神を殺した徹心が、パンドラとの邂逅を経て再び現世で目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。
「……なんか、妙な感じだな」
気分は最悪だった。
それなのに、肉体はこれまでにないほど軽い。精神も妙に澄み渡っており、身体の奥底から力が有り余っているようにすら感じられる。
そのあまりのちぐはぐさに、徹心が微妙な顔になるのも無理はなかった。
もっとも、精神面に関しては《生と不死の境界》でパンドラと話し、自らの殺意の根源を否応なく見つめさせられた影響でもあるのだが――当人は当然、そのことを覚えていない。
「…………」
身体を起こす。
そこで初めて、傍らに座ったまま舟を漕いでいる千鶴の姿に気づいた。どうやら神殺しの後、完全に意識を失った自分をここまで運び、夜通し看病してくれていたらしい。
「……完全に意識を失った大の男を、この歳の女の子が一人で運べるって、純粋に凄いな」
一瞬感心してから、すぐに思い至る。
「いや、これも呪力――ひいては呪術のお陰か……ちっ」
思わず舌打ちが漏れた。
昨日、秘儀式場で月輪家の術士たちに為す術もなく拘束され、地面へ這いつくばらされたのは、永遠に忘れられぬ悪夢の如き現実だった。
愛する妻が目の前にいるのに、助けが必要だったのに、自分は指一本、まともに動かすことすらできなかった。
あの屈辱。何より、何一つできなかった無力感。それが生々しく蘇る。
「……待て待て。冷静になれ」
徹心は自分に言い聞かせるように呟いた後、座ったまま眠っている千鶴を見る。
「千鶴を、あいつらと一緒にするな」
この娘は違う。
姉を救うために自分を呼び戻し、月輪家に、何より実の両親に逆らった。
さらに、火之迦具土神を前にしても逃げず、最後まで自分を助けるために力を振り絞った。徹心が十握剣まで辿り着けたのも、千鶴がいなければ絶対に不可能だった。
「こいつは最後まで……俺たち夫婦のために全力を尽くしてくれたんだからな」
そう口にして、徹心はほんの少しだけ眉をひそめた。
「……俺たち、か」
もう、美珠はいない。愛する妻は永遠に失われたのだ。その事実が、少し遅れて徹心の胸の奥へ沈んできた。
直後、湧き上がったのは無力だった己への憤怒と、みすみす妻子を目の前で奪われた己への殺意だった。
瞬間、それに呼応するように徹心の中から何かが噴き上がる気配がする。
「くっ、これは……!?俺だけなら兎も角、千鶴を巻き込むわけにはいかない」
今にも体外へと噴き出さんとする何かを、徹心は驚異的な精神力でどうにか押さえ込み、慌てて外へと走る。全力で駆け抜け、本邸の外へと出た瞬間にそれは起きた。
「――――!」
徹心の全身から噴き出たドス黒い漆黒の炎が、一瞬で彼の全身を覆い尽くしたのだ。
「義兄さん、なんで!?」
そのあまりの惨状に、突然の凄まじい呪力の高まりにたたき起こされ、徹心を追ってきた千鶴が絶望の声を上げる。
しかし、それは完全な杞憂であった。徹心には火傷一つ無かった。それどころか、彼の服すら燃えていない。
「なんでだ! なんで死ねない!?」
黒炎に包まれたまま、徹心は叫んだ。
「これは俺の殺意が火種になる炎だろう!? だったら、誰より殺したい俺自身を、どうして焼けない!」
「……義兄さん」
千鶴の震える声が背後から聞こえたが、徹心は振り返らなかった。
「来るな、千鶴」
「……何を」
「来るな!」
怒鳴る。
「この炎がどういうものか、俺にもまだ完全には分からない! お前まで巻き込むかもしれない!」
それでも、足音は止まらなかった。
「千鶴!」
「ふざけないで!」
今度は、千鶴の方が怒鳴った。徹心が思わず振り返る。
そこにあったのは、彼の現世唯一の家族の涙であった。
――泣きながら、激怒している義妹千鶴の姿だった。
「神に焼かれて、あれだけの傷を負って、それでも生きて帰ってきたのに! なんで今度は自分から死のうとしてるのよ!」
「…………」
「姉さんが死んで、父さんも母さんも、家の人間もみんな死んで!」
声が震える。
「私にはもう、義兄さんしかいないのに!」
徹心の表情が固まった。
「なのに、なんで……!」
千鶴は黒炎など構わず、一歩踏み出した。
「なんで義兄さんまで、私を置いていこうとするのよ!」
「来るなって言ってるだろ!」
「嫌よ!」
さらに一歩。最早、黒炎が千鶴へ触れようとして――徹心は反射的に炎を引っ込めた。
「……っ」
消えた。あれほど荒れ狂っていた漆黒の炎が、嘘のように一瞬で跡形もなく消失した。
二人とも唖然とし、しばらく動けなかった。
「……消せるんだ」
千鶴が呟く。
「……」
徹心は答えず、ただ、自分の掌を見る。
分かる。今の炎は、自分のものだ。
殺意によって生まれ、神秘を糧に燃え、自分の意思で放ち、自分の意思で止められる。
だというのに――!
「……俺だけは、焼けない」
徹心は呆然と呟いた。
「なんでだよ……」
その声には、怒りよりも深い絶望が滲んでいた。
「なんで、俺だけ……」
独りだけ生き残ってしまった。
愛する妻も、未来ある子供たちも全部失ったのに。
――なぜ、自分だけが!?
「なんで俺だけ、生きろって言うんだよ……」
「義兄さんは、独りじゃない!私がいる。私にはもう義兄さんしかないなのに、私を独りにしないでよ!」
千鶴の心からの叫びに、
「…………」
徹心は何も言えなかった。千鶴の頬を、次から次へと涙が伝っている。
分かっているようで見ていなかった。この少女もまた、全てを失ったのだということを。心の拠り所であった最愛の姉を失った。毒親であっても、血の繋がった実親である両親を失った。それなりの付き合いのあった家門さえも失った。
それでも、徹心は自分の喪失ばかりを見ていたからだ。
それは仕方の無いことだ。愛する妻はおらず、未来への希望であった子供たちもいない。恩人で家族だと思ってた義両親は、最初から彼らを道具としか見てなかったなどと知ってしまったのだから。この状況下で、彼を責めれる者はいまい。
声が震える。
「これから先にあったはずのものが、全部なくなった」
徹心は自分の掌を見る。神を殺し、我が子の肉体を斬った血塗られた手。内には神をも殺す殺意の業火が燃え続けている。今の彼に殺す以外にできることなどあるのだろうか。
「……俺にどうしろって言うんだ」
徹心がようやく絞り出せたのは、そんな何とも言えない言葉だけだった。
「生きててくれば、何もしてくれなくていい。月輪の血を引く私が煩わしいなら、私はどこか遠くへ行ったっていい。ただ生きていて欲しい」
「それに何の意味がある?」
「昨日まで普通に姉さんがいて、義兄さんがいて、嫌いだったけど父さんも母さんもいて!あんなのでも私の親だったの! それが一日で全部なくなったのよ!」
千鶴の声が裏返る。
「義兄さんだけでも生きてよ! それだけで私は独りじゃないし、救われるんだから!」
「…………」
徹心は、何も言えなかった。
何もしてくれなくていい。ただ、生きていてほしい。そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
いや、そもそも、あっただろうか。
天涯孤独だった。高校進学だって、優秀でなければ出来なかった。本気で勉強しようとする者以外進学させられるほど、彼が育った施設には余裕がなかった。彼が一般家庭の子供と同じように進学し、生きていくためには、徹底した規律ある生活とたゆまぬ努力が必要だった。
はっきり言えば、美珠と出会うまで、徹心は「徹心だから」必要とされたことがほとんどなかった。求められたのは、成績であり、能力であり、役に立つ自分だった。
月輪家に迎えられて、ようやく家族ができたと思った。
だが、それさえ嘘だった。自分に価値があったからではない。能力ではなく自分の血に利用価値があっただけだった。
けれど、目の前で泣いている少女は違う。
何かをしろとは言わない。自分を守れとも、養えとも、月輪家を再興しろとも言わない。
ただ、ひたすらに純粋に生きていてほしい、と願っているのだ。
「……お前は」
声が掠れた。
「俺が何もできなくても、それでいいのか」
「いい!」
千鶴は迷わなかった。
「何もしてくれなくていい!」
「…………」
「義兄さんが生きてる。それだけでいいの!」
その言葉が、徹心には痛かった。優しいからこそ、どうしようもなく痛かった。
「……俺は」
徹心は俯いた。
「今すぐ、生きたいとは言えない」
千鶴の肩が僅かに震える。
「美珠や子供達のところに行きたいって気持ちだって、消えてない」
「……うん」
「たぶん、すぐには消えない」
「……うん」
それでも、徹心は先ほど黒炎を纏っていた自分の手を見る。
「でも」
一度、強く拳を握った。
「自己満足で死んで、 お前を孤独にするのは……違うな」
「……義兄さん」
「だから」
徹心はようやく千鶴を正面から見た。
「今は、生きる」
未来永劫を誓う言葉ではなかった。立ち直ったわけでもない。生きる意味を見つけたわけでもない。
ただ、今日だけは、目の前に残された家族を独りにしないために、生きる。
「……それで勘弁してくれ」
千鶴はしばらく徹心を見つめていた。やがて、涙だらけの顔で笑った。
「……それでいい」
それが、神殺しとなった徹心が、自らの意思で選んだ最初の「生」だった。
さて、生きると決めてしまえば、次にやってくるのは世知辛い現実である。
「生きると決めた以上、今回の後始末を考えないとな。……問題は山積みだ」
まず何より優先すべきなのは、美珠のことだった。
葬儀に遺体の管理。どういう形で送り出すのか。それについてだけは、何を置いても真っ先にやる。それ以上考える余地などなかった。
次に、月輪家そのものの後始末。
千鶴を見捨てるという選択肢がない以上、結局のところ自分たちで片付けるしかない。
義父母を含め、今回の儀式へ加担した連中の葬儀までやってやるつもりは欠片もなかった。
だが、今後の生活を考えるなら、相続関係だけは整理しておく必要がある。
徹心自身、婿入りの際に月輪家へ養子入りしている。つまり法的にも相続権を持っている。
「……今考えれば、養子にしたのも囲い込みの一環だったんだろうな」
月輪家以外との繋がりを細くし、いざという時には外界から切り離しやすくする。
そう考えれば筋は通る。
「まあ、それはそれとして」
徹心はあっさり思考を切った。
「貰えるものは貰う」
「……随分割り切るのね、義兄さん」
「金に貴賤はないからな」
何より、家族に、金のことで苦労させたくない。
徹心自身、金がなく能力が無ければ進学すら難しい環境で育ってきた。千鶴に同じ思いをさせるつもりはない。
そして、もっとも面倒で、もっともどうにもならない問題が残っている。
「……俺自身だな」
「うん」
「神を殺した」
「そうね、因みに日本の呪術界風に言えば、『荒ぶる鬼神の顕現』とか『忌むべき羅刹王の化身』とかになるわ」
「しかも魔王になったらしい」
「うん、正真正銘の魔王様よ。本人にその気が無くても呪術師や魔術師が王様扱いしてくるくらいには」
「…………」
「…………」
しばし沈黙して、徹心は頭を抱えた。
「どう考えても、これが一番面倒じゃないか?」
月輪家のような呪術家門が実在していた以上、日本国内にそれ以外の術者組織が存在しないとは考えにくい。あるいは、国家そのものが、裏でこうした存在を把握している可能性すらある。
そして、そうだとするなら、今の白川徹心は――突然、日本国内に出現した災厄だ。
それでいて、国家にも、既存の呪術組織にも、どこの魔術結社にも属さず、たった一人で神を殺した。存在そのものが理不尽と評される、正体不明の魔王。
「……超弩級の爆弾だよな、俺」
「そうね」
千鶴は遠い目をした。
「義兄さん、神を殺しちゃったものね。間違いなくこの国の元締めである正史編纂委員会が調べに来るし、絶対に誤魔化せないわ」
「あるだろうとは思ったが、そんな組織が本当にあるんだな。……お前の術で誤魔化すとか無理か?」
一縷の可能性をかけて問うが、千鶴の返答はにべもなかった。
「絶対に誤魔化せないわ。没落しつつあった月輪家と違って、国家と結びついて強大にすらなっている呪術組織よ。私と同等かそれ以上の術者が複数いるわ。霊視に優れた媛巫女でも連れてこられたら、即座にアウトね」
「そうか」
「それにね、義兄さん。ハッキリ言っておくけど、義兄さんの呪力量や気配はそもそも私程度の術じゃ隠すのは無理よ」
千鶴はもうどうしようもないという顔で首を振り、ダメ押しのように付け加えた。
「駄目じゃん。ヤバ過ぎる。どうしろっていうんだ!」
徹心も同じだった。神なら殺せた。
だが、これからやって来るであろう役人や呪術師たちを、斬って終わりにするわけにはいかないのだから。
「多分、遅くても今日中に来ると思う」
「待て待て、早過ぎないか?」
千鶴の予想外の言葉に、徹心は思わず慌てた。
しかし、彼女は、むしろ当然だと言わんばかりに現状を説明する。
「義兄さん。昨日の儀式の時点で、霊脈には相当な影響が出ているはずよ。なにせ、まつろわぬ神が顕現したんだから」
「……まあ、それはそうか」
「それでも昨日のうちに誰も来なかったのは、秘儀式場に何重もの隠蔽術と秘匿術がかけられていたから。だから外から見れば、『何か大きな異常が起きた』程度にしか把握できなかったはず」
「うん? それなら、まだ誤魔化せるんじゃないか?」
徹心が少しだけ安堵したような顔をする。
だが、千鶴はその期待をあっさり叩き潰した。
「忘れたの、義兄さん」
「何を?」
「あなた、さっき権能を使ったでしょう」
「…………あ」
「あの漆黒の炎」
千鶴は額を押さえる。
「あれだけ莫大な呪力反応を、正史編纂委員会が見逃すわけないわ」
「……そんなにか?」
「そんなによ。権能の呪力反応は普通の術者とは、文字通り桁が違うから」
千鶴はきっぱり言い切った。
「例えるなら――昨日までは、真っ暗な夜の山奥で『何か物音がした』くらいだったの」
「うん」
「でも今朝、義兄さんが権能を使ったことで」
一拍。
「いきなり照明弾を空いっぱいに打ち上げたようなものよ」
「…………」
「『ここに何かいます』って、自分から知らせたのと同じ」
徹心は頭を抱えた。
「つまり、自分で呼び寄せたのか……」
「そういうこと」
「最悪だ……」
「でも、考えようによっては好都合かもしれない」
「何?」
「だって、魔王の権威を使えば、今回の後始末……特に月輪家のやらかしなんて、正史編纂委員会に丸ごと投げられるかもしれないもの」
「魔王になった翌日に権力を私用するのか、俺は」
「使えるものは使うんでしょう?」
「……否定できない」
徹心が苦い顔をする。
「それだけじゃないわ」
「まだあるのか?」
「ねえ、義兄さん。正直に答えて」
千鶴の声音が、少しだけ変わった。
「これからも、月輪を名乗りたい?」
問いかけられた徹心は、ほとんど考えることなく答えた。
「いや」
即答だった。
「美珠との夫婦だったことまで捨てるつもりはない。あいつが俺の妻だったことを無かったことにする気もない」
だが。
「月輪の人間で居続けるのは御免だ。俺は白川に戻る」
「……うん」
「千鶴には悪いが」
「謝らないで」
千鶴は首を振った。
「当然だと思う。それに――」
一度、言葉を切った。
「私だって、もう月輪を名乗りたくない」
徹心が彼女を見る。
「千鶴?」
「姉さんを生まれた時から道具にして、姉さんの子供たちを殺して、義兄さんまで利用した家の名前なんて……もういらない」
吐き捨てるような言葉だった。
しかし、次の言葉だけはひどく不安そうだった。
「だから……」
「うん?」
「私も、白川になっちゃ駄目?」
「…………」
「法律とか手続きとか、どうすればいいのか分からないけど」
千鶴は徹心を真っ直ぐ見た。
「私はもう、月輪家の跡取りじゃなくていい」
そして、小さく笑う。
「義兄さんの妹でいたい」
徹心は何も言わなかった。いや、すぐには、言えなかった。
「……そうか」
やがて、それだけを口にする。
「じゃあ、その辺も正史編纂委員会に聞いてみるか」
「いいの?」
「嫌なら最初から言ってる」
徹心は肩を竦めた。
「家族に名字が違うのも面倒だろ」
「……義兄さん」
「ただし」
徹心は千鶴を指差した。
「どういう手続きになるか知らんが、俺の娘になるのは却下な」
「なんでよ!?」
「俺は二十二だぞ! 十五歳の娘が突然できてたまるか!」
「七歳差じゃない!」
「だから余計おかしいんだよ!」
昨日、全てを失った二人の間に、本当に僅かではあったが、初めて、いつものような言い争いが戻ったのだった。
「いや、もうこの際だ。月輪家を消滅させて、白川家を成立させよう」
「……はい?」
あまりに突然の提案に、千鶴が目を瞬いた。
「俺は魔王様らしいし、それぐらいごり押ししてもいいだろう?」
「いや、私は構わないけど……そこまでする必要あるの?」
「ある」
徹心は即答した。
「美珠を、月輪美珠のままにしておきたくない」
「……姉さんを?」
「ああ」
僅かに目を伏せる。
「月輪家の娘として生まれて、あいつらの都合で名前を付けられて、最後には神を産むための道具として殺された」
拳が固く握られた。
「だったら、死んだ後くらい月輪から解放してやりたい」
「…………」
「月輪美珠じゃない」
徹心は静かに言った。
「俺の妻、白川美珠として送り出してやる」
千鶴の目が大きく開かれた。
「それで、白川家の墓に入れる」
「白川家の……」
「ああ」
「でも義兄さん、白川家って……」
「俺しかいないな」
「家っていうか一人じゃない」
「だから今から作るんだよ」
「そんな家の作り方ある!?」
「常識など糞食らえだ。俺の常識は昨日根こそぎぶっ壊されたんだからな」
「それはそうだけど!」
「それに」
徹心は千鶴を見る。
「俺一人じゃなくなるだろ」
「……え?」
「お前も白川になるんだから」
千鶴が固まった。
「月輪家は昨日終わった」
徹心の声音には、迷いがなかった。
「お前まで一緒に終わる必要はない」
「…………」
「これからは白川千鶴として生きればいい」
長い沈黙の後、千鶴が俯いた。
「……それ、反則」
「何が」
「そんな言い方されたら、断れるわけないじゃない……」
声が震えていた。
「別に断ってもいいぞ」
「断らない!」
即答だった。
「絶対に断らない!」
「そうか」
「……うん」
千鶴は涙を拭った。
「私、白川千鶴になる」
「ああ」
「姉さんも?」
「ああ」
「義兄さんも?」
「当然だ」
それでようやく、昨日まで存在しなかった、小さな家族が生まれた。
千年以上の歴史を持つ呪術名家月輪家は終わる。
だが、そこで生きた三人まで、なくなるわけではない。
白川徹心。
白川美珠。
白川千鶴。
三人だけの、新しい家だった。
「そうするなら、もう洗いざらい全部ぶちまけてしまいましょう」
「全部?」
「全部。変に隠そうとするより、その方が絶対にいいわ」
千鶴は指を折りながら数えていく。
「月輪家が火之迦具土神を召喚しようとしたこと。姉さんと義兄さんを神話再現に利用したこと。二人の子供を意図的に流したこと。三人目の子を依代にしたこと。十握剣で神を縛ろうとしたこと。それで失敗して、家門の術士が全滅したこと」
「改めて並べると……本気で最低だな、あの家」
「私の実家なんだけどね」
「悪い」
「事実だからいいわ」
千鶴は疲れたように息を吐いたが、その実どこか清々とした感じがあった。
「それで、最後に義兄さんが火之迦具土神を殺した」
「そこだけ急に話の規模がおかしくないか?」
「最初から全部おかしいし、狂っていたんだから、結果が異常なのは当然よ」
「それもそうか」
「正史編纂委員会だって、こっちが被害者だって分かれば無闇に敵対はしないと思う。それに――」
千鶴が徹心を見る。
「もう隠す必要もないでしょう?」
「……まあな」
月輪家を守る理由など、もうない。
その家名も、秘密も、面子も、守ってやる理由が全く無い。
少なくとも。徹心には何一つとして価値がない。
「むしろ全部記録に残してもらうか」
「え?」
「月輪家が何をしたのか」
徹心の声が冷たくなる。
「千年以上続いた名家だか何だか知らないが、綺麗な歴史だけ残して終わらせる気はない」
「義兄さん……」
「美珠や子供たちを犠牲にして神を操おうとして、自滅した」
一言一言、はっきりと言う。
「それが月輪家の最後だ。ちゃんと残してもらう」
千鶴は少しだけ目を伏せた。
自分が生まれ育った家。その千年以上の歴史に、自ら泥を塗ることになる。
「……うん」
それでも。
「私も、それでいい」
「ああ」
「じゃあ、全部話しましょう」
「そうするか」
徹心は頷いた。
「嘘を吐いて、また誰かに都合よく真実を隠されるのは、もう御免だからな」
「そうだね、もう誰にも騙されたくないし、いいように動かされたくないものね」
徹心の言葉に、千鶴はしみじみと本音を吐露した。それは、もう二度と他人の駒にされたくないという二人の絶対に譲れない意思であった。
「そうだ、もうやってしまったんだから、とことんやってしまいましょう」
「うん、何をだ?」
さも名案を思いついたと言わんばかりの千鶴に、徹心は怪訝な顔をする。
「権能よ。義兄さんの漆黒の炎について、出来る限りの検証をしてしまいましょう。正史編纂委員会が来る前に済ましてしまいましょう。あいつらに余計な情報を与えてやる理由はないから。もう全力で急いでるだろうから、何度使おうと、これ以上早くなることはないだろうしね」
あんまりにあんまりな言いように徹心はしばし言葉を失い、苦笑して言った。
「……お前、俺が思っていたより、遙かに思い切りのいい奴だったんだな」
「姉さんが表向き蝶よ花よと箱入り娘として育てられたのに対して、私は月輪家の次期当主になるために、物心がつく前から呪術だけでなく多岐にわたる教育をスパルタで叩き込まれたんだよ。これくらい当然よ」
鼻息荒く胸を張る千鶴。
「分かった、降参だ千鶴。お前のいう通りにしよう」
かくて、新たなる魔王の権能、後に『神秘殺しの黒炎』と名付けられる権能の検証が始まったのだった。
まず、最初に発動条件からだった。これは明確だった。徹心が殺意を抱くこと。彼自身を殺意の標的にすればいいので、容易に発動できてしまう。ただ、逆にそれ以外だと意外に難しいということが分かった。
その証拠に、千鶴を相手にした時などは、どうやっても発動しなかった。本人曰く「実験だから」とのことだったが、徹心にとって千鶴に本気の殺意を向けるなど論外である。結局、千鶴に半ば強制されて試してみたものの、黒炎は蝋燭の火ほども灯らなかった。物に対しても、明確な破壊の意思を持たなければ発動させられないようだった。
一方で、一度発動した炎は、かなり強力な殺傷力を持つようだ。黒炎を纏った徹心に向かって物を投げさせたが、一瞬で灰も残さずに燃やし尽くしたのだから。ただし、徹心が明確に殺意を抱かぬものはこの限りではないようだ。
なぜなら、物に対する権能行使の実験で、こんなことがあったからだ。
「じゃあ、この紙を燃やそうと思ってみてくれる」
「……燃えないな」
「では、絶対に燃やす、と意識して」
「おっ、あっさり燃えた。千鶴熱くないのか?」
「熱くも何ともなかったよ。むしろ、いつ燃えたのかも分からなかったくらい」
千鶴は掌の上で紙が黒炎で一瞬で燃やし尽くされても、火傷どころか塵ほどの傷も受けなかったし、彼自身の服が燃えるようなこともなかった。黒炎はあくまでも殺意の対象になるものだけを燃やすようだ。
「つまり、俺が千鶴を守ろうとして黒炎を纏っても、千鶴は焼けない」
「そういうことね」
「……便利だな」
「便利というより、怖い能力だと思うけど。でも、この炎の真価はそこじゃない」
呪術師として、これがどれほど高度で恐ろしい技なのか理解している千鶴は青い顔をするが、徹心はどこ吹く風である。
月輪家の本邸に残っている結界や術式で試してみたが、それを燃料に火勢が強くなったのだ。呪具であっても同じだった。より高位の呪具の方がいい燃料になる始末であった。
すなわち、ただトリガーが殺意なだけで、この黒炎の真価は、神秘を燃料に燃え盛ることだった。術・呪力は勿論、呪具すら焼く。それどころか、神力・権能、神具すら燃料にしてしまうだろう。
「これは神との戦いでかなり有利な特性じゃないか?」
徹心が素直な感想を漏らすが、千鶴は釘を刺す。
「最高位の神具は、流石に燃やせないと思うし、権能も出力の差で押し切られる可能性があるのを忘れないで。この黒炎は絶対の矛じゃない」
「なるほど、そらそうだな」
「むしろ怖いのは、燃やせるかどうかより――燃やせば燃やすほど、相手の神秘をこちらの炎が取り込んで強くなる可能性があることよ」
「……つまり?」
「相手が強ければ強いほど、黒炎も強くなる。けれど、相手の神秘が強すぎれば、そもそも燃やし切れない」
「なるほど」
「だからこれは、強者を一方的に殺す力じゃない。強者と戦える力なんだと思う」
まさに神殺しという究極の下剋上を成し遂げた魔王に相応しい格上殺しの能力と言えよう。肝心の徹心にその自覚があまりないのが玉に瑕だが……。
権能について、必要な検証が終わり、一息ついたところで、千鶴は重大なことを忘れていたと、顔面蒼白になった。
「そう言えば、十握剣はどこへ行ってしまったのかな?流石にあれだけは正史編纂委員会に渡すわけにはいかない。義兄さんが実際に神殺しを為したことで、あの剣はいわれだけじゃなく本物の神殺しの剣になってしまった。恐らく義兄さんをも傷つけられる代物になっている可能性が高いから」
「……あの剣か」
徹心は、何とも名状しがたい表情をしている。
「義兄さん、心当たりがあるの?あの後、秘儀式場を探し回ったのに、影も形もなかったんだよね」
「探す必要はない」
「えっ?」
「俺の中にあるからな」
そう言って、苦虫をかみつぶした顔で腕を一振りする徹心。瞬時に、かつてとは形状が変化した十握剣がその手に現れていた。
「いやいやいや、待って義兄さん」
「なんだ?」
「義兄さんって、潜在的素養は高くても、魔術も呪術も使えない素人だよね?」
「そうだな」
「じゃあ、どうやって取り出したの? どこから? というか、なんで形状まで変わってるの?太刀じゃなくて直剣だったはずだよね?」
「知らん」
「知らんって……!」
「言ったろう。俺の中だ。どういうわけか、こいつ俺の中に住み着いてやがるんだ。自殺したかったのは、それに気付いたせいでもある」
「義兄さんが意図してないのに、義兄さんの中に収まって、形状まで変化している――そうか!」
千鶴の顔に、驚愕が浮かんだ。
「義兄さんは、人の身で実際に神を殺した。だから神剣に主として認められたんだ……!」
「主?」
「そう。そして義兄さんに合わせて形状まで変化した。元は神話の時代の直剣だったはずなのに、今は太刀になってる。つまり――」
千鶴は目を輝かせた。
「あの剣は、もう月輪家の神具じゃない。義兄さんの神剣になったんだよ!」
「……そうなのか?」
「そうなの!もっと驚いてよ、義兄さん!これも凄い偉業なんだよ!」
千鶴の興奮は凄まじいが、肝心の徹心はどうもピンとこず、冷めたままだった。
唯一、彼にとって朗報だったのは――この剣が、もう月輪家の神具ではないということだけだ。
こうして――神殺しの剣を携え、殺意の炎を操る魔王が誕生したのだった。