黒炎の魔王   作:清流

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初陣

 すべての発端は、徹心達が魔王の権威で月輪家の解体、美珠を白川美珠として弔うこと、千鶴を白川家に入れること、相続をはじめとした財産処理等、諸々の要求をしたのちに、正史編纂委員会のエージェントである甘粕冬馬が放った一言だった。

 

 「白川さん、しばらく海外旅行でもいかがです?」

 

 「なんです、突然?」

 

 いきなりの冬馬の提案に、徹心はぽかんとする。

 

 「徹心君、理解していないだろうけど、君という魔王の誕生は、日本呪術界にとって激震が走るレベルなの。諸々片付くまで、どっか行ってほしいと思うのも無理はないわ」

 

 徹心の大学の先輩であり、今は媛巫女の一人である高橋瑞穂が、冬馬が語らなかった本音をぶちまける。

 

 「義兄さん、瑞穂さんの言う通りだよ。確かに私が正史編纂委員会の立場でもそうすると思う」

 

 徹心は千鶴を見やるが、彼女は当然だと首肯する。

 

 「まあ、そんなわけで申し訳ないですが、王よ。日本が落ち着くまで、ちょっと国外追放されてください。そんなには長くなりませんから」

 

 隠しても仕方ないと割り切ったのか、冬馬はあんまりな要求をする。

 実際、正史編纂委員会からすれば、このまま日本に白川徹心という魔王がいるのは好ましくない。公式には、

 

 《月輪家はまつろわぬ神の招来という禁忌に手を出して自滅した。白川徹心はその被害者であり、月輪家とはすでに関係を断っている。神殺しとなったことも月輪家の計画ではない》

 

 というのが委員会が公表する事実になるが、

 

 「月輪家が密かに神殺しを作ったのでは?」

 「白川徹心とは月輪家の切り札だったのでは?」

 「月輪家は本当に滅んだのか?」

 「次期当主の月輪千鶴が魔王を操っているのでは?」

 

 というような事情を知らない組織や家からの邪推も避けられないのだから。

 

 「まあ、それもそうか」

 

 自分が超弩級の爆弾であるという自覚はあっただけに、納得せざるを得なかった。

 

 「納得していただけたことに感謝します、王よ。ただ、千鶴さんは置いていっていただけるとありがたいです」

 

 「えっ?」

 

 「先程、命じられましたが、相続や戸籍関係については、当事者がいないというのは流石に厳しいですし、ご希望通りにするのは通常の処理では不可能ですからね。細かい齟齬があって困りますし、それに日本にいて問題なのは、あくまでも白川さんですからね」

 

 こんなこと言っているが、もちろんそれだけが本音ではない。

 確かに当事者本人がいればやりやすいし、細かい齟齬がないようにもできるだろう。しかし、魔王の仰せだ。本来なら、当事者などいなくても万全を期すに決まっている。本当の狙いは、新たなる魔王と月輪家と関係ないということを対外的に確定させるためだ。

 

 「千鶴ちゃんも、担ぎ上げられるのはご免でしょう?今後、徹心君と一緒にいる為にも、ここは乗っておいた方がいいと思うわ」

 

 瑞穂はそう言った真意を看破しているが、今後を考えればそれが二人の為になると考えて、この提案に乗ることを千鶴に勧める。

 

 「そうですね。うちは歴史だけは無駄にありますから、よからぬことを考える馬鹿がでてこないとも限りません。いえ、必ず出てきますね。月輪の名前だけで得をしていた人間もいましたから」

 

 千鶴も理解できた。家門の術師は両親含めて全滅しているが、月輪家と親しかった家はそれなりにあるのだ。魔王の力をあてにして担ぎ出される可能性はゼロではない。

 

 「物分かりが良くて助かりますが……。高橋さん、もう少しこちらの事情を汲んでくれてもいいんじゃないですか?」

 

 「あくまでもお仕事な委員会と親友の妹&可愛がってた後輩なら、後者が勝つのは当然でしょう。私は甘粕さんほどどっぷり浸かってませんから」

 

 苦言を呈す冬馬に、瑞穂は平然と返す。彼女の中で、仕事は友情に優先しない。

 

 「まあまあ瑞穂先輩もその辺で。それで甘粕さん、俺にどこの国へ行けと?流石にテキトーじゃないでしょう?」

 

 「ええ、英国、ロンドンにうちの人間と一緒に使節という形で行ってもらおうと思います。あっ、勿論、実務はうちの人間がやるので、王は英国観光していただければ結構です」

 

 「なるほど、ロンドンというと、グリニッジの賢人議会ですか」

 「はあ、甘粕さんってそういうところ、無駄に有能ですよね」

 

 冬馬の言葉に、千鶴が納得するように頷き、どこか呆れたように瑞穂が感想を漏らす。

 

 「白川さんは、ド素人ですから、新人魔王として学ぶなら、あそこをおいて他にないでしょう。それに賢人会議に顔見せしておくことは、白川さんにとって、損にならないことを保証いたします」

 

 なるほどなあと冬馬の言に頷く徹心。三人の反応からして、本当の意味では自分が何もわかってないだろうことは、嫌でも分かる。実際、自分でも実感がイマイチ薄いのは認めざるをえないのだから。

 

 「それで、同行する『うちの人間』なんですが」

 

 甘粕がにこやかに笑った。瑞穂が嫌そうな顔をして口をはさんだ。

 

 「……ちょっと待ってください」

 

 しかし、冬馬は止まらない。

 

 「高橋さんにお願いしようかと」

 

 「やっぱり、そうなるんですか……」

 

 「以前からのお知り合いですし適任でしょう?大出世ですよ。委員会の金で御友人と海外旅行できますよ」

 

 徹心は首を傾げた。

 

 「瑞穂先輩、一緒に来るんですか?」

 

 「こっちは諦めるしかないっていうのに、徹心君は嬉しそうにしないように!」

 

 「いや、知らない人より先輩の方が、無駄に気を使わなくて助かりますけど」

 

 「あなたねえ、昔からそういうところよ!」

 

 徹心ののほほんとした態度に、瑞穂は憤慨する。

 

 美珠は親友だったし、その夫である徹心自身も可愛がっていた後輩である。当然、異性として見て不快な相手でもない。当時は結婚していたから、そういう対象にはならなかったし、今も美珠を亡くした直後だ。そういうことを考えられないのは当然だろうし、彼女自身そんなつもりもない。

 

 ――ないのだが。

 

 「先輩なら気を使わなくて助かる」と、ここまで何の含みもなく言われると、それはそれで腹が立つ。少しくらいは意識しなさいよ、と。そう思ってしまった自分が、なんだか馬鹿みたいではないか。まして、ちょうど二十代半ば、両親からの結婚催促がはじまりつつあるデリケートな時期なのだから、まるで女として魅力がないともとれる態度に腹が立つのも無理はないだろう。

 

 「でも瑞穂さんなら、私も安心です」

 

 「千鶴ちゃん……」

 

 徹心のノンデリ発言にささくれていた瑞穂の心が、千鶴によって癒やされる。

 

 「義兄さん、瑞穂さんの言うことはちゃんと聞いてね」

 

 「俺は子供か」

 

 言い聞かせるような千鶴の言に、徹心は微妙な顔をする。

 

 「義兄さん、自分が無茶する人だっていう自覚ないでしょ」

 

 「…………」

 

 「ほら」

 

 「いや、それとこれとは――」

 

 「徹心君」

 

 「なんです、先輩」

 

 「千鶴ちゃんから預かったから」

 

 「何をです?」

 

 「あなたを」

 

 「…………俺、二十二ですよ?」

 

 「知ってるわよ!」

 

 三者のコントのようやりとりを尻目に、冬馬は満足そうに頷く。これならば、ひとまず大丈夫だろうと。

 

 (しかし、万能選手として連れてきた末端の媛巫女が、トンデモナイ大駒に化けたものです。こういうのを棚から牡丹餅と言うのでしょう)

 

 

 

 

 

 ところ変わって英国、次いでアイルランド。ロンドンはどうにも目がありすぎ、居心地の悪さを感じた徹心は、早々に英国観光を諦めて、アイルランドまで足を伸ばしていたのだ。

 

 「なんというか、本当に俺って魔王様なんですねえ」

 

 ちょっと前、ロンドンで賢人議会の面々と会談した際の、遙か高貴な相手に接するような恭しい態度を、徹心は未だ驚きと共に覚えていた。

 

 「それはそうよ。貴方は後天的に魔王になった存在であり、貴方がその気になれば、国だって滅ぼせてしまう。いざという時のか弱き人の切り札ではあるけど、人の理を無視できる暴君なのは変わらない。怖いに決まっているでしょう」

 

 瑞穂が当たり前だと語る。

 

 「まあ、分からないでもないんです。英語はそこまで得意じゃなかったはずなのに、今や完全にネイティブですし」

 

 淀みなく英語を話す徹心。発音も美しく、ネイティブと言ってもまるで疑われないだろう。だが、それこそが異常だった。

 

 「『千の言語』のお陰ね。普通はね、長い修行をして、言霊の本質を理解して、ようやく使えるようになるものなの」

 

 「俺、修行した覚えなんてありませんけど」

 

 「そうでしょうね、むしろ、してた方が驚きだわ。まあ……魔王だからでしょうね」

 

 「便利ですね、魔王」

 

 「その感想で済ませるの、本当にやめてくれない?」

 

 神を殺すなんて、トンデモナイ偉業なのに、この後輩からすればこの程度のことになってしまうのだから、瑞穂は頭が痛かった。

 

 (もっとも、神殺しを成し遂げる人間なんて、そういうものなのかもしれないけど……。)

 

 大学在学中は、少なくともここまでぶっ飛んだ人間ではなかったはずなのだが、どこで道を間違えたのだろうか?と、瑞穂は半ば本気で思う。

 

 「徹心君。もう少しこう……ないの?」

 

 「何がです?」

 

 「自分が人間を超越した存在になってしまったことへの葛藤とか」

 

 「勿論ありますよ」

 「あるんだ」 

 

 さも心外という風に答える徹心に、瑞穂は素で驚くが、少し疑わし気だ。

 

 「でも、なったものは仕方ないでしょう。元には戻れなさそうですし、それとも戻れるんですか?」

 

 「……無理ね。聞いたこともないわ」

 

 「じゃあ、使えるものは使った方がいいじゃないですか」

 

 「そういうところよ……」

 

 なんというか、諦めが良すぎるというか、開き直りが早すぎるというか、順応速度が速すぎると言うべきだろうか。やはり、徹心も神殺しになるべくしてなった人間のように、瑞穂には思える。

 

 さて、そんな瑞穂の心情とは裏腹に、アイルランドの地は平穏そのものだった。しかし、忘れるべきではなかった。カンピオーネは生きる災厄であり、その道行きは常に騒乱と混沌に包まれていることに。

 

 強いて言うなら、それはタイミングが悪かった。霊脈があふれ出たエネルギーが局所的な貯まりとなって、ある牧場で高まっていたこと。そこに最後の一押しをしたのが、人の形をした凄まじい呪力源、すなわち神殺しの魔王たるカンピオーネの来訪だったのだ。

 

 「ヴォオオオオオオオオ――ッ!!」

 

 突如、平穏なはずの放牧地に、地を震わせるほどの雄叫びが轟いた。

 牛の鳴き声――そう呼ぶには、あまりにも荒々しく、力強い咆哮だった。

 

 「……おお、立派な牛ですね。いや、牛?」

 

 「違う!あんな大きな牛がいるわけないでしょう!」

 

 二人の視界に映るのは、10メートル以上の巨大な体躯を持った黒褐色の雄牛だった。

 瑞穂の声が、それまでとは打って変わって鋭くなる。

 

 「徹心君、止まって!あれは普通の牛じゃない。神獣――それも、かなり格が高い……!」

 

 遠方からでも異常だと分かる巨躯。地面を踏み砕き、吐息を白く噴き上げるその威容は、確かに神獣と言うに相応しかった。

 

 「……瑞穂先輩」

 

 「何?今、忙しいんだけど」

 

 「あいつ、こっち見てません?というか、狙いつけてませんか?」

 

 「…………」

 

 「目、合った気がしますし、何よりあれ、突進する予兆ですよね」

 

 「走って!!」

 

 「うーん、別にそんなに急いで逃げなくても大丈夫ですよ」

 

 切迫した様子の瑞穂とは対称的に、徹心は平静そのものだった。まるで恐怖を感じていないかのように。

 

 「何言ってるの!?神獣よ!?逃げる以外に何が――」

 

 「いや」

 

 徹心は巨大な雄牛から目を離さない。知識などない。神獣が何なのかも、どれほど危険なのかも、先ほど瑞穂から聞いた以上のことは知らない。それでも、不思議と分かった。

 

 「――俺は、あれには殺されないと思います」

 

 「……は?」

 

 「なんとなくですけど」

 

 「なんとなくで神獣を判断しないで!」

 

 「でも先輩は逃げてください」

 

 「は?」

 

 「狙われてるの、たぶん俺です」

 

 「ちょっと待ちなさい、徹心君!」

 

 「それに一緒にいたら、先輩まで巻き込まれるでしょう」

 

 「だからって――」

 

 「大丈夫ですよ」

 

 徹心は軽く言った。

 

 「一応、神様を一柱殺してるんですから。神獣なら、それより下でしょう?」

 

 「あなた、神様を正面から実力で倒したわけじゃないでしょう!」

 

 瑞穂はかつての徹心を知っている。とても神を殺せる男ではなかった。故に、火之迦具土神殺しは特殊な条件に加え、神話再現という環境が奇跡的に噛み合ったに過ぎないのではと考えていた。この点については、賢人議会も同様の疑義を持っていた。

 

 ――すなわち、徹心は他のカンピオーネとは異なるのではないかと。

 

 「それはそうですけど」

 

 「剣術もできない!」

 「はい」

 「呪術も使えない!」

 「はい」

 「戦った経験もない!」

 「はい」

 

 「何を根拠に大丈夫だと思ってるのよ!?」

 

 「…………」

 

 徹心は少し考えた。

 

 「勘ですかね?」

 

 「お馬鹿、勘に命かけるくらいなら、脇目も振らず逃げなさい!!」

 

 あんまりな徹心の答えに、思わず我を忘れてブチ切れる瑞穂。

 

 ――だが、当然ながら、神獣は待ってくれなどしない。

 

 「ヴォオオオオオオオオ――ッ!!」

 

 再度の咆吼と共に大地が爆ぜた。十メートルを超える巨体が、冗談のような速度で立ち塞がる全てを薙ぎ払いながら二人へ迫る。

 

 「徹心君!!」

 

 「先輩、離れて!」

 

 瑞穂を当たらないであろう方向に突き飛ばし、己は逆方向へと大きく飛びすさる。

 

 理屈ではない。右へ避けるべきなのか、左へ避けるべきなのか。どの瞬間に踏み出せばいいのか。そんなことは何一つ分からない。

 ただ――当たらないと感じた場所へ、身体を移動させただけなのだ。

 

 果たして、それは正しかった。徹心の鼻先ではあったが、神獣の巨体は猛スピードで通り過ぎたのだ。

 

 「おお、本当に避けられた!」

 

 「なんであなたが驚いてるのよ!?」

 

 感嘆の声を上げる徹心に、わけが分からないといった様子で叫ぶ瑞穂。

 

 「まあまあ、瑞穂先輩はそこで見ていてください」

 

 徹心は宥めるように言った次の瞬間、漆黒の火球が彼の掌の上に生まれていた。

 

 「一発は一発だよな?こいつはお返しだ!」

 

 全力で投擲されたそれは、狙い過たず、再び彼へと突進しようと仕切り直した神獣の鼻先へと直撃した。一瞬、拮抗したかのように見えたが、それは間違いだった。神獣の肉体は漆黒の炎にたちまちに包まれ、苦悶の声を上げるほかなかった。

 

 「……」

 

 瑞穂はそれを信じられない思いで見つめる。

 あの神獣は、雑魚などではけしてなかった。むしろ、強い方であった。委員会なら、トップクラスの腕利きを用意した上で、多少の犠牲を容認して初めて勝てるような強さのはずだ。それがこうもあっさりと……。

 

 しかも、おかしいのは威力だけではない。

 炎に包まれた神獣から、急速に神気が失われていく。燃えているのだ。肉が、ではない。あの神獣を神獣たらしめている神秘そのものが。

 

 「……嘘でしょ。神秘そのものを燃やしている」

 

 月輪谷で一度見ている。報告書にも記した。それでも、実際に戦闘で使われるのを目の当たりにして、命の危機に瀕したことで高められた自身の媛巫女としての感覚で、瑞穂はそれをようやく理解した。

 

 ――この炎は、神を殺すのが本質ではない。神秘に属するものを殺すための炎なのだ。

 

 「ヴォオオオオオオオオ――ッ!!」

 

 神獣は炎に巻かれながら苦悶の咆哮を上げる。だが――倒れない。

 

 「……え?」

 

 漆黒の炎に全身を焼かれながら、雄牛が尚も地面を踏み砕いた。

 

 「徹心君、来る!」

 

 「マジですか!?」

 

 徹心が驚くのも無理はない。効いていないのではないからだ。むしろ逆だ。神気が恐ろしい速度で削られている。あれほどの神獣だからこそ、まだ耐えているだけなのだ。神獣は最後の足掻きをしているに過ぎないのだ。

 

 しかし、そんな命を振り絞った猛攻も、徹心には避けられてしまう。

 武術を学んでいるわけでもないので構えがない。勿論、間合いの取り方も知らない。

 相手を誘導するなどいう高度なことをしているわけでもない。次の攻撃を読んでいるわけでもない。――なのに彼は死なない。

 

 それはどれ程の異常か。自身もある程度は戦えるからこそ、瑞穂にはそれが理解出来た。

 

 (……違う。)

 

 瑞穂は気づいた。

 

 (徹心君、あの牛の動きを読んでるんじゃない)

 

 突進が来る。徹心が飛ぶ。巨大な角が、紙一重で空を切る。

 

 (攻撃を見切ってるわけでもない)

 

 また突進。また避ける。

 

 (危ない場所から逃げてるだけなんだ……!)

 

 勘が鋭いなどというレベルではない。それが確信に到るものなら、それは最早先読みしているのと何ら変わらない。

 

 (ううん――)

 

 瑞穂の背筋に、ぞくりとしたものが走った。

 

 (それなら、フェイントは?)

 

 攻撃を読んでいるなら、読みを外せばいい。動きを見ているなら、視界の外から攻撃すればいい。だが、徹心はそのどちらでもない。彼は危険そのものを感じ取って、そこから逃げている。

 

 ならば。

 

 (徹心君を騙して攻撃を当てるのって……ものすごく難しいんじゃ……)

 

 そこまで考えたところで、これまでと違った咆吼を神獣が上げたことに気付き、瑞穂は神獣を見る。彼女の媛巫女としての霊感が、その咆吼が今までとは違う意味なのを教えてくるが、それが何を意味するかまでは分からない。

 目の前で神獣が咆吼を上げながら、その巨体が嘘のように霧散していくのを見つめているが、彼女にはどうにも現実感がなかった。

 

 「……瑞穂先輩、今すぐ逃げてください!」

 

 先程とはうってかわって、切迫した様子の徹心が叫ぶように言う。

 

 「徹心君、どうしたの、いきなり?」

 

 「いいから逃げてください!早く!ヤバイ奴が来る!」

 

 「ヤバイって、何が!?」

 「分かりません!」

 

 「分からないの!?」

 「分からないけど――」

 

 徹心は周囲を見回した。何も見えない。何も聞こえない。神獣の巨体が霧散した放牧地には、先ほどまでの騒乱が嘘のような静寂が戻りつつある。

 

 それなのに確信できてしまう――このままここにいたら、死ぬと。

 

 「――死ぬ」

 「……え?」

 「ここにいたら、死ぬ」

 

 理由などない。根拠などない。ただ、確信できてしまうだけだ。

 

 だが、先ほどまで神獣の突進を紙一重で避け続けていた感覚が、今度は全身で警鐘を鳴らしている。逃げろ。今すぐここから離れろ。でなければ死ぬ。

 

 「だから瑞穂先輩、早く――!」

 

 徹心のあまりの慌てように、瑞穂も流石に悟る。

 

 (さっきと……逆?)

 

 あれ程の神獣を前にしてさえ、徹心は平然としていた。――俺は、あれには殺されないと思います。そう言っていた。そして実際、その通りになった。

 

 その徹心が今、何もない場所を前にして――死ぬと言っている。

 

 (逃げないと、本気で死ぬんだ!)

 

 瑞穂が全力で逃げを打とうとした瞬間に、それは現れた。

 

 「――遅かったか」

 

 響いたのは涼やかな声だった。勇壮で聞き惚れるそんな声だった。

 徹心と瑞穂が弾かれたように声の方向へ振り返る。そこに、一人の槍を持った男が立っていた。

 

 「……まつろわぬ、神……」

 

 「然り、まつろわぬクー・フーリンである。顔なじみの懇願に誘われて出てみれば、また面白いことになっているな。いや、我らが宿敵たる神殺しと仇敵として邂逅することになろうとは、粋な運命もあったものだ」

 

 「アルスターサイクルの大英雄……」

 

 あまりの大物に、瑞穂はめまいを覚えた。日本でこそ一般的な知名度はそれほど高くないが、ケルト神話を学ぶ術者でクー・フーリンを知らぬ者はいない。

 アルスター伝説最大の英雄。神話における格だけで語るなら、ギリシアのヘラクレスにも比肩し得る大英雄――。

 

 (そうか――!)

 

 瑞穂は悟った。

 

 (さっきの雄牛……ドン・クールンギャだったんだ!)

 クーリーの牛争い。その発端となった、女王メイヴが求めた名牛。そしてクー・フーリンは、その戦いにおいてたった一人でアルスターを守り抜いた英雄だ。死に瀕したドン・クールンギャが助けを求め、その声がこの土地の神話へと届いたのだとすれば――。

 

 (それで、クー・フーリンが……!)

 

 瑞穂の中で、全てが繋がる。

 

 「……しかし、遅かった」

 

 クー・フーリンは、先ほどまで雄牛がいた場所へ視線を向けた。すでにその巨体はない。残滓すら、黒い炎に焼かれて消えつつある。

 

 「我を呼んだ声は、すでに絶えたか」

 

 その声には、先ほどまでの快活さとは違うものが混じった。

 

 「――お前か?」

 

 視線が徹心へ戻る。そこには間違いなく明確な敵意が籠もっていた。

 

 「この者を殺したのは」

 

 「……俺だ」

 

 しかし、徹心はそれを受けても、動揺せずに応じた。確かに怖い。恐ろしい。先ほどから全身が、この男は自分を殺せると訴え続けている。

 だというのに――身体は逃げようとはしていなかった。むしろ逆だ。

 疲労が消える。心臓が力強く血を送り出し、四肢の隅々、指先に至るまで力が満ちていく。

 

 神獣を相手にした時にはなかった現象。理由など、徹心には分からない。

 

 だが、それこそが神殺しの本能だった。神と神殺し。本来なら人間が仰ぎ見るしかない超越者を前にして、カンピオーネという生き物だけは、その肉体からして戦うことを選ぶのだ。

 

 (……まさか)

 

 瑞穂は息を呑んだ。先ほどまで確かに怯えていた。逃げろと叫んでいた男から、恐ろしいほどの呪力が溢れ始めていることに気付いたからだ。

 

 (この大英雄の威容を前にして戦うことを選ぶことが出来るの!?これが……神殺し)

 

 「ほう」

 

 クー・フーリンが目を細めた。

 

 「妙だな」

 

 「何がです?」

 

 「お前、本当に戦士か?」

 

 「違いますけど」

 

 「…………」

 

 今度はクー・フーリンが黙った。

 

 「剣も槍も習ったことありません」

 

 「……それで神を殺したのか?」

 

 「まあ、一応」

 

 「はっ!」

 

 「まあ、笑われるのは分かります。自分でもよく殺せたなあと思いますから。まあ絶対に殺さなきゃならなかったんで殺しただけですよ。あの牛もそうです。襲われたんで迎撃しました」

 

 「お前にはお前の理があった。それは分かった」

 

 「なら――」

 

 「だが」

 

 クー・フーリンは槍を構える。

 

 「俺を呼んだ者が、お前に殺されたことも変わらん。まして神殺しは我らが宿敵。見逃すなどあるわけ無かろう」

 

 「やっぱり、そうなるか。あんたも俺が大嫌いな傍迷惑なまつろわぬ神というわけだ」

 

 徹心が黒炎を纏う。

 その瞬間、瑞穂は目を見開いた。

 

 「……え?」

 

 黒い炎が燃えている。それ自体はおかしくない。相手はまつろわぬ神。徹心が持つ《神秘殺しの黒炎》にとって、これ以上ないほどの敵だ。だが――。

 

 (徹心君、怒ってない……?)

 

 月輪谷で見た炎とは違う。あの時、徹心の内にあったものを瑞穂は知っている。妻を殺され、我が子を奪われ、家族だと思っていた者たちに裏切られた男の、底知れぬ憎悪。

 

 だから瑞穂は、どこかで思っていた。あの炎を燃やすものは、憎しみなのだと。

 だが、違う。今の徹心はクー・フーリンを憎んでいない。相手の言い分すら理解している。それでも、炎は燃えている。

 

 (……殺意。それもどこまで純粋な底知れぬ殺意。)

 

 瑞穂は理解した。最早殺気というのも生易しい。それは鬼気とでもいうべきものだ。

 

 (この炎を燃やしているのは、憎しみじゃない。徹心君が、この神を殺すと決めたから――!)

 

 「――ははっ!」

 

 そんな背筋どころか、全身が凍りそうな鬼気を浴びて、クー・フーリンが笑った。愉快そうに。心の底から楽しそうに。

 

 「いいな、神殺し!」

 

 「何がだ?」

 

 「技はない。武の心得もない。だというのに――」

 

 魔槍の穂先が、徹心へ向けられる。

 

 「俺を殺す気だけは一人前か!」

 

 「そっちが殺しに来るんだから、当然だろう。殺すなら殺される覚悟を持てよ」

 

 「違いない!」

 

 クー・フーリンが踏み込んだ瞬間、徹心に分かったのはこのままだと死ぬということだけだった。神獣の時のような安全地帯はどこにもない。避けようとしても完全に回避できる目は一切無い。

 

 右――死ぬ。左――死ぬ。後ろ――間に合わない。前――論外。

 

 「――っ!?」

 

 (何だ、これ!?)

 

 徹心は今日初めて混乱する。先ほどとは違う。危険な場所が分かるのではない。どこも危険なのだ。

 

 「ぐっ!」

 

 それでも無理矢理身体を動かすが、穂先が頬を裂く。

 避けた。――違う、避けきれなかったのだ。

 

 神獣の角なら無傷で紙一重で外せたというのに、今の一撃は、最も死なない場所を選んだ結果、それでも肉を持っていかれた。

 

 (これがまつろわぬ神、神獣なんかとは格が違う!)

 

 徹心は、自分の認識が想像以上に甘かったことを悟った。

 

 「ほう?」

 

 二撃、三撃、四撃。大英雄の槍は止まらず、徹心の身体に傷が増えていく。

 

 「やはり妙だ」

 「何が……!」

 「技はまるでない」

 

 槍が走る。徹心が反射的に身を捻る。脇腹が裂けた。だが、それは本来なら胴を真っ二つに薙ぎ払っていたはずの一撃だ。

 

 「だが――」

 

 クー・フーリンが獰猛に笑う。

 

 「何も知らぬくせに、死ぬ場所だけは分かるらしい」

 

 そう言って、クー・フーリンはなぜか距離を取った。

 

 「しかも、その黒炎、普通ではない。どうにも槍が阻害される。貴様の回避とも呼べぬつたない体捌きで生き延びられているのはそのお陰か。しかも、気のせいでなければ、火勢が増しているな」

 

 (ちっ、気づかれた!)

 

 身に纏っていても黒炎の性質は変わっていない。クー・フーリンが魔槍で炎ごと攻撃するたびに、魔槍の神秘を焼いて火の勢いを密かに増していたのだ。それをあっさり見抜かれてしまった。

 

 「なるほど、武がなかろうと神殺しは神殺し。噛み殺すための牙は持っているというわけだ。ならば、受けてみよ。我が師スカサハより受け継ぎし魔槍の奥義を!」

 

 さらにクー・フーリンが距離を離す。そして、凄まじい速度で走り出す。徹心にそれを遮る力は無い。

 

 (あれはまずい。受けたら確実に死ぬ!)

 

 徹心に出来るのは、ひたすらに呪力を高め黒炎を精練することだけだった。

 

 そして、助走から飛び上がったクー・フーリンがオーバーヘッドキックのような体勢から足で魔槍を投げる。そう、クー・フーリンの代名詞、魔槍ゲイ・ボルグは足の指で挟んで投げるのだ。これこそ、クー・フーリンの奥義魔槍ゲイボルグの大投擲にほかならない。標的に当たると体内で30本の棘や鏃に分裂する必殺の槍。

 

 徹心の勘が、今日最大級の死を告げる。高速で飛来するゲイ・ボルグを避けるのは不可能だ。ならば、槍そのものを燃やすしかない。精練した黒炎を全力で叩きつける。

 

 空中で黒炎と魔槍が空中で食い合う。魔槍は炎を突き破って徹心へ進む。黒炎はその穂先から柄へ侵食していく。徹心は出力を上げ続ける。それでも魔槍は止まらない。

 

 「燃えろ……!」

 

 徹心はあえて前へ出た。

 

 「燃えろ!」

 

 一歩また一歩。けして引かぬと不退転の覚悟で全呪力を注ぐ。明確な死が迫る。

 

 「――燃え尽きろッ!」

 

 徹心の胸の直前で、ようやくゲイ・ボルグが黒炎に呑まれる。

 彼は九死に一生を得たのだ。

 

 「見事、我が槍を燃やし尽くしたか。いずれ復活するだろうが、この戦いでは最早使えまいよ。だが、代償は大きかったようだな」

 

 クー・フーリンの言葉は真実だった。徹心の姿は見る影もない。全身に纏った黒い炎は消え失せ、呪力も激減している。身体は傷だらけで満身創痍もいいところである。

 

 「……もう一本あるとか言うなよ」

 

 「安心しろ、槍はない」

 

 「そうか。助かった」

 

 「だが――剣ならある」

 

 「…………」

 

 アルスター神話を知らない徹心は知る由もないが、クー・フーリンはクルージンという魔剣を所有している。まつろわぬクー・フーリンが持っているのは当然であった。

 

 「お前の牙である黒き炎は最早使えまい。あったとしても身を守るのが精一杯で攻撃に転用すれば、その瞬間斬られて死ぬと分かるだろう。詰みだ神殺しよ」

 

 (殆ど呪力を吐き出したが、最悪の詰み筋である魔槍は焼けた。剣を持ってたのは予想外だったが、これで剣の間合いに来る。後はその時まで死ななければ、殺せる!)

 

 クー・フーリンの言葉は何も間違っていない。ただ、彼は知らなかったのだ。徹心にはまだ十握剣という隠し球があることを。武の心得が全くないからこそ、武具を温存しているなど、夢にも思わない。

 

 クー・フーリンの剣によって斬られる。避けるも避けきれず斬られる。

隙を突いて蹴られ、転がされ、そこにとどめの一撃が来るが、すんでの所で致命傷を避ける。腹に穴が空いたが、死ななければ安いものだと徹心は耐えた。

 

 再び立つが、またすぐに死にそうになる。それでも異常な勘とカンピオーネの肉体だけで致命傷だけは避ける。既に身体の限界は近い。それを見て取ったか、クー・フーリンも前のめりになっている。次の一撃はさらに踏み込んでくるだろう。

 

 その瞬間、徹心は確信する。

 

 (殺せる。避けなければ死ぬ次の一撃を避けなければ殺せる!)

 

 当然、死にたいわけではない。生きて帰らなければならない理由だってある。

 

 だが――殺せる。

 

 確実に殺せるというなら、その瞬間だけは、自分が生き残るかどうかなど、徹心の勘定から消える。殺せるなら、死んでも殺す。それが徹心という神殺しの在り方だった。

 

 クー・フーリンの一撃が迫る。このままなら首を斬られる。 避ければ、生き残れるかもしれない。だが、そうすればまた距離を取られる。次に同じ機会が来る保証はない。

 

 なら――ここだ。

 

 徹心はクー・フーリンの剣の軌跡に左腕を差し出した。肉が裂ける、骨が断たれる。

左腕が、宙を舞った。当然だ、大英雄の斬撃が、カンピオーネとはいえ人間の腕一本などで止まるわけもない。

 

 しかし、確実に一瞬だけ剣速が鈍る。それでも剣はそのまま首へ行き、皮膚を裂いて、肉へ食い込む。あと数センチ斬りきっていれば、それで徹心は絶命していたはずだった。

 

 だが、剣が鈍ったその瞬間、徹心は十握剣を喚びだし、心臓めがけて突いた。この距離なら、いかに素人である彼でも外さない。果たして真正の神殺しの神剣は、クー・フーリンの心臓を狙い過たず貫いた。刀身には防御から攻撃に転用された最後の黒炎が燃え盛っており、たちまちにクー・フーリンを内から焼いていく。

 

 「……なるほどな」

 

 心臓を貫かれ身内から焼かれながら、クー・フーリンは笑った。

 敗者の顔ではなかった。ようやく得心した――そんな笑みだった。

 

 「貴様は、戦士ではない」

 

 徹心の首には、なおも魔剣が食い込んでいる。あと僅かに刃が走れば、命はない。

 

 「……知ってるよ」

 

 「違う。そういう話ではない」

 

 英雄は血を吐き、それでも愉快そうに口端を吊り上げた。

 

 「己が死のうと、敵を殺す。勝利も、生還も求めぬ。ただ獲物の喉笛を食い千切るまで止まらぬ。それは戦士の理ではない――獣の理だ」

 

 徹心は答えなかった。答える必要もなかった。

 左腕を失い、首を斬られかけながら、それでも右手は十握剣から離れていない。

 その姿そのものが答えだった。

 

 「ハッ――」

 

 クー・フーリンが笑った。

 

 「なるほど。なるほど!」

 

 その笑いには侮蔑など欠片もない。

 

 「神を殺す者とは、そういうものか!」

 

 黒炎が神剣を伝い、英雄の身体を灼いていく。

 

 「戦士としては未熟。剣士としては話にもならん。だが――」

 

 最後に、アルスターの大英雄は獰猛に笑った。

 

 「神殺しには、さぞ相応しかろうよ」

 

 そして、炎に呑まれた。

 

 「…………」

 

 クー・フーリンが消滅した瞬間、十握剣が手から落ちた。

 金属音が鳴るより先に、徹心の膝が崩れる。

 

 「徹心君!!」

 

 瑞穂が駆け出した。

 

 「……瑞穂先輩」

 

 「喋らないで!」

 

 「勝ちましたよ」

 

 「見れば分かるわよ!!」

 

 「なら……よかった」

 

 「よくない!! 全然よくない!!」

 

 「……そうですか?」

 

 「腕がないのよ!? 首も斬られてるのよ!?」

 

 「…………」

 

 徹心は、そこで初めて自分の左側を見る。

 

 「……本当だ」

 

 「今気づいたの!?」

 

 「ゲホッ、夢中だったんで、死ななきゃ安いですから」

 

 咳き込みながら、徹心は獰猛に笑う。

 

 「寝て! 絶対に動かないで!」

 

 「いや、もう立てそうに――」

 

 「立ったら殺す!!」

 

 「…………はい」

 

 瑞穂は震える手で首の傷へ術を施す。

 

 (駄目。深すぎる……!)

 

 腕も拾わなければならない。出血を止め、首の傷を塞ぐ。内臓の損傷もある。一つでも処置を誤れば死ぬ。

 

 「徹心君、寝ないで」

 

 「……眠いんですけど」

 

 「駄目! 私を見て!」

 

 「先輩……」

 

 「何!?」

 

 「すみません」

 

 「何がよ!」

 

 「折角の海外旅行だったのに……」

 

 「本当に今それ言う!?」

 

 心底呆れた瑞穂だったが、すぐに携帯を取りだし、賢人議会へと連絡を入れる。自分だけでは無理だが、彼らの助力があれば、あるいは――!

 

 その様子を横目で見ながら、徹心は意識を手放したのだった。

 

 ――かくして。

 

 火之迦具土神を弑逆して生まれた新たなる王は、その初陣において再び神を殺した。

 武の心得すら持たず、己が腕と命すら餌として、それでも最後に神を殺して立つ。

 

 白川徹心もまた、疑いようもなく――神殺しの魔王、カンピオーネであった。

執筆速度は遅くなるが、AI使わない方がいいか?

  • いや、読めればいいのでジャンジャン使え
  • 会話がくどいので、そこは直してほしい
  • いや、調べ物&名前候補以外に使うなよ
  • 甘えるな、全部自筆でいけ
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