漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
「初めまして、セレフィーナ・ルヴェルティア殿下」
「…………」
応接室の空気が、一瞬で張り詰めた。
隣に座るエルミナの右手が僅かに下がり、いつでも腰の剣へ届く位置で止まる。柄を握っているわけではないし、ましてや抜こうとしているわけでもない。それでも、長年私の護衛を務めてきた彼女が完全に警戒態勢へ移ったことくらい、私にはすぐに分かった。
もちろん、私だって平静ではいられない。国境では何の問題もなく通され、街を歩いていても、せいぜい裕福な家の娘だと思われた程度だった。それなのに、初めて訪れた冒険者ギルドでこうもあっさり本名を呼ばれるとは思っていなかった。
とはいえ、ここで自分から認める理由もない。
「……人違いではありませんか?」
「そうであれば、こちらとしても話は簡単だったのですが」
「私はセラです。先ほどの登録用紙にも、そう書いたはずです」
「ええ。ですので、冒険者としての登録名はセラで処理いたします」
「…………」
どうやら、男性は私が何と名乗るかを問題にしているわけではないらしい。
「申し遅れました。私はこのギルドのギルド長を務めています」
ギルド長は私とエルミナの反応を一通り確認すると、両手を机の上へ置いた。わざわざ見える位置へ手を出したのは、こちらに対して武器を取る意思がないと示すためなのだろう。
「まず、お二人ともご安心ください。我々に殿下を拘束する意思はありません」
「その言葉を、すぐに信じろと?」
エルミナの声は静かだったけれど、普段より明らかに硬い。
「いいえ。信じていただけるとは思っておりません。ただ、先ほど国境でも説明を受けたのではありませんか?」
「……この国では、国外での身分や争いを理由に勝手に拘束しない」
「その通りです」
ギルド長は頷いた。
「我々冒険者ギルドも、この国の法の下にあります。レーヴェン王国から『セレフィーナ王女を引き渡せ』と言われたところで、それだけを理由にあなたを拘束する権限はありません」
「では、レーヴェンから正式な要請が来ても?」
「要請すること自体は自由です。しかし、この国が応じる義務はありません」
あまりにも迷いのない返答だったが、それでもエルミナの右手はまだ元の位置へ戻っていない。
「……私がここにいることを、レーヴェンへ伝えるつもりは?」
「ありません」
「ルヴェルティアへは?」
「同様です」
「私の両親が生きていたとしても?」
口にした瞬間、自分でも声が僅かに硬くなったのが分かった。
父上と母上、それにハインリヒ。あの日以来、三人がどうなったのか、私は何一つ知らない。
ギルド長は少しだけ表情を和らげたものの、答えそのものを変えることはなかった。
「殿下の許可なく、こちらから所在を知らせることはありません。少なくとも、現時点では」
「……そうですか」
その返答を聞き、ようやく僅かに肩の力を抜く。完全に信じたわけではないものの、少なくとも今この場で私たちを捕らえるつもりはなさそうだった。
「では、一つ聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「どうして私だと分かったんですか?」
今の私にとって、それが一番知りたいことだった。
ギルド長の視線が、再び私の栗色の髪へ向けられる。
「先ほど使用された登録用の魔導具は、個人ごとの魔力の特徴を記録するためのものです。ただし、それ自体が人名を教えてくれるわけではありません」
「じゃあ、あれに触れた瞬間に『セレフィーナ』って出たわけじゃないんですね」
「そのような便利な物ではありませんよ」
その言葉には少しだけ安心した。もし世界中の人間の魔力と名前が自動的に照合されるような魔導具だったら、これから先どうやって身分を隠せばいいのか分からないところだった。
「ただ――」
ギルド長はそこで一度言葉を切った。
「殿下の魔力は、少々……いえ、かなり特徴的です」
「…………」
「登録時に一定の基準を大きく外れた反応が出た場合、受付職員は上位職員へ確認を求める決まりになっています」
「魔力量が多すぎたってことですか?」
「それだけではありません。量もそうですが、魔力には人それぞれ細かな癖があります。登録魔導具は、それを本人識別に使える程度には記録できます」
「でも、私は冒険者登録したことありませんよね?」
「ええ。ですから、魔力情報だけで殿下だと断定したわけではありません」
そこまで聞いて、ようやく話が見えてきた。
「……それで、あなたのところに話が来た?」
「はい」
受付の女性が急に奥へ消えた理由も、それなら納得できる。
「最近届いたルヴェルティア王国に関する情報と、年齢、外見、非常に大きな魔力。それらを合わせれば、可能性はかなり絞れました」
「外見って……」
「髪は随分変わっておられますが、お顔までは変わっておりませんので」
「…………」
やっぱり、そこなのか。
「……髪も切ったし、色まで変えたんですけど」
「ええ。かなり印象は変わっておられます」
「それでも分かったんですか?」
「仕事柄、人の顔を覚える機会が多いものでして」
ギルド長は僅かに苦笑した。
「王族や各国の重鎮、著名な冒険者、軍の上層部などについては、髪型や髪色だけで判断しないよう心掛けています。外交官や商会の幹部なども同じでしょう。立場のある方ほど、服装や髪型を変えて人前へ出ることがありますから」
「……そういうものなんですね」
「一般の方には、今の変装で十分通用すると思います」
そこでギルド長の表情が少しだけ真面目になる。
「ただし、今後はお気をつけください。殿下のお顔をよく知っている者や、我々のように職業柄、国家の要人の顔を覚えている者には、髪型と髪色だけでは見抜かれる可能性があります」
「国家の上の方にいる人ほど危ない?」
「その認識でよろしいかと」
「…………」
せっかく長かった髪を切り、色まで変えたというのに、それだけですべての人間の目を欺けるわけではないらしい。一般人相手には十分通用するそうなので無駄ではなかったけれど、私が思っていたほど万能な変装ではなかったようだ。
「それと」
ギルド長の視線が私の服へ落ちたことで、今度は別の嫌な予感がした。
「その旅装も、できれば変えられた方がよろしいかと」
「……やっぱり?」
「かなり上等ですので」
「今日、それ二回目なんですけど」
「二回目?」
「いえ、なんでもないです」
隣を見ると、エルミナがほんの僅かに視線を逸らしている。絶対に笑うのを堪えている。
「王宮では、かなり地味な服だったんだけどな……」
「王宮を基準になさらない方がよろしいかと思います」
「ですよね」
ここまで言われてしまえば、認めるしかなかった。どうやら王女として十八年間暮らしているうちに、服装に対する私の基準は、自分で思っていた以上に一般的な感覚からずれてしまったらしい。
ギルド長は小さく咳払いすると、改めて話を戻した。
「ともかく、殿下の正体について知っているのは、現時点では受付を担当した職員と、確認に関わった一部の上位職員のみです」
「秘密にしてもらえるんですか?」
「もちろんです。冒険者の個人情報を、不必要に外部へ漏らす理由はありません」
「私は王女ですけど」
「この国では、それも個人情報の一つです」
「……徹底してるんですね」
「中立を名乗る以上、それくらいは必要です」
その答えは、思っていたよりずっと気持ちのいいものだった。
王女だから特別に匿ってくれるわけではなく、かといって亡国の王女だからと他国へ差し出すわけでもない。この国では、私も法の下にいる一人の人間として扱われるらしい。
「一方で、一つだけ確認しておかなければならないことがあります」
「何ですか?」
「この国内で、ルヴェルティア王国の奪還を目的とした軍事活動を行わないでください」
それは予想していた言葉でもあったため、私は黙って続きを待った。
「私兵を集めること、冒険者を兵士として勧誘すること、国内から他国への襲撃を計画すること。その他、国家間の戦争へ直接繋がる行為は禁止されています」
「……私が王女だから?」
「誰であっても同じです」
ギルド長は即答した。
「レーヴェン王国の王族がここへ来て、『ルヴェルティアを攻める兵を集めたい』と言ったところで認めません。殿下だけを制限しているわけではありませんよ」
「分かりました」
「よろしいので?」
「今の私に、軍隊を集める力なんてありませんから」
それは紛れもない事実だったし、だからといってルヴェルティアをこのままにしておくつもりもない。父上や母上がどうなったのかも知りたいし、ハインリヒだってまだ死んだと決まったわけではない。
国を取り戻せるのなら取り戻したいという気持ちも、今なお私の中に残っている。けれど、今の私がそのまま戻ったところで、また同じことになるだけだ。目の前の敵を倒す力があったところで、それだけでは戦争そのものには勝てなかった。
「まずは生きることと、情報を集めることから始めます」
「情報収集そのものは禁止されておりません」
「ルヴェルティアの様子を調べても?」
「通常の方法であれば問題ありません。商人や旅人から話を聞く、ギルドが公開している情報を確認する、情報屋へ金を払う。その程度まで禁止するつもりはありません」
「よかった」
「ただし、ここを軍事拠点にしないこと。それだけはお守りください」
「はい」
私が頷くと、ようやくギルド長の表情から僅かな硬さが抜けた。
隣へ目を向けると、エルミナも私と視線を交わしたあと、ゆっくりと右手を元の位置へ戻している。
「エルミナ」
「はい」
「大丈夫そうだね」
「……今のところは」
「慎重だね」
「姫――セラさんが慎重でなさすぎるのです」
「今、また言いかけたよね?」
「気のせいです」
どうやら最近は、それで押し通すことに決めたらしい。そんな私たちを見て、ギルド長がほんの少しだけ笑っていた。
「何か?」
「いえ。よい関係なのだと思いまして」
「長い付き合いなので」
「十八年になりますね」
エルミナが答える。
前世まで含めれば私には三十四年分の記憶があるけれど、セレフィーナとして生まれてからの十八年間、エルミナはずっと傍にいてくれた。こうして改めて数字にしてみると、本当に長い時間を一緒に過ごしてきたのだと実感する。
「では、本題へ戻りましょう。冒険者登録を完了させます」
「お願いします」
ようやく、本来ここへ来た目的へ戻れるらしい。
ギルド長が卓上の呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして先ほどの受付の女性が応接室へ入ってきた。私はすでに魔力登録を終えているので、残っているのはエルミナの分だけだった。
「では、エルミナさんもこちらへ手をお願いします」
「はい」
持ち込まれた小型の登録魔導具へエルミナが手を置き、魔力を流す。
私の時とは違って今度は何事も起こらず、受付の女性も淡々と確認作業を進めていく。
「……普通ですね」
「何か問題でも?」
「いや、私だけ止められたから」
「姫様の魔力がおかしいだけです」
「姫様」
「…………」
「今のは完全に言ったよね?」
「失礼いたしました、セラさん」
今度は素直に謝ったので、それ以上追及するのはやめておく。十八年間続けてきた呼び方を、国を出て数日で完全に直せと言う方が無理なのだろう。
受付の女性がそのまま手続きを進め、しばらくして私たちの前へ二つの品を差し出した。それを見た瞬間、私は少しだけ目を瞬く。
「……これが冒険者証?」
机の上に置かれたのは、指二本分ほどの幅しかない細長い木札だった。上部には紐を通すための穴が開けられ、表面には私の名前と登録番号、それに六級を示す印が刻まれている。
魔導具でもなければ、触れたところで文字が浮かび上がるような仕掛けがあるわけでもない。本当に、ただの木札だった。
「はい。六級冒険者証になります」
「木なんですね」
「六級は木製です」
受付の女性は、それが当然であるかのように答えた。
「五級へ昇級すれば銅、四級は鉄、三級は鋼、二級は銀、一級は金を用いた冒険者証になります」
「ちゃんと順番に豪華になるんだ」
「等級を見分けやすくする意味もありますので」
隣ではエルミナも、自分に渡された木札を手に取り、興味深そうに確認している。
「でも、どうして六級だけ木なんですか?」
私が尋ねると、受付の女性は一瞬だけ言葉を選ぶような間を置いた。
「……六級は、最も登録者数が多い等級ですから」
「それだけ?」
「紛失する方も多いですし、冒険者を辞める方も少なくありません。それに――」
そこで少しだけ言いにくそうにしたことで、その先に続く理由は私にも察することができた。
「死ぬ人も多いんですね」
「はい」
返ってきた答えは短かった。
登録したばかりの新人は、迷宮の危険も自分の実力も正確に分かっていないことが多い。そういう人間が最も命を落としやすいというのは、考えてみれば当然の話だった。
黒岩迷宮へ初めて入った時のことを思い出す。あの時はリディアという経験豊富な案内役がいて、エルミナも一緒だった。それでも迷宮という場所は、ほんの少し判断を誤っただけで簡単に命を奪う場所だった。
「だから、まずは木なんですね」
「はい。五級へ上がる頃には、少なくとも冒険者として一定の経験を積んでいると判断されます」
「すごく現実的」
「ギルドも無限に予算があるわけではありませんから」
受付の女性が少しだけ笑った。
考えてみれば、王宮で身分を示すために使われていた品には、金や銀、宝石が当たり前のように使われていた。それに対して、今の私に渡された新しい身分証は一枚の木札なのだから、比べれば随分な差である。
「なくした場合はどうなりますか?」
「再発行できます。ただし手数料がかかりますので、できればなくさないようにしてください。重要な依頼を受ける場合などには、登録番号やギルド側の記録と照合することもあります」
「偽物を作ったら?」
「犯罪です」
「ですよね」
見た目がただの木札だからといって、勝手に作っていいわけではないらしい。
私は木札を持ち上げ、そこへ刻まれた文字を改めて眺めた。書かれているのは『セラ』という名前と登録番号、それに六級を示す刻印だけで、セレフィーナ・ルヴェルティアという名も、第一王女や王位継承者といった肩書きもどこにもない。
「……本当に、これだけなんだ」
「何か不足がございましたか?」
受付の女性に尋ねられ、私は慌てて首を振った。
「いえ。そうじゃなくて」
もう一度、手の中の木札を見る。
「王女とか、ルヴェルティアとか、そういうのは何も書かれないんですね」
「冒険者登録に必要ありませんので」
「……そっか」
言われてみれば当然のことなのに、どこか不思議な気分だった。
生まれてから十八年間、私はずっとセレフィーナ・ルヴェルティアとして生きてきた。名前を名乗ればそれだけで相手には誰なのか伝わり、王女という肩書きもまた、生まれた瞬間から当たり前のように私について回っていた。
それを嫌っていたわけではない。むしろ国を失った今になって初めて、私は思っていた以上にあの立場も、あの国も、自分自身の一部として受け入れていたのだと気づかされている。
だから、この木札を受け取ったからといって、私がセレフィーナ・ルヴェルティアでなくなるわけではない。それでも今、この国で生きていくために名乗るのは、そこに刻まれたもう一つの名前だった。
「六級冒険者、セラ……か」
小さく呟く。
「不満ですか?」
エルミナが尋ねてくる。
「ううん」
首を振り、木札を握り直した。
「ちょっと不思議なだけ」
「そうですか」
「エルミナも六級だね」
「そのようですね」
「私たち、同じところから始めるんだ」
これまでのような王女と侍女、あるいは護衛対象と護衛という立場ではなく、少なくともこの木札の上では、私たちは同じ六級冒険者として並んでいる。
「よろしくね、エルミナ」
そう言って木札を見せると、エルミナも自分の冒険者証を持ち上げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。セラさん」
今度は間違えなかった。
私が少し笑うと、エルミナは何とも言えない顔をする。
「何ですか?」
「ちゃんと言えたなと思って」
「いつまでも失敗すると思わないでください」
「さっき三回くらい失敗してたけど」
「……善処します」
それ以上からかうのはやめておいた。
これから先どうなるのかは、まだ何も分からない。ルヴェルティアのことも、父上と母上のことも、ハインリヒのことも何一つ解決しておらず、地球へ帰る方法だって手掛かりすら見つかっていない。
だからこそ、今は立ち止まっているわけにはいかなかった。まずは生き延び、情報を集め、もっと力をつけて、いつか自分自身で進む先を選べるようになる。そのための最初の一歩が、どうやらこの小さな木札らしい。
王女だった私が、初めて「セラ」という名前で手に入れた身分証は、宝石も金も使われていない、少し頼りない木製の冒険者証だった。
それでも今の私には、これで十分だった。
私は新しく手に入れた木札を大切にしまうと、同じ六級冒険者になったエルミナと一緒に席を立った。