漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
王族の朝食というものに、前世の私はもう少し華やかなものを想像していた。
長い食卓いっぱいに豪華な料理が並び、何十人もの使用人が壁際に控え、王様が朝から肉の塊でも切り分けている――そんな、映画か漫画で見たような光景だ。実際にその立場になってみれば、当然ながら毎朝そんな宴会をしているわけではない。
「おはようございます、父上、母上」
食堂へ入った私は、教え込まれた通りにドレスの裾を摘み、軽く膝を折った。
「ああ。おはよう、セレフィーナ」
「おはよう。こちらへいらっしゃい」
父上と母上はすでに席についていた。王族専用の食堂とはいえ、晩餐会に使う大広間ほど広くはない。それでも前世の我が家ならリビングとダイニングが三つか四つは入りそうな部屋で、磨き上げられた長机の向こう側に高い窓から朝日が差し込んでいる。
壁際には数人の侍従と侍女。給仕のために控えているだけなので、誰一人として無駄口を叩かない。私は父上と母上から少し離れた、自分のために決められた席へ腰を下ろした。
もちろん、椅子はすでに引かれている。ナプキンも広げてもらえる。飲み物も注いでもらえる。パンに手を伸ばせば、その前に給仕が皿へ取り分けてくれる。
――未だに慣れないんだよなあ、これ。
自分でできるのに。そう思ってしまうのは、前世が一般家庭だったからだろう。朝は母さんが台所で味噌汁を温め、その横で父さんが新聞かスマートフォンを眺めていた。妹はぎりぎりまで寝ていて、髪を跳ねさせたまま食卓へ滑り込み、私の皿から勝手におかずを一つ奪っていく。
『それ俺のウインナー!』
『一本くらいいいじゃん』
『自分の食えよ!』
『もう食べた』
『じゃあ取るなよ!』
今思えば、どうでもいい会話ばかりだった。けれど、それが家族の食卓だった。
「セレフィーナ」
「はい?」
父上の声に、意識を現在へ戻す。危ない。またぼんやりしていたらしい。
「昨日の魔学の課題は、予定より早く終えたそうだな」
「はい。魔力伝導式の基礎でしたので、それほど難しくはありませんでした」
「教師からは、八歳とは思えぬ理解力だと報告を受けているが」
「先生は少し大げさです」
「そうか?」
父上がわずかに口元を緩めた。それだけだった。頭を撫でてくれるわけでも、よく頑張ったな、と大げさに褒めるわけでもない。けれど、父上が私の授業内容まで把握しているということは、最初の頃は少し意外だった。
国王なのだ。当然、毎日とんでもなく忙しい。朝から大臣たちとの会議があり、国内外から大量の書類が届き、時には他国の使節とも会わなければならない。それでも父上は、私が何を習っているのかを大抵知っていた。
「午後は剣術だったな」
「はい」
「今日は騎士団長本人が見るそうだ」
「え」
私は思わず顔を上げた。父上は何でもないことのようにパンを切っている。
「聞いてないんですけど」
「今伝えた」
「それはそうですけど……」
騎士団長。もちろん顔は知っているし、何度か稽古もつけてもらっている。ただし、普段私の基礎訓練を見るのは別の騎士だ。王国騎士団の頂点にいる人間が、八歳児の稽古へ毎回来られるわけがない。
「最近、随分と腕を上げたそうではないか。一度見ておきたいと言っていた」
「父上が頼んだのでは?」
「さてな」
怪しい。こちらを見ることもなく答える父上に目を細めていると、向かいから小さな笑い声がした。
「セレフィーナ」
母上だった。
「はい、母上」
「食事中にそのようなお顔をするものではありませんよ」
「……申し訳ございません」
慌てて表情を整える。すると母上は満足そうに一度頷いたあと、私の髪へ目を向けた。
「今日の髪飾り、よく似合っていますね」
「あ……ありがとうございます」
今朝、エルミナが丁寧に梳かし、整えてくれた私の漆黒の髪。そこに添えられた、小さな紫色の宝石を使った髪飾りのことだ。きらきらしていて綺麗ではあるが、正直なところ、元・男子高校生の私は装飾品にそれほど詳しくない。
「もしかして、母上がお選びになったものですか?」
「ええ」
母上は紅茶のカップへ優雅に手を伸ばしながら、ふっと目を細めた。
「あなたの瞳には、紫がよく合いますから」
「そうだったんですか?」
私は驚いて、思わず背後のエルミナを振り返った。少し離れた壁際に控えていたエルミナが、ほんの僅かに顎を引き、涼しい顔で一礼する。
――知っていたらしい。教えてくれてもいいのに。いや、たぶん黙っているように言われていたのだろう。
母上はこういう人だった。私に抱きついて「可愛い」と言ったり、一日中そばにいたりするタイプではない。王妃としての仕事もあるし、私に対しても礼儀や立ち居振る舞いにはかなり厳しい。けれど衣装が新調されれば、そのうち何着かは母上が自ら生地を選んでいる。新しい髪飾りが増えれば、私の瞳や髪に合うものが選ばれている。
体調を崩した翌日は、なぜか授業の予定が少し軽くなっている。小さい頃には気づかなかった。最近になって、ようやく分かるようになってきた。
――この人、分かりにくいんだよなあ。
たぶん父上も似たようなものだ。
「姫様」
「ん?」
給仕の侍女が、小さな器を私の前へ置いた。中に入っていたものを見て、思わず目が止まる。淡い赤色をした果実のジャムだった。この国で採れる木苺に似た果物を砂糖で煮たもので、焼きたての白パンにつけると、とても美味しい。そして私の好物でもある。
「これ、今日あったのね」
「はい。今朝、厨房で用意されたものにございます」
機嫌よくパンへ塗ろうとして――ふと、銀のナイフを止めた。視線を巡らせる。父上の前にはない。母上の前にもない。この広い食卓の上で、淡い赤色のジャムは私のところにしか置かれていなかった。
「……父上」
「なんだ」
「これ、もしかして私のために?」
「厨房に材料があったのだろう」
父上はパンを切る手も止めず、こちらへ顔すら向けない。王としての威厳を崩さない、抑揚のない声だ。
「でも昨日はなかったですよね?」
「今日はあったのだろう」
「……そうですか」
「ああ」
絶対に頼んだな。そう確信したが、追及するのはやめておいた。この人も母上と同じで分かりにくい。白パンを小さくちぎり、たっぷりとジャムを乗せて口へ運ぶ。甘酸っぱい果実の味が口いっぱいに広がった。
――うま。
「セレフィーナ?」
「何でもございません、母上」
危ない。顔に出ていたのだろうか。視線だけ動かすと、壁際のエルミナがほんの少し笑っていた。あとで覚えていなさい。
◇ ◇ ◇
朝食を終える頃には、父上はすでに次の予定の時間を気にしていた。
「では、私はこれで失礼する」
席を立った父上に続いて、私も立ち上がる。
「本日も政務ですか?」
「ああ。午前中に財務卿と話がある」
「お忙しいのですね」
「王とはそういうものだ」
そう言ってから、父上は一瞬だけこちらを見る。
「剣術の稽古、励め」
「はい」
それだけ言い残して、数人の侍従を伴い食堂を出ていった。母上も少し遅れて立ち上がる。
「私は昼前から慈善院の者たちと面会があります。夕食には戻る予定です」
「はい、母上」
「セレフィーナ」
「何でしょう?」
「剣術も結構ですが、怪我には気をつけなさい」
母上の指先が、ほんの一瞬だけ私の前髪を整えた。
「あなたは少々、夢中になると周りが見えなくなるところがありますから」
「……善処いたします」
「善処ではなく、気をつけなさい」
「はい」
母上は満足したらしく、小さく微笑んで食堂を後にした。残された私は、その背中を見送る。家族三人で過ごした時間は、三十分にも満たない。交わした話も、魔学だの剣術だの今日の予定だの、前世の家庭なら「学校どうだった?」程度のものだ。それでも毎朝、できる限り三人で食卓につく。
父上も母上も、忙しい予定の中にその時間を組み込んでいる。前世とはまるで違う。気軽に肩を叩くこともなければ、テレビを見てくだらない話をすることもない。けれど。
――嫌われてるわけじゃ、ないんだよな。
そんな当たり前のことを確認するたび、不思議な気持ちになる。父さんと母さんではない。この二人は、この世界での私の父と母だ。
「姫様。そろそろお部屋へ――」
「あ」
エルミナの声とほぼ同時だった。一人の若い侍女が、食器を載せた盆を持ち上げようとして僅かに体勢を崩した。皿が端へ滑る。考えるより先に身体が動いていた。
「危ない!」
私はテーブルの横から手を伸ばし、落ちかけた皿を両手で受け止める。
「……ふう」
危なかった。陶器の皿はかなり高そうだ。割ったら怒られるどころでは――。
「ひ、姫様!?」
ところが。青ざめたのは、皿を落としかけた侍女の方だった。
「え?」
「も、申し訳ございません!」
勢いよく頭を下げられる。
「いや、別に割れてないし――」
「姫様」
背後から聞き慣れた声。この朝二度目の、嫌な予感がした。振り向く。エルミナが笑っていた。笑っているのに、怖い。
「お皿を、こちらへ」
「……はい」
有無を言わさぬ圧に押され、私は素直に皿を渡す。エルミナはそれを侍女の盆へ音もなく戻してから、今度は私を真っ直ぐに見据えた。
「姫様」
「落ちそうだったから取っただけよ?」
「分かっております」
「じゃあいいでしょう?」
「よくございません」
即答だった。本気で分からない。前世だったら、目の前で誰かが物を落としかけたら手を伸ばす。それだけの話だ。だが、エルミナは静かに、しかし断固として首を振った。
「姫様がお怪我をされていた可能性がございます」
「たかが皿一枚でしょう?」
「熱い料理が載っている場合もございますし、割れれば破片で大切な御手を傷つけます」
「でも今回は大丈夫だったじゃない」
「結果のお話ではございません」
う。正論だ。しかし納得しきれずにいると、先ほどの侍女がまだ血の気を失った顔で立っていることに気づいた。
「……あなた、別にこれで誰かに怒られたりしないわよね?」
「えっ」
侍女がビクッと肩を震わせ、さらに顔を引きつらせた。今にも泣き出しそうだ。なぜそこでそんな顔をするのか。
「姫様」
見かねたように、エルミナが小さく息を吐いた。
「なぜ彼女がこれほど恐縮しているか、お分かりになりませんか?」
「え? 私が怪我をしそうになったから?」
「それもございます。ですが……姫様が使用人の仕事を代わりになさるということは、周囲から見てどう映るでしょうか」
「……あ」
そこでようやく、私はこの身分社会の常識を理解した。私は善意で皿を一枚拾ったつもりだった。けれど周囲から見れば、王女が使用人の失敗を補ったことになる。それはつまり。
「この子が、王女に仕事をさせるほど己の職務を怠ったように見える……?」
「左様でございます。場合によっては、厳しく罰せられることにも繋がりかねません」
「そんなつもりじゃ――」
「存じております」
エルミナの声が少しだけ柔らかくなった。
「姫様がお優しいことも、その方を助けようとなさっただけであることも。ですが、立場が変われば、同じ行動でも意味が変わるのでございます」
八歳児に言うには随分と重たい話である。いや、前世まで含めれば二十年以上を生きた記憶があるのだから、言っている意味くらいは理解できる。理解できるからこそ、余計に面倒だった。
「……王女って不便ね」
私が肩を落として呟くと、エルミナは当然のように頷いた。
「左様でございます」
「そこは否定してよ」
「事実でございますので」
平然と返す侍女に、私は小さく溜息をつく。それから、まだ恐縮して固まっている侍女へ向き直った。
「今のは私が勝手に手を出しただけだから。あなたは何も悪くないわ」
「姫様……」
「次から気をつければいいでしょう?」
侍女は一瞬だけ目を丸くし、それから深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、姫様」
それを見届けてから、私は食堂を出る。廊下を歩きながら、隣のエルミナを見上げた。
「ねえ」
「はい」
「じゃあ、私は何もしない方がいいの? 自分のことも、人が困っている時も、ただ見ているだけ?」
少しだけ拗ねたような口調になった私に、エルミナは立ち止まり、静かに目を合わせた。
「いいえ。ですが、姫様には『姫様にしかできないこと』へ目を向けていただきたいのです」
「私にしかできないこと?」
「ええ。落ちるお皿を拾うことは、私や他の使用人にもできます。ですが、多くの者が安心して働けるよう仕組みを整え、国を支えることは、私たちにはできません。……姫様は、どうなされるべきだとお考えですか?」
答えを教えるのではなく、導くような問いかけ。専属侍女であり、私の教育係でもある彼女らしいやり方だった。
「……学び、考え、必要な時に上に立つ者として決断するってこと?」
「百点満点でございます」
ふわりと、エルミナが今日一番の美しい微笑みを浮かべた。
「……壮大な話ね」
「それが、人の上に立つ王族たる方の責務かと」
けれど、少しだけ分かった気もする。自分で皿を運ぶことより、皿を運ぶ人たちが困らないようにする方が私の仕事なのだとしたら。前世の常識とは、随分違う。
「難しいわね、王女って」
私がぽつりと本音をこぼすと、隣を歩いていたエルミナがわずかに歩みを緩めた。
「だからこそ、今から学ぶのでございます」
「まだ八歳なのに?」
「もう八歳でございます」
立ち止まったエルミナは、私の背中まで伸びた黒髪を一房すくい、愛おしそうに指先へ滑らせた。
「御髪も、こんなに長くお美しくなられました」
「……それ、年齢と関係ある?」
「私にとってはございます」
即答だった。見上げた先のエルミナは、いつもの澄ました顔を少しだけ和らげていた。
「それに、姫様は人の上に立たれるお方。将来、大きな決断を下す時に間違えぬよう、今のうちにたくさん悩み、間違えておくべきなのです」
「だから、今は厳しくするってこと?」
「左様でございます」
その言葉は、エルミナなりの未来まで見据えた上での愛情なのだと分かってしまうから、タチが悪い。
「愛情って便利な言葉ね、ほんと」
私が小さく溜息をつきながら憎まれ口を叩くと、エルミナはくすりと笑った。私もつられて笑いかけ――再び歩き出した回廊の窓の向こう、広がる王都へ目を向けた。
朝日を浴びた街では、もう大勢の人が動き始めている。店を開ける者。荷物を運ぶ者。魔導車を走らせる者。遠くからでは顔も見えない、たくさんの人々。その全員が、この国で暮らしている。
ルヴェルティア王国。私が生まれ、八年を過ごしてきた国。それでも今の私にとっては、まだ「故郷」と呼ぶより、「生まれた国」という感覚の方が強かった。いつか地球へ帰りたいと願っている私が、本当にこの国の未来を背負えるのか。その答えは、まだ分からない。
「姫様」
先を歩いていたエルミナが振り返る。
「魔学のお時間に遅れてしまいます」
「あ、はいはい。今行くわ」
「『はい』は一度で結構です」
「……はい」
朝から何度目か分からない小言を受けながら、私は彼女の後を追った。地球へ帰る方法を探しながら、それでも今日もまた、この国の王女になるための勉強をする。
この頃の私は、地球へ帰りたいという願いと、この国の王女として生きる日々とが、同じ自分の中にあることを、まだ不思議だとは思っていなかった。