漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
遠くで燃える王都を、私はしばらく黙ったまま見つめていた。
夜空へ立ち上る黒煙の下では、いくつもの炎が赤々と揺れている。ここまで離れてしまえば戦いの音まではほとんど届かず、その静けさのせいで、つい数時間前まで自分があの場所で戦っていたことさえ現実ではなかったように思えてしまう。
あの城壁の向こうには、十八年間積み重ねてきた私の日常があった。父上と母上がいて、ハインリヒがいて、王宮の使用人たちがいて、朝になればエルミナが私の髪を梳いてくれる。それが当たり前だったはずなのに、今はそのすべてが炎の向こうへ取り残されていた。
「姫様」
隣から静かに呼ばれても、すぐには返事ができなかった。
そんな私を急かすことなく待っていたエルミナだったが、やがて王都の方角を一度だけ見てから、いつもより少し低い声で続ける。
「そろそろ離れた方がよろしいかと。ここまで来ればすぐに追いつかれることはないでしょうが、安全というわけではありません」
「……追手、やっぱり来るかな」
「間違いなく来るでしょう。ディートリヒは、姫様が地下通路へ逃れたところを直接見ていますから」
「そうだよね……」
私の死体が王宮から見つからなければ、生きて逃げたことなどすぐに分かる。ましてディートリヒは、ハインリヒが私たちを逃がすために残ったことまで知っているのだ。
ただし、すぐに進路まで特定されるわけではないらしい。
「王宮から伸びていた地下道は、途中でかなり枝分かれしてたよね」
「はい。あれは一本の脱出路ではなく、代々の王家が増築してきた避難路の一部です。西だけでも出口は複数ありますし、北西や南西へ抜ける経路もあります。使われなくなった道や途中で閉鎖された区画まで含めれば、追う側がすべてを調べるにはかなり時間がかかるでしょう」
「じゃあ、私たちがここから出たって分かるまでにも時間がかかる?」
「そのはずです。ですが、時間を稼げるというだけですから、できるだけ早く距離を取った方がいいでしょうね」
以前なら「ございます」と続いていたところを、少しだけ柔らかく締めたエルミナの言葉を聞きながら、私は最後にもう一度だけ王都を振り返った。
いつまでも見ていたところで、あそこへ戻れるわけではない。
父上が最後に命じたのは、敵を倒せでも、国を取り戻せでもなかった。
生き延びろ。
ならば今は、その命令に従うしかない。
「行こう」
「はい」
燃える王都へ背を向け、私たちは再び夜の森へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
街道を避けて西へ進むこと一時間ほどで、私はとうとう木の根に足を取られた。
身体強化を使えば暗い森を歩くこと自体は難しくないものの、外縁防衛線から王都まで何日も戦い続け、そのまま夜通し城壁を守り、市街戦まで経験した身体はとっくに限界へ近づいている。前へ倒れかけたところをエルミナに支えられ、どうにか踏みとどまった。
「姫様、少し休みましょう」
「でも、できるだけ離れた方が――」
「倒れて動けなくなる方が困ります」
「……はい」
妙に聞き慣れた声の調子だったので、私は素直に従うことにした。
もっとも、エルミナが選んだのは普通の野営地ではない。森の中に半ば埋もれていた石へ一定の手順で魔力を流すと、落ち葉に隠されていた地面が持ち上がり、その下から小さな階段が現れた。
「また地下?」
「王家の緊急避難所です。先ほどの脱出路とは別に、王都周辺へいくつか用意されています」
「私、十八年も王女やってたのに知らなかったんだけど」
「王位継承後に説明を受ける予定だったのでしょうね」
「……そっか」
もう受けることのできない説明が、また一つ増えた。
小さな地下室には保存食や水、薬品だけでなく、旅装束や簡単な武器、現金まで用意されていた。王族が身一つで逃げても最低限の旅を続けられるよう作られているらしく、こうして実際に使うことになったのは皮肉としか言いようがない。
私は簡素な寝台へ横になると、硬さを気にする暇もなく眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ました時、三時間ほど経っていた。
本当ならまだ何時間でも眠れそうだったけれど、長居をするわけにはいかない。エルミナと簡単な食事を済ませ、備蓄品を確認していると、彼女の視線が私の背後へ向いていることに気づいた。
「……髪?」
「はい。このままでは、さすがに目立ちすぎます」
戦場で乱れてはいるものの、私の髪は今も膝近くまで届く純黒だった。
黒髪そのものが珍しいこの世界で、膝まで伸びた黒髪の十八歳の女など、手配書がなくても人目を引く。ましてレーヴェンが「黒髪の王女」を探している以上、この姿で人里へ出るのは自分から名乗っているようなものだった。
「じゃあ、切ろう」
「……本当によろしいのですか?」
「そのために見てたんじゃないの?」
「それは、そうなのですが……」
珍しく歯切れが悪い。
理由は分かっていた。私が幼い頃から、この髪を毎日手入れしてきたのはエルミナだ。本人より思い入れがあるのではないかと思うくらい、大事に扱われてきた。
「ちょっと寂しい?」
「……少しだけ」
「正直だね」
「嘘をついても仕方ありませんから」
そんな返事をされると、私まで惜しくなってくる。
前世の私なら膝まで髪を伸ばすなど考えもしなかったし、今世でも長すぎて邪魔だと思ったことは何度もある。それでも十八年間、鏡を見るたびにそこにあったものを失うとなれば、何も感じないわけではなかった。
けれど、今は感傷よりも生き延びることを優先しなければならない。
「また伸びるよ。それに、色も変えないと駄目でしょ?」
「そうですね。幸い、染料もあります」
「あるんだ」
「王族が身分を隠して逃げるための場所ですから。その程度の準備はしてありますよ」
「なるほど」
考えてみれば当然だった。
備蓄の中には髪を染めるための粉末染料まで用意されており、いくつかある色の中から暗い栗色を選ぶ。鮮やかな色にして別の意味で目立っても仕方がないので、どこにでもいそうな色が一番だった。
まずエルミナが私の髪を一つにまとめ、肩甲骨より少し下まで残す位置へ鋏を入れる。
何度か乾いた音が響いたあと、長い黒髪の束が彼女の手の中へ落ちた。
「……軽い」
首を動かしてみると、いつもなら遅れて背中を流れてくる髪が途中で終わっている。それだけで別人の身体になったような奇妙な感覚があった。
エルミナが残った髪をセミロングに整え、そのまま染料を溶いた液を馴染ませていく。しばらく待って洗い流せば、鏡の中に映ったのは、紫色の瞳こそ同じものの、昨日までとはかなり印象の違う少女だった。
「……本当に変わるものだね」
「よくお似合いですよ」
「エルミナなら何色でもそう言いそう」
「似合わない色を選ぶつもりがありませんでしたから」
「それはそうか」
髪型も色も変わり、王宮で着ていた服から地味な旅装束へ着替えれば、少なくとも一目でセレフィーナ王女だと気づかれることはないだろう。
問題は、切り落とした方の髪だった。
「それ、どうする?」
「私が持っておきます」
「燃やした方が安全じゃない?」
「封魔布がありますから、きちんと包めば魔力はほとんど漏れません」
私の髪は、切ればただの髪になるわけではない。本人固有の魔力を強く帯びているため、優秀な魔術触媒になるだけでなく、使い方によっては追跡や本人確認にも利用できる。
エルミナはそんな危険物を、本当に大事そうに銀色の封魔布へ包んでいった。
「……欲しかったの?」
「姫様の髪ですから」
「そっか。じゃあエルミナが持ってていいよ。ただし、絶対なくさないでね」
「もちろんです」
「命に代えても、とかは言わなくていいからね」
「そこまでは言っていません」
「今までなら言ってたでしょ」
否定しないあたり、図星だったらしい。
少しだけ笑ってから、私は鏡の中の自分をもう一度見た。
黒髪の王女は、もうそこにはいなかった。
◇ ◇ ◇
「それで、これからどこへ行く?」
旅の支度をしながら尋ねると、エルミナは備蓄されていた地図を床へ広げた。
「このまま西へ向かって、迷宮国家へ入るのが一番安全だと思います」
「中立国か」
「はい。他国の軍事行動や、国外の争いを国内へ持ち込むことを厳しく禁じています。レーヴェンも外交交渉まではできても、兵士を送り込んで勝手に姫様を捕らえることはできません」
「やったら、中立国そのものへの敵対行為になる?」
「そういうことです」
複数の巨大迷宮を抱えるその国には、世界各地から冒険者や商人が集まる。迷宮資源を必要としている国も多いため、その中立性を一国だけで破ることは簡単ではない。
今の私たちが逃げ込む場所としては、かなり条件がよかった。
「それに、冒険者ギルドもあります」
「……冒険者になるってこと?」
「働かないと生活できませんからね」
「それはそうなんだけど」
あまりにも当然のことを言われ、少し困る。
昨日までは国一つの財産が事実上自分の生活を支えていたのに、今日からは自分で宿代と食費を稼がなければならないらしい。
「迷宮であれば鍛錬にもなりますし、各国から人が集まる以上、ルヴェルティアについての情報も得やすいでしょう。陛下や王妃様、それにハインリヒ団長について何か分かるかもしれません」
「……うん」
その言葉には、素直に頷けた。
父上も母上も、ハインリヒも、死んだと決まったわけではない。王都が落ちた後に何が起きたのか、今の私は何も知らないのだ。
それに、今すぐ一人でルヴェルティアへ戻ったところで何もできないことも分かっている。戦争では目の前の敵を何度倒しても国全体の敗北を止められなかった以上、まずは生き延びて情報を集め、今より強くならなければならない。
そして迷宮なら、もう一つ調べられるかもしれないものがある。
世界と世界を越える方法。
地球へ帰るという十八年間の願いまで、国を失ったからといって消えたわけではなかった。
「分かった。迷宮国家へ行こう」
「はい」
「冒険者になって、お金を稼いで、情報を集める。それから強くなる」
その先で何をするのかまでは、まだ決められない。
ルヴェルティアを取り戻したいのか、敵へ復讐したいのか、それとも父上たちの無事さえ確認できればいいのか。今の私は何も知らなすぎて、答えを出せる状態ではなかった。
ただ一つ、いつか必ずルヴェルティアへ戻る。
今はそれだけ決めておけば十分だった。
◇ ◇ ◇
「ねえ、エルミナ」
地図を畳んでいる彼女へ声をかける。
「一つだけ、今のうちに言っておきたいんだけど」
「何でしょう?」
「もう、私に仕える必要はないからね」
エルミナの手が止まった。
「父上から私を連れて逃げろって命令されたのは分かってる。でも王宮もなくなったし、私はこれから身分を隠して冒険者になる。エルミナがずっと侍女や護衛を続けなきゃいけない理由もないでしょ」
「…………」
「迷宮国家まで一緒に来てくれるだけでも十分だよ。その後は、好きに生きていい」
自分なりに真面目に伝えたつもりだった。
だから、少しの沈黙のあとに返ってきた言葉には、思わず瞬きをしてしまった。
「では、好きにします」
「……え?」
「姫様のお許しをいただきましたから、これからは私の好きにさせていただきます」
「う、うん」
「好きに、姫様について行きます」
「…………」
そう来るとは思わなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
「分かってて言ったよね?」
「はい」
エルミナは少しだけ笑っていた。
王宮も、身分も、給料もなくなった。それでもこの人は、まるでそんなものは最初から関係なかったと言わんばかりに私の隣へ残ろうとしている。
「本当にいいの?」
「もちろんです」
「これから安宿暮らしになるかもしれないよ?」
「構いません」
「私、もう何も持ってないんだけど」
「姫様がいるでしょう?」
「……そういうこと普通に言うよね、エルミナって」
何も返せなくなった私は、小さく息を吐いてから笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その返事に、少しだけ違和感を覚える。
以前なら「勿体なきお言葉でございます」とでも返していたはずなので、どうやらエルミナなりに少しずつ変えようとしているらしい。
「そうだ。それも」
「それ?」
「呼び方と喋り方。身分を隠すなら、そのままじゃ絶対怪しまれるよ」
「……そんなにでしょうか」
「そんなに。『姫様』『ございます』『存じます』なんて連発してたら、私が何者かですって自分から宣伝してるようなものでしょ」
「ですが、急に友人同士のような話し方をするのは少々……」
「そこまでは求めてないよ。せめて王女相手じゃなくて、普通のお嬢様相手くらいにして。です、ます、くらいでいいから」
「分かりました」
「ほら。今のでいい」
「……これで、ですか?」
「うん。ずっと自然」
エルミナは何とも言えない顔をした。
十八年以上続けてきた話し方なのだから、すぐに直せという方が無理なのは私も分かっている。
「あと、人前で姫様は禁止」
「では、セレフィーナ様」
「もっと駄目」
「……セラ様?」
「様も取れない?」
「そこは、もう少し時間をください」
「じゃあ人前では、せめてセラさん」
「努力します」
「そこは『分かった』じゃないんだ」
先は長そうだった。
◇ ◇ ◇
休息を終え、必要な物資を二人分の鞄へ詰めていく。
保存食、水、薬品、着替え、地図、それに当面の旅費。王女だった頃はこうした準備を誰かが済ませてくれていたので、薬品を食料と同じ場所へ入れようとしてエルミナに止められたところで、私は少し不安になってきた。
「……私、昔は普通に庶民だったはずなんだけどな」
「昔?」
「あ、いや。なんでもない」
危ない。
まだエルミナには前世のことを話していなかった。
もっとも、前世で普通の高校生だったからといって、この世界の旅暮らしができるとは限らない。向こうには水道も電気も洗濯機もあったし、何よりこちらへ生まれてから十八年間、私は徹底的に世話をされる側として暮らしてしまった。
戦場で敵兵と戦うことはできる。
迷宮で魔物を倒すことだってできる。
けれど、これから普通に生活していけるのかと問われると、急に自信がなくなってくる。
「準備できた?」
「はい。セラ……さんも大丈夫ですか?」
「おお」
「何ですか、その反応は」
「いや、ちゃんとできるじゃんと思って」
「馬鹿にしていませんか?」
「してない、してない」
昨日までなら考えられなかった会話をしながら、私は荷物を背負った。
鏡代わりの小さな磨き板には、栗色のセミロングになった見慣れない少女が映っている。少なくとも、膝まで届く黒髪を持ったルヴェルティア王女の姿はもうどこにもない。
父上から最後に与えられた命令は、生き延びることだった。
そのために髪を切り、色を変え、名前まで変える。
これから向かう先では、誰も私を王女として迎えてはくれないだろう。
だったらまずは、一人の冒険者として生きていく方法を覚えればいい。
十八年前には普通の庶民だったのだから、きっと何とかなる――そう思いたいところだけれど、荷造り一つ満足にできなかった現状を見る限り、どうやら戦闘以外にも覚え直さなければならないことは山ほどありそうだった。