漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
五級冒険者になった翌朝、私たちはいつもより少し遅い時間に冒険者ギルドを訪れていた。
今日は六級だった頃のように、朝一番で条件の良い依頼を探しに来たわけではない。目的は、この国にある迷宮について情報を集めることだった。
「まずは地図かな」
「そうですね。あとは出現する魔物と、危険な場所についても確認しておいた方がよいでしょう」
「食料や水も多めがいいかな?」
「日帰りの予定でも、一日分余計に持っていきましょうか」
「……エルミナ、昨日から楽しそうじゃない?」
「そのように見えますか?」
「ちょっとだけ」
本人は否定しそうだけれど、必要な物を一つずつ確認しているエルミナは、どことなく生き生きしているように見えた。
王宮にいた頃から、彼女は私の身の回りのことを整えるのが好きだった。今はもう侍女として仕える必要などないはずなのに、こうして旅の準備をしている姿を見ると、その辺りはあまり変わっていない気もする。
「セラさんが何も考えずに迷宮へ入ろうとなさるので、私が考えているだけです」
「何も考えずには入らないよ」
「昨日、『明日にでも行ってみる?』と仰っていましたが」
「……ちゃんとエルミナが止めてくれると思ってたから」
「それは胸を張って言うことではありません」
そんな会話をしながら、ギルドの奥に設けられた資料閲覧用の区画へ向かう。
この街の冒険者ギルドは利用者が多いだけあって、迷宮関連の資料もかなり充実していた。入口付近の大まかな地図なら無料で閲覧でき、より詳しい地図や魔物の分布、採取物の記録などは購入することもできるらしい。
「すごい量だね……」
棚に並べられた資料を見上げ、思わず声が漏れる。
黒岩迷宮にも地図や記録はあったけれど、ここに並んでいる量とは比べものにならない。この国の迷宮は、それ自体が国家の経済を支えるほど巨大なのだ。長い年月をかけて冒険者たちが持ち帰ってきた情報も、それだけ膨大になるのだろう。
「全部覚える必要はありませんよ」
「分かってる。とりあえず浅いところだけでしょ?」
「初めてなのですから」
「はいはい」
まずは初心者向けと書かれた資料を一冊手に取る。
中には、迷宮の入口から浅層までの主要な道や、休憩しやすい場所、比較的安全な採取区域などがまとめられていた。注意すべき魔物や触れてはいけない植物についても簡単な説明があり、初めて迷宮へ入る冒険者向けの内容になっている。
読み進めているうちに、黒岩迷宮へ初めて入った頃のことを思い出した。
あの時も事前に地図を確認したけれど、十三歳だった私には分からないことの方がずっと多かった。迷宮での歩き方や罠の見つけ方、魔物が残した痕跡まで、一つずつ教えてくれたのがリディアだった。
「……リディア、元気かな」
「リディアさんですか?」
「うん。あの時はいろいろ教えてもらったし」
五年も経っているのだから、今も同じ土地で冒険者をしているとは限らない。それでも、こうして迷宮の地図を眺めていると、自然と彼女のことを思い出してしまう。
「腕の良い方でしたね」
「今なら、もう少しちゃんと役に立てると思うんだけど」
「当時も十分役に立っておられましたよ」
「十三歳だったからね」
当時だって魔物と戦うことはできたけれど、探索そのものに関してはリディアへ頼りきりだった覚えがある。この五年間で実戦経験も増えたのだから、今ならもう少しまともな冒険者らしい動きができるはずだ。
「年齢の問題ではない気もしますが」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
「……納得いかない」
エルミナはそれ以上説明するつもりがないらしく、何事もなかったように手元の資料へ視線を戻してしまったので、私も諦めて続きを読むことにした。
それからしばらくは、二人で地図と説明書きを見比べながら、浅層で必要になりそうな情報を確認していった。
入口付近は人の出入りが非常に多く、主要な道には目印も設けられているらしい。それでも脇道へ入れば罠や魔物は存在するし、迷宮内部の一部は時間とともに構造が変わることもあるという。
「黒岩迷宮と似てるところもあるね」
「迷宮というもの自体に、ある程度共通する性質があるのかもしれません」
「その辺も調べたいな……」
気になる項目へ指を置きながら、もう一冊別の資料を取ろうと棚の間へ視線を向ける。すると、少し離れた通路を歩いていく人影が目に入り、私は何となくその後ろ姿を視線で追った。
「……あれ?」
日に焼けた肌に、後ろでまとめた茶色の髪。背には弓を負い、腰には二本の短剣が下がっている。
五年前より多少雰囲気は変わっているし、装備も以前とまったく同じではない。それでも見覚えのある姿に、私は隣のエルミナへ声を掛けた。
「エルミナ」
「はい?」
「あの人……ちょっと見て」
声を落として示すと、エルミナも資料から顔を上げる。
女性の後ろ姿をしばらく確認したあと、その青灰色の瞳が僅かに見開かれた。
「……リディアさん、でしょうか」
「やっぱりそう見えるよね」
「ええ。髪型も特徴も記憶と一致しています」
私たちと違って、向こうは正体を隠すために姿を変えているわけではない。五年という時間を考えても、人違いの可能性はかなり低そうだった。
「声かけてみようかな」
「人違いでしたら謝れば済むでしょう」
「それもそうだね」
手にしていた資料を棚へ戻し、その女性の後を追う。ちょうど別の書架の前で足を止めたところへ近づき、少し距離を残したまま声を掛けた。
「すみません」
「はい?」
振り返った女性と目が合う。記憶にあるものと同じ緑色の瞳を見れば、もう間違いないと思えた。
「……リディア?」
「え?」
名前を呼ばれた彼女は、明らかに困惑した顔で私を見る。それも当然だろう。五年前には膝より下まであった黒髪は肩を越える程度まで短くなり、今は暗い栗色に染めている。服装だって王女だった頃とはまったく違い、今の私はどこから見ても若い女性冒険者だ。
「久しぶり」
「……?」
やはり分かっていないらしく、リディアは記憶を探るように私の顔を見つめているものの、それだけで答えへ辿り着く様子はなかった。少しだけおかしくなりながら、私は後ろから追いついてきたエルミナへ視線を向ける。
「エルミナもいるよ」
「お久しぶりです、リディアさん」
「エルミナさん……?」
そこで初めて、リディアの表情が大きく変わった。エルミナを見て、それからもう一度私へ視線を戻す。顔立ちを確かめ、声を思い返すように眉を寄せたあと、最後に私の紫色の瞳へ目を止めた。
「…………まさか」
「たぶん、そのまさか」
「ひ――」
何かを言いかけたところで、リディアは自分から口を閉じ、そのまま素早く周囲へ視線を巡らせる。
さすがだった。
詳しい事情までは知らなくても、髪を切り、色まで変えた私がこんな場所で冒険者の格好をしている以上、以前の呼び方を大声で口にするべきではないと察してくれたらしい。
「……場所を変えませんか?」
「お願い」
◇ ◇ ◇
ギルド内にある、小さな休憩室の一つへ移動した。
完全な密室ではないけれど、扉を閉めれば外から会話の内容までは聞こえにくい。席に着いて周囲に人がいないことを確かめると、リディアは改めて私の顔をまじまじと見つめた。
「……やっぱり、姫殿下だったんですね」
「うん。でも、今はセラって名乗ってるから、できればそう呼んでほしいかな」
「セラ……ですか」
リディアは一度その名前を口の中で確かめるように呟いてから、ゆっくり頷いた。
「分かりました。人前ではセラさんとお呼びします」
「人前じゃなくても、それでいいよ」
「……努力します」
少し困ったように笑う様子を見ると、五年前の呼び方をすぐに変えるのは難しいらしい。それについては、隣にもっと分かりやすい前例がいる。
「エルミナもまだたまに間違えるから」
「たまにです」
「最近も薬草採ってる時に――」
「セラさん」
「はい」
静かな声なのに妙な圧を感じて、それ以上は言わないことにした。向かいに座っていたリディアは、そんな私たちのやり取りを見て小さく笑う。
「見た目は随分変わったのに、お二人の感じはあまり変わっていませんね」
「五年経ったんだけどなあ」
「最初、本当に分かりませんでしたよ」
「やっぱり?」
「ええ。知らない女性に突然名前を呼ばれたと思いました」
当然と言えば当然だった。
リディアの視線が、改めて私の短くなった髪へ向かう。
「髪の色も長さも違いますし、服装もまったく違いますから。エルミナさんがいなければ、もう少し気づくのに時間がかかったと思います」
「声だけじゃ無理だった?」
「聞き覚えはありました。でも、五年前に数日ご一緒しただけですからね」
「そりゃそうか」
むしろ、エルミナを見たあとに私まで思い出してくれただけでも十分なのだろう。変装がきちんと機能していることも分かり、少し安心した。
「それで……どうしてお二人がここに?」
そこでリディアの表情が少し真剣なものへ変わる。
「王都のことは聞いています。だから、余計に」
「うん。ちょっと長くなるけど」
私は声を落とし、話せる範囲で事情を説明することにした。
レーヴェンとの戦争で王都が陥落し、父上の命令でエルミナと二人、西へ逃れたこと。追跡を避けるために髪を切って色を変え、この国まで辿り着いたこと。そして、これから生活していくためと今後の行動の自由を得るために、冒険者として登録したこと。
前世や地球についてまでは話さない。リディアは信頼できる人だと思っているけれど、それと何もかも明かすことは別だった。
私が話している間、彼女はほとんど口を挟まなかった。時折表情を曇らせながらも、最後まで静かに耳を傾けてくれる。
「……そうだったんですね」
話し終えたあと、リディアはしばらく考えるように視線を落としてから口を開いた。
「王都が落ちたところまでは、こちらにも情報が届いています。でも、その後のセラさんの行方については、いろいろな噂が流れていました」
「どんな?」
「レーヴェンに捕らえられたとか、国外へ逃れたとか、戦死したとか。向こうが保護しているという話までありましたね」
「保護ねえ……」
その言葉に、隣のエルミナの表情が僅かに険しくなる。私も、少なくとも自分からその「保護」を受けに戻ろうとは思えなかった。それよりも、各地を移動している冒険者のリディアなら、聞いておきたいことがある。
「父上たちのことは?」
口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。リディアは申し訳なさそうに眉を下げ、それからゆっくり首を横に振る。
「確かなことは何も知りません。王と王妃についても、騎士団長についても噂はいくつか聞きました。でも、どれも私自身が確認した情報ではありません」
「……そっか」
「すみません」
「ううん。分からないなら、それでいいよ」
期待していなかったと言えば嘘になるけれど、生きているという根拠のない噂も、死んだという根拠のない噂も、今の私には同じだった。不確かな話を事実だと思い込むより、分からないものは分からないままにしておいた方がいい。
父上も母上も、ハインリヒも、今どこで何をしているのか分からないのなら、確かな情報が見つかるまでは探し続けるしかない。
「そういえば、リディアはどうしてここに?」
少し重くなった空気を変えるように尋ねると、リディアもこちらの意図を察したのか、表情を緩めた。
「私は普通に仕事ですよ。冒険者ですから」
「それはそうなんだけど」
「少し前からこの国に滞在しています。ここの迷宮は素材も多いですし、探索や地図の更新に関する仕事も豊富なので」
「じゃあ、さっき資料のところにいたのも?」
「地図更新の仕事を一件終えたので、古い資料との違いを確認していたところです。あとで報告書を出す予定でした」
「なるほど」
それなら、あの場所で出会ったのもまったく理由のない偶然ではないらしい。迷宮について調べるために資料区画へ来た私たちと、迷宮の地図を更新する仕事をしていたリディアだからこそ、同じ場所に居合わせたということなのだろう。
「リディアは今も三級?」
「ええ」
そう言って、彼女が首から下げている冒険者証を軽く持ち上げる。鋼製の札は、私たちの銅札とは材質からして違っていた。
「五年前から三級だったよね」
「三級から上は、そう簡単には上がりませんからね。私自身、特に急いでもいませんし」
「そうなんだ」
「それより、私もさっきから気になっていたことがあるんですが」
今度はリディアの視線が、私の首元へ向かった。そこには昨日受け取ったばかりの、銅製の冒険者証が下がっている。
「それ、五級の冒険者証ですよね?」
「うん。昨日上がったばかり」
「昨日?」
「冒険者登録したのは一週間前だよ」
私がそう答えると、リディアはしばらく何も言わず、私の顔と銅札を交互に見比べた。
「……何をなさっているんですか」
「冒険者?」
「それは見れば分かります」
少し強めに返された。
「いや、だって生活費も必要だし、この国で動くなら冒険者になった方が便利だから」
「理屈は分かりますけど……」
リディアは額へ手を当て、何とも言えない顔で息を吐いた。
「五年前には王宮から護衛付きで黒岩迷宮へ来ていた姫殿下が、今は五級冒険者の銅札を下げているんですよ。少しくらい驚かせてください」
「今はセラだって」
「……セラさんが」
「うん」
「慣れるまで少し時間をください」
「いいよ」
困惑しているのは分かるけれど、嫌そうには見えない。むしろ王都陥落後の私が、想像していたより元気そうにしていることへ、少し安心してくれているようにも見えた。
「でも、冒険者生活は結構楽しいよ」
「それは見れば分かります」
「そんなに?」
「先ほどから迷宮の資料を読む顔が、昔とほとんど同じでしたから」
「……それは褒められてる?」
「今回は褒めています」
今回は、という部分が少し気になったけれど、追及はやめておいた。
「それで、今日は迷宮の資料を調べに来たんですか?」
「うん。昨日五級になって、ようやく入れるようになったから」
そう答えると、リディアの表情が少し引き締まり、先ほどまでとは違う冒険者としての顔になる。
「この国の迷宮に入るのは初めてですよね?」
「もちろん」
「お二人だけで行くつもりでしたか?」
「そのつもりだったけど、まず情報を集めろってエルミナに言われたところ」
「それが正解です」
「リディアまで……」
エルミナと同じことを即答されてしまった。どうやら知らない迷宮へ入る前に情報を集めるというのは、経験のある冒険者からすれば考えるまでもないことらしい。リディアは少し考えるように腕を組み、私たち二人を順番に見た。
「明日は空いていますか?」
「空いてるよ」
「でしたら、最初の一回くらい私も付き添いましょうか」
「いいの?」
「明日は急ぎの仕事を入れていませんし、ここの浅層なら何度も歩いています。地図を見るだけより、一度実際に歩いてみた方が覚えやすいでしょう」
思ってもいなかった申し出だったけれど、私としてはありがたい。五年前にも案内してもらった相手なら腕も分かっているし、安心して任せることができる。
「でも、それだとリディアの仕事にならないよね」
「一日くらいなら構いませんよ。知り合いを案内する程度――」
「それは駄目です」
そこで、それまで静かに話を聞いていたエルミナが口を挟んだ。
「お願いするのでしたら、案内料はお支払いします」
「いや、そこまでしなくても」
「三級冒険者の専門技能を一日拘束するのですから、当然です」
「相変わらず堅いですね……」
「当然のことを申し上げているだけです」
エルミナは一歩も譲る気がないらしいけれど、私としても今回はその方がいいと思った。五年前の私は王女で、リディアは父上が雇った冒険者だった。けれど今は、私たちも同じ冒険者として生活している。
好意に甘えるのではなく、専門家へ仕事を頼むなら対価を払う。それくらいのことは、今の自分たちでできるようになりたかった。
「じゃあ、ちゃんと払わせて」
「セラさんまで」
「今は私たちも冒険者だからね」
「……分かりました」
二対一では勝てないと思ったのか、リディアが観念したように肩をすくめる。
「では、一般的な一日分の案内料で。昔の分まで請求したりはしませんから安心してください」
「昔の分は父上が払ってたはずだから」
「そうでしたね」
何気なく返したあとで、ほんの少しだけ空気が止まった。
父上という言葉は、今もあまりにも自然に口から出てくる。生きているのか、どこにいるのかさえ分からないのに、私の中では今でも変わらず父上のままだ。
リディアはそのことには触れず、机の上に置かれていた迷宮の地図へ視線を落とした。
「明日は浅層から見て回りましょう。最初から深く潜る必要はありません。主要な道や魔物の痕跡、危険な脇道の見分け方を確認するだけでも、最初の探索としては十分です」
「お願いします」
「任せてください」
話がまとまると、明日の待ち合わせ時間や必要な装備について簡単に確認していく。
五年前にも、私はこうしてリディアから迷宮へ入る前の説明を受けていた。あの頃の私は十三歳で、実戦経験こそあったものの、探索に関しては知らないことの方がずっと多かった。
それから五年が経ち、私は戦場に立ち、国を失い、身分を隠して冒険者になった。あの頃とは立場も生活も大きく変わっているのに、再び同じ人に迷宮を案内してもらうことになるとは思わなかった。
「またリディアに案内してもらうことになるとは思わなかったな」
「私もですよ」
「今度はちゃんと冒険者同士だね」
そう言うと、リディアは私の首元にある銅札をちらりと見てから、小さく笑った。
「……そうですね。では明日は、五級冒険者のセラさんとして扱わせてもらいます」
「うん。それでお願い」
今回の再会は偶然ではあったけれど、まったく縁のない場所で突然出会ったわけではない。
巨大な迷宮を抱える国で、迷宮の情報を求めてギルドへ来た私たちと、地図更新の仕事をしているリディアが同じ資料区画にいた。その結果として再び顔を合わせたのなら、これも冒険者になったからこその再会なのかもしれない。
明日は、リディアと一緒にこの国の迷宮へ入る。
五年前とは立場も名前も変わったけれど、今度は王女としてではない。五級冒険者セラとして、初めてこの国の迷宮へ足を踏み入れることになる。