漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
王都西方の丘陵地帯にある避難所を出てから、私たちは人目を避けながら西へ向かった。
主要街道は使わない。レーヴェン軍が私たちの進路まで把握しているとは思えなかったけれど、周辺の村や街道へ捜索を広げる可能性は十分にある。幸い、避難所には森を抜ける古道や、今ではほとんど使われていない農道まで記された地図が残されていたので、それを頼りにすれば大きな街道へ出ずとも中立国家のある西方へ進むことはできた。
「……これ、本当に道?」
「昔は林業に使われていたようですよ」
「昔って?」
「地図の日付を見る限り、四十年ほど前ですね」
「それもう道じゃないと思う」
目の前へ垂れ下がっていた枝を剣の鞘で押し退けながら、思わずため息をつく。
木の根が張り巡らされた地面には、人が歩いた痕跡などほとんど残っていない。身体強化を使えば進むこと自体は簡単だけれど、一日中使い続ければ魔力も体力も消耗するため、結局は自分の足で地道に歩くしかなかった。
つい少し前まで、遠出をするなら馬車が用意され、騎士や使用人が同行し、宿泊先もあらかじめ整えられていた。自分で何日分もの荷物を背負って森を歩くなど、十八年間の王女生活ではほとんど経験したことがない。
もっとも、それより前の自分なら、少なくとも自分の荷物くらいは自分で持っていたはずなのだけれど。
「…………」
「どうしました?」
「ん? いや、なんでもない」
少し先を歩いていたエルミナが振り返ったので、私は誤魔化すように笑った。
「そうですか」
彼女はそれ以上聞かず、再び前を向く。
王都を出てから、こんなことが何度かあった。
◇ ◇ ◇
最初の二日間は村にも寄らず、夜になれば森の中で野営した。
保存食を温め、川を見つければ水を補充する。迷宮探索で野営の経験はあったし、ハインリヒから最低限の野外行動も教わっていたので、旅そのものに困るほどではない。
それでも、いざ自分で生活の細かいことまでやろうとすると、十八年間誰かに世話をされてきた影響は思っていた以上に大きかった。
「姫様、そちらの鍋をお願いします」
「あ、うん」
エルミナから受け取った鍋を火へ掛けようとして、私は一瞬だけ手を止める。
「薪、これくらいでいい?」
「もう少し少なくても大丈夫ですよ」
「そっか」
何本か抜きながら、昔はどうしていただろうと考えて、すぐに自分で苦笑した。
そもそも前世では薪で料理などしていない。コンロのつまみを回せば火がついたし、米は炊飯器へ入れてボタンを押せばいい。洗濯も機械任せで、風呂へ入るために水を汲む必要だってなかった。
確かに私は庶民だったけれど、それは十八年以上前の日本での話だ。この世界の庶民生活とは最初から勝手が違ううえ、その後は前世より長い時間を王女として過ごしている。
「……そりゃ、忘れるか」
「何をです?」
「なんでもない」
「先ほどもそう言っていましたね」
「そうだっけ?」
「はい」
エルミナは少しだけこちらを見たものの、やはり追及してこなかった。
たぶん、もう気づいている。私が何かを言いかけて、そのたびに飲み込んでいることに。
◇ ◇ ◇
三日目になって、私たちはようやく小さな村へ立ち寄った。
王都からはかなり離れていたけれど、念のため村へ入る前に身なりを確認する。膝近くまで伸びていた純黒の髪は肩甲骨より下までのセミロングへ変わり、色も落ち着いた栗色に染まっている。服も王宮で着ていたドレスではなく、避難所から持ち出した旅装だった。
「これなら大丈夫だよね?」
「以前の姫様を知らない方なら、すぐには分からないと思います」
「よし」
王家の紋章もないし、宝石を大量に使った装飾もない。私としてはかなり地味になったつもりだったのだけれど、村の雑貨屋へ入って間もなく、その認識には少し問題があることが判明した。
「お二人、どちらかのお屋敷の方ですか?」
「え?」
「随分と立派なお召し物だから、どこかのお嬢様かと思って」
店主に言われ、私は自分の服を見下ろした。
王宮で着ていたものと比べればずっと質素だ。それでも店内に並ぶ服と見比べてみれば、生地も仕立ても明らかにこちらの方が上等だった。
「……エルミナ」
「はい」
「これ、普通の旅装じゃないの?」
「王宮のものと比べれば、かなり質素ですが……どうやら一般的な旅装よりは上等なようですね」
「避難所にあったのに?」
「元々、王族がお忍びで外出する際に使うための物だったのかもしれません」
「ああ……」
それなら納得できる。
王族だと一目で分かる服ではない。ただし、庶民にも見えない。目的が「セレフィーナ王女だと悟られないこと」なら失敗ではないのだろうけれど、少し微妙な気持ちにはなった。
「お嬢さん?」
「あ、すみません。地方の……商家の娘です」
咄嗟にそう答えると、店主は特に疑う様子もなく頷いた。
必要な食料や日用品を買って村を出たあと、私はようやく息を吐く。
「普通にいいところのお嬢様だと思われたんだけど」
「王女だとは思われていませんでしたよ」
「まあ、目的は達成してるけど……」
そう言いながら隣を見る。
「あと、店の中でずっと私の半歩後ろにいたよね」
「……癖です」
「荷物も全部持とうとした」
「それも癖ですね」
「会計も先に払おうとした」
「それは……」
「癖?」
「……はい」
十八年間続けてきた習慣は、髪を切って服を変えたくらいでは消えてくれないらしい。
そして、それはきっと私も同じなのだろう。
◇ ◇ ◇
その日の夜、私たちは村から離れた森で野営していた。
中立国家までは、あと数日。ここまで追手らしい人影は一度も見ておらず、王都を出てから張り詰め続けていたものも、ようやく僅かに緩み始めている。
焚き火の向こうでは、エルミナが剣の手入れをしていた。
「エルミナ」
「はい」
「…………」
「どうしました?」
「いや、その……」
ここまで言って、また言葉が出なくなる。
「……なんでもない」
「そうですか」
エルミナは何も聞かず、剣へ視線を戻した。
これで何度目だろう。
話さなければと思っている。避難所を出る前、王女でなくなった私にも自分の意思でついてくると言ってくれた時から、ずっと考えていた。
これから先も一緒に旅をするのなら、十八年間隠し続けてきたことを話すべきなのではないか、と。
でも、いざ口にしようとすると怖かった。
私はこの世界だけで生きてきた人間ではない。別の世界で十六年間生きていて、その頃は男だった。父と母と妹がいて、今までずっとその人たちのもとへ帰りたいと思い続けていた。
幼い頃からずっと傍にいたエルミナが、それを知ったらどう思うのだろう。
「……はぁ」
「姫様」
「ん?」
「気づいていますよ」
思わず顔を上げる。
「……何に?」
「私へ何かお話しになりたいのでしょう?」
「やっぱり?」
「さすがに何度も呼ばれて、そのたびに『なんでもない』と言われれば」
少し恥ずかしくなって視線を逸らす。
「じゃあ、なんで聞かなかったの?」
「姫様がご自分から話そうとなさっていましたから」
エルミナは手入れを終えた剣を鞘へ戻し、いつもの穏やかな表情で私を見た。
「気にはなります。でも、姫様がお話しになりたい時に聞けばいいことです」
「…………」
何を隠しているのか問い詰めるでもなく、何でも受け入れると先回りするでもない。
ただ、私から話すのを待ってくれている。
「……もう少しだけ、待って」
「はい」
「ごめん」
「謝らなくて大丈夫ですよ」
それだけ言うと、エルミナは本当に何も聞かなかった。
◇ ◇ ◇
それからさらに二日ほど進み、私たちは国境近くの小さな宿場町へ入った。
受付で名前を尋ねられた時には少しだけ緊張したものの、
「セラです」
と答えれば、それだけで手続きは終わった。
エルミナも名前だけを告げ、二人で安い部屋を一つ借りる。
部屋へ入った私は、ベッドが二つと小さな机しかない室内を見回してから、思わず口を滑らせた。
「……狭いね」
「安い部屋ですから」
「そうだよね」
王宮の自室と比較する方がおかしい。
前世で暮らしていた自分の部屋なら、むしろこちらに近かったはずなのに。
「昔は、これくらいでも普通だったはずなんだけどな……」
呟いてから、しまったと思った。振り返ると、エルミナがこちらを見ている。
「昔?」
「…………」
また誤魔化そうとすれば、きっとエルミナは何も聞かない。でも、それではいつまでも同じだ。
王女でなくなっても残ってくれた人に、これからも一緒に歩いてほしいと思っているのなら、私の方もいつまでも隠したままではいられない。
「エルミナ」
「はい」
「……今日、話す」
一瞬だけ彼女の目が見開かれ、それから静かに頷いた。
「分かりました」
◇ ◇ ◇
夕食を済ませ、宿の部屋へ戻る頃には外もすっかり暗くなっていた。私はベッドの端へ腰掛け、向かいに座ったエルミナを見ながら、何度か深呼吸する。
「……何から言えばいいんだろ」
「ゆっくりで構いませんよ」
「うん。たぶん、かなり変な話になる」
「聞いてから考えます」
「……そうだね」
最初から「信じます」と言われるより、その方がありがたかった。
私は膝の上で指を組み、しばらくそこを見つめてから、ようやく口を開く。
「私ね、この世界で生まれる前にも、生きてたんだ」
エルミナはすぐには答えなかった。
「……生まれる前、ですか?」
「うん。別の世界で」
「別の世界……」
「地球っていう場所」
十八年間、何度も心の中で呼んできた名前を、初めて誰かへ伝えるために口にする。
「私がいた地球には魔術も迷宮もなくて、この世界とは全然違う。私はそこで生まれて、十六歳まで生きてた。父さんと母さんと、妹がいた」
エルミナは驚いた様子ではあったけれど、黙って続きを待っている。
「死んだのか、それとも別の何かが起きたのかは今でもよく分からない。気づいた時には、この世界でセレフィーナとして生まれてた。前の人生のことも、物心がついた頃にはかなり覚えてた」
「…………」
「それで、あと……」
「はい」
ここが一番言いにくい。
「前の私は、男だった」
今度こそ、エルミナが完全に黙った。
「……男性、だったのですか?」
「うん。十六歳の男」
「…………」
「そこはやっぱり驚く?」
「……かなり」
「だよね」
「すみません。さすがに考えたこともありませんでしたので」
「普通は考えないよ」
一瞬だけ、お互いに困ったような顔をして笑う。
それでも、本当に話したかったことはこの先だった。
「だから私は、ずっと地球へ帰りたかった」
エルミナの表情から笑みが消える。
「父さんと母さんに会いたかった。妹にも」
「それで……姫様がずっと空間転移や異世界について調べていたのは」
「帰る方法を探してたから。黒岩迷宮へ行きたがってたのも同じ理由だよ。迷宮そのものが普通の空間とは違うなら、世界を越える何かに繋がるかもしれないと思ってた」
「十八年間、ずっと?」
「うん」
口にしてみれば、ずいぶん長い時間だった。
前世で生きた十六年間よりも、セレフィーナとして過ごした時間の方がすでに長い。それでも、もう一度家族へ会いたいという気持ちだけは消えてくれなかった。
「誰にも言ってなかった。父上にも母上にも、ハインリヒにも……エルミナにも」
「なぜですか?」
「怖かったんだと思う」
少し考えてから、言葉を続ける。
「幼い頃なら変な子だと思われただろうし、大きくなってから『王女だけど別の世界へ帰りたい』なんて言えば政治的にも問題になる。それに、父上と母上に言うのが一番怖かった」
「陛下と王妃様に?」
「二人のことは大好きだったよ。でも、『私は本当は別の家族のところへ帰りたい』なんて言ったら、傷つける気がして」
だから言えなかった。
その結果、十八年間ずっと一人で抱えてきた。
「……そんなことを」
エルミナが小さく呟いた。
「そんなことを、ずっとお一人で抱えていたのですか?」
「……まあ」
「ご家族に会いたいと思いながら、それを誰にも?」
「うん」
私が男だったと話した時よりも、ずっと辛そうな顔をしている。
「そこなんだ」
「何がです?」
「いや……昔男だったことより、そっちの方が気になるんだなって」
「もちろん驚きましたよ。でも」
エルミナは静かに目を伏せる。
「私たちは十八年間、ずっと姫様の傍にいたのに、姫様が別のご家族を想っていたことさえ知らなかった。それが少し……悲しいです」
「言わなかったのは私だよ」
「それでもです。せめて寂しい時くらいは、誰かへ話してくださればよかったのにと思います」
「…………」
その言葉が、思っていた以上に胸へ響いた。
「ごめん」
「謝ってほしいわけではありません」
「うん。分かってる」
少し笑ったつもりだったのに、目の奥が熱くなる。
王都を出てから何度も泣いた。それでも今こぼれそうになっている涙は、これまでのものとは少し違う気がした。
「今でも、地球へ帰りたいですか?」
その問いには迷わなかった。
「帰りたい」
「はい」
「父さんと母さんに会いたい。妹にも。向こうでどれくらい時間が経ってるのかも分からないけど、それでも帰れるなら帰りたい」
そこで一度言葉を切ると、燃える王都の景色が頭をよぎった。
「でも、ルヴェルティアをこのままにして帰るのも嫌なんだ」
「…………」
「父上と母上がどうなったのかも、ハインリヒが生きているのかも分からない。国が今どうなっているのかも知らない。だから、何も知らないまま地球へ帰る方法だけ探すなんて、たぶんもうできない」
「では、両方やりましょう」
「……え?」
あまりにもあっさり言われ、思わず顔を上げる。
「ルヴェルティアについて調べながら、地球へ帰る方法も探せばいいのではありませんか?」
「そんな簡単な……」
「簡単ではないでしょうね」
「だよね」
「ですが、今すぐどちらか一つを諦めなければならない理由もないでしょう?」
「…………」
「姫様は、どちらも諦めたくないのでしょう?」
「うん」
「なら、今はそれでいいと思います」
世界を越える方法を探しながら、滅ぼされた国の行方も追う。
どちらか一つだけでも何年かかるか分からない。それでも、今ここで片方を捨てる必要はないのだと言われると、少しだけ肩の力が抜けた。
「エルミナも付き合うの?」
「もちろんです」
「これ、かなり私個人の事情だよ?」
「好きにしてよいと仰ったでしょう?」
聞き覚えのある言葉に、思わず笑ってしまう。
「……言ったけど」
「ですから、好きにお供します」
「またそれ?」
「はい」
王女だからでも、父上から命じられたからでもない。私が何者だったのかを知ったうえで、それでも自分の意思で一緒に来ると言ってくれる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
少し前までなら「勿体なきお言葉です」と返していただろう。その小さな変化が妙に嬉しかった。
「ところで」
「はい?」
「昔男だったことについては、本当にそれだけ?」
「それだけ、と言われましても……」
「十八年隠してた側としては、もう少し何かあるのかなって」
エルミナは少し考え、それから首を傾げた。
「では、以前の姫様はどのような方だったのですか?」
「そこ?」
「気になります」
「普通の高校生だよ。本当に普通。黒髪で、今より背が高くて、勉強も運動も普通」
「随分と今とは違いますね」
「今の私が普通じゃないみたいに言わないで」
「王女で、剣と魔術を扱えて、騎士団の精鋭と並んで戦える方を普通とは呼ばないと思います」
「……それはそうか」
思えば、ずいぶん遠くまで来た。
「あの頃の私も私だし、今の私も……たぶん、私なんだと思う」
「でしたら、私も今まで通りでいいのでしょうね」
「今まで通り?」
「姫様は姫様です」
「もう姫じゃないって言ったでしょ」
思わず笑った。こんなふうに自然に笑ったのは、王都を失ってから初めてだったかもしれない。
父上も母上も、ハインリヒもどうなったのか分からない。ルヴェルティアの今後も、地球へ帰る方法も何一つ見えてはいない。
何も解決していない。
それでも、十八年間一人で抱えていた秘密を初めて誰かへ話したことで、胸の奥にあった重さはほんの少しだけ軽くなった。
「明日には、国境近くまで行ける?」
「順調なら、明後日には中立国へ入れると思います」
「そっか」
そこから先は、本当に新しい生活が始まる。
王女セレフィーナではなく、セラという一人の旅人として。そして、おそらくは冒険者として。
「エルミナ」
「はい」
「これからもよろしく」
彼女は一瞬だけ目を細め、それから少し慣れない調子で答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。セラさん」
「……おお」
「何です?」
「いや、ちゃんと言えたなと思って」
「話した直後にそれですか?」
「ごめん、ごめん」
少し不満そうな顔をしたエルミナを見て、私はもう一度笑った。
国を失ったことも、あそこへ置いてきた人たちのことも忘れられるはずがない。それでも、地球へ帰るためにも、いつかルヴェルティアへ戻るためにも、まずは生きて前へ進まなければならない。
どちらを選ぶのかは、まだ決められない。
だから今は、エルミナと二人で、その答えを探しに行くことにした。