その日、日本の呪術界の総元締めである正史編纂委員会は、大混乱に陥っていた。
前日、京都で旧い呪術名家が、自身の管理霊地でなにやらやらかしたらしいということは霊脈の乱れによって分かってはいたが、本日早朝に起きたことは、その比ではなかった。
「馬鹿な、権能クラスの呪力反応だと!?」
「……まさか、まつろわぬ神の顕現!?すぐに媛巫女に霊視の要請を!」
「信じられない。没落寸前で旧態依然の月輪家に、招来の儀式をするだけの力が残っていたというの?」
「没落寸前だろうが、歴史だけはある家だからな。もしかしたら、神具か、相当高位な呪具を隠し持っていたのかもしれない……」
「だから、さっさと潰しておけばよかったんだ!」
喧々囂々、会議は踊るが、焦りとまさかの事態に結論は出ない。結局、本日派遣するはずだった調査を少数精鋭にして、可及的速やかに送り出すことだけが決まった。
「いやー、大変なことになりましたね。まつろわぬ神だったら、日本が滅びちゃうかもしれませんねー」
能天気にも聞こえる口ぶりで、そんなことを言うのはくたびれた背広をだらしなく着崩した地味な青年だった。名を『甘粕冬馬』。道化のように見えるが、これでも正史編纂委員会の中枢に繋がるれっきとした高位エージェントである。
「甘粕さん、冗談でもいっていいことじゃないでしょう。まあ、そうなるかもしれないことは否定しませんけど」
それを諫めるように言うのは、媛巫女の一人である長い髪を結い上げた20代半ばの女性だった。彼女は『高橋瑞穂』、血統を重視される媛巫女としては珍しく、一般家庭から突然変異的に現れた呪的素養の高い人間が、委員会に見いだされて厳しい修行を積んで媛巫女にまでなったという希少存在だ。
「いやー、本当にそうだったら、我々はそろって殉職かもしれませんね?」
冗談めかして言ってるが、発言内容は縁起でもない代物だった。
「縁起でもないことを言わないでください。というか、なんでそんな鉄火場に器用貧乏の私なんですか?」
瑞穂は媛巫女として、それほど高位の存在ではない。むしろ、低位な方で何でも一定以上にできるが、それ以上はできないというタイプである。媛巫女に期待されているのは、万能性よりむしろ特化した才能なので、自分はしょせん器用貧乏というのが、彼女自身の評価であった。
「いえいえ、器用貧乏なんてとんでもない。なんでもできるというのは稀有な才能ですよ。特に今回のような何が起こるか分からない現場では、そちらが求められるものです」
「そうですかねー?」
どこか疑わしそうに言う瑞穂に、冬馬はどこ吹く風だ。
実は、彼女を今回の調査に推薦したのは、ほかならぬ冬馬なのだから、その反応はある意味当然だった。
(特化型は刺されば強いですが、刺さらなければ何もできない。何より替えがききませんからね。媛巫女ともなれば、血筋的にも政治が絡んで面倒くさい。そこを行くと、瑞穂さんは彼女しかできないということはないし、政治的なしがらみもないですからねー)
そんな冷徹な計算があることを、瑞穂は知らない。
だが、この判断に委員会なりの打算があるのだろうことは、彼女も理解している。
そもそも瑞穂が周囲の反対を押し切って大学へ進学したのも、呪術界だけに人生の全てを預けることが怖かったからだ。きっちりいくつかの資格まで取得しており、仮に媛巫女を辞めても食うには困らない。
そのあたり、彼女は妙に現実的な女だった。
当然、自分が所属する正史編纂委員会についても、清廉潔白な正義の組織などとは思っていない。必要とあらば清濁併せ呑む。それくらいのことは、とうに理解している。
(まあ、気づかれているでしょうね。この方、どこか浮世離れしたところのある他の媛巫女と違って、地に足ついているタイプですから……。)
(道化みたいな態度だけど、切り捨てるときは躊躇わないタイプでしょう。背中に気をつけましょう。いざという時は、脇目も降らず全力で逃げましょう)
「高橋さん」
「なんです?」
「もし本当にまつろわぬ神がいたら、勝手に逃げないでくださいね?」
「…………」
「…………」
にこやかな笑顔を浮かべて釘をさしてくる冬馬を、瑞穂は半眼で見つめた。
「甘粕さん」
「はい?」
「人の心を読まないでもらえます?」
「いやですねえ。読心術なんて使ってませんよ」
「なお悪いです。でも、鉄砲玉扱いするなら、道連れにするくらいはしますので、覚えておいてくださいね」
「ははは、怖い怖い」
どうやら今回の相方とは、あまり腹の探り合いをしない方がよさそうだと、両者は互いに思うのだった。
もっとも、今回は両者の思惑は、大いに外れることになる。それもとんでもなく予想外で、奇天烈な展開で。現実は小説より奇なりというが、今回はまさにその通りの出来事だったのだ。
さて、両者は表面上穏やかに実務的な話を交わしながら、黙々と移動を続け、愛宕山に存在する『月輪谷』までやってきた。
結界によって外界から隔てられたその場所は、何も知らない者が見れば、ただの断崖絶壁にしか見えない。
だが、その向こうには月輪家の本拠地――彼らが代々管理してきた霊地が存在するはずだった。
「正直、行きたくないですねえ」
冬馬は珍しく、本音を口にした。
「そうは言っても、行かないわけにはいかないでしょう? 気持ちは嫌というほど分かりますけど」
瑞穂もこれにはまったくの同意だった。
正直、今すぐ回れ右をして帰って寝たい。
なにせ、ここまで近づけば――嫌でも感じ取れてしまう。
結界の向こう側から漏れ出してくる、強大極まりない呪力の気配を。
二人とも、術者としては間違いなく一流だ。だからこそ分かる。
これは、高位の術者を何人束ねたところで、そう簡単に生み出せる規模のものではない。分からなければ、まだよかったが、分かってしまうだけに容易に動けなくなるというのは、当然のことであった。
それでも、冬馬も瑞穂もプロである。両者は怖気づいて、仕事を放棄するような無様は晒さなかった。迷いを振り切り、同時に結界内部に侵入する。
入って、すぐに最初の違和感を覚える。人の気配がなさ過ぎるのだ。
「……人の気配がありませんね」
「ええ、しかも、最低限の警備すらいません」
「月輪家って、委員会嫌いでしたよね?結界に入った瞬間に攻撃受けるくらい、覚悟してたんですけど……」
「ある意味、拍子抜けですが、事態は最悪かもしれません」
「迎撃の術者すら配置できない程、人がいない?でも、月輪家って当主一族だけの家じゃありませんよね?」
「もちろん。腐っても鯛です。歴史の長さだけなら最古クラスですし、分家や末端の術師も含めれば、家門の術師だけで百名はくだらないかと」
「ですよねえ……。でも、いないんですよねえ」
冬馬と瑞穂は、何の迎撃もないことに拍子抜けした。
だが、それで緊張が解けることはない。むしろ、背筋を伝う冷たい汗は増していた。
何もない。誰もいない。それ自体が、明らかに異常なのだ。
探索を続ければ続けるほど、嫌な汗は増していく。
門番がいないだけではない。巡回もいない。母屋にも人がいない。警備の詰所にも誰もいない。建物は綺麗で、どこも壊れたような様子がないのに、人だけがいないのが異常さを増していた。つい昨日まで人がいたことを示す生活痕が残っているだけに、なおさらだった。
「……高橋さん」
冬馬の口ぶりには、今までの道化じみた色合いが全くなかった。
「はい」
「さっき、私は『まつろわぬ神だったら日本が滅びるかもしれない』なんて言いましたけど」
「言ってましたね」
「冗談じゃなくなってきましたねえ」
「だから言わないでくださいって言ったでしょう」
本当になりそうだから、何も言わなかったのにと、瑞穂は恨めしく思う。言霊というのは、本当にあるものなのだから。
なにせ、不気味なのは人の気配のなさだけではない。強大な呪力反応そのものは依然として存在していながら、何の動きもないのが、逆に恐ろしかった。まつろわぬ神なれば、とうに自分達を補足しているだろうに、何もしてこないのだから。
「……ひとつ、非常に嫌な仮説があるんですが」
「奇遇ですね。多分、私も同じことを考えています」
「月輪家は、何らかの方法でまつろわぬ神の招来に成功した」
「そして――」
瑞穂は一度言葉を切った。言葉にするのも嫌だったからだ。
「制御に失敗した」
「……でしょうねえ」
「家門の術師が誰もいないのは、その神に……」
そこから先を、瑞穂は言わなかったし、冬馬も続きを求めなかった。
それで十分だった。
「でも、おかしいんですよねえ」
「……何がです?」
「戦った跡がない」
「…………」
「百人ですよ? 仮にも月輪の術師が百人。それが全員殺されたというなら、一人くらい何かするでしょう。結界を張るなり、呪術を撃つなり、逃げるなり」
「それすら、できなかった……?」
「だとすると――」
「言わないでください」
「はい?」
「さっきから甘粕さん、悪い予想ばかり当てそうなので」
瑞穂の嫌がりように、冬馬も確かに口に出す必要はないかと、そこで口をつぐむ。
どの道、すでに強大な呪力反応は間近なのだから、ここまで来た以上、逃げようもないだろうと。
果たして、両者は強大な呪力反応のあるはずの場所で、一組の男女を見つけることになる。女性の方は両者とも見覚えがあるし、顔合わせもしたことがあるので、すぐに分かった。
――月輪家次期当主、月輪千鶴。確か今年、高校へ進学したばかりのはずだ。
だが、男性の方には冬馬はとんと覚えがない。これでも彼はほぼ敵対していると言っても過言ではない月輪家家門の術師の顔は、全て把握している。調査の前にも、一通り資料で確認した。それにも関わらず、彼には全く見覚えがない。
しかし、思いもよらぬところから答えは出た。
「噓でしょう……あなたなの、徹心君」
驚愕も露わに、口を押さえて男性を見やる瑞穂。
「先輩?瑞穂先輩ですか?」
男性も驚愕した表情で応じた。どうやら、この出会いはよほど予想外だったようだ。
「……高橋さんのお知り合いですか?」
冬馬が尋ねる。
しかし、その声音からは先ほどまでの軽薄さが消えていた。
「え、ええ。大学時代の後輩です。神仏さえ信じてないあなたが、どうしてここに――」
そこまで言って、瑞穂も気づいた。いや、気づいてしまった。
ここだ。自分たちが追ってきた、あの馬鹿げた規模の呪力反応。その中心が――。
瑞穂の視線が、ゆっくりと徹心へ戻る。
「…………徹心君?」
「なんです?」
「あなた……何したの?」
「……どこから説明すればいいんでしょうね」
徹心は心底困ったような顔をした。
「義兄さん。この人、知り合いなの?」
わけが分からない千鶴がたまらず、口をはさむ。
「大学の二年上の先輩だ。美珠共々、色々世話になった恩人だ」
「……媛巫女だけど?」
「…………は?」
千鶴の言葉に、しばし固まる徹心だったが、しばらく後何かを得心したように手を叩く。
「先輩、あの頃たまに巫女服着てたのって……」
「うん」
「趣味のコスプレや神社のアルバイトじゃなかったんですね」
「……徹心君。一度もコスプレだなんて言ってないけど」
「いやー、まさか本物だとは夢に思いませんでしたから……」
気まずそうに徹心は頭をかく。
「……ちなみに、どっちだと思ってたの?」
「神社のアルバイトが八割、趣味が二割くらいです」
「二割もあったの!?」
瑞穂は、それなりに可愛がっていた後輩に、そんな風に思われていたことに少なからぬダメージを受ける。
「義兄さん……」
これには千鶴も呆れるほかなかった。
「いやあ、感動の再会中のところ申し訳ないんですが」
冬馬が笑顔で口を挟んだ。笑っているが、その目はまったく笑っていなかった。
「そろそろ、僕にも紹介していただけませんかねえ?」
「あ、すみません。白川徹心です」
「白川……?」
冬馬の眉が、ごくわずかに動いた。
月輪ではない。だが千鶴は、この男を『兄』と呼んだ。
「……月輪美珠さんのご主人ですか?」
「ええ。正確には、そうでした」
「それは、どういう――」
「徹心君、美珠ちゃんは?」
冬馬が言葉の意味を聞こうとした時、何かに気づいた瑞穂の緊迫した声が割り込む。その顔から、先ほどまでの呆れは完全に消えていた。代わりに浮かんだのは、何かに気づいてしまった者の恐れだった。
「……」
徹心は先ほどの様子が嘘のように沈黙した。弛緩していた空気が信じられないくらい重くなる。
「義兄さん、私が」
「いや、いい。俺が話す」
徹心に語らせるのは、あまりにむごいと思ったのか、千鶴が代わりに話そうとするが、彼はそれを遮った。
「美珠は死にました。俺は愛する妻を守れなかったんです」
無表情ではっきり語る徹心に、瑞穂は何もいえず、絶句する。
「……昨日、ですか?」
「はい」
「ここで?」
「はい」
徹心の答えは淡々としていたが、それがどうしようもない事実なのだと語っているようだった。
「白川さん。酷なことを聞くようですが、月輪家で何が起きたのか、説明していただけますか」
徹心は少し黙って、
「……分かりました。ただ、長くなります」
「構いません」
「それと――俺も昨日まで、呪術なんてものが本当にあるとは知りませんでした。だから、分からないところは千鶴に補足してもらいます」
「昨日まで?」
冬馬が、その言葉を聞き咎めたが、今は疑問を棚上げにした。
「そもそも話は妻の妊娠が発端になります――」
そこ語られたのは、月輪家による神話再現を利用したまつろわぬ神招来の儀式の詳細。呪術師である冬馬や瑞穂からしても、その内容は悍ましく救いのないものだったが、どこかで納得もした。無駄にプライドが高い月輪家ならこれくらいやるだろうと。
誤算だったのは、委員会も把握していない真正の神具というトンデモナイ隠し玉があったことだ。腐っても鯛といったのは、間違っていなかったのが皮肉だった。
そして、まつろわぬ神招来の儀式の結果、儀式を行った月輪家の術師が皆殺しになったのは、何も驚きがない。むしろ、まあ、そうなるだろうなという納得しかない。
しかし、最後に信じられない特大の爆弾が待っていようとは、二人は思いもしなかった。
「――それで、最終的に火之迦具土神を俺が殺した」
「えっ」
「はっ」
話の最後に投下された爆弾に、瑞穂と冬馬は己の耳を疑った。
「……すみません、白川さん」
冬馬が、珍しく間の抜けた顔で聞き返した。
「最後のところを、もう一度お願いできます?」
「火之迦具土神を殺しました」
「誰が?」
「俺が」
「……高橋さん」
「聞こえてました。私も同じように聞こえました」
「ですよねえ……」
冬馬と瑞穂は混乱の極みにあったが、徹心からすれば何がおかしいのか分からない。
「そんなおかしいこと言いましたか?」
「……義兄さん」
処置なし、駄目だこいつまるでわかってないと、千鶴は思わず天を仰ぐ。
「あなたねえ!あなた、昨日まで神様の存在すら信じてなかったでしょう!?」
「だから、昨日初めて本当にいるんだなと」
「その初めて会った神様を殺したの!?」
「……成り行きで」
「成り行きで神様を殺さないで!」
あまりの衝撃に完全に素に戻ってしまった瑞穂が、本気で頭を抱える。
一方で、冬馬は真顔になった。
この男は今、何と言った?人の身で、神を殺した。
そんなこと――あり得るはずがない。普通ならば。
「白川さん。ひとつ確認させてください」
「はい」
「火之迦具土神を殺したあと――何か、変わったことは?」
「変わったこと?」
「身体でも、感覚でも、なんでも構いません」
「……ああ、こういうの出せるようになりましたね」
何でもないことのように挙げられた徹心の手の上に、漆黒の炎がどこからともなく生まれた。冬馬と瑞穂がその瞬間、凄まじい勢いで飛び退いた。
「…………」
「…………」
冬馬と瑞穂は、あり得ぬ可能性を肯定する目の前の光景に絶句する。
「義兄さん、それだけじゃないでしょ」
「いや、でも一番分かりやすいのはそれだろ」
「そういう問題じゃなくて……」
どうにか衝撃から立ち直った甘粕は、当然の疑問を口に出す。
「……ちなみに」
冬馬は、嫌な予感しかしないまま尋ねた。
「今朝、ここから権能級の呪力反応が観測されまして」
「ああ。それなら多分、俺です」
「やっぱりあなたですか……」
「義兄さんの力がどういうものなのか、確認する必要があるでしょう?なので、今朝から何度か使ってたから」
「何度か?」
「はい」
「権能らしきものを?」
「はい」
「……高橋さん」
「私に振らないでください」
冬馬は本気で頭を抱えたくなった。
「……参りましたねえ。本当に」
「何がです?」
「白川さん」
「はい」
「おそらくあなたは――日本で最初のカンピオーネです」
「……それ、何ですか?」
「「そこからですか……」」
冬馬と瑞穂は、新たなる魔王の無知ぶりに、本気で頭が痛くなった。
「義兄さん、昨日教えたでしょう。神を殺した者は、もはやただの人間としては扱われない。魔王であり、私たち呪術師や魔術師が『王』と呼ぶ存在だって」
千鶴は呆れながらも、改めて告げる。
「日本なら『羅刹の君』。そして欧州では――『カンピオーネ』。
神を殺し、その権能を簒奪した者」
そう改めて語る千鶴の言葉は、不思議と徹心の耳に残るのだった。
「……カンピオーネ」
徹心は、確かめるようにその言葉を口にした。
だが、その名がこれから自分の人生に何をもたらすのか。
この時の彼は、まだ何ひとつ理解していなかった。