漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
「おお……今日はドレスじゃなくて、ちゃんと冒険者らしい格好なのね」
「もちろんでございます」
ダンジョンでの実戦訓練当日。
朝食を終えた私の前には、いつものドレスではなく、黒のズボンと丈夫そうな上衣、それに革製の胸当てや肩当てが並べられていた。
もちろん、ただの革ではない。魔物の革を何層にも重ね、その内部へ薄い金属板を仕込み、さらに衝撃を分散させる魔術式まで組み込んであるらしい。
「もっとこう……全身を金属で覆うようなものを想像してたんだけど」
胸当てを手に取って眺めながら言うと、着替えを手伝っていたエルミナが静かに首を横へ振った。
「迷宮内では、重装備が不利になる場合もございます」
「狭いから?」
「それもございます。段差や崩落、不安定な足場なども珍しくなく、場所によっては身を屈めなければ通れないほど狭い通路もあると聞いておりますので」
「……思ってたより冒険ね」
「ダンジョン探索でございますから」
至極当然といった顔で答えたエルミナは、そのまま私の背後へ回った。
「では、御髪を整えます」
「やっぱりそれも?」
「当然でございます」
腰どころか、今では立てば膝裏まで届こうかという髪を垂らしたまま迷宮へ入るほど、さすがの私も無謀ではない。
……いや、だったら少しくらい切らせてくれれば楽なのだが。
そんなことを口にすれば、今日の予定そっちのけで説教が始まりかねない。どうせ即座に却下されるのも分かりきっているので、今回は黙っておくことにした。
エルミナは慣れた手つきで私の髪をいくつかの束へ分けると、丁寧に編み込みながら一本の太い三つ編みへまとめていく。それを背中へ沿わせるように固定し、さらに上から黒い布で覆えば、いつもの長髪も随分と扱いやすそうになった。
「ずいぶん厳重ね」
「剣や枝などに絡めば危険ですので」
「まあ、それはそうだけど」
「何より、姫様の美しい御髪が傷つくなど、あってはならぬことでございます」
「そっちが本音じゃないでしょうね?」
「どちらも本音でございます」
まったく悪びれる様子がない。
髪を整え終えると、最後に腰へ剣帯が巻かれ、そこへ一振りの剣が差し込まれた。今日持つのは木剣でもなければ、訓練用に刃を潰した剣でもない。人でも魔物でも、本当に斬ることのできる実戦用の剣だ。鞘越しに伝わる重みが腰へ加わった瞬間、先ほどまで浮ついていた気持ちが少しだけ引き締まった。
「……本当に行くんだね」
思わず漏れた声を拾ったのか、エルミナが鏡越しにこちらを見る。
「怖くなりましたか?」
「少しはね」
ここで強がって否定するほど、もう子供でもない――と言いたいところだが、十三歳なのだから十分子供ではある。それでも、怖いものを怖くないと言い張るよりはましだろう。
剣術の訓練なら何度もしてきたし、騎士たちとの模擬戦も経験している。身体強化も魔術も、五年前とは比べものにならないほど上達した。
けれど、これまで相手にしてきた者たちは、私を本気で殺そうとしていたわけではない。今日初めて戦う魔物には、そんな遠慮などない。
「でも、それ以上に楽しみ」
「左様でございますか」
「五年間で、私がどこまで強くなったのか知りたいから」
そう言って、改めて鏡の中の自分を見る。そこにいるのは、豪華なドレスを纏った王女ではない。長い黒髪を実戦向けにまとめ、軽鎧を身につけ、腰には本物の剣を下げた少女だ。これなら少しくらいは冒険者らしく――。
「……見えないわね」
どう見ても、冒険者の格好をさせられた王女だった。
◇ ◇ ◇
城の中庭へ下りると、ハインリヒと数名の騎士がすでに待っていた。彼らも今日は儀礼用の華美な鎧ではなく、戦闘と長時間の移動を想定した実用本位の装備に身を包んでいる。
「お待ちしておりました、姫殿下」
「おはようございます、ハインリヒ」
私が近づくと、ハインリヒは頭の先から足元まで一通り確認した末、満足そうに頷いた。
「うむ。問題なさそうですな」
「似合ってる?」
「よくお似合いです。ただし、まだ迷宮へ入る準備は終わっておりません」
「まだ何かあるの?」
ハインリヒに促されて視線を向けた先には、出発用の馬車と、その脇へ整然と並べられた荷物があった。
「……何これ」
「本日の携行品です」
「全部?」
思わず聞き返してしまう。
並べられているのは、水筒や乾燥させた携帯食をはじめ、治療薬、解毒薬、包帯、ロープ、白墨、予備の魔灯、簡易地図、小型のナイフ、折り畳まれた布など。中には用途すら分からない細かな工具まで混ざっていた。
「多くない?」
「むしろ少ない方です」
ハインリヒは何でもないことのように答えた。
「これで?」
「本日は王都近郊にある管理迷宮の浅層のみ、それも日帰りを予定しております。数日に及ぶ探索であれば、食料や水はもちろん、野営装備、燃料、予備武器、より多くの治療薬なども必要になりますな。未調査の迷宮ともなれば、測量器具や経路を記録するための道具も増えるでしょう」
「……それ、全部持って歩くの?」
「故に、長期探索では荷運びを専門とする者を雇う場合もあります」
「ああ、なるほど」
そこでようやく納得した。前世のゲームなら、道具袋の中へ剣を十本突っ込もうが、大量の薬を詰め込もうが、容量さえ許せばそれで済んだ。けれど、ここは現実だ。水にも食料にも重さがあり、持ち運べる量には限界がある。何日も迷宮へ潜るとなれば、それだけで立派な遠征になるのだろう。
「姫殿下」
「はい?」
「では問題です。この中で最も重要な物は何でしょう?」
突然そんなことを聞かれ、私は改めて並んだ荷物を眺めた。
「……治療薬?」
「理由は?」
「怪我をした時、生きるために必要だから」
「よろしい。他には?」
「じゃあ、水?」
「それも重要ですな」
「剣は……もう腰にあるし」
となると、何だろう。答えらしい答えが思いつかず黙り込んでいると、ハインリヒが口元をわずかに緩めた。
「正解は、ありません」
「……ずるくない?」
「実戦とはそういうものです」
そう言いながら、ハインリヒは荷物の中から一本のロープを持ち上げた。
「谷へ落ちかけた者にとっては、剣よりこちらの方が役に立つでしょう。毒を受ければ解毒薬が命を救い、道を見失えば白墨で残した印一つが生死を分けることもある」
ロープを元の場所へ戻すと、今度は荷物全体へ視線を向けた。
「これらは、敵を倒すためだけに持っていく道具ではありません」
「……生き残るため?」
「正確には、生きて帰るためです」
その言葉だけは、先ほどまでより少し重く聞こえた。
「探索では、敵を多く倒した者が勝者なのではありません。目的を果たし、仲間と共に帰還した者が勝者なのです」
「生きて帰る……」
「忘れぬように」
「はい」
何となく、その言葉は胸に残った。
これまでの私は、強くなりたい、戦いに勝ちたい、もっと先へ進みたいと、そんなことばかり考えてきた。けれど冒険というものは、敵を倒せばそれで終わるほど単純ではないらしい。
「もっとも、今回は必要な物をすべてこちらで揃えておりますが」
少し空気を緩めるように、ハインリヒが付け加える。
「そこは自分でやらせないの?」
「本日の目的は、姫殿下に買い物をさせることではございませんので」
「それもそうね」
「ですが、何を、何のために持っていくのかは覚えていただきます。いずれ御自分で判断しなければならない時が来ないとも限りません」
「王女の私に、そんな機会あるかな」
思わず笑うと、ハインリヒも少しだけ目を細めた。
「未来のことなど分かりませぬよ」
「それもそうね」
まさか数年後、本当に自分で食料や薬の残量を確かめながら迷宮を歩くことになるなど、この時の私は想像すらしていなかった。
「それから、本日はもう一人同行者がおります」
「騎士?」
「いいえ。冒険者です」
「冒険者?」
予想外の答えに、私は思わず聞き返した。
「騎士団だけでは駄目なの?」
「戦うだけならば、我々だけでも問題ありません。しかし我々は戦闘の専門家ではあっても、迷宮探索の専門家ではないのです」
「そんなに違うの?」
「大いに違いますな」
迷宮には、床や壁へ仕掛けられた罠だけでなく、隠し通路や崩落しやすい地形、魔物の痕跡、安全に通れる経路の見極めなど、単純な戦闘力だけではどうにもならない危険が数多く存在するという。
「例えば姫殿下がいずれ私より強くなられたとしても、毒針の仕掛けられた床板まで見抜けるとは限りません」
「……確かに」
「故に、そういった分野は専門家へ任せます」
「どんな人?」
「迷宮斥候です」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、ハインリヒが説明を続けた。
「罠の発見や解除、先行偵察、地図作成、魔物の痕跡調査などを担当し、迷宮内では先頭に立って安全を確保する者ですな」
「なるほど」
ゲームで言えば、スカウトやシーフに近い役割だろう。もっとも、この世界に生まれつき決められた『職業』が存在するわけではない。剣を持てば剣士、杖を持てば魔術師、という単純なものでもなく、本人が何を学び、何を得意とし、パーティの中で何を担当しているかによって、便宜上そう呼ばれているだけだ。
「その人、もう迷宮に?」
「いいえ。城下の冒険者ギルドで合流します」
「ギルド……」
存在そのものは知っている。けれど、実際に中へ入ったことは一度もなかった。
「せっかくです。姫殿下も一度見ておくとよろしいでしょう」
「何を?」
「この国で魔物と戦っているのは、騎士だけではないということを、ですな」
◇ ◇ ◇
城門を抜けた馬車は、王都の大通りをゆっくりと進んでいった。
五年前、初めて城下町へ視察に出た時ほど大掛かりな行列ではないものの、前後を騎士に守られた馬車が庶民の目に普通に映るはずもない。窓越しに外を覗けば、道行く人々からそれなりに視線を向けられていた。
「もっと普通の馬車じゃ駄目だったの?」
「駄目でございます」
向かいに座るエルミナが、間髪入れずに答えた。
「こういう時くらい冒険者っぽく――」
「なりません」
「まだ最後まで言ってないんだけど」
「何を仰るか分かりますので」
本当に私のことなら何でも分かるらしい。
諦めて窓の外へ視線を戻す。
石造りの建物が並ぶ大通りには荷馬車や商人が行き交い、露店から漂ってくる焼き菓子の甘い匂いに混じって、通学途中らしい子供たちの声まで聞こえてくる。
五年前の私なら、こうした光景の一つ一つに目を奪われていただろう。けれど、この五年間で公務のため城下へ降りる機会も増えた。さすがに今では、王都の街並みそのものに驚くことは少なくなっている。それでも、冒険者ギルドへ向かうのは初めてだった。
「そういえば」
私は同じ馬車に乗っているハインリヒへ顔を向ける。
「冒険者って、どうやって強さを区別してるんですか?」
「等級がございます」
「やっぱりあるんだ」
「第六級から第一級までですな」
思っていたよりも分かりやすい。
「第六級が新人?」
「概ねその認識でよろしいでしょう。登録直後は原則として第六級から始まり、第五級で一人前になり始め、第四級ともなれば冒険者として十分な経験を積んでいると判断されます。三級以上は明確に熟練者ですな」
「じゃあ、二級と一級は?」
「二級ともなれば地方では名の知られた一流です。一級に至っては、国家から直接依頼を受けることも珍しくありません」
「へえ……」
思った以上に明確な制度になっている。ただし、とハインリヒが付け加えた。
「冒険者の等級は、単純な戦闘力を示すものではありません」
「違うの?」
「依頼の達成率、生還率、規則を守れるかどうか、状況判断、専門技能。そういったものを総合し、『この者へどこまで危険な仕事を任せられるか』を示す信用等級と考えた方が正確ですな」
「ああ、それなら分かる」
いくら強くても、依頼内容を無視して好き勝手に暴れるような人間へ、重要な仕事を任せられるはずがない。
「じゃあ、剣だけなら三級冒険者より強い四級冒険者もいる?」
「おります」
「その逆も?」
「当然です」
ハインリヒは頷いた。
「故に、等級とは別に専門認定を設けているギルドも多いのです。迷宮斥候、治療、罠解除、採取などですな」
「今日来る人も?」
「第三級冒険者で、迷宮斥候としては上級認定を受けております」
「三級……結構すごい人なんだ」
「姫殿下を迷宮へ案内させるのです。経験の浅い者を選ぶわけにはいきますまい」
「それもそうか」
納得したところで、今度は別の疑問が浮かんだ。
「冒険者ギルドって、外国にもありますよね?」
「ございます」
「全部同じ組織なの?」
「いいえ。各国や地域ごとに運営される別々の職能組合です。ただし、主要国の組合同士では資格の相互承認が行われております」
「じゃあ、ルヴェルティアで三級なら、外国でも三級?」
「協定を結んでいる国であれば、原則として同等に扱われます。ただし、冒険者資格があるからといって入国許可まで不要になるわけではありませんぞ」
「そりゃそうよね」
冒険者証一枚を見せれば国境を自由に越えられるようでは、国家側としてはたまったものではない。前世で読んだ物語では、世界中に一つの冒険者ギルドが存在するのも珍しくなかった気がするが、現実に考えれば今聞いた仕組みの方がずっと自然だった。
「着きましたぞ」
そんな話をしているうちに、馬車の速度がゆっくりと落ちていった。
窓から外を覗き、思わず声が漏れる。
「……大きい」
目の前にあったのは、三階建ての立派な石造りの建物だった。正面には剣と杖を組み合わせた意匠の看板が掲げられ、その下には大きく『ルヴェルティア王都冒険者組合』と記されている。
さらに、その少し下。
『通称・冒険者ギルド』
「通称まで看板に書いてるんだ……」
「正式名称で呼ぶ方が少ないのでしょう」
エルミナの冷静な指摘を聞きながら馬車を降りた、その瞬間。周囲から向けられる視線が、一気に増えた。
「…………」
髪は実戦用にまとめてあるし、今日は王女らしいドレスも着ていない。装備につけられた王家の紋章も、必要最低限に抑えてある。それでも、私の漆黒の髪に加え、騎士団長のハインリヒと複数の精鋭騎士、さらにエルミナまで一緒なのだ。
どう考えても目立つ。
「……普通の冒険者みたいには無理ね」
周囲の視線について考えることを諦め、私は建物の中へ入った。そして、危うく感嘆の声を上げそうになる。
「おお……」
そこに広がっていたのは、私が前世で『冒険者ギルド』という言葉から想像していたものに、驚くほど近い光景だった。
壁一面には様々な依頼書が貼り出され、長い受付台の前では何人もの冒険者が職員と話している。大剣や槍を背負った屈強な男もいれば、杖を手にした女性、使い込まれた革鎧姿の若者、身体中に傷の残る大男もいる。その脇では、小柄な少女が大きな荷物を抱えたまま依頼書を真剣に読み込んでいた。
奥からは料理の匂いまで漂ってくるので、どうやら食堂も併設されているらしい。
――すごく、それっぽい。
「姫殿下」
「はい?」
「目が輝いておりますぞ」
「気のせいです」
ハインリヒからさっと視線を逸らす。こういう時こそ王女らしく。内心ではしゃいでいても、それを表情へ出してはいけない。
……たぶん、できていない。
誤魔化すように周囲を観察していると、冒険者たちの装備にも一定の傾向があることに気づいた。重い盾や大剣を扱う前衛には男性が多い。一方で、杖を持つ魔術師や、軽装で小型武器を身につけた探索役らしい者には女性の姿も目立つ。
もちろん、女性の大剣使いもいれば男性の魔術師もいるので、絶対的なものではない。それでも全体として差が出るのには、この世界の魔力適性が関係している。
一般に男性は、魔力を体内で循環させて身体や武器を強化することを得意とし、女性は体外へ放出した魔力を術式として精密に制御することを得意とする傾向がある。
加えて、まったく同じ倍率で身体強化を施したとしても、元となる肉体の平均的な体格差までは消えない。そのため騎士や重戦士には男性が多く、魔術師や治療術師、繊細な魔力感知を必要とする職種には女性が比較的多くなる。
あくまで平均の話なので、例外はいくらでもいるけれど。
その最たる例が、たぶんエルミナだ。彼女は女性でありながら、魔力を外へ放つより体内で循環させる方へ極端に適性が偏っている。魔力量そのものは決して多くないのに、身体強化へ回した際の効率だけなら、並の騎士など比較にならない。
そして私の場合は――。
「姫様?」
「なんでもない」
エルミナの声で我に返り、それ以上考えるのをやめた。この辺りについては、私自身にも未だよく分からないことが多い。
「お待ちしておりました、ハインリヒ騎士団長」
ちょうどその時、受付の奥から一人の中年男性がこちらへ歩いてきた。
「ギルド長殿。世話になる」
「いえいえ。王家からの正式な依頼とあれば、こちらとしても光栄です」
そう答えた男は、すぐに私へ向き直ると深々と頭を下げた。
「姫殿下におかれましては、お初にお目にかかります」
「本日はよろしくお願いいたします」
反射的に、外向きの王女らしい微笑を浮かべて答える。すると、それまで遠巻きにこちらを窺っていた冒険者たちの間から、小さなざわめきが起こった。
「姫殿下って……」
「黒髪だし、まさか……」
「あの王女殿下か?」
「おい、あんまり見るなって」
全部聞こえている。けれど、私は生まれてからずっと王女教育を受けてきたのだ。いわゆる営業スマイルを崩さず、聞こえなかったことにするのも王族の仕事のうちである。
「それで、依頼していた者は?」
ハインリヒが尋ねると、ギルド長は頷いて室内を振り返った。
「来ております。――リディア!」
返事がない。少し眉を寄せたギルド長が、今度は声を張った。
「リディア・フェルン!」
「聞こえてますよ」
少し面倒そうな女の声が返ってきて、柱の陰から一人の冒険者が姿を現した。二十代半ばほどだろうか。肩より少し短い茶髪を後ろで簡単に束ね、日に焼けた健康的な肌をしている。緑がかった瞳にはどこか油断のない光があり、こちらへ歩いてくる間も、私たちだけを見ているわけではなかった。
出入口や窓、周囲にいる人間、それぞれの荷物や足元へと絶えず視線を走らせている。
身につけている装備も、騎士たちとはまるで違った。動きを妨げない柔らかな革鎧をまとい、腰には二本の短剣、背には小振りの弓。腰回りにはいくつもの小さな鞄や工具袋が、動きの邪魔にならないよう計算された位置へ取り付けられている。
どう見ても、正面から敵と殴り合うための装備ではない。
「紹介いたします」
ギルド長が私たちの間に立つ。
「第三級冒険者、リディア・フェルン。上級迷宮斥候の認定を持つ者です」
紹介されたリディアは軽く頭を下げた。
「リディアです。本日はよろしくお願いします、姫殿下」
「こちらこそ、お願いします」
それだけで済ませようかと思ったものの、先ほど馬車の中で等級の説明を受けたばかりだったせいで、少し興味が湧いた。
「第三級って、かなり強いんですよね?」
「……どう答えればいいです?」
困ったようにリディアがギルド長を見る。
「普通に答えて構わん」
「じゃあ……まあ、強い方ではあります」
「騎士と戦ったら?」
「逃げます」
「即答?」
思わず聞き返すと、リディアは逆に心底不思議そうな顔をした。
「だって私、斥候ですよ。一般の騎士ならともかく、熟練した騎士相手に正面から剣を打ち合わせる理由がありません」
「でも、戦わなきゃいけない時もあるでしょう?」
「その場合は、正面から戦いません。必要なら遠くから弓で射る。罠へ誘導し、地形を利用して、不意を突く。煙幕で視界を奪うこともあれば、夜なら闇に紛れて襲うこともある。それでも勝ち目がなければ、迷わず逃げます」
「……潔い」
「逃げられるのも斥候の技術ですよ」
リディアはそう言って、軽く肩をすくめた。
なるほど。同じ『強い人間』でも、ハインリヒとは強さの方向が根本的に違うらしい。
「固定のパーティには所属していないのですかな?」
今度はハインリヒが尋ねた。
「今はしてません」
「今は?」
「昔は幼馴染たちと組んでたんですけどね」
そう答えたリディアの顔が、ほんの少しだけ遠い目になる。
「前衛が三人いまして」
「ほう」
「三人とも、人の話を聞かない馬鹿だったので抜けました」
「……幼馴染に辛辣ね」
「罠を調べてる最中に突っ込む奴を、何年も相手してみてくださいよ」
声に凄まじい実感がこもっている。
「『敵がいるぞ!』って叫んだと思ったら、そのまま走り出すんです。こっちは今まさに床を調べてるのに」
「それは……」
「で、踏む」
「罠を?」
「罠を」
真顔で断言された。
「一番酷かった時なんて、私が扉を調べてる最中に、前衛が『こんなもの蹴れば開くだろ』って勝手に開けましてね」
「……まさか」
「三人まとめて、そのまま落とし穴へ落ちました」
「死ななかったの?」
「下が水だったので」
「よかった」
「私はその日のうちに抜けましたけど」
「仲悪くなった?」
「いえ。たまに酒は飲みますよ」
「じゃあ、また組めばいいのに」
「嫌です」
そこだけは即答だった。
「今は斥候が足りないパーティへ臨時で入ってます。その方が気楽ですし、色々な迷宮にも行けますから」
固定の仲間を持たず、必要としているパーティへ一時的に参加する。冒険者には、そんな働き方もあるらしい。
「それに、斥候っていつも足りないんですよ」
「人気ないの?」
「地味ですからね」
リディアは苦笑した。
「ちゃんと罠を見つけて、安全な道を選んで、危険があれば止める。そうやって何も起こらず帰ってこられたなら、それが一番上手く仕事をしたってことなんですけど……」
「派手じゃない?」
「そういうことです。魔物を一撃で倒した方が、よっぽど英雄っぽいでしょう?」
「……まあ」
「でも罠は、踏まない方がいいです」
「それはそう」
「なので仕事には困りません」
そう言って笑うリディアの言葉には、妙な説得力があった。
「今回、リディアを選んだ理由はいくつかあります」
そこでギルド長が説明を引き継ぐ。
「黒岩迷宮への潜行経験が豊富であること。上級迷宮斥候の認定を持っていること。そして、初心者を含む臨時パーティへの同行経験が多いことです」
そこまで言ったところで、一度言葉を切った。
「加えて、女性であることも理由の一つです」
「あ」
言われてみれば当然だった。
「私がいるから?」
「姫殿下の護衛任務でもございますので」
迷宮で何が起こるかは分からない。着替えや負傷時の確認まで考えれば、王家としては女性の方が都合がいいのだろう。もちろんエルミナもいるが、彼女はあくまで私の護衛であり、迷宮探索そのものの専門家ではない。
「もちろん、腕が条件を満たしていることが大前提ですが」
「当然です」
リディアが少しだけ胸を張った。
「王女様を預けるのに、『女だから』ってだけで選ばれたら、私も困ります」
この人、結構好きかもしれない。
「では、契約内容を確認しましょう」
ギルド長が一枚の書類を広げる。
今回の目的地は黒岩迷宮の浅層で、目的は私の初実戦訓練。同行するのはハインリヒ以下の選抜騎士とエルミナ、そして迷宮斥候としてリディアが加わる。
リディアの担当は経路確認や罠の発見、先行偵察で、戦闘時の主力はあくまで騎士団。危険と判断した場合には訓練を中止して即時撤退し、深層への進入は禁止されている。
父上にも言われた内容だが、こうして契約書として改めて見ると、本当に私が余計なことをしないよう念入りに決められているのがよく分かった。
「姫殿下」
確認を終えたリディアが、改めて私を見る。
「一つだけ、先にお願いしてもいいですか?」
「なに?」
「迷宮の中では、私が『止まって』と言ったら、その場で止まってください」
「もちろん」
「姫殿下が私より強くても、です」
「……うん?」
「剣で私に勝てても、魔術が私より上でも関係ありません。私が止まれと言ったら、まず止まる」
先ほどまでの軽い雰囲気が少しだけ消えた。
「強い人ほど、自分なら何とかできると思って前へ出たがるんです。でも罠の中には、戦闘能力なんて何の役にも立たないものもありますから」
そう言って、リディアは足元の床を指差した。
「落とし穴は、英雄だって落ちます」
「飛べば?」
「落ちてから言わないでください」
「……はい」
「毒を受けたら?」
「解毒する?」
「何の毒か分からなければ?」
「……はい」
「良いお返事です」
若干子供扱いされた気がする。十三歳なのだから、間違ってはいないのだけれど。
「今日は私が先頭を歩きます。私が安全だと言うまで前へ出ない。それだけは守ってください」
「分かりました。お願いします、リディアさん」
「……さん?」
「何か?」
リディアが少し意外そうな顔をした。
「いえ。何でもありません」
そう答えると、自分の荷物をひょいと肩へ担ぐ。
「では、出発しましょうか。ただ、その前に……」
歩き出そうとしたリディアの視線が、ふと私の足元へ落ちた。
「姫殿下。その靴、新品ですよね?」
言われて自分の足を見る。今日のために用意された、黒い革のブーツだ。
「そうだけど」
「今日初めて履いた?」
「うん」
その答えを聞いた瞬間、リディアが静かに目を閉じた。
「……騎士団長」
「なんだ」
「靴擦れ用の軟膏と当て布、あります?」
「当然用意してある」
「ならいいです」
「ちょっと待って」
私は二人を見比べる。
「そんなに大事?」
リディアがこちらへ向き直った。その顔は、冗談を言っているようにはまったく見えない。
「姫殿下。迷宮で最初にあなたを倒すのが、魔物だとは限りません」
「…………」
「新品の靴かもしれません」
私は無言で足元を見下ろした。迷宮へ行くと聞いてから警戒していたのは、魔物や罠、毒や暗闇、剣や魔術といった分かりやすい危険ばかりだった。けれど、どうやら冒険というものは、そういう派手なものだけではないらしい。
下手をすれば新品の靴一足にすら足を取られる。――思っていたよりずっと地味で、そして思っていた以上に、油断のできない世界のようだった。