男、『月輪徹心』にとって、その日は何でも無い一日になるはずだった。大学卒業も間近に迫っているが、就職も内定している。唯一変わったことと言えば、妊娠中の妻が二度の流産を心配した妻実家によって、秘伝の安産祈願をされるくらいだろうか。大学入学と同時に婿入りしたとは言え、月輪家の血をひかない自分は参加できないのが不安の種ではあったが、天涯孤独の身で家柄のいい月輪家に婿入りを認めて貰った上に進学費用を丸ごと支払って貰っているのだから、文句など言えるはずも言えない。何より、二度の流産を経験している娘が心配になるのは、親として当然のことだし、今度こそはと神頼みもしたくもなるだろう。神も仏も信じ徹心自身すら、祈祷の類は気休めにしかならなくても試してみようかと考えていたのだから、歴史ある旧家である妻実家が、秘伝のそれを試してみたいとなってもおかしくはない。
「これで美珠も安心できるといいが……」
二度の流産を経験している妻『月輪美珠』がかなり神経質になっているのを徹心は知っている。三度目の妊娠を知った時の劇的な喜びと同時に、また流産するのではないかという莫大な不安を抱いたことも理解している。一度目は流れやすい時期だったということもあり、仕方ないと割り切れたのだろうが、二度目は安定期に入ってからの死産だ。早産になった赤子は産声を上げなかった。あの時の美珠の絶望の表情を、徹心は一生忘れないだろう。
だからこそ、両親の秘伝の安産祈願を行うという申し出は、美珠にとって喜ばしい申し出だったのだ。
「千鶴も閉め出されたのが、少し気になるんだがな」
それでも不安の種に尽きないのが、人間であり、男というものかもしれない。妻の実妹である『月輪千鶴』も安産祈願から排除されたと、本人から聞かされていたからだ。徹心自身だけなら納得は行く。だが、月輪家の血をひく次期当主の千鶴も排除するのは、どうにも道理が通らないように思う。婿入りに進学費用と多大な恩義がある義両親だ。美珠と仲のいい千鶴が参加できるなら、無用の心配などする必要もなかったのだが……。
だが、悪い予感や杞憂と思っていたことほどが、よく当たるのが世の中なのかもしれない。その不安を肯定するように、突然の電話がほかもない千鶴からかかってきた。
「義兄さん、何かおかしい!父さん達は何か良からぬことを考えているかもしれない。とにかく、早く帰ってきて!」
「分かった、すぐに行く!」
その悲痛な叫びに、徹心は以後の予定を何もかも放り出して、義実家へと走り出したのだった。
幸い、千鶴とはすぐに合流できた。だが、聞かされたことは荒唐無稽もいいことだった。月輪家は。ただの旧家ではなく古来から続く呪術名家であるということだった。美珠から聞いていた先祖代々の山荘というのは、呪術師としての月輪家の本拠だというのだ。そして、そこは安産祈願を行うような場所ではないことを、呪術名家の跡取りとして教育されてきた千鶴は、誰よりも理解しているというのだ。
「……いや、待て。呪術って、呪いとかのあの呪術か?」
徹心は神も仏も信じない男である。超常現象など言うまでも無い。ましてやその最たるもの呪術など信用できるはずもなかった。
「詳しく説明している暇も、証明する時間も無いんです。とにかく姉さんが危ないかもしれないんです!」
だが、そんな徹心の内心とは裏腹に、千鶴の様子は真剣そのものだ。大真面目に呪術というものが存在する前提で話している。
「まあ、仮にそれが事実としてだ。何を根拠に言っているんだ?」
徹心の当然の問いに、千鶴は僅かな時間躊躇った後、まるで秘中の秘を話すように絞り出すようにいった。
「今まで一度として動かされたことなかった十握剣が本邸に運び込まれています」
「十握剣?なんだ、それは?」
「神を殺したといういわれを持つ月輪家が秘蔵している真正の神具です」
徹心からすれば、正直「何を言っているんだこいつ」としか思えない。呪術に神殺しの神剣ときた。ここまでくれば、荒唐無稽でも大したものだろう。しかし、徹心はそれでも一笑に付せなかった。義妹である千鶴とは婿入りして以来四年近くを共に過ごしてきたのだ。本気で怯えているのが理解できるし、千鶴が冗談で言っているわけではないことは分かってしまうからだ。
「分かった。案内してくれ」
「でも義兄さんは――」
「美珠が危ないかもしれないんだろう?」
「……はい」
「だったら行く。それ以外に何が必要だ」
細かいことはどうでもいい。妻の身が危ないというのなら、夫である自分が行かないでどうするのだと、徹心は全てを棚上げして答えたのだった。
千鶴と共にタクシーを捕まえて、徹心が連れてこられたのは火伏せ・鎮火の信仰で知られる愛宕山の奥地だった。タクシーを降りてからかなり歩かされており、最早ここがどこだか徹心には把握できていなかった。
「こんなところに?」
「ええ、普段は隠されています。資格者、あるいは認められた者しか入ることは出来ませんし、そもそも認識できません。義兄さんも見えていないでしょう?」
千鶴が言うが、周囲は森で徹心に見えるのは切り立った崖だ。どう見ても、通れるようには見えないし、あと一歩でも進めば転落死は免れないだろう。
「……本当にここを行くのか?」
「さっきも言ったけど説明している暇はないし、術をかける時間も惜しいの。ゴメンね、義兄さん!」
千鶴は言うやいなや、徹心の腕をつかむと、勢いのまま、崖へ飛び込んだのだった。
「!?……!」
思わず目を瞑ってしまったが、予想した衝撃も痛みも何も来なかった。それどころか、自分の足には確かに何かを踏みしめている感触があり、徹心は混乱した。慌てて目を開けてみれば、そこにはさらに信じられない光景が広がっており、絶句した。
「ようこそ、呪術名家月輪家の本拠地『月輪谷』へ。とは言っても、こんな形で連れてきたくなかったけど。それに……最低限の警備の人間すらいない!」
徹心の目の前に広がったのは、峡谷に囲まれた広い空間にそびえ立つ立派な屋敷だった。呪術的意味合いがあるのか、何か普通の建築とは趣が違うように思えた。だが、ここをよく知る千鶴は徹心以上に異常を感じていたようだ。顔色が加速度的に悪くなっていく。
「警備がいないのが、そんなにまずいのか?」
「義兄さん、ここが隠されていることは分かりましたよね。でも、不注意や偶然でここに入ってしまう者がいないと思いますが?」
そう言われて、徹心も得心する。なるほど、事故や遭難でありえないことはないだろう。とすると、そういった者を排除か穏便に返す役目を持った者が常駐するのは当然だろうからだ。
「なるほど、つまり、そんなことを気にする余裕がないというか?」
「いえ、もっと最悪なそんなことを気にする必要がないということまでありえます」
二人は決して足を止めず、お互いの推論を口にする。だが、どちらも碌でもない結論にしか行き着かなかった。
そして、その推論を肯定するように、本邸内部へ足を踏み入れてからも異常は続いた。
まず目に入ったのは、大量の履き物だった。玄関に、整然と並べられている。きっちりと揃えられていることが、かえって不気味だった。
「数が多すぎる……。まさか、常駐している分家以外も呼んでいるの? いえ、それでも多すぎる。まさか――家門の術士を全員集結させているの!?」
それほどの人数が集まっているはずなのに、屋敷の中には人の気配がない。話し声もない。足音もない。人が生活している音というものが、まるで聞こえてこない。徹心には、屋敷そのものが無人であるようにすら思えた。
「それにしては人の気配がなさすぎる。まるで誰もいないみたいだぞ?」
「ここまで気配を消すなら……音だけじゃない。呪力まで完全に遮断するとなれば、あの地下の秘儀式場しかありえない。でも、おかしい……!」
「何がだ?」
「あそこは本家直系の人間しか、立ち入ることを許されていなかったはずなの!」
そう言われても、徹心にはいまひとつ現実感がなかった。
月輪谷へ入ってからというもの、彼の常識は壊され続けているのだから無理もない。崖だと思っていた場所を抜ければ隠された谷があり、その奥には巨大な屋敷があった。呪術などというものは、どうやら本当に存在するらしい。辛うじてそこまで飲み込んだだけでも、今の徹心には精一杯だった。
だが、そんな徹心とは対照的に、千鶴の焦燥はますます深まっていく。
この場所をよく知り優れた呪術師である彼女にとって、今起きていることは「ありえない」の連続だった。そして、ついに確信する。これは断じて、安産祈願などではない。
「義兄さん、急ぎましょう。これは絶対に安産祈願なんかじゃない!」
「じゃあ、なんだ?」
千鶴が先導するように走り出し、徹心もすぐに後を追う。
「分からない。でも、碌でもないことだけは間違いない」
「なぜだ?」
「そうでなきゃ、義兄さんはともかく、私まで排除する理由がないから!」
そこで千鶴の声に、はっきりと怒気が混じった。
「あいつら……姉さんに何かする気なんだわ!」
確信を持った千鶴の言葉に、徹心は一瞬言葉を失った。
彼にとって義両親は、大恩ある信頼すべき人たちだった。天涯孤独だった自分を婿として迎え入れ、大学進学の費用まで負担してくれた。何より、美珠との結婚を認め、自分に家族を与えてくれた人たちでもある。そんな二人が、自分たちの実の娘を害そうとしている。簡単に呑み込めるはずがない。
これが千鶴の言葉でなければ、一笑に付していたに違いない。あるいは、怒って否定していたかもしれない。
だが――。
「……強大な火の気?」
「なんだ、これ……? 空気そのものが熱い?」
地下へ近づくにつれ、異常はさらに深まっていった。千鶴は、ありえないほど強大な火の気を感じ取る。
そして徹心にも分かった。ただ気温が高いのではない。空気そのものが、熱を帯びている。
「いけない……もう始まってる!」
「マジか、クソッ!」
やがて、唱和する呪文のような声が聞こえてくる。千鶴の焦りは頂点に達していた。徹心もさすがに顔色を変え、さらに足を速める。
そして、二人はとうとう、本邸の最秘奥。地下秘儀式場へと辿り着いた。
そこで彼らを待っていたのは――。
石舞台の上に寝かされ、鎖で両手両足を拘束された――妻。
秘儀式場の中央。石舞台を取り囲むように配置された家門の呪術師たちが、一心不乱に呪文を唱和している。その呪力の行き着く先は、生贄のように拘束された――姉。
月輪美珠。
二人にとって、かけがえのない女性のあってはならない姿だった。
「美珠!」
その光景を見た瞬間、徹心の沸点はたちまち頂点に達した。最早、何もかもどうでもいい。ただ、妻を、愛する女性を救わんと、美珠の元へ走った。だが、現実は無情だった。
「禁!」
ここに来るまで、最も信頼していた人間の冷徹な一言による呪術で、徹心は一歩も動けなくなったのだ。そして、周囲から羽交い締めにされ、妻の元に辿り着くことなく地に伏せさせられる。
「義兄さん!お前達よくも!」
その様子を見ていた千鶴が瞬時に動くが、見越していたかのように周囲から術が降り注ぎ足を完全に止められる。彼女の術者としての力量を見越した物量による足止めであった。いかに優れた術者である千鶴であっても多勢に無勢。自分を守るのが精一杯であった。
「あなた、千鶴?どうしてここに?」
二人の叫び声に気づいたのか、不思議そうな顔で美珠が二人を見るが、どうにも意識が朦朧としているようで、イマイチ状況が飲み込めていないようだったが、その視線が確かに徹心をとらえる。
「大丈夫だ、今助ける」
徹心は安心させるように叫び、立ち上がろうとするが、彼を羽交い締めにしているのは呪術で身体強化された術者達だ。常人でしかない徹心に、その拘束から逃れられる道理はない。
「やれやれ、危惧していた通りになってしまったか。だから、お前は儀式から省いたというのに。全く教育がまだ足りなかったらしい。しかも、用済みの種馬まで連れてくるとは何のつもりだ?」
徹心の義父であるはずの男は、まるで徹心が存在しないかのように、彼には見向きもせず、心底呆れたという風情で千鶴に話しかけていた。
「このクソ親父、毒親が!姉さんに何をする気!」
「みっともない。千鶴、貴女は月輪家次期当主なのですよ。なんです、その口の利き方は?」
激昂して問い詰める千鶴に、徹心の義母であるはずの女性は眉をしかめるだけだった。そして彼女また。徹心に少しも意識をさいていなかった。
「何を怒ることがある?これは栄誉なことなのだぞ。そもそも、アレが生まれてきた時から、こうなることは決まっていたのだからな」
「どういう意味だ!?」
あまりの怒声に、初めて徹心の存在を認識したかのように、義父が地に伏せまま暴れ狂う徹心を見た。そこには何の温度もなかった。少なくとも、つい先日まで義家族として生活してきたとは到底信じられないだろう。
「全く見苦しい。これだから非術士というものは……。いや、君は才能だけはあったか。ただ、それを学ぶ機会がなかっただけで」
義父は地に伏した徹心を見下ろし、薄く笑った。
「まあいい。君も悲願成就には欠かせぬ駒だったのだ。儀式が終わるまでの余興として、種明かしくらいはしてやろう」
「……何を」
「そもそも疑問に思わなかったのかね? どこの馬の骨とも知れぬ、天涯孤独の君が、なぜ我が月輪家へ婿入りできたのか」
徹心の顔から、血の気が引いた。
「潜在的な呪的素養が高く、しかも既存の術理に染まっていない。そんな君の血が必要だったのだよ。種馬としてね」
「……俺との結婚自体、仕組まれたものだとでも言うのか!?」
「そうだとも。もっとも、アレが君へ恋情を抱いたことまでは我々の術ではない。だが、実に都合がよかった」
なんでもないことのように語る。
千鶴は思わず姉を見る。幸いと言っていいのか、美珠は薬でも盛られているのか意識が朦朧としており、話の内容までは理解できていないようだった。
「そうそう。アレが生まれた時から、こうなることは決まっていたという話だったな」
義父は愉快そうに続ける。
「名前からしてそうだ。千鶴、お前なら分かるだろう?」
「……美珠」
千鶴は息を呑んだ。
美珠――御霊、霊珠、神霊を宿す器。
神を宿す子を産ませるための長女。家を継がせるための次女。どうして姉と自分で、ここまで育てられ方が違ったのか。その答えが、今になって最悪の形で繋がってしまった。
「……姉さんを、最初から……」
「そういうことだ」
義父はあっさりと認めた。
「そして今更ではあるが、もう一つ教えてやろう」
嫌な予感がした。
「二度の流産。あれは偶然ではない」
徹心の呼吸が止まった。
「最初の二度とも、我々が意図的に流した」
「――ふざけるな!」
徹心が暴れ狂うが、術者たちに押さえ込まれた身体はびくともしない。
「一人目は水蛭子。二人目は淡島。必要な手順だったのだよ」
「……何を言ってる」
「まだ分からないのかね?」
義父は心底不思議そうに首を傾げた。
「君たち夫婦には、伊邪那岐と伊邪那美を演じてもらったのだ」
「――!」
先に理解したのは千鶴だった。
「神話再現……!」
父が満足そうに笑う。
「その通りだ」
神話上、正しき子として数えられなかった最初の二柱。水蛭子と淡島。その二度の失敗だけは、実際の妊娠と喪失によって再現する。その後の国生み、神生みは術式、祭具、霊地、供物によって代替し――最後にもう一度、実胎児を用いる。全ては火之迦具土を、この世へ生み落とすために。
「……そのためだけに、あなたたちは……!」
千鶴の声が震えた。徹心にも理解できてしまった。
一度目。美珠は泣いた。まだ流れやすい時期だった。誰にでも起こり得ることだと、徹心は必死に慰めた。
二度目。産声は上がらなかった。安定期に入っていたからこそ、美珠の絶望は深かった。『私、どこかおかしいのかな』そう泣く妻のそばにいるため、徹心は大学を休んだ。ようやく立ち直れたのは、三度目の妊娠が分かった時だった。
今度こそ。二人とも、そう願っていた。だというのに、それすら。
「いやいや、目的はそれだけではないぞ」
義父の声が、記憶を断ち切った。
「二度も子を失えば、三人目には否応なく執着する。父も、母もな」
徹心の瞳が見開かれる。
「その情念は、神を現世へ繋ぎ止める縁として実に有用だった。いやあ、見事なものだったよ」
「…………」
一瞬、徹心の中から、音が消えた。
次に湧き上がったものは、怒りという言葉では足りなかった。
「お前ら……人間じゃない」
低い声だった。
「それでも人の親か!」
叫ぶ。
「美珠はお前らの実の娘だろうが! 腹の子は、お前らの孫だぞ!」
「親を知らない君が、それを言うのかね?」
義父は嗤った。
「それに、何を悲しむ必要がある。我が家の礎になれるのだぞ?」
そして。
「もっとも、アレを娘と思ったことなど一度もない。君の血を引いた子を孫と認める気もないがね」
「貴様ぁぁぁッ! 殺してやる!」
「ククク……出来ないことを言うものではない」
義父は徹心の殺意すら愉しむように笑い――そして、石舞台へ視線を向けた。
「それに、もう遅い」
呪力が膨れ上がる。
「見よ!」
狂喜に満ちた声が地下空間へ響いた。
「まつろわぬ火之迦具土神が顕現するぞ!」
その瞬間だった。石舞台を中心に、極大の火柱が噴き上がった。
「美珠――!」
徹心の叫びは、轟音に掻き消された。
天井すら焦がさんばかりの業火。
だが、それはほんの一瞬。炎が収まった時、石舞台の上には、もう先ほどまでの光景はなかった。
倒れ伏した美珠の上空、紅蓮の火球に包まれた、赤子の姿。
そして赤子――否、神は。
自らと呪的に結びつけられた十握剣へ、静かに視線を向けた。
『神を脅し、使役せんとするか』
声ではなかった。
それでも、その場にいる全員の魂へ直接意味が叩き込まれる。
『――不敬である』
次の瞬間、徹心と千鶴には、何が起きたのか理解できなかった。
ただ、つい今しがたまで儀式場を埋め尽くしていた月輪家の術士たちが、義父も義母も例外なく全員が同時に炎へ包まれた。悲鳴すら長くは続かなかった。
一瞬、本当にそれだけだった。炎が消えた後、そこには灰さえ残っていなかった。
憎悪と殺意の行き場がなくなった徹心は、ひたすらに美珠を見る。どう見ても生きてはいない。それを理解し、次いで炎に包まれた赤子を見る。神話再現・神を宿す子ということが事実なら、あれは彼の子の肉体のはずだ。
「千鶴、あれはなんだ?」
「神、まつろわぬ火之迦具土神、姉さんの……お腹の子を依代にして、現れた」
「あれをどうにかすれば、美珠の忘れ形見は生きられるのか?」
それは徹心にとって、最後の希望だった。妻が、愛する女が殺された。ならば、せめて――
「神の依代になった以上、あの子は――」
千鶴はそれ以上何も言えなかった。今にも壊れそうな義兄に絶望を告げることは出来なかったのだ。
「――そうか」
だが、その沈黙こそが徹心にとって雄弁な答になった。最早、希望ないのだと理解した。ならば、やることは一つしかない。
「殺す」
徹心はそう言って駆け出そうとした。
しかし、次の瞬間秘儀式場は煉獄の炎で包まれた。あちらこちらから火柱が上がり、視界は全て火の海だった。
「これがまつろわぬ火之迦具土神」
千鶴の絞り出すような声は明確に震えていた。彼女は理解したからだ。先程自分達が標的にならなかったのは、認識されていなかっただけなのだと。それが今の徹心の一言が、神の癇に障ったのだ。そして、この火の海でさえ、ほんの戯れに過ぎないのだろう。でなければ、自分程度が咄嗟に張った結界で、義兄も自分も生き伸びられるわけが無いのだから。
「義兄さん、に、逃げ「俺はあいつを殺す。お前は逃げろ」」
千鶴の言葉を徹心は遮り、冷たく宣言する。
「義兄さん、駄目!」
千鶴の咄嗟の制止も、徹心には全く届かない。むしろ、その歩みは走りへと変わった。それに応じるように火勢が強くなる。
「ああ、もう!これで義兄さんまで死んだら、私なんて生きている価値が無いんだから!」
千鶴は呪力振り絞り、全力で出来る限りの火除け、そして愛宕山という地のりを生かした火伏せ・鎮火を場にかける。本来、まつろわぬ神と呪力で張り合おうなど不可能だ。だが、ここは長年の信仰という外付けのブースターがある。元よりあるそれを活性化し強化することなら、造作も無い。なにより、これは火之迦具土神そのものへ干渉する術ではない、ということが重要だった。
『我に対するものではない。普遍的な信仰を元にして、地の性質を強化したか』
火之迦具土神にはあっさり見破られたが、千鶴の決死の行動は、結果として、徹心を焼け死ぬことなく十握剣まで辿り着かせた。もっとも引き換えに、千鶴は無理な術行使の反動と疲労で生命維持が精一杯になってしまったが……。
「俺が伊邪那岐というのなら、殺せるはずだ!」
十握剣を握った瞬間、徹心の身体に不思議と力が溢れるが、それは火之迦具土神の逆鱗に触れることだった。
『我を殺そうというか?不敬である』
そこから徹心は地獄の猛攻を受けた。炎弾の直撃を受けたのは一度や二度ではない。受ければ焼けるし、吹き飛ばされる。皮膚は裂け、肉は焦げる。それどころか。呼吸するだけで喉と肺が焼かれるだが、不思議と彼は死ななかった。彼は知る由もないが、これは真正の神具である十握剣のお陰だ。義父達の念の入った神話再現により、十握剣が徹心を伊邪那岐その人と誤認したわけではない。ただ、「妻を失い、火神を斬る男」という神話上の役割だけが、今この瞬間の徹心へ重なっていた。
とはいえ、それが最大限に働いたとしても、術士でもない一般人が火之迦具土神に辿り着いた時には、ただ死んでいないだけであった。全身には重度の火傷を負っており、髪もかなり焼け落ちている。肩の一部は炭化しかけており、衣服はほぼ焼失。片目は熱で焼かれており。最早光を映すことはない。足も焼けているにもかかわらず、無理やり進んでいる有様だ。正直、半分死体と言っても過言ではない。
だが、それでも徹心は十握剣を握る手だけは離さない。
『死に損ないが、そうまでして我を殺したいか。我が父同様の痴れ者めが!』
「お前は俺の子じゃない。お前は妻を殺し、この肉体を奪って殺した憎い仇でしかない」
火之迦具土神の心底不愉快そうな叫びに、徹心はノータイムで答を返す。
『愚かな、それでもこの肉体は汝の子のものであろうが!それを斬るというのか、貴様は?!』
初めて、そこで徹心の足が止まる。
「……分かってる」
分かっている、誰よりも理解している。目の前にいるのは神であると同時に、我が子の肉体だ。ならば、それを斬るのは、我が子を斬るのと同義だ。だが、それでも――
「だからこそ、お前の器のままにはさせない」
その言葉と共にすぐに歩き出し、ついには火之迦具土神を剣の間合いに収める。
「お前を殺す」
ボロボロの腕で剣を振り上げ、眼前の火之迦具土神へと振り下ろす。が、刺さらない。まるで透明な壁があるかのように、火之迦具土神の肉体直前で阻まれてしまう。
『フハハハ、愚かな。いかに神話を再現しようと、お前は我が父伊邪那岐ではない。国産みの大神ではない。どうして、人の身で我を殺せようか!』
徹心がいくら腕に力を込めようとボロボロの肉体は応えてくれない。このままではいずれ弾き飛ばされるだろうことは明らかだった。だが、同時に彼は悟っていた。あと一押しでこいつを殺せると。なぜなら、火之迦具土神の声には隠しきれない明らかな焦りと、嫌悪と明確な憎悪があるからだ。
「なら、これでどうだ」
徹心は、剣へ倒れ込んだ。ボロボロの腕に力は残っていない。足も、ここまで徹心を運んだことで限界を迎えていた。ならば、残っているものは自分の身体しかなかった。全体重が十握剣の柄へ落ちる。
一寸。また一寸。神の抵抗を押し潰すように、刃が沈む。
『おのれ――!』
「死ね」
それだけだった。徹心にあるのは純粋な殺意だけだった。次の瞬間、十握剣は火之迦具土神を貫いた。
『また父が我を斬るか――! 呪われよ、我が子を手にかける痴れ者め!』
十握剣に貫かれた火之迦具土神は、呪いの断末魔を上げる。
「俺はお前の父じゃない。父親の執念を舐めるな!」
徹心は平然とそう返した。
だが、それが最後の力だったのだろう。十握剣から手が離れる。同時に火之迦具土神を包んでいた炎が消えていく。
どこか遠くで、
「義兄さん!」
千鶴の叫びが聞こえた。徹心は応えようとした。
だが、声が出ない。音も、どんどん遠ざかっていく。支えを失った身体が、そのまま地面へ崩れ落ちた。
そして。
「……美珠」
徹心はそこで初めて、自分のすぐ傍らに横たわる妻の遺体を見た。何かを繋ぎ止めるように、その名を呼ぶ。
返事はない。分かっている。彼女はもう死んでいる。それでも、手を伸ばすことだけはやめられなかった。
残っている力をすべて絞り出す。指先が、美珠の頬へ触れた。
冷たい。その冷たさを感じた瞬間。徹心の意識は、完全に途切れた。
暖かい。徹心が最初に感じたのはそれだった。最後に感じた美珠の冷たさが強く刻まれていただけに、それはむしろ強烈だった。故にこそ、彼は自分が生きているのだということを鮮烈に理解した。
「俺は死ねなかったのか……」
目を開けるよりも先に、そんな言葉がでてしまう。涙が溢れる。徹心は死にたかったのだ。あの神を殺し、その後は生きていたくなかった。愛する伴侶を目の前で殺され、その忘れ形見でさえ理不尽に失い、最終的には自らの手をかけたのだから、無理もないだろう。
「あら、あたしの一番新しい息子は意外に泣き虫なのね」
そんな言葉が、蠱惑的で艶のある美声で聞こえ、次いで涙が拭われる感触がする。そこで徹心は慌てて目を見開き、自分の状態に心底驚いた。なにせ、幼い容姿に蠱惑的な可憐さを併せ持つツインテールの美少女に膝枕をされていたのだから。
「はっ?えっ……。す、すまない、失礼した」
「えー、そのままでもママは良かったのに……」
慌てて立ち上がって謝る徹心に、どこか不満げに口をとがらせる推定14歳ほどの妖艶な美少女。
「ママだと?いや、待て。そもそもここはどこだ?」
聞き捨てならないことを聞いた徹心は、当然その真意を確かめようとするが、その前に周囲の環境の異常について気付く。そこは何もない空間だった。何もない灰色の空間。全てが灰色に塗りつぶされている。だというのに、何の不安も感じない。それどころか、安心感さえ覚えるのが異常だった。
「ここは《生と不死の境界》。ひらたく言うと『三途の川』とか『あの世』とかの直前みたいな感じ?」
まとう雰囲気と秘められた知性とは裏腹に思い切り軽い口調で美少女は教えてくれた。
「生と死の境界だと、じゃあ、俺はやっぱり死ねたのか?まあ、そうだよな。あれだけボロボロだったんだ。生きている方がおかしい」
「ブブー、不正解!というか、分かっているはずなのに分からないふりをするのはおやめなさいな。そう言いたくなるのも無理ないけどね」
徹心の自分を納得させるような呟きに、美少女が明確にダメ出しをする。それはまるで聞き分けのない子供に言い聞かせる母親のようだった。
「ああっ、クソっ、分かってる。俺は生きているんだよな。で、貴女は誰だ?」
「うんうん、聞き分けのいい子は好きよ。あたしの子ってひねくれものが多いからー。あたしは女神パンドラ。あっ、まつらわぬ神と違って、ちゃんとした女神様だから、誤解しないように」
女神と聞いて漆黒の殺意がわいてきそうなところを、機先を制して美少女ことパンドラに釘を刺され、徹心は毒気を抜かれる。
「パンドラ、パンドラの甕を開けた女か。それが女神様と来たか。呪術に神様、本当に何でもありだな、この世界……。で、そのパンドラ様がこの死に損ないに何の用だ?」
非常識はもうお腹一杯だといわんばかりに、苦い顔で肩を竦める徹心。
「何の用って、酷いわね。折角新しい息子の顔を見に来てあげたっていうのに」
「新しい息子、まさか俺のことか?」
「もちろん。ほかに誰がいるの?」
あっけらかんと答えるパンドラに、徹心の表情が僅かに強張った。
「……勝手に家族扱いするな」
「あら」
先ほどまでとは違う低い声。パンドラは目を瞬いた。
「俺はついさっきまで、家族だと思っていた連中に妻も子供も殺されたんだ。今日会ったばかりの相手に息子呼ばわりされて、はいそうですかと喜べるほど出来た人間じゃない」
「……そうね」
意外にも、パンドラは茶化さなかった。
「それは、ごめんなさい」
あまりに素直に謝られ、今度は徹心の方が言葉に詰まる。
「いや……」
「でもね」
パンドラは少しだけ笑った。
「あなたが嫌がっても、あたしから見ればあなたはもう息子なの。そこは譲れないかな」
「なんでだよ」
「神を殺したから」
軽かった声音が、そこで初めて女神のものへ変わった。
「人の身で神を殺し、その神力を奪う資格を得た者。神殺し――カンピオーネ。その子たちを、新しい運命へ送り出すのがあたしの役目なの」
「カンピオーネ……?」
「そう。あなたは火之迦具土神を殺した。だから、もうただの人間じゃないわ」
徹心はしばらく黙っていた。やがて、吐き捨てるように言った。
「いらない」
「うん?」
「そんなもの、いらない。神を殺した褒美だか何だか知らないが、俺は何も欲しくない」
欲しかったものなら、もう失った。
最愛の妻である美珠。そして、自らが切り殺した三人目の我が子。
いや、知らないうちに奪われていた、最初の二人も。
「力なんかいらない。王にも魔王にもなりたくない。……美珠を、子供達を返してくれ」
最後の一言だけ、声が震えた。
「それが無理なら――」
徹心は俯いた。
「このまま死なせてくれ。あんたが何もしなければ、俺は死ねる。そうだろう?」
灰色の空間に、沈黙が落ちる。パンドラはしばらく何も言わなかった。
やがて、駄々をこねる子供を叱るようでも、慰めるようでもない、不思議な声で告げた。
「それはできないわ」
「……なんでだ」
「あなたが勝ったから」
「そんな理由で――」
「そんな理由じゃない」
初めて、パンドラが徹心の言葉を強く遮った。
「あなたは死ぬために神を殺したんじゃないでしょう?」
「…………」
「奥さんを奪った神が許せなかった。子供の身体を好き勝手に使わせておけなかった。だから、殺した」
「同じことだ。俺は奴が殺せるなら死んでもいいと思ってた」
「違うわ」
パンドラは首を振る。
「あなたは最後まで、誰かのために怒っていた」
徹心は何も答えられなかった。確かに、己一人の怒りだけでは、あの神を殺すより先に力尽きていた。
妻を奪われた怒り。
子を奪われた怒り。
せめて我が子の身体だけは神の器のままにしておけないという執念。
その全てがあったからこそ、徹心は最後まで十握剣を手放さなかったのだ。
「そこで反論できないのが証拠」
パンドラは静かに言った。
「だから、あたしは死にたいあなたを、それでも生かす。悪いけど、あなたの希望は聞いてあげられないわ」
その言葉を最後に、徹心の意識は再び途切れた。元より肉体も精神も疲弊の極みにある。
むしろ、ここまで意識を保っていたこと自体が異常だったのだ。
「…………」
眠りに落ちた新たな息子を、パンドラは黙って見つめる。やがて簒奪の円環が巡り始めた。人の身で神を殺した者へ、その神の力が流れ込んでいく。
火之迦具土神。神すら焼き殺しうる、荒ぶる火神の炎。その神力が徹心という新たな器へ注ぎ込まれ――。
「……え?」
パンドラの表情が変わった。
本来ならば紅蓮であるはずの神火が、みるみるうちに色を失っていく。
赤が濁る。暗くなる。そして最後には、光さえ呑み込みそうな漆黒へと染まった。
ただの炎ではない。
神秘を憎み、術を憎み、神を憎み、憎悪の対象全てを焼き尽くそうとする火。
そして、その中心には――。
「……これは駄目ね」
パンドラが顔をしかめた。
誰よりも強烈な殺意を向けられている者がいたからだ。これが他者であれば問題なかった。だが、火之迦具土神でも、月輪家の義両親でもない。ましてや世界中の神秘を扱う者たちでもない。
それは他ならぬ、徹心自身だった。
「このまま渡したら、最初に焼くのは自分じゃない」
目覚める。己に殺意を向ける。そして、この黒い炎で自らを焼き尽くす。
容易に想像できた。このままなら確実にそうなるだろうと確信できてしまった。
「駄目」
パンドラは即座に断じた。
「闘争も、反逆も、神を殺すほどの殺意も――それはあなたたち神殺しの在り方よ。そこまで否定するつもりはないわ」
けれど。
「神を殺す偉業を成し遂げた子が、その直後に自分を殺しておしまいだなんて。そんなもの、母親として認められるわけないでしょう?」
珍しく、パンドラは簒奪の円環へ手を伸ばした。本来なら、神殺しが得た力へ必要以上に干渉するべきではない。
だが、何事にも例外というのはあるものなのだ。
「まあ、あたしはカンピオーネの義母にして、最大の支援者だもの。このくらいのわがままは許されるわよね」
漆黒の炎へ、一つだけ決まりを刻む。
――自分自身を焼いてはならない。どれほど本人が望もうとも。どれほど自分自身を憎もうとも。この炎だけは、その主を殺すことを許さない。
その瞬間だった。
「……あら?」
黒炎のさらに奥。徹心自身の殺意に押し潰されそうになりながら、それでも消えずに残っているものを、パンドラは感じ取った。
微かなものだった。
だが、不思議なほど温かい。
――生きて。
そんな声がしたような気がした。妻なのか。子供たちなのか。
あるいは、徹心自身の奥底にまだ残っている、生への執着なのか。
パンドラにも分からない。
「……そう」
少しだけ、彼女の表情が柔らかくなった。
「なら、あたし一人のわがままってわけでもなさそうね」
そうして生まれた黒き神火は、ただ一人。その主だけは決して焼かない炎となった。
「もっとも――」
眠る徹心を見下ろし、パンドラは困ったように笑う。
「この子は、欠片も喜ばないでしょうけど」
書いてて、ドンびく位に義両親が邪悪になって、戦慄した。ちなみにAIからも重いと評されたよ。いやー、本気でこれの原型である過去作を書いてた当時の私は、どんな精神状態だったんだろうか?そんなに嫌なことがあったのだろうか?自分でもわからない。