漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
王都を出てから、およそ二時間。
「……思ってたのと違う」
馬車を降りた私は、目の前に広がる光景を眺めながら、思わずそんな言葉を漏らしていた。
黒岩迷宮。
王都から比較的近い山岳地帯に存在する中規模のダンジョンで、王家が直接管理している迷宮の一つだ。名前の由来は単純で、入口が黒っぽい岩肌の山腹に開いているかららしい。
そこまでは事前に聞いていた。
だから私はてっきり、鬱蒼とした森を抜けた先、人の気配などほとんどない山奥にぽっかりと巨大な洞窟が口を開けているような光景を想像していたのだ。
ところが、実際にそこにあったものは想像していたものとは随分違う。
山腹に開いた迷宮の入口こそ、それらしい雰囲気を漂わせているものの、その周辺には石造りの詰所や倉庫が建ち並び、何台もの荷馬車が停められていた。武装した騎士や冒険者らしい人々が忙しなく行き交い、少し離れた場所には食事を提供する建物や、簡素ながら宿泊できそうな施設まである。
とはいえ、王都ほどではないのはもちろん、五年前に訪れた城下町の市場と比べても人は少ない。何と言えばいいのだろう。冒険の舞台というより、鉱山か何かの作業拠点に近い。
「もっとこう……秘境っぽいところにあるのかと思ってた」
正直な感想を口にすると、隣で荷物を確認していたリディアが顔を上げた。
「黒岩迷宮は管理迷宮ですからね。こんなものですよ」
「普通のダンジョンも?」
「いえ。むしろここは寂しい方です」
「これで?」
思わず周囲を見回す。少なくとも、人里離れた洞窟という雰囲気ではない。
「長く残ってる迷宮には冒険者が集まりますから」
リディアは荷袋の口を締めながら、何でもないことのように説明した。
「冒険者が来れば、食料や薬を売る商人が来るでしょう? 武器や防具を修理する職人も必要になる。そのうち飯屋ができて、泊まり込みで潜る人間が増えれば宿屋もできる。荷物を運ぶ人間や素材を買い取る商人まで集まってくれば、まあ、勝手に人が増えていきます」
「なるほど……」
言われてみれば当然だった。
ダンジョンからは魔石や魔物由来の素材、それ以外にも様々な資源が得られる。継続的に金になる場所へ人が集まれば、そこを相手に商売をする人間が現れるのは自然な流れだ。
「大きな迷宮だと、その周りに町ができてるところもありますよ。むしろ近くの村より迷宮前の方が栄えてる、なんて珍しくありません」
「じゃあ、ここが静かなのは……」
「王家の管理下だからですな」
答えたのは、後ろから歩いてきたハインリヒだった。
「黒岩迷宮では、入場者や採取量をある程度管理しております。無許可の商売も認められておりません」
「商人が勝手に店を出したりできないんだ」
「左様。迷宮から得られる資源を巡って人間同士の揉め事が起きては、本末転倒ですからな」
「そういうもんなんだ……」
冒険者が集まる場所と聞いて、何となく自由な土地を想像していたのだが、現実は随分と行政的だった。
もっとも、考えてみれば当然なのかもしれない。大量の魔石や貴重な素材が継続的に産出される場所を、国家が放っておく理由などない。
「それに黒岩迷宮は、王家や騎士団の訓練にも使われております」
「ああ。私みたいに?」
「まさしく」
そう言ってハインリヒが頷く。
その横では、先に到着していた騎士たちが馬車から荷物を下ろし始めていた。
私がぼんやり周囲を眺めている間にも、迷宮から一組の冒険者たちが姿を現す。泥に汚れた革鎧を着た男が大きな袋を背負い、その後ろを杖を持った女性が疲れ切った顔で歩いていた。
入口脇の詰所へ向かうと、職員らしき男が彼らの人数を数え、手元の帳面へ何かを書き留めている。
「出入りも記録するの?」
「当然です」
今度はリディアが答えた。
「誰が何人で入って、いつ戻る予定なのか。戻ってこなければ捜索が必要になることもありますから」
「……なるほど」
生きて帰る。出発前、城の中庭でハインリヒに言われた言葉を思い出す。探索では、敵を多く倒した者が勝者なのではない。目的を果たし、仲間と共に帰還した者が勝者なのだ、と。
単に迷宮へ入り、魔物を倒して戻ってくればいいわけではない。こうして誰がいつ入ったのかを記録するのも、帰ってこなかった者を見落とさないためなのだろう。
あの時はまだ言葉として聞いただけだったが、少しずつ意味が分かってきた気がする。
私たちも詰所へ向かう。
もっとも、今回は王家から正式な訓練として話が通っているため、通常の冒険者と同じように一から手続きをするわけではなかった。それでも人数と目的、予定している探索範囲、帰還予定時刻などは改めて記録される。
全員分の確認が終わると、いよいよ迷宮の入口へ向かった。
近づくほど、黒い岩肌に開いた穴が大きく見えてくる。横幅だけでも馬車が一台は余裕で通れそうで、入口の両脇には騎士が立ち、その先には魔灯によって照らされた緩やかな下り道が続いていた。
私はその手前で、思わず足を止める。
「……ここから先が、ダンジョン」
「ええ」
エルミナが静かに答えた。
十三年間生きてきて、初めて見る本物の迷宮だった。これまで本で読んだことは何度もあるし、授業でも習った。父上やハインリヒから話を聞いたこともある。けれど、実際にその入口へ立ってみると、何となく落ち着かない。
暗いから、というだけではない。穴の向こうにあるものが普通の洞窟とは違うのだと、知識として理解しているからだろう。
「姫殿下」
声をかけられて振り返ると、リディアが先ほどまでより少し真剣な表情でこちらを見ていた。
「ここから先は、私が先頭に立ちます」
「うん」
「ただし、私が一番前で戦うという意味ではありません。敵を見つけた時は、状況に応じて騎士の方に前へ出てもらいます」
「斥候だから?」
「そういうことです」
リディアはそう答えると、私たちの位置を順番に確認していく。
先頭に立つのはリディアで、その少し後ろに二人の騎士。続いて私が入り、すぐ後ろにはエルミナがつく。さらに残りの騎士たちが続き、最後尾にも警戒役として一人が置かれた。
「私、真ん中なんだ」
「初心者を端に置く理由がありませんからね」
「前じゃなくて後ろなら安全じゃないの?」
そう尋ねると、リディアは少しだけ眉を上げた。
「姫殿下。迷宮で敵が正面からしか来ないと思わない方がいいですよ」
「え?」
「脇道から回り込む魔物もいますし、隠し通路があることもあります。一度通った道だからって、後ろがずっと安全とは限りません」
そう言いながら、今度は後方を指差す。
「場合によっては、先頭より最後尾の方が危ないことだってあります」
「……そうなんだ」
「上から来る奴もいます」
「上?」
反射的に天井を見上げてしまう。まだ入口の外なので、もちろんそこに魔物がいるわけではない。けれどリディアは真顔だった。
「天井や壁に張りつく魔物ですね」
「そんなのもいるの?」
「いますよ」
「……前だけ見てればいいわけじゃないんだ」
「その通りです」
早くも覚えることが増えた。
剣術の試合なら、基本的には目の前の相手だけを見ていればいい。けれど迷宮では、敵が律儀に正面から現れてくれる保証などないらしい。
「では、参りましょう」
ハインリヒの言葉に全員が頷き、リディアを先頭に一人ずつ迷宮へ入っていく。
私も一度だけ後ろを振り返ってから、黒岩迷宮の中へ足を踏み入れた。
最初に感じたのは、温度の違いだった。
「……涼しい」
外はまだ暖かかったのに、数歩入っただけで肌を撫でる空気が明らかに冷たい。
湿った石の匂いが鼻を掠め、靴音は壁や天井へ反響して微妙に遅れて戻ってくる。入口近くには一定間隔で魔灯が設置されているため真っ暗ではないものの、それでも外の日差しとは比べものにならない。
そして何より――。
「魔力が……濃い」
思わず立ち止まりそうになる。
空気中に含まれている魔力の感覚が、外とは明らかに違っていた。単純に濃度が高いというだけではなく、肌へまとわりつくような独特の感触がある。
「分かりますか」
ハインリヒが振り返る。
「うん。これ……外と全然違う」
「それが迷宮内部の特徴の一つですな」
私は歩きながら周囲を見回した。
壁も床も黒っぽい岩でできているため、見た目だけなら本当にただの洞窟だ。しかし、ここが普通の地下空間ではないことは既に分かっている。
「そういえば、この先って……本当は山の中じゃないんですよね?」
「少なくとも、我々が知る通常の空間ではありません」
ハインリヒが答えた。
「迷宮の入口はこの山腹にありますが、その内部が物理的に山の中へ存在しているわけではないことは確認されております」
これは魔学の授業でも習ったことがある。
ダンジョンは入口だけが通常世界に存在し、その先は独立した空間へ接続されている。
そう考えられている。
例えば建物の地下室にダンジョンが発生した場合、その先に何キロもの迷宮が続いていたとしても、地上の建物や周辺の土地へ物理的な影響はない。本来なら壁の向こうに隣の部屋があるはずなのに、迷宮内部では延々と通路が続いている、ということすら起きる。
「空間魔術なんですか?」
「似た現象はございますが、同一のものとは確認されておりませんな」
「じゃあ、どうなってるの?」
「分かっておりません」
「……分からないんだ」
五年前、帰る方法を探して図書館へ籠もっていた頃にも、似たような結論へ何度もぶつかった気がする。
魔学がどれだけ発達しても、分からないものは分からない。それが少しだけ面白かった。同時に、胸の奥が微かにざわつく。
通常空間とは別の場所へ繋がる入口。それは、私がずっと探し続けているものと、どこか似ている。地球へ帰る方法。世界と世界を繋ぐ道。
――いつか、迷宮の仕組みも調べてみたい。
そんなことを考えていた時だった。
「止まってください」
前方からリディアの声が飛び、私は反射的に足を止めた。後ろに続いていたエルミナたちも即座にそれへ倣い、隊列全体の動きがぴたりと止まる。
「どうしたの?」
「そのままで」
リディアは振り返ることなくその場へしゃがみ込み、床をじっと見つめている。私もつられて視線を向けてみたものの、そこにあるのは黒い石の床だけで、少なくとも私の目には何かが仕掛けられているようには見えなかった。
「罠?」
「はい」
「どこ?」
聞いてから、魔力を広げてみる。意識を床へ集中させ、微細な魔力の流れを探る。
しかし――。
「……何も感じない」
「でしょうね」
リディアはしゃがんだまま答えた。
「これは魔力を使ってませんから」
「え?」
彼女が指先で示した場所へ目を凝らすと、床石の継ぎ目が周囲よりほんの僅かに広くなっているように見えた。そう言われて初めて分かる程度の違いで、何も知らずに歩いていたなら絶対に気づかなかっただろう。
「踏板式です」
「踏板?」
「一定以上の重さがかかると沈みます。たぶん――」
リディアが壁際へ視線を移し、小さな工具を取り出して石の隙間へ差し込む。
「これですね」
示された壁には、指一本が入るかどうかという小さな穴がいくつも開いていた。
「そこから何か出るの?」
「針か矢でしょうね。浅層ですし、そこまで強い仕掛けじゃないと思いますけど」
「毒は?」
「可能性はあります」
「……踏みたくない」
「なので見つけるんです」
実にもっともだった。
私はもう一度床を見る。
「でも、魔力で探してたら絶対分からないね」
「そういうことです」
リディアが立ち上がる。
「罠には大きく分けて、こういう物理的な仕掛けと、魔力を使った仕掛けがあります。魔力式なら魔力感知が得意な人の方が見つけやすい。でも、こういうのはどれだけ魔力を探っても出てきません」
「逆もある?」
「もちろん。目だけで探してる人間は、魔力式の罠を踏みます」
「面倒ね……」
「面倒だから、斥候が仕事になるんですよ」
そう言ってリディアは笑った。
「じゃあ両方見ればいいんだ」
「その通りです。慣れるまでは大変ですけどね」
彼女は罠を避ける位置へ白墨で小さな印をつけると、全員へ安全な場所を示した。
一人ずつ通過していき、やがて私の番になる。
リディアに示された場所だけを選んで慎重に足を運ぶ。罠を避けるために歩いたのはほんの数歩にすぎないのに妙に緊張し、無事に通り抜けてから振り返ってみても、床は相変わらず何の変哲もない石にしか見えなかった。
「……これ、知らなかったら普通に踏む」
「はい」
「怖いなあ」
「だから前に出ないでくださいって言ったでしょう?」
「……はい」
これまでは、強くなれば大抵のことはどうにかなると思っていた。少なくとも、今よりもっと強くなれば困ることは減っていくのだと。
けれど剣が強くても、床から飛んでくる毒針を知らずに踏めば終わる。単純な戦闘能力とは別のところに、命を落としかねない危険が転がっているのが迷宮という場所らしい。
何だか少し理不尽だった。
それからしばらく、私たちは黒い岩壁に囲まれた迷宮の浅層を進んでいった。道は時折いくつにも分かれ、天井の高さも通路の幅も一定ではなく、数人が横に並べるほど広い場所があるかと思えば、大人二人が並んで歩くのがやっとという狭い場所も現れる。
途中、リディアは何度も足を止めていた。床の傷を見たり、壁へ触れたり、何かを嗅ぐように鼻を動かしたりしているものの、私には何を確認しているのか分からない。
「何かあるの?」
「魔物が通った跡です」
「分かるの?」
「慣れれば」
そう答える彼女の前には、私にはただの汚れにしか見えない痕跡が残っている。
「どんな魔物?」
「まだ何とも。足跡が薄いので」
リディアはしゃがみ込み、しばらくそれを観察した。
「でも、そこまで大きくはありませんね」
そこからさらに進んだところで、リディアが再び足を止めた。ただ、今度は先ほど罠を見つけた時とは様子が違い、その右手はいつの間にか腰の短剣へ添えられている。
「います」
小さな声だったが、その一言で全員の空気が変わった。
「魔物?」
私も声を落とす。
「一体。少し先の曲がり角の向こうです」
「種類は?」
「たぶん岩爪蜥蜴ですね」
その名前なら聞いたことがある。黒岩迷宮の浅層に生息する小型の爬虫類型魔物で、成体になっても大きさは大型犬程度しかなく、危険度も低いため、冒険者になったばかりの新人が最初の実戦相手に選ぶことも多いらしい。
「姫殿下」
ハインリヒが私を見る。
意味はすぐに分かった。
「……私が?」
「そのために参ったのでしょう」
「そうだけど」
わずかに喉が渇くのを感じながら、腰の剣へ手をかけて鞘から引き抜くと、澄んだ金属音が洞窟の中へ小さく響いた。何百回、何千回と繰り返してきたはずの動作なのに、今日ばかりは剣の重みまでいつもと違って感じられる。
「一体だけです」
リディアが言う。
「この程度なら、姫殿下一人で問題ないでしょう」
「もし危なかったら?」
「我々が止めます」
ハインリヒは迷うことなくそう答えた。
続いてエルミナへ目を向けると、彼女も何も言わないまま、いつでも私のもとへ飛び込めるよう静かに構えている。それを確認して、私は一度ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
私が前へ出ると、リディアと騎士たちが左右へ退いて道を空けた。その先にある曲がり角から、硬い何かが石床を擦るような音が近づいてくる。
カリ、カリ。
おそらく爪が石を引っ掻く音だろう。そう理解した次の瞬間、曲がり角の向こうから一匹の魔物が姿を現した。
「……うわ」
知識としては知っていたし、図鑑で絵を見たこともある。けれど実物を目の前にすると、岩爪蜥蜴は想像していた以上に気味の悪い姿をしていた。
大型犬ほどの身体は黒灰色の鱗に覆われ、太い四肢の先には石すら削れそうな鉤爪が伸びている。口の端から覗く牙も普通の蜥蜴とは比べものにならないほど大きく、あれに噛みつかれれば軽鎧の上からでも無事では済まないだろう。
そして何より恐ろしかったのは、その目だった。
私と視線が合った途端、岩爪蜥蜴は低く唸りながら身体を沈め、明確にこちらを獲物として狙い定める。その動きには一切の迷いがなく、それを理解した瞬間、身体の奥がすっと冷えていくのを感じた。
――ああ。
こいつ、本当に私を殺そうとしてる。
これまで戦ってきた騎士たちとは違う。彼らがどれだけ鋭く剣を振り下ろしてきても、その向こう側には必ず加減があり、私を傷つけることはあっても、殺すつもりなど決してなかった。
けれど、目の前の魔物にそんなものはない。私を殺して、食う。ただそれだけのために、こちらを見ている。
「姫殿下」
後ろからハインリヒの声が聞こえた。
「相手を見なされ」
「……うん」
剣を構えた瞬間、岩爪蜥蜴が地面を蹴ってこちらへ飛びかかってきた。その速度は確かに速かったが――見える。
五年前の私なら、突然の突進に目を見開くだけで終わっていたかもしれない。けれど今なら、こちらへ飛び込んでくる軌道も、狙うように伸ばされた鉤爪の位置もはっきりと分かる。
全身へ魔力を巡らせて身体を強化し、床を蹴って半歩だけ横へずれると、岩爪蜥蜴の爪が目の前を掠めて通り過ぎた。
その瞬間にはもう、身体が考えるより先に動いていた。
訓練で何度も繰り返してきた通りに一歩踏み込み、その勢いを乗せて剣を横薙ぎに振るう。刃が硬い鱗へ触れ、一瞬だけ押し返すような抵抗を感じたものの、次の瞬間にはそれを突き破って肉の中へ深く沈んでいった。
「――っ」
手に返ってきた感触は、これまでの訓練で一度も味わったことのないものだった。木剣同士を打ち合わせた時とも、刃を潰した剣で防具を叩いた時とも違い、刃が皮膚を裂いて肉へ食い込み、その奥にある筋肉へ押し返される感覚が掌まで伝わってくる。
さらに剣を振り抜く途中、一瞬だけ硬い何かに刃が触れた。
――骨だ。
そう理解した時にはすでに剣は振り抜かれ、斬られた岩爪蜥蜴の身体が勢いのまま石床へ転がっていた。
「…………」
振り抜いた剣と周囲の床には赤黒い血が飛び散り、鼻を刺すような鉄臭さが漂っていた。岩爪蜥蜴は何度か身体を痙攣させ、苦しげに口を僅かに開いたものの、もう立ち上がることはなかった。
「……死んだ?」
「ええ」
ハインリヒの声が返ってくる。
私は剣を握ったまま、倒れた魔物を見下ろした。
思っていたほど、何も感じなかった。
いや、何も感じていないわけではない。心臓はいつもより速く脈打っているし、剣を握る手のひらにはじっとりと汗をかいている。何より、刃が肉へ食い込んだ時の感触が妙なほど鮮明に残っているのに、それでも吐き気を催すほどの嫌悪感は湧いてこなかった。
自分はもっと動揺するものだと思っていただけに、そのことへ少し戸惑っていた時だった。
「あ……」
倒れた魔物の身体が淡く光り始め、鱗の端から少しずつ小さな光の粒へと崩れていく。その様子は炎に焼かれて灰になっているようにも見えたが、熱はなく、やがて足先から胴体、頭へと光が広がり、床に飛び散っていた血まで含めて全てが粒子へ変わっていった。
そして数秒後、そこには何も残っていなかった。
「……消えた」
ダンジョン内で生まれた魔物は、死ぬと身体が崩壊してその多くが消滅する――そのこと自体は、本でも何度も読んだし授業でも習っている。
それでも、つい先ほどまで動き、自分の剣で斬った生き物が目の前で跡形もなく消えていく光景を実際に見ると、知識として理解していた時とはまるで違う、不思議な感覚が残った。
床に残ったのは、小さな黒い石のようなものと爪の一部だけだった。
「魔石と素材ですね」
リディアが近づいてきて、残されたものを確認する。
「浅層の魔物なので大した値段にはなりませんけど」
「……本当に、何も残らないんだ」
「迷宮の魔物は、基本的にはそうですね」
私は手にした剣へ視線を落とした。さっきまで刃にべったりと付着していた血は魔物の身体と一緒にほとんど消えており、わずかな跡を残すだけになっている。
それでも、肉を斬り裂いたあの感触だけは、まだ掌の奥に生々しく残っていた。
「姫様」
エルミナが静かに声をかけてくる。
「大丈夫?」
「はい」
少し考えてから、訂正する。
「……たぶん」
「それでよろしいかと」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ハインリヒも私の顔をしばらく見ていたが、やがて一つ頷く。
「初めてとしては十分でしょう」
「思ったより簡単だった」
正直に言うと、ハインリヒの眉が僅かに上がった。
「一対一なら、ですな」
「え?」
「岩爪蜥蜴一体であれば、今の姫殿下にとって脅威ではありますまい」
「うん」
「ですが、それを以て『弱い魔物』と侮らぬことです」
声音が少しだけ厳しくなる。
「同じ魔物でも、三体、五体と数が増えれば話は変わります。前から一体、左右から二体、背後から一体。同時に襲われても同じように対処できますかな?」
「……それは」
言われた通りの状況を頭の中で想像してみる。正面から来る一体の攻撃を避けながら左右と背後にも意識を向け、ようやく一体を斬ったと思った瞬間には別の魔物が飛びかかってくる――そう考えただけでも、一対一とは比べものにならないほど難しくなるのが分かった。
「実戦で危険なのは、自分より強い相手だけではありません」
ハインリヒは静かに続ける。
「一体一体では格下でも、数と連携によって格上を討つ生き物はいくらでもおります」
「連携……」
「狼型の魔物などは、その典型ですな」
その言葉に、リディアが小さく笑った。
「この迷宮にもいますよ」
「……いるんだ」
「浅層より少し奥ですけどね」
何となく嫌な予感がしてハインリヒへ目を向けると、彼はそんな私の不安など知らないと言わんばかりに、実に穏やかな顔をしていた。
「今日は浅層だけでは?」
「浅層の範囲内ですな」
「……もしかして」
「まずは一体を相手にする感覚を知っていただきました」
ハインリヒは何でもないことのように言った。
「次は、複数を相手にする経験です」
「今日やるの?」
「そのための実戦訓練ですぞ」
私は無言で暗い通路の先を見た。さっきまでより、少しだけ闇が深く見える。
「姫殿下」
リディアが立ち上がる。
「まだ、入口から大して進んでませんよ」
「……そうだった」
初めて罠を目の当たりにし、初めて本物の魔物と戦い、そして初めて生き物を自分の剣で斬った。随分いろいろなことを経験した気がするのに、考えてみれば探索はまだ始まったばかりだ。
私は一度大きく息を吐くと、剣に残っていたわずかな汚れを布で丁寧に拭い、気持ちを切り替えるように鞘へ納めた。
「分かった。行こう」
「はい」
リディアが再び先頭へ戻ると、私たちも先ほどと同じ隊列を組み直し、その後を追って迷宮の奥へ歩き始めた。
一体だけを相手にするなら、思っていたより簡単だった。けれど、その認識がどれほど甘いものだったのかを、私はこの少し後、嫌というほど思い知ることになる。