漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
王宮図書館の奥には、子供が読むには少々――いや、かなり可愛げのない本ばかりが集められた一角がある。
魔学理論。古代術式。空間干渉。魂魄研究。宗教史。そして今、私の目の前には、その中でも特に可愛げのない分厚い一冊が開かれていた。『高次空間座標における魔力位相の固定と転移術式への応用』
「…………」
私は黙って、羊皮紙のページをめくった。数秒後。
「……分からん。全く分からん」
「姫様」
「今のはただの独り言」
「左様でございますか」
背後から静かに降ってきた声に振り返れば、少し離れた机で優雅に刺繍をしていたエルミナが、何食わぬ顔でこちらを見ていた。
「ちなみに、どのあたりからお分かりにならなかったので?」
「題名から」
「それは重症でございますね」
「うるさいなあ」
私は唇を尖らせ、再び難解な数式の羅列へ視線を戻した。
城下町を視察してから数日。剣術の厳しい稽古も続いているし、各種の授業もある。王女として覚えなければならないことは山ほどあった。けれど、それとは別に。私は以前から、空いた時間を使ってあることをずっと調べ続けていた。
――地球へ帰る方法だ。
この世界に生まれて八年。赤ん坊だった頃は何もできなかった。言葉すら分からないし、歩けるようになっても勝手に王宮を出歩けるわけではない。
それでも、文字を覚えてからは少しずつ本を漁るようになった。最初に調べたのは、当然ながら『魔法』だった。魔法が存在するファンタジー世界なのだ。ならば、元の世界へ帰る方法だって魔法で何とかなるのではないか。我ながら、いかにも異世界転生者らしい単純で楽観的な発想だったと思う。
だが、調べ始めてみれば、現実はそう甘くなかった。転移術は存在する。遠く離れた場所へ人や物を一瞬で移動させる術式もあるらしい。召喚術というものも、神話の時代には研究されていた。
死者の魂について論じた宗教書もあったし、人が生まれ変わるという伝承も世界各地に残されている。だから最初の頃は期待した。これなら、いつか帰れるかもしれない、と。
しかし、少し知識が増えれば増えるほど、逆に問題の『果てしなさ』が見えてきた。
「……やっぱり、これも同じ世界の中での転移なのよね」
小さく呟きながら、本の図解を指でなぞる。描かれているのは、二つの地点を術式で繋ぐ模式図だった。A地点から、B地点へ。両者の空間座標を魔力によって固定し、その間を短絡する。
理屈だけ聞けば簡単そうだが、実際には極めて高度な魔法らしい。何しろ、少しでも転移先の座標指定を間違えれば、壁の中や地中に身体の半分が埋まった状態で現れかねない。当然、人間相手に使える術者など世界でも一握りだ。
でも、今の私にとって重要なのはそこではない。どれだけ正確に、どこまで遠くへ飛べるのか。私の帰りたい『地球』はどこにあるのか、という問題だ。北か。南か。海の向こうか。星の彼方か。そもそも、この世界と同じ宇宙に存在しているのか。それが全く分からない。
私は、日本の実家の住所なら覚えている。県も、市も、最寄り駅も覚えている。玄関までの道だって目を閉じても歩ける。でも、それは地球に存在する住所だ。この世界の地図をどれだけ広げても、日本などどこにも載っていない。
「……場所の座標が分からないんじゃ、転移魔法も使いようがないよね」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもない」
「左様でございますか」
エルミナはそれ以上追及しなかった。私は昔から図書館で妙な本ばかり読んでいる。今さら空間魔法の専門書を開いていたところで、「姫様はまた難しいことをお調べに」と思われる程度なのだろう。
けれど、独学もそろそろ限界だった。読めないのだ。正確には、文字そのものは読めるのだが、意味が全く頭に入ってこない。術式座標だの位相固定だの魔力偏差だの、八歳児が一人で理解するには専門的すぎる。
前世が高校生だったとはいえ、魔法については完全な素人だ。高校で習った数学的思考が多少役に立つ部分はあっても、それでいきなり大学院レベルの専門書が読めるわけではないのと同じだった。
私は重い本をパタンと閉じ、机へ突っ伏した。
「……限界かなあ」
もう少し、魔学そのものを基礎から学ばなければならない。少なくとも、自分一人で本を読むだけではこれ以上先へ進めそうになかった。
◇ ◇ ◇
「本日は、空間魔法の基礎についてお話しいたしましょう」
その日の午後。魔学の授業で、担当の宮廷魔導士がそう告げた瞬間、私は思わず顔を上げた。
王族用の広い講義室。黒板代わりの魔導板の前に立つのは、王宮に仕える宮廷魔導士の一人である老紳士だ。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、細い銀縁眼鏡をかけた温和な人物で、私がまだ幼い頃から魔学の基礎を教えてくれている。
「空間魔法、と一口に申しましても用途は様々です。収納術式、空間固定、遮断結界。そして高位の術者が扱うものとして『転移術』がございます」
きた。私は無意識に背筋をピンと正した。先生が指先で魔導板に触れると、淡い光が走り、二つの円が浮かび上がった。
「転移術とは、簡単に申せば離れた二点の間に一時的な経路を作り、物体あるいは人間を移動させる術です」
「先生」
「はい、姫殿下」
「それって、どれくらい遠くまで行けるんですか?」
先生が少し目を丸くした。普段の私は質問こそするものの、ここまで食い気味に割り込むことはあまりないからだろう。
「距離だけで申せば、理論上はかなり遠方まで可能です。ただし、距離が伸びるほど、必要な魔力量も術式の複雑さも加速度的に増してまいります」
「国の端から端までは?」
「条件さえ整えば可能でしょう」
「海の向こうは?」
「転移先の地理を正確に把握していれば」
「じゃあ、もっと遠くは?」
「もっと、とは?」
「……例えば」
私は一瞬だけ言葉に詰まった。地球。そう言えれば簡単だ。でも、さすがにそれはできない。私は少し考え、なるべく子供らしく聞こえる言葉を選んだ。
「ものすごく遠い場所。誰も行ったことがないようなところとか」
「難しいでしょうな」
「距離が遠すぎるから?」
「いいえ」
先生は静かに首を横に振った。
「場所が分からないからです」
「……やっぱり?」
思わず漏れた落胆の言葉に、先生が片眉を上げた。
「姫殿下は、ご自身で何かお調べになっておられましたかな?」
「図書室で、少しだけ」
「なるほど」
どうやら、それだけで納得してくれたらしい。先生は再び魔導板へ向き直る。
「転移術でもっとも重要なのは、行き先を正しく定義することです。魔力や距離は、その次の問題に過ぎません」
「行き先を、定義する?」
「はい。位置。高さ。周囲の物質。魔力場。高等術式ともなれば、天体の運行による誤差まで計算に考慮いたします」
魔導板に、目まぐるしくいくつもの数字と記号が現れた。私は目を細める。さっぱり分からない。
「では姫殿下。仮に、誰も見たことも聞いたこともない土地へ転移するといたしましょう」
「はい」
「その場所を、術式へどのように教えますか?」
「……分からない」
「そういうことです」
先生は穏やかに頷いた。
「転移術は、どこにでも行ける便利な魔法ではございません。むしろ、自分が『どこへ行くのか』を明確に知っているからこそ成立する術なのです」
「じゃあ……存在することや名前だけ知っている、とかでも?」
「同じ名の土地など、この広い世界にはいくらでもございますからな。この世界の地図上で位置を特定できるのであれば、大いに役には立ちます。しかし――」
先生は少し考えるように私を見つめ、残酷な事実を口にした。
「その場所が、『この世界の地図の上に存在しない』のであれば、意味はありません」
胸の奥に、冷たくて重い石が落ちたような気がした。分かっていた。図書館で調べて、薄々そうだと思っていた。それでも専門家の口から断言されると、予想以上に心に堪える。日本の住所を覚えている。家の形も覚えている。玄関の色も。リビングのソファの沈み具合も。生意気な妹の部屋の扉に貼ってあった、色褪せたアニメのシールも。
でも、この世界の魔法はそれを『座標』として認識できない。繋がりようがないのだ。私は、宇宙規模の迷子だった。
「……先生。死んだ人って、どこに行くんですか?」
自分でも、随分と唐突で子供らしい質問だと思った。先生もそう思ったらしい。数秒、黙って私の顔を見た。
「それは……魔学というより、神学の領分でございますな」
「天国とか地獄とか、本当にあるんですか?」
「宗派によって答えは異なります」
「先生は、どう思いますか?」
「一人の魔導士として申し上げるならば、確認された例はございません、としか」
「ないの?」
「ですが、『存在しない』と証明されたわけでもございません」
私は弾かれたように顔を上げた。
「じゃあ、あるかもしれない?」
「可能性の有無を論じるだけならば」
先生は口髭を揺らして少しだけ苦笑した。
「もっとも、死後の世界があるからといって、ちょっと見学に行って帰ってきた者はいませんがね」
「……そうですよね」
私は机へ視線を落とした。魂。死後。転生。現に、私自身がここにいる。少なくとも私は一度、死んだ時の記憶は残っていないが地球での人生を終え、この世界で生まれ直したのだ。ならば魂は存在するし、世界を跨ぐ移動も起き得る。そう考えたくなる。でも、それを証明する方法がない。自分の前世の記憶を見せることだってできない。
「じゃあ……別の世界は?」
私の言葉に、先生の表情が少し変わった。
「別の世界、ですかな?」
「ほら、おとぎ話にあるでしょう? 私たちが住んでるところとは全然違う世界」
「ああ、なるほど」
先生は合点がいったように頷いた。
「
私は思わず身を乗り出した。
「そういうのって、本当にあるんですか?」
「分かりません」
あっさりと、迷いなく言われた。
「魔学は、分からないことを分かったふりをする学問ではございませんので」
先生はそう胸を張ってから、少し楽しそうに続けた。
「存在するという証拠はない。存在しないという証拠もない。現在のところは、それだけです」
「……」
無い、とは言わなかった。胸の奥の冷たい石の隣に、小さな灯りがともった気がした。
「魔法の存在しない世界を描いた幻想小説などもございますよ」
「…………え?」
私は、雷に打たれたように固まった。今、何と言った?
「今、魔法がない世界って言いました? そんな物語が、この世界にあるんですか?」
「ええ。珍しくはありますが」
必死すぎる私に、先生が不思議そうに首を傾げる。
「どんな話でしょうか」
自分でも分かるほど、声が前のめりになった。
「そうですな……。私が知っているものですと、『灰色の空の向こう』という古い幻想譚がございます。およそ二百年ほど前の作品だったと思いますが、魔力というものが一切存在しない世界を旅する男の物語でして」
ドクン、と。心臓が一度大きく鳴った。
「魔力が……ない? じゃあ、明かりはどうするの?」
「火を使います」
「夜の街は?」
「物語の中では、魔力を用いずに光を生み出す特殊な仕組みが登場しますな」
「…………」
「他にも、馬を使わずに走る鉄の車。遠く離れた者同士が声を届け合う箱。巨大な金属の乗り物が空を飛ぶ場面などがあったはずです」
聞き間違いではなかった。私は息をするのも忘れ、何も言えなくなった。魔力を使わずに光る街。馬を使わずに走る乗り物。遠く離れた相手と会話する道具。空を飛ぶ巨大な金属の乗り物。もちろん、それだけなら偶然の一致かもしれない。
この魔学文明の世界にだって前世の機械のような魔導具はある。人間が「便利なもの」を想像する方向なんて、案外似ているのかもしれない。でも。どうして。どうしてそんなものを、二百年も前の人間がここまで正確に想像できた?
「先生。その本を書いた人って、どんな人ですか?」
「さて……。そこまでは覚えておりませんな。著名な文学者というわけでもありませんでしたし。作品自体も、学術的価値より奇抜な幻想譚として知られておりますので」
「王宮の図書館にありますか?」
「おそらくは」
「どこですか? 読みたいです。今すぐ」
「姫殿下? 今は授業中でございますが」
「……申し訳ございません」
先生が呆れたように笑った。でも、私はもう、その後の授業内容など全く頭に入ってこなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。私は王宮図書館の机に、一冊の古びた本を置いていた。表紙は色褪せ、革張りの角は擦り切れている。『灰色の空の向こう』。著者の名前も書かれていたが、聞いたことのない名前だった。
そっとページを開く。物語そのものは、先生が言った通りだった。ある旅人が、不思議な眠りをきっかけに『魔法の存在しない世界』へ迷い込む。
そこでの人々は魔力を持たないし、魔石もなく、魔導灯もない。その代わりに火や水や風を、機械という道具で操る。鉄の車が道を走り、巨大な建物が街に立ち、離れた場所にいる相手とも道具を通じて言葉を交わす。
もちろん、私の知る地球とまったく同じではなかった。国の名前も違う。文化も違う。服装も違う。描かれている機械も、私が知っているものとは妙に形が違っている。中には「いや、それはさすがに無理だろう」と思うような荒唐無稽なものまで出てきた。
だから。決定的な証拠にはならない。ただの空想だと言われれば、それまでだ。この世界の人間が、自分たちとは正反対の世界を想像しただけなのかもしれない。私たちの世界に、魔法使いやドラゴンが出てくる小説がいくらでもあったように。
魔法が当たり前の世界なら、「魔法がない世界」を舞台にした物語があっても何も不思議ではない。分かっている。それでも。私はページをめくる手を止められなかった。
「……これ」
小さく声が漏れる。作中で主人公が、魔法のない世界の住人へ尋ねる場面があった。
『なぜ魔法を使わず、これほど遠くの人間と話せるのか』
その答えとして書かれている理屈は、前世の私から見てもかなり曖昧で、ファンタジー寄りだった。でも。そこには、こうある。『声そのものを遠くへ運ぶのではない。声を一度、目に見えぬ別の形へ変換し、それを遠くへ送り、向こうの箱で再び声へ戻すのだ』
「……っ」
私はたまらず本を閉じた。心臓がうるさい。――これ、電話と同じ発想じゃないか。ただの空想かもしれない。作者が偶然、似た考えへ辿り着いただけかもしれない。そもそも地球と同じ世界を描いている保証なんてどこにもない。
でも。もし、もしも、そうじゃなかったら。私はもう一度、表紙の著者名を見る。二百年前。魔法のない世界を、通信技術の概念まで描いた人物。もし、この人が――私と同じように、地球を知っていた人間だったとしたら。
「姫様?」
隣から声がして、私はびくりと肩を揺らした。いつの間にか、エルミナが立っていた。
「……びっくりした」
「何度かお声をかけたのですが」
「ごめん。集中してた」
「随分とお気に召されたご本なのですね」
私は本へ視線を落とした。何と説明したらいいのか分からない。下手に説明しようものなら、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だから、今はまだ言えなかった。
「……エルミナ。もし、自分が探してるものについて、ずっと昔の誰かが何か知ってたかもしれないって分かったら、どうする?」
エルミナは少し考えた。
「その方が何を見つけたのか、調べに行くと思います」
「やっぱり?」
「私でしたら、そういたします。まずは足跡を追うことからかと」
「だよね」
それだけ聞ければ十分だった。私は本を抱き締めるように持ち上げる。この物語の作者について調べよう。どこで生まれた。どんな人生を送った。何を見た。何を残した。この物語を書く前に、どこへ行ったのか。
ただの空想だったとしても構わない。それならそれで、確認すればいい。でも、もし。ほんのわずかでも、私と同じような人間が過去にいた可能性があるのなら。追わない理由なんてなかった。
地球へ帰りたい。父さんと母さんと妹がいる、あの家へ。
その気持ちは、城下町を歩いても変わらなかった。この世界に好きなものが増えても。剣を振るうことが楽しくなっても。エルミナと過ごす時間が当たり前になっても。ルヴェルティアに「また行きたい場所」ができても。
それと、帰りたいと思うことは別だ。私はまだ、帰り道を知らない。どちらを向いて歩けばいいのかすら分からない。それでも今日。初めて。暗闇の向こうに、小さな手掛かりという光が見えたような気がした。
もしかしたら。私より前にも、この世界へ来た人がいたのかもしれない。そして、その人が帰り道のヒントを何か残しているのかもしれない。
「……調べよう」
「何をでございますか?」
「秘密」
「左様でございますか」
エルミナはそれ以上尋ねず、いつものように優しく微笑んだ。私はもう一度、古びた本の表紙を見る。まだ何も分かっていない。これが本当に手掛かりなのかどうかさえ。
けれど。帰るために『何を調べればいいのか』。その最初の一歩だけは、ようやく見つけられた気がした。
これで幼女時代終了です。
次回からは5年経過して少女時代(13歳)になります。