
「ルヴェルティア国王として、王位継承者セレフィーナ・ルヴェルティアへ命じる」
「…………」
「生き延びろ」
逃げろ、ではなかった。
生き延びろ。
その言葉だけが、重く胸へ突き刺さった。
「ハインリヒ」
「はっ」
「エルミナ」
「はい」
二人が父上の前へ進み出る。
「セレフィーナを連れて、王都を脱出せよ」
「御意」
「承知いたしました」
「待って!」
二人とも、一切の迷いを見せなかった。
「ハインリヒまで?」
「命令ですので」
「騎士団はどうするの!」
「残る者が指揮を引き継ぎます」
「でも――」
「セレフィーナ!」
父上に強く呼ばれ、言葉が止まった。
「行け」
足が動かなかった。
そんな私を、母上が最後に一度だけ強く抱きしめる。
「生きなさい」
「母上……」
抱擁が解け、温もりが離れていく。
私は父上を見る。
「父上」
「ああ」
「……絶対、生きてて」
父上は約束してくれなかった。
ただ最後に一度だけ、静かに頷く。
「行け」
今度こそ、私は二人へ背を向けた。
◇ ◇ ◇
王宮地下へ続く階段を、私たちは急いで駆け下りていた。
「こんな道、あったんだ」
「王家と、ごく一部の者しか知らない脱出路です」
先頭を進むハインリヒが答える。
「だったら父上たちも使えば――」
「姫様」
エルミナに静かに呼ばれ、私はそれ以上続けられなかった。
「……分かってる」
何度言っても、父上たちの答えは変わらない。
分かっている。
それでも、納得できるはずがなかった。
長い階段を下り、薄暗い地下通路へ入ろうとした時、上の方から微かな金属音が響いた。
「止まれ」
ハインリヒが即座に足を止める。
「何?」
耳を澄ます。
剣を交えるような音と複数人の足音が、少しずつ近づいてくる。
「追いつかれた?」
「そのようですな」
「でも、こんな場所まで……」
「姫殿下が王宮へ退いたことまでは知られているでしょう。探せば、いずれ見つかります」
ハインリヒが剣を抜く。
「急ぎますぞ」
再び走り出した直後、背後から大きな破砕音が響いた。
地下へ続く扉が壊されたらしい。
やがて、聞き覚えのある低い声が通路の向こうから届いた。
「見つけたぞ」
振り返る。
何人ものレーヴェン兵を従え、深紅の鎧を纏った男が立っていた。
「ディートリヒ……」
「随分と探したぞ、黒髪の王女」
男が巨大な剣を構える。
「大人しく来てもらおう。我が王は、貴殿を丁重に扱うよう命じている」
「信用すると思う?」
「思わんな」
ディートリヒは僅かに笑った。
「だから力ずくで連れて帰る」
「させません」
エルミナが私の前へ出ようとする。
けれど、その肩をハインリヒが掴んだ。
「エルミナ殿」
「……団長?」
「姫殿下を」
それだけで分かってしまった。
「嫌」
考えるより先に拒絶していた。
「駄目です」
「姫殿下」
「三人で行く!」
「それでは追いつかれます」
「倒してから行けばいい!」
ハインリヒは小さく息を吐いた。
「時間がありませんな」
「だったら私も戦う!」
「姫殿下」
いつもより強い声に、口を閉じる。
「最後まで話をお聞きください」
「…………」
ハインリヒはディートリヒから目を離さない。
「あれを止められる者が、他におりますまい」
「私だって戦える」
「知っております」
「だったら!」
「だからこそ、生きていただかねば困ります」
何も言えなくなった。
「陛下より、姫殿下をお守りするよう命を受けました」
「じゃあ、一緒に――」
「これも護衛です」
ハインリヒが剣を構える。
「敵を姫殿下のところまで行かせない。それも立派な護衛でしょう?」
「そんな言い方……」
「エルミナ殿」
「……はい」
「姫殿下を頼みます」
エルミナは数秒黙ったあと、ハインリヒへ深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「エルミナ!」
次の瞬間、腕を強く掴まれる。
「行きます、姫様」
「嫌! 待って!」
「姫様」
「ハインリヒ!」
彼は最後まで振り返らなかった。
ただ、いつもの訓練場で私へ話しかける時とほとんど変わらない声で言った。
「姫殿下」
「…………」
「最後の課題ですな」
「何……?」
「生きてください」
胸の奥が痛んだ。
「それだけです」
ディートリヒが巨大な剣を手に歩いてくる。
それを迎え撃つように、ハインリヒも前へ出た。
「待って!」
エルミナに引かれながら、それでも必死に手を伸ばす。
「ハインリヒ!」
「行きます!」
「嫌だ!」
強引に地下通路の奥へ引き込まれる。
最後に見えたのは、敵将の前へ一人で立つハインリヒの背中だった。
そして、その姿が視界から消れた直後。
地下全体を震わせるような轟音が響いた。
二人の剣が、再び激突した音だった。
◇ ◇ ◇
私は走りながら、何度も後ろを振り返った。
けれど一度通路の奥へ入ってしまえば、もうハインリヒの姿は見えない。
「戻ろう」
「なりません」
「ハインリヒ一人だよ!」
「承知しています」
「だったら!」
「陛下のご命令です」
「そんなの……!」
声が震える。
「そんなの、ずるいよ」
父上も、母上も、ハインリヒも。
みんな勝手にあそこへ残って、私にだけ生きろと言う。
「姫様」
「何」
「私も同じ命令を受けています」
エルミナは走る速度を落とさないまま答えた。
「姫様を生きて王都の外へお連れする。それが今の私の務めです」
「……もし私が戻るって言ったら?」
「申し訳ありませんが、気絶させてでも連れていきます」
「本当にやりそう」
「必要なら」
こんな時なのに、その返事に少しだけ笑いそうになった。
けれど、結局笑うことはできなかった。
気づけば、涙が勝手に頬を流れていた。
「……嫌だ」
「はい」
「こんなの嫌だ」
「はい」
エルミナはそれ以上何も言わなかった。
ただ私の手だけは決して離さず、暗い地下通路を走り続けた。
◇ ◇ ◇
どれほど長く地下を進んだのか分からない。
やがて平坦だった通路が緩やかな上り坂へ変わり、その先に分厚い石造りの扉が現れた。
エルミナが壁の一部へ魔力を流すと、重い音と共に扉が開き、冷たい夜風が吹き込んでくる。
「……外?」
「はい」
扉の向こうには深い森が広がっていた。
すでに王都の城壁は見えず、地下道を通ってかなり離れた場所まで来たらしい。
「ここは?」
「王都西方の丘陵地帯です。街道からも外れています」
「……そう」
私たちは外へ出た。
日は完全に沈み、辺りは夜の闇に包まれている。
そこからさらに森を抜け、細い獣道のような斜面を登っていく。身体はとっくに限界だったはずなのに、不思議と立ち止まりたいとは思わなかった。
やがて木々が途切れ、視界が大きく開ける。
「…………」
私は、その場で足を止めた。
遠くに王都が見えていた。
昼間、丘の上から見たのと同じ街。
生まれてから十八年間、ずっと暮らしてきた街。
けれど、今そこに広がっている景色は、私の知っている王都とはまるで違っていた。
城下町のあちこちから炎が上がり、夜の街を赤く照らしている。市場のあった辺りにも大きな火の手が見え、崩れた城壁から黒煙が空へ立ち上っていた。
遠くでは鐘が鳴り続けている。
避難を知らせる鐘なのか、火災を知らせる鐘なのか、ここからではもう分からない。
そして、王宮の一角からも煙が上がっていた。
「……嘘」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
「嘘だよ……」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
あそこには、私の部屋がある。
毎朝エルミナに髪を梳いてもらった部屋も、ハインリヒに何度も叩きのめされながら剣を学んだ訓練場も、地球へ帰る方法を探すため何百冊もの本を読んだ図書館もある。
父上と何度も話した執務室も、母上とお茶を飲んだ庭も、十八年間積み重ねてきた私の記憶は全部、あの城壁の向こうにあった。
いや。
あったのだ。
「…………」
私はずっと、地球へ帰りたいと思っていた。
前世の父さんと母さんにもう一度会いたかったし、妹にも会いたかった。そのために十八年間、世界を越える方法を探し続けてきた。
今だって、その気持ちは消えていない。
それなのに、燃えている王都を見ているだけで、胸の奥を直接抉られているように痛かった。
「姫様」
エルミナが静かに隣へ立つ。
私は何も答えられず、ただ遠くで燃えている街を見つめ続けた。
あれほど地球へ帰りたいと思っていたはずなのに。
今は、目の前で失われようとしているこの場所を、どうしても失いたくないと心の底から思っている。
けれど、もう遅かった。
私たちは戦争に負けた。
敵軍は王都へ入り、父上も母上も、ハインリヒも、あの炎の向こうへ残されたままだ。
そしてその夜、私が生まれ育ったルヴェルティア王国は滅びた。