街へ向かう道は思っていたよりきちんと整備されていた。林を抜けてからしばらくは土の道だったが、歩いているうちに地面へ平たい石が敷かれ始め、道幅も少しずつ広くなっていく。周囲には畑らしい区画も見え始め、そのさらに向こうには建物の屋根がいくつも並んでいた。
「あれが街?」
「そうじゃ」
少し先を歩いていたトワが振り返りもせず答える。遠くからでは規模までは分からないが、少なくとも集落と呼ぶには大きそうだった。建物の向こうには一本だけ高い塔のようなものも見える。
街へ近づくにつれて、道を行き交う人の数も増えてきた。荷車を押している人や、何人かで話しながら街へ向かっている集団が見える。さっきまで人の姿がまったくなかったせいか、それだけでも妙に安心する。
ただ、しばらく歩いているうちに別のことが気になり始めた。荷車を引いている人も、道端で荷物を確認している三人組も全員女だ。次に向かってくる一人と、その後ろから歩いてきた二人も女だった。
「なあ、なんか女の人多くない?」
トワがこちらを見る。
「そうじゃな」
「やっぱり?」
あっさり返されて俺は少し拍子抜けした。地域的なものなのだろうか。工場街なら男が多いとか、そういう偏りは普通にあるだろう。ここも何か理由があるのかもしれない。そう考えていると、向こうから大きな籠を背負った二人組が歩いてきた。どちらも若い女性で、何やら楽しそうに話している。
そのうち一人がこちらを見た。目が合った途端、彼女はぴたりと足を止める。隣を歩いていたもう一人が不思議そうに振り返り、何か言われたらしくこちらを見たかと思うと、その女まで同じように立ち止まった。二人とも俺を見ている。周りを確認してみても、どう考えても視線の先にいるのは俺だった。
「何?」
思わず自分の服を見る。やっぱりこれが目立つのだろうか。古代施設で目覚めた時から着ている服だ。この辺りでは見慣れないとトワにも言われたし、それなら珍しがられても不思議ではない。二人の横を通り過ぎる際、挨拶くらいした方がいいかと思って声をかけた。
「こんにちは」
「ひゃっ」
片方が変な声を出し、もう一人は目を見開いたまま何も言わずに固まった。
「……え?」
思わず立ち止まりかけたところで、トワが俺の袖を引く。
「行くぞ」
「いや、今の何?挨拶しただけでびっくりされたんだけど」
「そうじゃな」
「そうじゃな、じゃなくて」
振り返ると二人はまだこちらを見ていた。俺と目が合った瞬間、一人が慌てて隣の女の腕を掴み、そのまま何かを小声で話し始める。距離があるので内容までは聞き取れなかった。
「俺、そんなに怪しい格好してる?」
「さての」
「絶対なんか知ってるだろ」
トワは答えず、そのまま歩いていくので仕方なく後を追った。
奇妙なのはその二人だけではなかった。次にすれ違った女性も俺を見て足を緩め、畑の脇で作業をしていた女性は手を止めたままこちらを見ている。向こうから来た三人組に至っては、一人が俺に気づいた途端に話を止め、残りの二人もその視線を追うようにこちらを向いた。しかもここまで見かけた人間は全員女で、その全員が程度の差こそあれ俺へ視線を向けてくる。
「……なあ。さっきからめちゃくちゃ見られてるんだけど」
「そうじゃな。珍しいのじゃろ」
「服装?」
トワが俺を見て、そのまま一瞬だけ間を置いた。
「まあ、それもあるの」
「それも?」
聞き返したが、トワは前を向いてしまった。
一度気になってしまうと今度は別のことまで目につき始めた。かなりの人数とすれ違ったはずなのに、男が一人もいない。遠くの畑で働いているのも、荷車を引いているのも、道を歩いているのもすべて女だった。最初はたまたまだと思っていたが、これだけ人がいるのに一人も見つからないとなれば、さすがに偶然とは思えない。
「さすがに男少なすぎない?」
トワの口元が少しだけ上がった。
「おぬしがそう思うならそうなんじゃろう」
トワは楽しそうに歩き続ける。
「どれくらい少ないんだ?」
「街へ行けば分かる。言葉で聞くより自分で見た方が早いこともある」
「もう十分見てるんだけど。一人もいないぞ。これ普通なの?」
「この辺りではの」
さらりと言われて、俺はもう一度周囲を見た。道には十人以上いるがその中に男は一人もいない。
「見当たらぬからといって、おらぬわけではない」
「じゃあどこに?」
「さての」
「またそれかよ」
何かを面白がっているのは間違いない。
その時、向こうから五人ほどの女性がやってきた。俺たちより少し若い者も混じっていて、最初は普通に話しながら歩いていたのだが、先頭の一人がこちらに気づいた途端に足を止めた。隣の女もその視線を追ってこちらを見る。するとさらに一人、その隣もと順番に会話が止まり、最後には五人全員がその場に立ったまま俺を見つめていた。
さすがに気まずい。
「……こんにちは」
試しに挨拶してみたが、誰も返さない。一人は口を半開きにしたまま俺を見つめ、別の一人は隣の女の服を掴んで、何かを確かめるように小声で話しかけた。
「……本物?」
その言葉だけは聞こえた。
「何が?」
思わず聞き返すと、声を出した女性がびくりと肩を跳ねさせた。顔を赤くしたかと思うと、今度は仲間の後ろへ半分隠れてしまう。
何なんだ。
「行くぞ、ユウ」
また袖を引かれる。
「ちょっと待てって。今――」
「街はすぐそこじゃ。そこで確かめればよい」
トワは俺の疑問など気にする様子もなく歩いていく。女性たちの横を通り過ぎても誰もこちらへ声をかけてこなかったが、背中には視線がいつまでも残っている。
「トワ、俺は街に入って大丈夫なんだよな?」
「今さら何を心配しておる」
「いや、なんか急に不安になってきた」
「安心せい。わらわがおる」
「それが安心材料になるかどうかはまだ判断保留なんだけど」
「置いていくぞ」
「それは困る」
即答すると、トワが小さく笑った。
その背中を追って道を進むうち、街を囲む高い壁と、その中央に開いた大きな門がはっきり見えてきた。門の前には何人もの人が行き交っている。門の近くにいた一人がこちらを向き、俺に気づいたらしく動きを止める。それにつられるように隣の女もこちらを見て、さらにその隣まで視線を向けた。
「……なあ、トワ。街に入った瞬間に騒ぎになったりしないよな?」
トワは門の方を眺めたあとで何でもないことのように答えた。
「さて、どうじゃろうな」
「おい」
門へ近づくにつれて、さっき感じた嫌な予感はますます強くなった。
街を囲む壁は思っていた以上に高く、石を積み上げて作られているらしい。ところどころ補修したように色の違う部分はあるものの、古代施設のような異様さはなく、俺の感覚でも普通の建造物に見える。中央には荷車が二台並んでも余裕がありそうな大きな門が開いていて、人の出入りも多かった。
問題はその人たちが次々と俺に気づくことだった。一人が振り返ればその視線につられて隣も見る。足を止める人まで出てきて、門までまだ少し距離があるというのに、俺たちの周囲だけ妙な空気になり始めていた。
「トワ、これ絶対騒ぎになるやつだろ」
「まだ騒いではおらぬな」
「『まだ』って言ったよな?」
「気のせいじゃ」
トワは楽しそうに歩き続ける。
門の左右には槍を持った二人の警備兵が立っていた。俺たちの前を歩いていた人たちは軽く挨拶を交わしただけでそのまま通っているので、普段はいちいち身元を確認するような場所ではないらしい。
ところが俺が近づくと、右側に立っていた警備兵の表情が変わった。視線が俺に止まり、そのまま動かなくなる。隣の警備兵も不思議そうにこちらを見たあと同じように固まった。そのまま数秒間、誰も何も言わなかった。
「……あの」
こちらから声をかけると、二人の肩が同時に揺れた。
「しゃ、喋った」
「そりゃ喋りますけど」
思わず答える。警備兵の一人が隣を見る。
「男……だよね?」
「そうですけど」
警備兵たちはまた顔を見合わせた。門番なら街の外から来る人間を毎日見ているはずなのに、それでもこの反応ということは道ですれ違った人たちだけが特別だったわけではないらしい。やがて年上に見える方の警備兵が我に返り、慌てたように姿勢を正した。
「待って。そこから動かないで」
「え?」
「お願いだから、そのまま」
言い方は丁寧だが、槍を握る手には明らかに力が入っている。
俺は思わず足を止めた。
「俺、何かしました?」
「してない。してないけど……」
警備兵は俺の頭から足元まで確認し、続いて隣のトワへ視線を移した。
「あなた、この人の付き添い?」
「まあ、そのようなものじゃ」
「二人だけ?護衛は?」
「おらぬ」
「管理官、移送隊は?」
「そんなものもおらぬ」
質問が続くたびに警備兵の顔から余裕が消えていった。俺には聞き慣れない単語が混じっている。
「ちょっと待って」
話に割って入る。
「管理官って何?」
今度は警備兵が俺を見たまま黙った。
「管理官を知らないの?」
門の周囲では、いつの間にか立ち止まってこちらを見ている人が増えていた。露店らしい場所から顔を出している女性もいれば、荷車の陰からこちらを覗いている者までいる。
視線が痛い。
「トワ、お前これ知ってたな?」
「さてな」
俺たちが話している間にも警備兵は何かを考えていたらしい。やがて意を決したように俺へ尋ねた。
「登録証は?」
「持ってないです。そもそも何の登録ですか?」
また黙られたのでさすがに俺も不安になってくる。するともう一人の警備兵が小声で話す。
「紛失したんじゃない?」
「それなら随行者がいるでしょう」
「でも……本人が何も知らないって」
「あの、本人ここにいるんで、普通に聞いてもらっていいですか?」
「ご、ごめんなさい」
何となくこちらまで申し訳なくなってくる。年上の警備兵が一度深呼吸してから、今度はできるだけ落ち着いた声で尋ねてきた。
「名前は?」
「ユウです」
「姓は?」
「分かりません」
「所属する管理区は?」
「それも分かりません」
「保護施設は?」
「知らないです」
「家族は?」
「……それも」
答えるたびに警備兵の表情が険しくなっていくが、俺だって好きでこんな怪しい回答をしているわけではない。
「ちょっと事情があって、自分の過去を覚えてないんです。だから街に行けば何か分かるかと思って来たんですけど」
「過去を……?」
「名前とか普通の知識は覚えてます。でも自分がどこに住んでたとか、家族が誰なのかとか、そういうのだけ分からなくて」
警備兵はしばらく俺の顔を見ていた。警戒というより、今度は困惑の方が強い。
本当に困る。隣を見ると、トワは口を挟むでもなく俺たちのやり取りを眺めていた。
「お前、そろそろ助けてくれてもよくない?」
「よく答えられておるぞ」
「褒めてほしいんじゃないんだよ。説明してくれよ」
「街へ入れば分かると言ったじゃろ」
「入る前に止められてるんだけど」
トワが小さく笑った。この野郎め。
その間にも門の前には人が集まり始めていた。誰も一定以上には近づいてこないが、遠巻きにこちらを見ている。何人かは興奮した様子で話していて、その中から断片的に声が聞こえてきた。
「本当に男なの?」
「初めて見た……」
「声、全然違う」
動物園か何かか。俺がそちらを見ると、何人かが慌てて視線を逸らした。その一方で逃げるどころかさらに前へ出ようとする人までいる。
警備兵が気づいて声を上げた。
「通行の邪魔になります!立ち止まらないでください!」
群衆が少しだけ動く。それでも完全には散らなかった。
「そんなに珍しいんですか、男って」
俺が聞くと、警備兵は一瞬答えるのをためらった。
「珍しいというか……普通、こういうところにはいないから。一般区域に付き添いもなしで歩いてることがないの」
「なんで?」
警備兵が戸惑う。どうやら俺の質問そのものが想定外らしい。
「危ないから」
俺にとって当然の疑問が、この世界では質問する必要すらない常識らしい。
「男は普通、保護区域かそれぞれの管理施設で生活してる。外へ出る時も行き先を届け出て、付き添いがつくから」
「……施設?」
思わず聞き返す。俺は何を言われているのか。一応言葉の意味は分かるが内容が頭に入ってこない。
「ちょっと待って。男って、自由に街を歩けないの?」
「自由に……」
警備兵は何とも言えない顔をした。
「普通は手続きするし、勝手に一人では――」
「なんで?」
「だから危ないから」
「何が危ないんです?」
同じところを回っている。警備兵は困り果てたように隣を見るが、もう一人も首を横に振った。
その時、トワが口を挟んだ。
「その辺にしておけ。こやつは本当に何も知らぬ。見ての通りじゃ」
「見ても分からないんだけど……」
警備兵の言い分はもっともだったが、トワは気にした様子もない。
「身元を調べられる場所はあるか?」
「それなら中央詰所だけど……」
「そこへ行く」
「待って。このまま?」
「他にどう行けというのじゃ」
警備兵は絶句した。
「駄目。さすがに駄目」
彼女は周囲を見た。門の前だけですでにかなりの人数がこちらを見ている。しかも街の中からも何事かと人が集まり始めていた。
警備兵が言いたいことは何となく分かった。
「このまま歩いたら、もっと集まる?」
「間違いなく」
「やっぱり?」
「ここにいる人だって、ほとんど男の人を直接見たことないと思う」
「……そんなに?」
思わず周囲を見回した。男が少ないどころではなく、普通に暮らしていればまったく会わない人間すらいるくらいらしい。
「とにかく、中央詰所へ連絡する。そこで身元を確認してもらった方がいい」
「お願いします」
「それと、できればここで待ってて」
「ここで?」
周囲にはすでに人だかりができつつある。
「ここにいる方が目立ってません?」
「……それはそうなんだけど」
警備兵も困ったように眉を寄せた。もう一人が門の奥を見てから、小声で何か提案する。二人で短く相談したあとこちらへ向き直った。
「詰所まで私たちが同行する。それならいいと思う」
「そこまでしなくても――」
「必要じゃろうな」
俺より先にトワが答えた。
「今度は賛成するのかよ」
「この人数に囲まれながら歩きたいなら止めはせぬぞ」
周囲を見る。視線が一斉に逸れたが、少し待つとまた戻ってくる。
「……お願いします」
「うむ。素直でよろしい」
「お前に言ったんじゃない」
トワは楽しそうに笑った。
警備兵の一人が門の中へ連絡に走り、残った一人が俺たちの前に立つ。なぜか俺と集まった人たちの間へ身体を入れるような位置だった。
その様子を見て、ようやく実感が湧いてくる。目覚めてから半日も経っていないはずなのに、自分の常識が次々と役に立たなくなっていく。
「……トワ、先に教えてくれてもよかったんじゃない?」
「言ったところで、おぬしは信じたか?」
たぶん信じなかった。少なくともここまでとは思わなかっただろう。
やがて連絡へ向かった警備兵が戻ってきた。
「話は通した。行こう」
俺たちは二人の警備兵に挟まれるような形で門をくぐった。その瞬間、街の中にいた何十人もの視線が一斉にこちらへ向く。
思わず声が出て、それを隣にいるトワが笑う。
「歓迎されておるのう」
「ずいぶんな歓迎だな?」
「少なくとも嫌われてはおらぬじゃろ」
「それはそうかもしれないけど……」
二人の警備兵に挟まれて歩き始めると、門の外とは比べものにならないほど多くの視線が集まってきた。
街の大通りには露店が並び、荷車が行き交い、建物の軒先では店員らしい人たちが客を呼び込んでいる。遠くには洗濯物を干している姿も見え、道端では子供たちが何かを投げ合って遊んでいた。見たことのない形の道具や服装こそあるものの、営まれている生活そのものは俺が知っている街とそれほど変わらない。
ただし、どこを見ても女しかいなかった。
「……本当に一人もいないな」
「先ほど聞いたばかりじゃろう」
「聞くのと実際に見るのは違うだろ。これだけ人がいるのに一人も見つからないと、さすがにな」
トワは何でもないことのように歩いている。
変だと思っているのは俺だけらしい。むしろ街の人たちからすれば風景の中で異物になっているのはこちらだった。
道の反対側を歩いていた女性が俺に気づき、隣の女性の肩を叩く。振り返った相手もこちらを見て目を丸くし、今度はその二人を見た別の人が足を止める。そんなことが何度も繰り返されて、俺たちが進むにつれて人の流れの中へ小さな波紋が広がっていった。
「髪ってあんな感じなんだ……」
「こっち見た」
俺はどういう顔をして歩けばいいのか分からなくなってきた。
「なあ、これいつまで続くんだ?」
「飽きるまでではないか?」
「俺の精神が先に参りそうなんだけど」
「気にせねばよい」
「お前は見られてないから言えるんだよ」
遠くからこちらを眺めるだけの人もいれば、興味があるらしく何度も振り返る人もいる。逆に俺と目が合った瞬間、慌てて店の中へ引っ込んでしまう人もいた。どう接すればいいのか分からない、そんな反応に見える。
話でしか知らない生き物が突然目の前を歩いていたら自分も似たような反応をするかもしれない。そう考えると少し納得できたが、自分がその珍しい生き物の側だと思うと複雑だった。
「……あの」
横から声がしたので振り向くと、露店の前にいた若い女性がこちらを見ていた。俺と目が合うと一瞬ひるんだものの、逃げることはなく、手に持っていた小さな包みを胸元で握り直す。
「俺?」
自分を指すと、彼女は何度か頷いた。
「えっと、その……」
何か言おうとしているが、その先が出てこない。
警備兵も止める様子はなかったので、俺は少し待つことにした。
「……本当に、男の人なんですよね?」
「そうみたいです」
答えた途端、女性が目を丸くした。
「そうみたい?」
「ちょっと色々あって」
「そう、なんですか……」
会話が終わってしまった。気まずい沈黙のあと、女性が俺の顔を見ながら何度か口を開き、やがて意を決したように包みを差し出した。
「あの、これ」
「何ですか?」
「お菓子です」
布の包みから甘そうな匂いがしている。
「俺に?」
「その……よかったら」
困って警備兵を見ると、なぜか彼女も少し困った顔をしていた。
「もらっていいんですか?」
「はい!」
ずいぶん勢いよく返事をされた。悪いものには見えないし、せっかく差し出してくれているものを断るのも失礼だろう。俺は包みを受け取った。
「ありがとうございます」
礼を言うと彼女は固まった。そのあとすぐにぶんぶんと首を振ったあと、顔を赤くして一歩下がった。
「どうも」
もう一度軽く頭を下げて歩き出そうとすると、今度は後ろで小さな騒ぎが起きた。
「お礼言われた」
「聞こえた」
「いいなあ」
「私も何か持ってくればよかった」
嫌な予感がする。振り返ると、少し離れた場所にいた何人かがこちらを見ながら相談している。
「トワ、これまずくない?なんか次が来そう」
「人気者でよかったではないか」
「完全に面白がってるだろ」
「さての」
案の定、別の女性が一歩こちらへ出てきた。手には果物らしきものを持っている。
「あ、あの――」
「すまぬが、こやつは急いでおる」
俺が返事をするより先に、トワが間へ入った。
女性が足を止める。
「そう、なんですか?」
「身元を調べに行く途中での。用件が済んでからにしてくれ」
「トワ、別にそこまで急いで――」
言いかけたところで袖を引かれた。
「急いでおるな?」
笑顔だった。
「……はい」
俺が答えると、トワは満足そうに頷いた。
女性は少し残念そうにしたものの、警備兵が同行している状況を見て納得したらしい。
「ご、ごめんなさい」
「いや、謝らなくても」
俺がそう返すと、また妙に嬉しそうな顔をされた。
訳が分からない。そのまま歩き出すと、前を行く警備兵が振り返った。
「珍しいね」
「何がです?」
「いや……何でもない」
「そこまで言ったなら教えてくださいよ」
警備兵が苦笑し、隣ではトワが知らん顔をしている。
しばらく歩くと、大通りの向こうに周囲より少し大きな建物が見えてきた。石造りの二階建てで、入口の上には俺には読めない文字の書かれた板が掲げられている。
「あそこが中央詰所」
警備兵が示した。
「行方不明者とか、街への出入りの記録もあそこに?」
「この周辺のものなら大体集まってる。男の人に関する届け出なら特に記録が残ってるはず」
もし俺がこの辺りで暮らしていた人間なら、これだけ厳重に管理されている社会で何の記録もないとは考えにくい。家族がいるならなおさらだ。何か一つくらいは見つかるかもしれない。
中央詰所の中へ入ると、入口近くにいた職員たちの視線が一斉にこちらへ向いた。予想はしていたのでもう驚かない。
室内にはいくつもの机が並び、その奥には大量の書類を収めた棚が壁一面に並んでいる。窓口らしい場所では何人かの女性が書類を受け取ったり、訪れた人の話を聞いたりしていた。俺たちを連れてきた警備兵が受付の女性へ近づき、小声で事情を説明する。最初は普通に聞いていた受付の女性だったが、途中から何度も俺の方を見るようになった。
「……男性で、登録証なし?」
「本人は登録そのものを知らないそうです」
「付き添いは?」
「そちらの子だけ」
受付の女性がトワを見る。
「あなたが管理官ですか?」
「違う」
「ご家族?」
「それも違うの」
「では、どういう関係で?」
トワが少し考えた。
「案内役、とでも思えばよい」
「案内役……」
余計に分からなくなったような顔だ。
「とりあえず、こちらへ」
奥の机へ案内され、俺とトワは並んで椅子に座った。警備兵の一人は事情を引き継ぐために残り、もう一人は門へ戻っていく。しばらくすると、別の職員が何枚かの紙と分厚い帳面を抱えてやってきた。
「では、確認させてください。名前は?」
「ユウです」
「姓は?」
「分かりません」
職員の手が一瞬止まった。
「年齢は?」
「それも正確には。たぶん十八から二十くらいだと思います」
「出身の管理区は?」
「分かりません」
「所属していた保護施設は?」
「それも」
「登録証を紛失した可能性は?」
「そもそも登録証ってものを今日初めて聞きました」
職員が顔を上げる。また警戒されるかと思ったが、浮かんでいたのはそれよりも困惑だった。
「……何も覚えていないんですか?」
「自分のことだけ、って感じです。一般的な知識は覚えてます。でもどこに住んでたとか、家族が誰なのかとか、そういうのが抜けてて」
口に出すと我ながらひどい状態だ。職員はしばらく何かを書き込んでから、今度はトワへ視線を向けた。
「あなたはどこで彼と?」
「街の外じゃ」
「具体的には?」
「古い施設の中じゃな」
職員の眉が動く。
「施設?」
「人の使っておるものではない。かなり古いものじゃ」
俺も横から付け加える。
「そこで目が覚めたんです。誰かに連れていかれた記憶もないし、どうしてそこにいたのかも分かりません」
職員は何度か俺とトワを見比べた。
「その施設の場所は分かりますか?」
「戻ろうと思えば戻れる」
「なら、あとで場所も確認させてください」
「好きにせい」
トワは相変わらず偉そうだった。職員は少し怪訝な顔をしたものの、言い返さずに帳面を開いた。
「まず、この街と周辺の管理記録を確認します。男性なら居住記録や移動記録が残っているはずです」
「やっぱり全員分あるんですか?」
「基本的には」
「じゃあ案外すぐ分かるかもしれないな」
思わずそう言うと、職員も頷いた。
「あなたくらいの年齢の男性がいなくなっていれば、行方不明の届けも出ていると思います。少なくとも何かしら記録はあるはずです」
その言葉を聞いて、少しだけ気が楽になった。街へ来るまでは何を手掛かりにすればいいのかすら分からなかったが、ここまで管理されているなら話は早い。俺自身が何も覚えていなくても、向こうに記録が残っている可能性が高い。
職員は別の女性にも声をかけ、何冊かの帳面を机へ運ばせた。
「ユウ……ユウ……」
指で文字を追っていく。俺には読めないので黙って待つしかない。
やがて職員が一冊目を閉じた。
「この街にはありませんね」
「別のところですか?」
「その可能性はあります。近隣の管理区も確認します」
次の帳面が開かれる。名前だけでなく、年齢や外見、最近の移動記録なども照合しているらしい。何人かの職員が途中から作業に加わり、机の上には次第に書類が増えていった。最初はすぐ見つかると思っていたが、何冊目かを閉じた頃には、職員たちの顔からも余裕がなくなっていた。
「この年齢で該当する人は?」
「こちらにはいません」
「最近の移送記録も?」
「ないです」
「名前の似たものは?」
「二件ありますけど、どちらも別人です」
俺は少し姿勢を直した。
「……見つからないですね」
職員へ言うと、彼女も困ったように帳面を見る。
「まだ全部確認したわけではありません。ただ、この周辺に住んでいたのであれば、そろそろ何か出てもいいはずなんですが」
「もっと遠くから来たとか?」
「可能性はあります。そちらへの照会も――」
そこで、机の上に置かれていた筆記具がわずかに転がった。
「ん?」
床の下からごく小さな振動が伝わってくる。窓枠がかすかに鳴り、棚に収められた帳面が一斉に揺れた。
「地震?」
反射的に口にしたが職員たちは誰も答えなかった。そのままじっとしていると揺れはすぐに止まった。
「……今の何です?」
近くの職員たちは互いに顔を見合わせている。トワだけが窓の方を見ていた。
「トワ?」
呼びかけても返事がない。椅子から立ち上がり、窓の外を眺めている。
「おい」
「静かにせい」
いつものふざけた調子が消えていたので俺も黙って待つことにした。
「……終わった?」
誰かが呟いたその直後、身体がふわりと浮いた。
「っ――」
内臓が一瞬遅れて持ち上がるような感覚に、思わず机を掴む。今度は横に揺れたわけではなく、床そのものが下へ抜けた。棚から帳面が落ち、机の上の書類が舞い上がる。部屋のあちこちから悲鳴が上がり、次の瞬間には建物全体が低い音を立てて軋んだ。
「何だこれ!」
窓の外からも大勢の叫び声が聞こえてくる。職員たちは慌てて机につかまり、棚から落ちてきた箱を避ける。
俺も姿勢を立て直して窓へ向かった。
「危ないですよ!」
「ちょっと見るだけです!」
外では通りを歩いていた人たちが立ち止まり、建物から次々と人が飛び出している。だが、もっと異様なのはその向こうだった。街の屋根越しに遠くの浮島が見えるが、それがゆっくり上へ動いている。
「……違う」
向こうが上がっているのではなく、俺たちが下がっているのだ。街に来る時に見た、周囲より低い位置に浮いていた島が頭に浮かぶ。
「あれと同じ……?」
その時、外から叫び声が響いた。
「落界だ!」
続いて別の場所からも声が上がる。
「落界だ!また落界が起きた!」
聞き覚えのない言葉だった。隣へ来たトワを見る。
「何だよ、それ」
トワは窓の外から目を離さない。
「見たままじゃ。この大地が高度を失っておる。わしらが今立っておる、この土地そのものじゃ」
言葉の意味を理解したところで、再び身体が軽くなる。
「うわっ!」
さっきより大きい。机が床を滑り、窓の外では屋根から何かが落ちていく。遠くの浮島がさらに上へ移動したように見えた。詰所の中は一気に混乱した。
「記録は後!負傷者を確認して!」
「入口を開けて!避難してくる人が来る!」
「棚から離れて!」
さっきまで俺の身元を調べていた職員たちも、もう帳面には目を向けていない。落ちた書類を踏まないようにしながら、それぞれが動き始める。床に散らばった帳面の一つを拾って机へ置きながら、もう一度トワを見る。
「これ、よくあるの?」
トワは少しだけ黙った。
「以前はそうでもなかったが、近頃増えておる」
「原因はわかってんの?」
「分からぬ」
トワの答えとほとんど同時に、もう一度足元から低い音が響いた。反射的に机へ手を伸ばしたが、今度は身体が浮く感覚までは来ない。窓枠がしばらく細かく震えたあと、辺りはゆっくりと静かになっていった。
誰もすぐには動かなかった。職員たちも机や壁につかまったまま次の揺れを警戒していたが、しばらく待っても何も起こらない。
「……止まった?」
「今のところはの。また落ちぬ保証はない」
不安になるようなことを平然と言う。
詰所の中ではすぐに被害の確認が始まった。幸い建物そのものが壊れたわけではないようだが、棚から落ちた帳面や箱が床一面に散乱している。転んだ拍子に腕を打ったらしい職員もいて、別の女性が応急処置をしていた。
俺も近くに倒れていた棚へ手をかける。
「何をしてるんです?」
「起こそうかと」
「危ないから座っていてください」
「これくらいなら大丈夫ですよ」
もう一人の職員と一緒に棚を起こし、散らばった帳面を拾っていく。なぜか途中から妙に恐縮されたが、今は理由を聞く気にもならなかった。窓の外では人が走り回り、遠くから何度も声が響いている。さっきまで俺を珍しそうに眺めていた街とは同じ場所とは思えない。
「身元の確認は、今日は難しそうですね」
先ほど記録を調べていた職員が申し訳なさそうに言った。
「照会は続けます。ただ、今は街の被害確認を優先しないと」
「それで大丈夫です。こっちは急いでも仕方ないんで」
もう少しで何か分かるかもしれないと思っていたのだが、こればかりは仕方がない。
「今日は街に泊まるといい。宿はこちらで紹介します。ただ……」
職員は窓の外を見た。
「そのまま歩くのはやめた方がいいかもしれません」
落界のおかげで人だかりは散ったものの、俺が男だという話まで消えたわけではない。少し考えた職員が奥から持ってきたのは、大きな外套と布だった。
「男性を移動させる時に使うものです。顔と体格が分かりにくくなります」
「そんなものまであるんだ……」
言われるまま外套を羽織り、深くフードを被る。さらに口元まで布で覆うと、近くにあった鏡にはどう見ても怪しい人物が映っていた。
「これ、別の意味で目立たない?」
「男と分からぬならよかろう」
トワが近づき、俺のフードへ手を伸ばす。そのまま目元ぎりぎりまで引き下げられた。
「ちょっと待て。前見えない」
「まだ顔が見えておる」
「見えていい部分まで隠そうとしてない?」
「気のせいじゃ」
少し持ち上げると、トワがまた下げる。
「お前、楽しんでるだろ」
「何のことかの」
結局、俺が普通に歩ける程度のところで折り合いをつけた。
紹介された宿は詰所からそれほど離れていなかった。変装の効果はかなりあるらしく、道ですれ違う女性がこちらを見ても特に反応することはない。
「これなら最初から隠してくればよかったな」
「それではおぬしが何も学べなかったじゃろう」
「その教育方針、もう少し優しくできない?」
「考えておこう」
宿でも少し揉めた。身元不明の男性を一人にしないよう詰所から言われていたため、取られた部屋は一つだった。
「同じ部屋?」
「嫌なのか?」
「嫌っていうか、お前女だろ」
「今さら何を言っておる」
トワは気にした様子もなく先に部屋へ入っていく。確かに今日だけでずっと一緒にいたし、見た目だけなら俺よりずっと年下だ。
日が沈む頃には街の騒ぎも少し落ち着いていた。窓を開けると、遠くにいくつもの浮島が見える。朝に見た景色と比べることはできないが、あの島々より自分たちの位置が低くなっていることだけは分かった。
「なあトワ。これ、このまま放っておいて大丈夫なのか?」
ベッドの端に腰掛けていたトワが窓へ目を向ける。
「分からぬ」
「でも、増えてるんだろ。落界」
「そうじゃな」
「今日みたいな大きいのも?」
「規模はまちまちじゃ。小さな島が少し高度を失うこともあれば、今回のように人の住む土地が落ちることもある」
俺は窓枠へ肘をついた。
「原因を調べたりしてないの?」
「無論しておる者はおる。じゃが、分かっておらぬから今も起きておる」
「神様にも?」
「神とて何でも知っておるわけではない」
トワが呆れたように息を吐く。
少し考えてから俺は昼間のことを思い出した。自分に反応した古い施設と周囲より低く沈んでいた島、そしてこの島で起きた落界。関係があるのかは分からないが、少し気になる。
「明日、どうする?」
聞くと、トワはしばらく黙っていた。
「落界した場所を見て回る」
「じゃあ俺も行く」
トワがこちらを見る。
「おぬしは自分の身元を調べに来たのではなかったか?」
「それは詰所が続きを調べてくれるだろ。それに、宿で待っててもやることないし」
「危険かもしれぬぞ」
「今日だって十分危なかった」
そう言うと、トワは少しだけ目を細めた。
「好きにせい」
「止めないんだ」
「止めて聞くような顔をしておらぬ。おぬしは分かりやすい奴じゃからの」
失礼なこと言われた気がする。
翌朝、借りた外套を羽織って鏡の前でフードを深く被る。口元まで布を巻けば、そこにいるのは相変わらず怪しい旅人だった。
「本当にこれで行くの?」
「昨日の騒ぎをもう一度やりたいなら好きにせい」
「これでいいです」
トワが満足そうに頷く。
宿を出ると、朝の街は昨日より静かだった。あちこちで落界による被害の片付けが始まっている。
自分が何者なのかを調べるために来たはずだが、結局その答えは見つからなかった。代わりに知ったのは、この世界では男が想像以上に珍しいことと、空に浮かぶ大地そのものが落ちることがあるという事実だ。
「行くぞ、ユウ」
トワが街の奥へ向かって歩き出したので隣に並んだ。