最初に感じたのは、冷たさだった。背中から伝わってくる硬い感触に耐えきれず、俺は薄く目を開けた。視界いっぱいに広がったのは、見覚えのない灰色の天井だった。
「……どこだ、ここ」
声に出してみても答える者はいなかった。身体を起こそうとすると、腕に思った以上の力が入らなかった。ひどく長い時間眠っていた後のように全身が重い。特に頭の奥には薄い膜でも張っているような感覚があって、考えようとするたびに鈍い違和感が残る。
それでも、意識そのものははっきりしていた。自分が誰なのかは分かる。名前も覚えているし、言葉だって話せる。立ち方や歩き方を忘れてもないし、世界について何も知らないわけでもないようだ。
問題なのは、ここに来るまでの記憶だった。最後にどこにいたのか思い出そうとすると、その部分だけが不自然なくらい何も出てこない。
「……事故ったとか?」
口にした途端、自分で首を傾げた。事故に遭ったとして、目覚める場所が病院ならまだ分かるが、どう見てもここは病室ではなかった。俺が寝ていたのはベッドというより、床からそのまま生えたような細長い台だった。白とも銀ともつかない表面には継ぎ目らしいものが見当たらず、触れてみると金属に似ているのに妙に滑らかで、予想していたほど冷たくもない。
その周囲には用途の分からない設備が並んでいた。壁に埋め込まれた黒い板や半透明の細い管、天井から伸びた腕のようなもの。そのほとんどが停止しているらしく、部屋はかなり暗い。わずかな明かりは壁際に走る細い線から出ていて、それだけが青白く床を照らしていた。
病院ではないし、研究所――というのも、少し違う気がする。
「くそ、本当に何なんだよ……」
とりあえず立つ。足を床につけた瞬間、膝が頼りなく揺れた。慌てて台に手をつき、そのまましばらく待っていると、ようやく身体が自分のものらしい感覚を取り戻してくる。痛む場所はないし、服も着ている。少なくとも重傷を負って運び込まれたわけではなさそうだった。
胸や腹を軽く押さえて確かめてから、俺は改めて室内を見回した。扉らしいものが一つあったのでそこへ向かって歩き始めた。
すると足元で、何かが光った。
「うわっ」
反射的に一歩下がるが、何も起こらない。恐る恐る見下ろすと、それまで暗かった床に細い白い線が浮かんでいた。その線は俺の足元から扉へ向かってまっすぐ延び、数秒ほど明滅した後、そのまま淡い光を保った。
「……人感センサー?」
それにしては反応の仕方が妙だったが、他に思いつく説明もない。試しに一歩動くと、今度は壁の一部が淡く点灯した。
「おお……」
黒い板だと思っていた場所に、光る文字のようなものが現れるが、読めない。外国語なのかとも思ったが、見覚えのある文字体系ではなかった。線と図形を複雑に組み合わせたような記号がいくつも並び、右から左へ流れていく。
「読めるやつで頼むよ」
当然、表示は変わらない。手を伸ばしてみたものの、触れていいのか判断できず途中で止めた。変なボタンでも押して何か爆発したら洒落にならない。
そのまま扉へ近づく。扉にも取っ手はなかったが、真正面まで来たところで小さな音が鳴り、中央から左右へ滑るように開いた。
「……便利だな」
便利だが気味が悪い。俺が近づくたびに設備が動き出している。ただの自動設備ならそれでいい。人が近づけば照明がつき、扉が開くなんて別に珍しいものでもない。しかし、目覚めた時にはあれほど暗かった部屋が、俺が歩き始めてから少しずつ息を吹き返していくように見えるのは、あまり気分のいいものではなかった。
開いた扉の向こうには細い通路が続いていた。左右を見ても、人影はない。
「誰かいませんかー!」
試しに声を張るが、返ってきたのは自分の声が壁に反射したものだけだった。もう一度呼んでみても同じだ。さすがにその頃には、嫌な想像が頭をよぎり始めていた。
これだけの施設があるのに、人が一人もいない。もし本当に放棄された場所なのだとしたら、自分はどうやってここへ来たのか。誰かが俺を運んできたのなら、その誰かはどこへ行った。どれだけ考えてもその途中の記憶が一切存在しない。
「……考えてても仕方ないか」
自分に言い聞かせ、通路へ出た。まずは出口を探して、それから人を見つけるのがいいだろう。分からないことをその場で考え続けたところで、答えが降ってくるわけではない。
通路は思ったより長かった。途中にはいくつもの扉が並んでいたものの、大半は近づいても開かない。中には完全に壊れているものもあるらしく、壁の一部が黒く変色し、天井から太い管のようなものが垂れ下がっていた。
しばらく進むと、足元に細かな破片が増え始める。
施設全体が古いのだろうか。見た目だけなら汚れ一つない場所もあるのに、少し進めば崩れた壁が現れる。その落差が妙だった。床に転がっていた板状の破片を避けたところで、頭上から小さな音がした。
反射的に見上げる。
「っ!」
天井の一部が崩れた。慌てて後ろへ飛び退いた直後、さっきまで立っていた場所に拳ほどの破片が落ちてくる。硬い音を立てて跳ね、床を転がった。
「危な……」
心臓が遅れて速くなる。冗談ではない。本格的に建物が崩れ始めているなら、悠長に探索している場合ではなかった。少し足を速めた。幸い、行き止まりにはならなかった。分岐はいくつかあったものの、足元に浮かぶ細い光がそのたびに一方向へ続いている。まるで道案内でもしているようだった。
「こっちで合ってんのか……?」
当然、返事はないが、他に頼れるものもないので従う。何度目かの角を曲がったところで、突然通路が広くなった。天井も高い。正面にはこれまでより大きな扉があり、その左右には柱のような構造物が並んでいた。出口かと思って近づいたが、大扉は反応しない。
「おい」
さらに近づいても何も起こらない。
「開かないのかよ」
仕方なく周囲を調べようとしたその時、低い音が施設のどこかから響いた。警報――に似ている。少し間を空けて、もう一度。同時に天井の照明が何度か点滅し、遠くで何か大きなものが軋むような音がした。
「まずくないか、これ」
大扉を押してみるが、当然びくともしない。別の出口を探そうと振り返った瞬間、通ってきた通路の奥で何かが崩れる音がして砂埃が薄く流れてくる。
「……本格的にまずいな」
このまま元の部屋へ戻るのも危険そうだと思い、周囲を見回すと大扉の脇に別の通路があった。そちらへ向かおうとした時、何かが聞こえた。
足を止める。
「……?」
警報ではない。小さく、一定の間隔で響く音。足音だった。誰かいる、その事実を理解しただけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。
「おーい!」
声を張ると足音が止まった。
「誰かいるのか?」
返事はない。俺は音のした方へ数歩進んだ。
「すみません! ちょっと聞きたいんですけど!」
返事の代わりに、通路の向こうに人影が現れた。
暗くてよく見えないが、背丈は低い。こちらへ歩いてくるにつれ、照明がその姿を少しずつ照らしていった。
最初に目に入ったのは長い髪だった。次いで、小さな顔。どう見ても少女だ。こんな場所でようやく人に会えたという安心より先に、別の疑問が浮かんだ。なんで子供がこんな所にいるんだ。
少女は数歩離れた場所で立ち止まり、こちらを見上げる。
驚いているようには見えなかった。助けを求めるわけでもない。
俺の顔を見て目を少し細める。服を見て、また顔へ戻る。まるで珍しいものでも見つけたように、黙ったままこちらを観察している。
「……えっと」
声をかけても反応がない。
「大丈夫?」
少女の眉がわずかに動いた。言葉は通じているらしい。俺は困って頭をかき、それからなるべく怖がらせないように声を落とした。
「君、一人? 親とか近くにいる?」
少女が初めて口を開いた。
「おぬし。今、わらわを何だと思うた?」
妙に古めかしい喋り方だった。質問の意図もよく分からない。俺は少し迷ってから、見たままを答えた。
「……子供?」
少女の目が細くなる。
「誰が子供じゃ」
「いや、誰がって……」
改めて目の前の少女を見る。背は俺の胸にも届かない程度で、顔立ちにも幼さが残っている。少なくとも、見た目だけで大人だと判断するのは無理があった。
「どう見てもな」
少女の目がわずかに細くなった。
「目覚めて早々、なかなか肝が据わっておるの」
その言葉に引っかかり、俺は少女の顔を見返した。
「俺がここで寝てたの知ってるのか?」
「知っておるとも」
「マジで?」
思わず一歩近づく。少女は逃げるどころか、むしろ俺の顔を間近で確かめるように見上げてきた。
「じゃあ、なんで俺がここにいるのかも知ってる?」
「知らぬ」
「即答かよ」
「知らぬものは知らぬ。神とて知らぬことくらいある」
「……今、神って言った?」
少女は当然のことのように頷いた。俺は聞き間違いを疑ったが、どうやらそうではないらしい。
「お前が?」
「お前ではない。わらわにはトワという立派な名がある」
「トワ」
彼女――トワは満足そうに頷くと、小さな胸を張った。
「そして、この地を見守る神じゃ」
数秒、沈黙した。遠くでまた警報のような低い音が響き、天井の照明がかすかに揺れる。
「……設定とかじゃなくて?」
「せってい?」
「いや、何でもない」
冗談を言っている様子ではなかった。
目を覚ましたら知らない施設の中で、そこへ現れた最初の人間が、自分を神だと言い張る少女。どちらか片方だけならまだ理解しようもあるが、続けざまに起こると自分の頭を疑いたくなる。
「俺、どっかで頭ぶつけたのかな……」
「失礼な奴じゃな」
「だって神様には見えないだろ」
「ならば、おぬしの知る神とはどのような姿なのじゃ?」
「もっとこう……威厳があるというか」
「あるじゃろ」
「どこに?」
自分を指差すトワを見ながら、俺は黙った。
「何じゃ、その目は」
「いや、自己評価高いなと思って」
「事実を述べただけじゃ」
「自称神様?」
「自称ではないわ」
むっとして、トワがこちらを睨む。だが、その姿すら俺には頬を膨らませた子供にしか見えない。さすがにもう一度そう言うのはやめておいた。
「それより」
トワが俺の横をすり抜ける。向かったのは、先ほど俺がどうやっても開けられなかった大扉だった。
「おぬし、あれに触れたか?」
「押しても叩いても開かなかった」
「何か他に起きたか?光った、音が鳴った、文字が出た。何でもよい」
妙に具体的な質問だった。俺は少し考えてから首を横に振る。
「この扉では何も。ただ、ここまで来る間に変な文字が出たり、床が光ったりはした」
「……文字?」
「ああ。読めなかったけど」
トワの視線が一瞬だけ俺から外れ、暗い通路の奥へ向いた。
「どの辺りじゃ」
「最初に目が覚めた部屋の近く。黒い板みたいなところに急に出てきた」
「触れたのか?」
「触ってない。何か爆発したら嫌だから」
トワが少しだけ眉を上げた。
「慎重なのか臆病なのか分からぬ奴じゃな」
「知らない機械を片っ端から触る方が怖いだろ」
「まあ、それもそうじゃ」
意外にも素直に同意された。トワは再び大扉を見上げ、しばらく何も言わなかった。
「……何か知ってるのか?」
「多少はの」
「じゃあ教えてくれよ。ここ何なんだ?」
「古い場所じゃ」
「見れば分かる」
「では質問の仕方が悪いのう」
「そういう揚げ足取らなくていいから」
俺が言うと、トワは小さく笑った。
「この場所について、わらわとて全てを知っておるわけではない。昔からある。それだけじゃ」
「神様なのに?」
「神と全知は別物じゃと言うておろう」
「初耳だよ」
「今教えた。もう初耳ではないの」
「めんどくさ……」
「聞こえておるぞ」
そんなやり取りをしている間にも、頭上では時折何かが軋んでいた。今すぐ崩れるほどではないのかもしれないが、長居したい場所ではない。
「なあ、トワ。とりあえず外に出たいんだけど」
「出ればよかろう」
「出方が分からないから聞いてる」
「ふむ」
トワはようやく俺から視線を外し、大扉の横にある細い通路へ目を向けた。
「あちらじゃ」
「知ってるなら最初から教えてくれよ」
「聞かれておらぬからの」
「性格悪いって言われない?」
「神に向かってそのようなことを言う者は、おぬしが初めてじゃ」
「じゃあ記念すべき第一号だな」
「嬉しそうに言うでない」
トワが歩き出したので慌ててその後を追った。
通路へ入ると、先ほどまでいた広間よりもさらに照明が少なくなった。ところどころ完全に消えている箇所もあり、足元に薄く伸びる光だけが頼りだった。
俺が歩くと、その先の明かりが順番に灯る。ここへ来るまで何度も見た現象だ。何となく気になり、立ち止まる。すると少し前を歩いていたトワも止まった。
「どうした」
「いや……」
一歩後ろへ下がってみても、直前まで光っていた床の線は消えない。もう一度前へ進むと、その先にある細い照明が遅れて点灯した。
「やっぱり俺に反応してる?この明かり、ずっと俺が近づくと点いてる」
トワは足元へ視線を落とした。
「ふむ。古いものゆえ、気まぐれなのじゃろ」
「機械に気まぐれとかある?」
「あるのではないか?少なくとも人より長生きした物は、人より頑固になるものじゃ」
「絶対適当に言ってるだろ」
返事はなかった。見ると、トワは俺ではなく床を見ていた。その表情から何を考えているのかは分からない。
「トワ?」
「何でもない。行くぞ」
再び歩き出したので俺もついていく。それからしばらく、トワは何も言わなかった。さっきまではあれだけ口が回っていたのに急に静かになると、逆に気になる。何度か横顔を見ていると、今度は向こうからこちらを見た。
「何じゃ」
「トワはここで何してたんだ?」
「見回りじゃ」
「神様が?」
「神だからじゃ」
「さっきから神って言えば何でも通ると思ってない?」
「通る」
「強いな……」
「当然じゃ」
即答だった。
「じゃあこの辺のことも知ってるんだよな。近くに街とかある?」
「あるぞ」
「人もいる?」
トワが振り返る。
「何を当たり前のことを聞いておる」
その返事を聞いて、ようやく少し肩の力が抜けた。少なくとも、この謎の施設しか世界に存在しないわけではないらしい。
「よかった……誰もいなかったらどうしようかと思ってたから」
「わらわがおるじゃろ」
「お前一人じゃん」
「不満か」
「普通の人に会いたい」
「無礼な奴じゃな」
トワは不満そうだったが、俺としては切実だった。ここがどこなのか、なぜ自分がいたのか、自分を知っている人間はいないのか。知りたいことはいくらでもある。
「街まで案内してくれない?」
「なぜわらわが?」
てっきり案内してくれるものだと思っていた。
「ここまでは連れてきてくれたじゃん」
「出口へ案内してやるとは言うたが、街までとは言うておらぬ」
「そこを何とか」
「断る」
「即答かよ」
「わらわは忙しいのじゃ」
「見回り?」
「そうじゃ」
「こんな崩れかけの場所を?」
「だから見回る必要があるのじゃろう」
言われてみれば、それもそうだった。
「じゃあ出口まででいいから」
「それなら構わぬ」
「助かる」
俺が礼を言うと、トワは意外そうにこちらを見た。
「おぬし、本当に妙な奴じゃの」
「どの辺が?」
「全部じゃ」
「雑すぎるだろ」
トワは答えず、少しだけ口元を上げた。
その後もいくつか分岐を抜けた。俺一人なら確実に迷っていただろう。どの通路も似たような造りで、壁に表示される文字も一切読めない。途中、一度だけトワが立ち止まった。
「こっちは違うのか?」
俺が尋ねると、彼女は目の前の扉を見上げた。
「先はもう使えぬ」
「壊れてる?」
「そんなところじゃ」
扉の周囲には黒い染みのような跡が残っていた。それ以上トワが説明する様子もなかったので、俺も聞かなかった。
さらに進むと、空気が変わった。これまでの通路は埃っぽく、少し乾いた匂いがしていたのに、どこからか冷たい風が流れてくる。自然の風だ。
「外が近いな」
少しだけ歩く速度が上がった。今までどこにいるのかすら分からなかったのだ。外に出れば、少なくとも何かは分かる。やがて通路の先に、白い光が見えた。人工的な照明とは明らかに違う。
「おお……」
思わず声が漏れた。
「やっと外か」
「そうじゃな」
トワは特に感慨もなさそうに答える。
「なあ、本当に街あるんだよな?」
「何度聞くつもりじゃ」
「いや、念のため」
「ある。人もおる。店も家も船もある」
「船?」
「船を知らぬのか?」
「知ってるけど……この辺、海あるの?」
トワは足を止め、振り返り俺を見る。
「おぬし、本当に何も知らぬのじゃな」
「だから最初からそう言ってるだろ」
「ふむ」
トワは何やら考え込むように顎へ指を当てたが、すぐに歩き出した。
「まあよい。見れば分かる」
「何が?」
「外じゃ」
光が近づいてくる。俺は眩しさに目を細めながら、その向こうへ足を進めた。光の中へ足を踏み出した瞬間、強い風が顔にぶつかった。
「うおっ」
思わず腕で目元をかばう。ずっと薄暗い施設にいたせいか、外の明るさに目が追いつかない。風には土と草の匂いが混じっていて、それだけでさっきまでの閉塞感が一気に薄れた。何度か瞬きをしているうちに、少しずつ周囲の景色が見えてくる。
最初に目に入ったのは緑だった。施設の出口は岩肌に埋め込まれるような形になっていて、その前には背の低い草が広がっている。少し離れた場所には木々も生えていた。見たことのない種類らしく、幹の色や葉の形は多少変わっているものの、少なくとも植物だということは分かる。
青い空に雲も浮かんでいる。当たり前の景色だった。
「……普通だな」
少し先へ出ていたトワが振り返る。
「いや、外まで変な感じだったらどうしようかと思ってさ。さっきの施設みたいなのが、ずっと続いてるとか」
「そんな所で暮らしたいのか?」
「嫌だよ」
「ならばよかったではないか」
少なくとも、ここがどこかの地下深くや宇宙船の中だった、という可能性は低そうだ。それだけでもかなり安心できる。
振り返って施設を見ると、内部にいた時よりもさらに奇妙だった。岩壁の途中に巨大な板のようなものが埋め込まれていて、その中央に俺たちが出てきた入口がある。建物が山の中に作られているというより、もっと巨大な何かが岩に飲み込まれ、入口だけが露出しているようにも見えた。周囲には蔓や苔が這っているし、かなり長い間放置されているのだろう。
「これ、いつからあるんだ?」
「さてな」
「知らないのか?」
「わらわが知るより前からある」
「……神様より古いの?」
トワは少し考えてから頷いた。
「そうなるの」
軽く返されたが、俺は思わず施設を見上げた。神を名乗る少女が何歳なのかは知らない。それでも、少なくとも昨日今日ここへ来た人間ではなさそうな口ぶりだった。
「ちなみにトワって何歳?」
「なんじゃ、藪から棒に」
「いや、今の話聞いたら気になるだろ」
「忘れたの。数えるのをやめてから分からなくなった」
「何歳から数えるのやめたんだよ」
「それも忘れた」
「便利だな、忘れたって」
「おぬしも自分がなぜここにおるか忘れておろう」
「……」
今の俺には何も言い返せない。トワは勝ち誇ったように鼻を鳴らし、そのまま歩き出した。俺もその後を追う。
施設の前から続く細い道は緩やかな坂になっていた。舗装はされていないが、人が使っているらしく草が途切れている。周囲は林に囲まれていて、まだ遠くまで見渡すことはできなかった。
「街って遠い?」
「歩けばしばらくかかるの」
「しばらくってどれくらい?時間で言ってくれ」
「おぬしは注文が多いのう」
トワは歩きながら空を見上げた。
「日が大きく傾く前には着くじゃろ」
「時計ないの?」
「あるぞ」
「じゃあ時間で言えるだろ」
「わらわは持っておらぬ」
ポケットを探ってみたが、俺の方にも時計らしいものはなかった。というより持ち物らしい持ち物が何もなかった。服だけは普通に着ている。それ以外は完全に手ぶらだ。
「何を探しておる?」
「いや、持ち物。何かあれば自分がどこから来たか分かるかなって」
「何もないのか?」
「ないな」
トワが俺の服へ視線を向ける。また観察されている。
「その服も見慣れぬの」
「そうなの?」
「少なくとも、この辺りでは見ぬ」
「外国みたいなところなのかな。そのどっかから来たとか?」
「さてな」
「またそれか」
「分からぬものを適当に答えてほしいのか?」
「それは困る」
「なら我慢せい」
正論だった。しばらく道を下る。風が吹くたびに木々の枝が揺れ、その隙間から明るい空が見えた。鳥らしき鳴き声も聞こえる。見知らぬ場所ではあるが、今のところ危険そうには見えない。
前を歩いていたトワが急に口を開いた。
「そういえば、おぬしの名をまだ聞いておらなんだな」
「ああ。ユウ」
「ユウ、か」
トワが一度だけ口の中で確かめるように繰り返した。
「それでユウ。おぬし、一人なのか?」
「今さら?」
「そうではない。ここへ来る前の話じゃ」
「分からない」
「家族は?」
記憶を探る。家族、その言葉の意味はもちろん分かる。どういうものか知っているのに、自分の家族を思い浮かべようとすると何も出てこなかった。
「……覚えてないな」
「名は覚えておるのにか」
「自分のこと全部忘れてるわけじゃないんだよ。俺がユウって名前なのも分かるし、普通に喋れるし、色んなことも知ってる。でも、どこで暮らしてたとか、家族が誰だったとか、ここに来る前のことだけ何も出てこない」
トワは少し黙った後、こちらを振り返った。
「では、おぬし自身は何者なのじゃ?」
「何者って?」
「そのままの意味じゃ。おぬしは自分を何だと思っておる?」
妙な聞き方だった。
「普通の人間だよ」
そう答えると、トワの歩く速度が少し落ちた。
「何?」
「いや」
トワは俺の顔をしばらく見た後、前へ向き直った。
「俺、そんなに変?」
「変じゃ。何も知らぬ。身元も分からぬ。見慣れぬ服を着て、あの場所で寝ておった。それで普通だと思う方が難しかろう」
トワの言うことはもっともだった。俺だって逆の立場なら怪しむ。
「なのに、よく普通に話してくれるな」
「危険ならとっくに何とかしておる」
「何とかって?」
「何とかじゃ」
「そこ濁すの怖いんだけど」
「安心せい。今のところ、おぬしに害意はなさそうじゃ」
「今のところって」
「これから暴れぬ保証はなかろう」
「暴れないよ」
「皆そう言うものじゃ」
「神様って人間不信なの?」
「長く生きれば、色々見るからの」
さらりと言って、トワはまた先へ進む。俺はそれ以上聞かなかった。
林が少しずつ薄くなってきた。前方から吹いてくる風も強くなる。道の両脇には、ところどころ崩れた石造りの柱が見えるようになった。自然にできたものではない。表面には模様らしきものが彫られているが、施設内で見た記号とは違っていた。
「これは?」
「昔の道標じゃ」
「街への?じゃあ、この道で合ってるんだな」
「わらわを疑っておったのか?」
「迷子になったら困るだろ」
道標の横を通り過ぎた時、その奥に別のものが見えた。草に半分埋もれた、小さな黒い板。施設内で見たものに似ている。
「あれ……」
近づいてみる。
「何じゃ?」
「中にも似たのがあった」
しゃがみ込んで表面を見るが、完全に黒いままだ。試しに手を近づけると、板の中央を細い光が走った。続けて、意味の分からない記号が一つだけ浮かび上がる。しかし、それも一瞬だった。すぐに光は消え、元の黒い板へ戻った。
「今の見た?」
「ああ」
トワが俺の隣まで来ていた。
「やっぱり俺が近づくと動くな」
「……そうじゃな」
「何なんだろ」
「分からぬ」
「神様でも?」
「何度言わせるのじゃ。わらわは何でも知っておるわけではない」
「弱めの神様だな」
「神罰を下す」
「すみませんでした」
即座に謝ると、トワは少し呆れたようだった。
「冗談じゃ」
立ち上がり、黒い板をもう一度見るが、今度は何も起こらなかった。俺の周りでだけ動いているように見えるが、理由は分からない。偶然だと言われれば、それまでだ。
「考えても分からないか」
「珍しく賢明じゃな」
再び道へ戻る。しばらくして、トワが何気なく尋ねた。
「おぬし、本当に一人で街へ行くつもりか?」
「そのつもりだけど」
「ふむ」
「何?」
「いや、おぬしの土地では普通なのかと思うての」
「何が?」
「若い男が一人で歩き回ることじゃ」
質問の意味が分からず、俺はトワを見た。
「普通じゃない?」
少なくとも、俺の感覚ではおかしなことではない。
「そうか」
「こっちでは違うの?」
「多少はの」
「治安悪いとか?じゃあ気をつけるよ」
「………ならばよい」
また誤魔化された。聞き返そうと思ったが、トワは先へ行ってしまう。
妙な奴だ。神を名乗るくらいだから、普通とは違うのかもしれない。もっとも、俺も向こうから見れば相当妙な人間らしいが。
さらに坂を下ると、木々の切れ目の向こうが急に明るくなった。今度こそ林の終わりらしい。トワがその手前で立ち止まった。
「ここから先は道なりに進めばよい。途中で分かれ道があるが、右へ行けば着く」
「トワは?」
「わらわはもう少し見回る」
「ここで別れるのか」
「何じゃ。寂しいのか?」
「いや、道案内がいなくなるのが不安なだけ」
「正直な奴じゃな」
トワが呆れたように笑った。俺は木々の向こうを見る。明るすぎて、ここからではまだ遠くの景色がよく分からない。
「とりあえず外の道まで一緒に来てくれよ。分かれ道の場所も聞きたいし」
「仕方ないのう」
そう言いながらも、トワは断らなかった。
二人で林を抜ける。最後の木の横を通り過ぎた瞬間、視界を遮っていた枝葉がなくなり、急に空が広がる。同時に、正面から強い風が吹きつけた。
「うわっ」
髪を押さえながら数歩進む。道の先は少し高くなっていて、その向こう側だけが見えない。トワは何事もないように歩いていく。
「風強いな」
「今日は少しあるの」
「街ってこの先?」
「そうじゃ」
俺はトワの後を追い、小さな坂を上った。坂を上りきったところで、俺は足を止めた。最初は、何を見ているのか分からなかった。視界の大半を占めているのは青い空だった。正面にも、左右にも、どこまでも空が続いている。さっきまで林の中を歩いていたせいで急に見晴らしがよくなっただけかと思ったが、それにしては妙だった。
本来ならあるはずのものがない。地面が、途中で終わっている。
「……え?」
俺たちが立っている場所から少し先まで草原が続き、その向こうで大地が途切れていた。崖、それだけならまだ分かる。問題は、その先だった。崖の向こうに海はなかった。山も平野もない。ただ空だけが広がり、その遥か下に真っ白な雲が一面に敷き詰められている。
雲海という言葉が頭に浮かんだ。だが、それより先に目を奪われるものがあった。遠くの空に、山が浮かんでいた。
「……は?」
目を擦るが、消えない。
山だけではなかった。その下には森があり、平地があり、さらにその下には土と岩でできた巨大な地層が剥き出しになっている。それらを丸ごと抱えた大地が、何の支えもなく空中に浮いていた。一つではない。もっと遠くにもある。右手には細長い島のような大地が浮かび、そのさらに奥には霞んで輪郭しか分からない巨大な陸地が見える。小さなものまで含めれば、空のあちこちに黒い影が点在していた。
俺はしばらく何も言えなかった。
「どうした?」
トワだけが平然としている。俺は返事もせず、崖の近くまで歩いた。
「おい。あまり端へ寄るでないぞ」
言われて足を止める。崖下を覗き込んだ瞬間、全身がぞわりとした。底が見えない。遥か下に広がる雲の層が、距離感そのものを壊している。
「……なあ」
「何じゃ」
俺は遠くに浮かぶ大地を指差した。
「あれ、島だよな?」
「島もあるが、あれは大陸じゃ」
「大陸?浮いてない?」
トワが俺を見る。
「浮いておるな」
「なんで?」
「なんでと言われてものう」
「いや、だって大陸だぞ。大陸が浮いてるんだぞ?」
「見れば分かる」
話が通じない。
「おかしいだろ!」
思わず声が大きくなった。トワが目を瞬く。
「何がおかしいのじゃ。大陸とは浮いているものじゃろ」
「浮かねえよ!」
即座に返すと、今度はトワが黙った。しばらく俺を見て、それから遠くの大陸を見る。それからもう一度俺を見る。
「……おぬしの認識では浮かぬのか?」
「当たり前だろ。大地は地面にあるんだよ」
「大地?」
「そう。ずっと下まで繋がってて……」
説明しかけて、自分でも妙な言い方だと思った。だが他にどう説明すればいい。
「大陸ってのは海に囲まれてて、その下には地面が続いてるもんだろ」
「海ならあるぞ」
トワが左側を指差す。その先には青く光る巨大なものが浮かんでいた。
さっきは大陸ばかり見ていて気づかなかった。遠目には湖にも見える。しかし、規模がおかしい。青い水の塊が、大地とは別に空中へ浮かんでいる。その周囲からは白い筋が何本も下へ伸び、雲の中へ消えていた。
「海はあれじゃ」
「いやいやいや。海まで浮いてるじゃん」
「当然、海も浮くじゃろ」
「浮かねえよ!」
今日一番大きな声が出た。トワはぽかんとした後、口元を押さえた。肩がわずかに揺れている。
「笑ってる?」
「笑っておらぬ。くく……すまぬ。これほど当然のものを見て驚く者は久しく見ておらなんだからの」
「俺からしたら、驚かない方がおかしいんだよ」
改めて周囲を見渡す。一度仕組みを理解してしまえば、今度は目に入るもの全てが異常に見えた。遠くを鳥の群れが横切っている。そのさらに向こうには、大きな船のような影が浮かんでいた。
「……あれ何?」
「あれか? 飛空船じゃろ」
「飛空船て」
「船くらい知っておるじゃろ」
「俺が知ってる船は空を飛ばない」
「難儀な土地から来たものじゃの」
「こっちがおかしいんだって」
「おぬしの常識を基準にされてものう」
言われて返事に詰まる。少なくとも、この場所ではトワの方が正しい。遠くの飛空船は帆らしきものを膨らませながら、ゆっくりと大陸の間を進んでいる。その下には何もない。落ちれば雲の中まで真っ逆さまだ。
見ているだけで足元が頼りなくなる。
「ここも……浮いてるのか?」
「当然じゃ」
トワは俺たちが立っている地面を軽く踏んだ。
「この島も浮遊島の一つじゃ」
急に足元まで信用できなくなった。思わず一歩後ろへ下がると、トワがとうとう声を出して笑った。
「何じゃ。先ほどまでは平然と歩いておったではないか」
「知らなかったからだよ!」
「知ったところで急に落ちたりはせぬ」
「そういう問題じゃない」
「面倒な奴じゃのう」
しばらく景色を眺めていると、最初の衝撃も少しずつ薄れてきた。受け入れたわけではない。ただ、驚き続けるにも限界がある。遠くに浮かぶ大陸の一つには街らしきものも見えた。塔のような建物がいくつも立ち、その周囲を飛空船らしい小さな影が行き来している。
「あれが街?」
「違う。あれは別の島じゃ。この辺りの街は向こうじゃな」
トワが俺たちのいる島の奥を指す。ここからでは林と丘に遮られて見えないらしい。
「じゃあ、さっき言ってた分かれ道を右か」
「そうじゃ」
行く場所は決まった。とはいえ、問題が一つ増えた。自分がどこから来たのか分からないどころか、俺の知っている世界とこの場所では根本的なところから常識が違うらしい。
「外国ってレベルじゃないな……」
もう一度、遠くを眺める。その時、視界の端に妙なものが映った。
「なあ、トワ」
「何じゃ」
遠くに浮いている小さな島を指差す。他の島より明らかに低い位置にあった。最初はそういう高さに浮いているだけだと思ったが、島の上には建物らしきものも見える。それなのに、周囲の大陸や島とはずいぶん高度が違う。
「あの島、低くない?」
トワの顔から笑みが消えた。
「ああ」
「元から?」
「いや」
短い返事だった。俺はトワを見る。
「沈んでるのか?」
「少しずつの」
「大丈夫なの?」
「今のところは止まっておる」
トワは遠くの島を眺めたまま答えた。
「近頃、ああいう場所が増えておる」
「原因は?」
「分からぬ」
「神様でも?」
いつもの調子で返事が来ると思った。だが、トワは少し間を置いた。
「分からぬよ」
俺もそれ以上は聞かなかった。
浮かんでいること自体が信じられない俺には、それが沈むことの異常さまではまだ理解できない。ただ、トワの表情を見る限り、少なくともこの世界でも普通の出来事ではないらしい。
風が吹いて眼下の雲がゆっくりと流れていく。俺は空に浮かぶ大地を眺めながら、自分が置かれた状況を頭の中で整理しようとした。
知らない場所で目を覚まして、記憶がない。神を名乗る少女と出会った。そして外に出てみれば、大陸も海も空に浮いている。
「……とんでもない所に来たな」
自然とそんな言葉が漏れた。
「何を言うておる」
隣にいたトワが不思議そうにこちらを見る。
「これが世界じゃ」
その言い方には、何の疑いもなかった。トワにとっては、大地が浮かんでいることも、海が空にあることも、雲の下に何があるのか知らないことも、全部当たり前なのだろう。俺にとっては、その当たり前の何もかもがおかしい。
「なあ、トワ」
「何じゃ」
「やっぱり街まで一緒に来てくれない?」
「先ほど断ったであろう」
「事情が変わった」
俺は周囲を指差した。トワが俺の指す先を見回す。
「どこが変わった?」
「俺の認識が変わったんだよ。こんな世界で一人にされたら、街に着く前に何かやらかす気しかしない」
「自覚はあるのじゃな」
「ある。だからお願いします」
両手を合わせる。トワは呆れた顔で俺を見上げていたが、すぐには断らなかった。
「……おぬし、街へ行ってどうするつもりじゃ?」
「まず情報を集める。俺のこと」
自分の胸を指差す。
「なんであんな場所で寝てたのか。どこから来たのか。俺を知ってる奴がいないか。それくらいは調べたい」
「見つからなかったら?」
考える。
「その時は、その時考える」
「随分と行き当たりばったりじゃな」
「何も分からないんだから仕方ないだろ」
トワはしばらく黙っていた。その視線がまた俺の顔から服へ移り、最後に俺たちが出てきた林の方へ向く。あの奥には、俺が目覚めた施設がある。
「……ふむ。よかろう、街までじゃ。案内してやる」
「本当に?」
「二度言わせるな」
「助かる」
「ただし」
トワが指を一本立てる。
「勝手なことはするでないぞ。この辺りの常識すら知らぬのであろう?」
「大陸が浮いてるなんて知らなかったくらいだからな」
「そこまで胸を張って言うことではない」
「じゃあ頼むよ、神様」
「最初からそのくらい敬意を払えばよいのじゃ」
「自称だけど」
「帰るぞ」
「すみません、神様」
踵を返したトワの後を慌てて追う。
「まったく……」
そう言いながら、トワはどこか機嫌がよさそうにも見えた。理由は分からない。俺という妙な人間を放っておけないと思ったのかもしれないし、単純に街まで行く気分になっただけかもしれない。
何にせよ、今の俺にはありがたかった。知らない世界で、一人ではない。それだけでかなり違う。
歩き出す前に、俺はもう一度だけ振り返った。
果ての見えない空と、そこに浮かぶ大陸と、海。その間を渡っていく船、遥か下を覆い尽くす、白い雲海。何一つ理解できない。それでも、まずは進むしかない。
「ユウ」
少し先からトワが呼ぶ。
「置いていくぞ」
「今行く!」
俺は空に浮かぶ世界から目を離し、トワの後を追った。