ユウの姿が街道の向こうへ消えてからも、しばらく道標のそばに立っていた。
最後に振り返ったとき、ユウは笑って手を振っていた。自分もそれに応じて手を振り返したが、ユウが前を向いて歩き始めてからは、もう一度こちらを振り返ることはなかった。
別に、それが不満というわけではない。何度も振り返られては、こちらもいつまでも見送らねばならぬではないか。そう考えながら、ユウが消えた街道の先を眺めていた。
あの男は、わらわがおらずとも何とかなると思うておるらしい。
実際、ユウは自分で旅立つことを決めた。行き先を調べ、荷物を用意し、今朝も迷うことなく街を出ていった。あの調子なら、多少の困難には遭ってもどうにか切り抜けようとするのだろう。
それは自分にとって好ましいことだった。何もかも他人に任せ、自分では何一つ決めようとしないこの世界の男など、見ていて退屈でしかない。もっとも、だからといって安心できるわけでもなかった。
ユウはこの世界のことをあまりにも知らない。男が一人で旅をすることの危うさも、道中で出会う女たちが何を考えるかもろくに理解していないのだ。
まして、女たちがユウにどのような目を向けるのかについては、本人が一番分かっておらぬ。
「……困った男じゃのう」
昨夜、ユウは自分がいなくなると少し寂しいと言っていた。
あれは嬉しかった。本人は何気なく口にしたのだろうが、トワにとっては何度思い返しても愉快な言葉だった。
しかし、少し寂しい、か。
たったそれだけなのかとも思う。こちらの方は今こうしてユウの姿が見えなくなっただけで、早くも彼のことを考えているというのに。
できることなら今すぐ追いかけてもよかった。隣に並んでまたくだらない話をすれば、ユウはいつものように呆れた顔をするだろう。
その顔も、もう少し見ていたかった。だが、今はここに残ると決めたのだ。いずれまた会えばよい。
ユウが自分を頼らずとも歩けるようになることは構わない。どこへ行こうと、何を見ようと、好きにすればよいと思っている。
ただ、そこで出会った誰かが、自分よりもユウにとって大切な存在になるというのは、あまり面白くない。
街道から視線を外した。
そもそも、あの男は何も分かっておらぬのだ。自分がどれほど気に入られているのかも、どれほど特別に扱われているのかも。あの古い施設で初めて言葉を交わしたときから、ずっとそうだった。
そのときのことを思い出し、わずかに口元を緩めた。何も知らずに目を覚ました、あの妙な男のことを。
あの施設は、自分が知る限りずっと昔からあの場所にあった。岩壁の奥に埋もれ、蔓や苔に覆われた古い建造物。内部には今も理解できない仕組みが残されていたが、その多くは長い年月のうちに機能を失っていた。何のために造られ、かつて誰が使っていたのかは分からない。
その施設の中で一人の男が目を覚ました。最初にその存在を知ったとき、少なからず驚いた。人が入り込んだ形跡などなかった場所で、突然現れた男が動き始めたのだ。
しかも、施設までが反応していた。長らく沈黙していた通路に青白い光が走り、男の進む先で照明が灯っていく。男が近づくと扉が開き、まるで彼を案内するかのように光の線が伸びていた。
その様子を見ながら、男が何者なのか考えていた。これまで何度も見回ってきた場所である。自分が触れても動かなかった設備が、見知らぬ男には当然のように応じている。奇妙なことだった。
だが、それ以上に気になることがあった。
男自身である。彼は何も分かっていない様子で、周囲を確かめながら歩いていた。設備が動くたびに驚き、理解できないものを前にすると足を止める。危険そうなものには不用意に触れず、かといって怯えて動けなくなるわけでもない。
その一挙一動を見ているうちに、自分が施設の異常よりも男の反応を気にしていることに気づいた。
何を見ているのか。次はどこへ向かうのか。あの黒い板に何かが映し出されたら、どんな顔をするのか。どれも、普段ならわざわざ確かめようとは思わないことだった。
やがて自分は男の前に姿を現した。こちらを見た男は当然のように驚いたが、こちらがこの地を見守る神だと名乗ると、今度は別の意味で奇妙な顔をした。
神を前にした者の反応としては、随分と珍しいものだった。長く生きていれば、人間が神を前にしてどのような態度を取るかなど、嫌というほど見てきた。畏れる者、祈る者、助けを求める者。信じない者でさえ、神を名乗る相手には多少なりとも警戒するものだ。
ところが、この男は違った。こちらが何かを言えば疑問を返し、気に入らない説明には遠慮なく文句をつける。しまいには、自称神などと呼び始める始末だった。
普通なら、もう少し敬意を払わせてもよいところである。でも不思議と腹は立たなかったし、その反応を見るのが楽しかった。こちらが少し尊大に振る舞えば呆れた顔をし、からかえば言い返してくる。神罰を匂わせれば慌てて謝るくせに、しばらくするとまた遠慮のない口を利く。
どうやら、この男にとって神という肩書きは、それほど重要なものではないらしい。相手が何者であるかより、目の前相手が何を言い、何をするかを気にしている。
それが妙に心地よかった。神として扱われることが嫌いなわけではない。人々から敬われるのは当然のことだと思っているし、今さらその立場を捨てたいとも思わない。
ただ、目の前の男が自分に向ける態度は、それとは違った楽しさを与えてくれた。
もっと話してみたい。そう思ったときには、すでに次に何を聞こうか考えていた。
男の名はユウというらしかった。自分の名前や言葉は覚えているのに、どこで生まれ、どのように暮らしてきたのかは分からないという。家族について尋ねても、家族というものが何かは理解しているくせに、自分の家族のこととなると何も答えられない。
それを聞いたとき、少しばかり不愉快になった。
誰がこの男をあの施設へ運んだのか。なぜ一人で眠らせていたのか。目覚めた後のことは考えていなかったのか。
何も知らない以上、誰かを責めることもできない。そもそも、ユウが眠っていた事情すら分からないのだ。それでも、あの施設で目覚めたとき、彼のそばには誰もいなかった。
もし自分が見つけなければ、どうなっていたのだろう。施設はあちこち崩れかけていた。あのまま一人で歩き回っていれば、危険な目に遭ったかもしれない。
そう考えると、少し腹立たしかった。
ユウ自身は、自分を普通の人間だと言っていた。その言葉を聞いたとき、トワは思わず彼の顔を見た。普通の人間、確かに外見だけならそう見える。少し変わった服装をした、若い男にすぎない。
だが、普通の人間にあの施設が反応するものだろうか。何より、自分自身が彼を普通の人間として扱う気になれなかった。
目の前にいる男が何を考えているのか知りたかった。もっと話を聞きたかったし、まだ見せていない表情も見てみたかった。
彼が自分のことを何一つ覚えていないというのなら、これから何を知り、何を好きになるのかも気になった。
その隣に自分がいたら、きっと退屈しないだろう。むしろ、ほかの誰かが先に彼のことを知るのは、あまり面白くない気がした。
その考えを、特におかしなものだとは思わなかった。気に入ったものは気に入ったのだから、仕方がない。そもそも、長く生きてきた自分が、誰かをそばに置きたいと思うことの何が悪いのか。
ただ、本人にわざわざ教えてやる必要はないだろう。ユウは今、自分の身に何が起きているのかさえ分かっていないのだ。そこへ神に気に入られたなどと言っても、また妙な顔をするに決まっている。
それに、何も知らないまま遠慮なく話しかけてくる今のユウも、随分と気に入っていた。だから、ひとまず施設の出口まで案内してやることにした。
ユウから見れば、偶然出会った神様が親切に道を教えてくれただけの話だっただろう。
その認識は、別に間違っていない。実際、道を教えてやるつもりだったのだから。
ただし施設の外へ出た後も、あの男ともう少し話していたかった。できることなら、ずっと。その程度のことは、まだ口に出さずともよかろうと思っていた。
施設を出たユウは、周囲の林を見回しながら、ここがどこなのかしきりに尋ねてきた。
知っている範囲で答えてやったが、どうにも話が噛み合わない。地名を教えても分からず、近くに街があると言えば、そこへ行けば自分のことを知る人間がいるだろうかと聞いてくる。
どうやら、本当にこの辺りのことを何も知らないらしい。
それでもユウは、必要以上に悲観する様子を見せなかった。分からないことは調べればよいと考えているようで、しばらく歩くうちには、こちらの年齢を尋ねたり、神様なら何でも知っているのではないかとからかったりする余裕まで見せ始めた。
そのたびに言い返してやると、ユウは呆れたような顔をする。
自分はその顔を見るのが好きだった。何しろ、こちらが少し言葉を返すだけで面白いほど表情が変わるのだ。長い年月を生きてきたが、誰かとの会話がこれほど愉快だったことはない。
林を抜け、浮遊大陸と海が広がる景色を目にしたときもそうだった。ユウは目を丸くし、大陸が浮いていることにも、船が空を飛んでいることにも驚いていた。自分にとっては見慣れた景色なのに、彼と並んで眺めていると、妙に楽しいものに思えてくる。
ただ、遠くの島が以前より低い位置にあることを指摘されたときには、少し考え込んだ。最近、ああした場所が増えている。原因は分からず、今のところ確かな対処法もない。
もっとも、ユウには関係のない話だろう。彼がまず考えるべきは、自分の身元を調べることのはずだった。そのために街へ行くと聞いたときは少し困った。
当初は施設の出口まで案内するという話だった。街まで同行する理由は特にない。
ユウが一人で街へ向かうところを想像すると、どうにも気が滅入った。この世界で若い男が護衛も連れずに歩いていればどうなるか。街の女たちが彼を見つけたとき、どれほどの騒ぎになるかは容易に想像できた。もちろん、親切な者もいるだろう。男が困っていると知れば、喜んで世話を焼く女などいくらでもいる。
それも気に入らなかった。ユウが困ったとき、自分ではない誰かに助けを求める。相手は親切に応じ、ユウはいつもの調子で礼を言う。そうして二人が親しくなっていく。
別段、珍しいことではない。しかし、わざわざそんなことを許してやる必要があるだろうか。今のユウには自分がいる。道を教えるのも、この世界のことを説明するのも、危険から守ってやるのも、すべて自分にできることだった。
それなら、ほかの誰かに任せる理由などない。とはいえ、ユウの前でそんなことを言うつもりはなかった。
だから、あくまで世間知らずの男を放っておけなくなったという態度で街まで案内してやることにした。
ユウは素直に喜んだ。それを見て満足した。自分が同行すると言っただけで、あの男は安心したような顔をする。今この場所で、ユウが最も頼りにしている相手は間違いなく自分だった。
そのことがひどく嬉しかった。もっとも、街へ着けば彼にも新しい知り合いができるだろう。いつまでも自分だけを頼っているとは限らない。ならば、そうならぬようにすればよい。
ふと隣を歩くユウを見上げた。本人は何も知らず、これから向かう街についてあれこれ尋ねている。
まったく、呑気な男じゃ。
は小さく笑い、勝手なことをするなと注意してから、彼の質問に答えてやった。
街へ近づくにつれて、道を行き交う人の数が増えていった。
ユウはすれ違う者が女ばかりであることを不思議がっていたが、自分にとっては見慣れた光景だった。この辺りでは男が人前に出ること自体珍しく、まして護衛も連れずに歩いている若い男など、まず見かけることはない。
当然、道行く女たちはユウに目を向けた。最初は何気なく視線を寄越すだけだった者も、男だと気づくと足を止める。何度も振り返る者や、隣の連れと顔を見合わせる者もいた。その反応を眺めながら、内心で少々呆れていた。
まったく、分かりやすい連中じゃ。
長く人間を見てきた自分には、相手が何を考えているか、おおよその見当がついた。単に珍しいものを見つけたという顔もあれば、話しかける機会を窺っている者もいる。中にはユウと目が合った途端、慌てて顔を背ける女までいた。
ユウの方はといえば、そんな視線を受けても、自分の服装が珍しいせいではないかと考えているらしい。随分と呑気な男である。だが、その無防備さも自分には好ましかった。もしユウがこの世界の男たちと同じように、自分がどれほど珍重される存在なのか理解していたら、今のように気安く話してはくれなかったかもしれない。それを思えば、何も知らないままでいるのも悪くない。
街門では、案の定、ユウの身元についてあれこれ尋ねられることになった。男の管理記録も、付き添いの資格も、何一つ用意されていないのだから当然である。
隣でやり取りを聞きながら、ユウがこの世界の常識を知っていく様子を眺めていた。知らなければ困ることは教えてやる必要がある。しかし、何もかも先回りして説明してやるつもりもなかった。
自分に質問すればよいのだ。分からないことがあれば、わらわに聞けばよい。そうしてユウが自分を頼ることに慣れてくれれば自分としても都合がよかった。
もっとも、街へ入ってからは、少々面倒なことになった。
大勢の女がユウを見ている。それだけなら、まだ構わなかった。遠くから眺める程度のことまで咎めるつもりはない。
問題は、近づいてこようとする者たちである。若い女が一人、ユウへ菓子を差し出したときも、黙ってその様子を見ていた。女は随分と緊張していて、差し出した手はぎこちなく、ユウの顔をまともに見られないらしい。それでも、わざわざ声をかけるだけの勇気はあったということだろう。
ユウは少し驚いたものの、素直に菓子を受け取った。
「ありがとうございます」
そう言って笑った。
女の表情がぱっと明るくなる。その様子を見た瞬間少しばかり気分を害した。あの女、随分と嬉しそうではないか。無論、ユウが礼を言うこと自体は何もおかしくない。彼はもともと、何かをしてもらえば素直に感謝する男だった。
自分も何度か礼を言われている。だからこそ、その言葉が嬉しいことも知っていた。それを、あの女は菓子一つで手に入れたわけだ。
女の顔を眺めた。今は単に、珍しい男と話せたことを喜んでいるだけかもしれない。しかし、次に会ったときも同じように菓子を渡すかもしれないし、今度は名前を尋ねるかもしれない。
その先は、どうなるだろう。女の方がユウを気に入り、何かにつけて世話を焼き始める。ユウは親切にされれば礼を言うだろうし、相手が困っていれば自分から手を貸そうとするに違いない。そうして親しくなっていく二人を想像すると、ますます面白くなくなった。とはいえ、すでに渡された菓子を取り上げるほど子供じみた真似をするつもりもない。
ユウが嬉しそうなら、それはそれでよい。ただし、相手の女まで喜ばせてやる必要はなかった。
やがて別の女がこちらへ近づこうとした。その動きに気づいたので女がユウへ声をかけるより早く口を開いた。
「すまぬが、こやつは急いでおる」
突然話を遮られた女は戸惑った様子を見せたが、結局、それ以上近づいてはこなかった。
ユウが何か言いかける。おそらく、そこまで急いでいないとでも言うつもりだったのだろう。それを制して先へ進んだ。身元を調べるために街へ来たのだから、寄り道をしている場合ではない。そう説明すれば、ユウも納得するはずだった。
実際、嘘をついたつもりはない。やるべきことがあるのだから、急いでいると言っても差し支えなかろう。
女がそれ以上追ってこないことを確かめ、満足した。
別に、あの女がユウをどう思おうと勝手だ。気に入るのも、慕うのも、好きにすればいい。ただ、その気持ちにユウが応えてやる必要はないし、自分が二人の仲を取り持ってやる義理もない、それだけの話である。
「ほれ、行くぞ。いつまでもぼさっとしておるな」
声をかけると、ユウは何やら文句を言いながらも後についてきた。その様子を見て機嫌を直した。
あの男は、自分がどれほど女たちの興味を引いているか、まだよく分かっていない。まあ、それでよい。今のところ、ユウが困ったときに真っ先に頼るのは自分なのだから、わざわざ余計な者を増やしてやる必要などどこにもなかった。
街の中央詰所で身元を調べている最中、最初の揺れが起きた。
すぐに異変を感じ取った。建物が揺れているのではない。自分たちの立っている大地そのものが、高度を失い始めている。近頃、こうした現象が増えていることは知っていた。原因も分からず、いつどこで発生するかも予測できない。今回ばかりは、随分と間の悪いことになったものだ。
もっとも、最初に気にしたのは街の被害ではなかった。ユウは無事か。隣を確かめると、彼も突然の揺れに驚いていた。棚から帳面が落ち、床が傾くような感覚に襲われながらも、何が起きているのか懸命に理解しようとしている。
その姿を見て安心した。しかし、同時に腹立たしくもあった。よりによって、ユウがここにいるときに起こらずともよかろうに。
あの男は、この世界の危険をまだほとんど知らない。自分の身を守る方法も十分に分かっていないというのに、こんな災害に巻き込まれてしまった。
やがて高度の低下が落ち着くと、詰所の職員たちは散乱した書類や倒れた棚の片付けを始めた。
ユウもそれを手伝おうとした。危ないから座っているように言われたにもかかわらず、当たり前のように床の帳面を拾い、棚を起こそうとしている。
まったく、何をしておるのじゃ。
この世界の男なら、まず自分の安全を確保しようとするだろう。周囲の女たちも、男にそのような仕事をさせようとは思わない。それなのにユウは、誰かが困っていれば自分も手を貸そうとする。
そういうところも気に入っていた。
ただし、感心することと、危険な真似を許すことは別である。無理をして怪我でもされたら、たまったものではない。
それから詰所の職員に外套を借り、ユウが男だと分からないよう顔を隠すことになったとき、自分からフードを整えてやった。目元ぎりぎりまで布を下げると、ユウが不満そうな声を上げる。
「見えていい部分まで隠そうとしてない?」
「まだ顔が見えておる」
「お前、楽しんでるだろ」
「気のせいじゃ」
平然と答えたが、実際、少し楽しかった。これなら街の女たちも、ユウが若い男だとは簡単に気づくまい。あの顔を見て足を止める者も、わざわざ話しかけようとする者も減るはずだ。
もちろん、変装はユウの安全のためでもある。この街で身元不明の男が一人歩きしていれば、余計な騒ぎになることは間違いない。だから、顔を隠す理由は十分にあった。少々念入りに隠してやったところで、何も問題はなかろう。
その夜、二人は詰所から紹介された宿に泊まることになった。同じ部屋だと知ったユウは妙に気にしていたが、自分にとってはどうでもよいことだった。
むしろ、別々の部屋にする理由が分からない。ユウが一人になれば、何か困ったことが起きてもすぐには気づけない。ほかの誰かが部屋を訪ねてくる可能性もある。
それなら、自分がそばにいればよい。ユウはしばらく何か言いたそうにしていたが、結局、それ以上文句を言うことはなかった。
随分と信用されたものだ。内心で満足していた。もっとも、その信用が恋愛感情によるものではないことくらい理解している。
ユウにとって自分は、知らない世界で最初に出会った案内役なのだろう。それでも今は構わなかった。少なくとも、彼が安心して同じ部屋で過ごせる相手は自分なのだから。
夜になり、窓の外に広がる浮遊島を眺めながら、ユウは落界について尋ねてきた。
そして翌日、自分も調査についていくと言い出した。
少し考えた。危険な場所へ連れていきたくはない。しかし、宿に一人で残しておくのも気が進まなかった。
それに、ユウは一度言い出したら、そう簡単には諦めないだろう。
「……好きにせい」
結局、そう答えることにした。自分と一緒にいる限り、少なくとも何か起きたときにはすぐに手を貸せる。ユウが何を見つけ、何をしようとするのかも、そばで確かめられる。
自分にとっては、それで十分だった。この男は、放っておけばどこへでも首を突っ込んでしまいそうだった。ならば、せめて自分の目が届くところにいてもらわねばならない。
ユウには好きなことをさせてやりたい。ただし、そのせいで自分の知らないところへ行かれるのは困る。
その二つの考えが矛盾しているとは、少しも思わなかった。
翌朝、ユウとともに落界の被害を調べ始めたが、改めてこの男の危なっかしさを思い知らされることになった。
道端で女が大きな木箱を運んでいるのを見つけると、ユウは自分から手伝おうとした。ところが、全身に力を込めても箱はほとんど動かず、結局その女が一人で持ち上げてしまったのである。
ユウはひどく驚いていた。この世界では女の方が力が強いなど、今さら説明するまでもない常識だったが、彼にとってはそうではないらしい。
それでも、力仕事をしている女を見れば手伝おうとする。
自分には、その考え方が少し不思議だった。男が無理に重いものを運ぶ必要などない。まして、ユウのように弱い身体であればなおさらである。しかし、そんなことを考えながらも彼の行動を好ましく思っていた。自分にはできないかもしれない。それでも誰かが困っていれば、まず手を貸そうとする。そういう男なのだろう。
だからこそ、放っておけないのじゃが。
街の東側へ進むと、落界によって地面が大きく裂けた場所に出た。そこで土の中から黒い人工物が露出していることに気づいた。
滑らかな表面と、細く刻まれた線。ユウが目覚めた施設によく似ていた。試しに触れてみたが、何も起こらない。
ところがユウが近づくと、黒い表面に青白い光が走った。思わず、その手元を見つめた。やはり、この男には何かある。
ユウが離れると光は消え、近づけば再び灯る。何度確かめても結果は同じだった。
自分には反応しないものが、ユウには反応する。それが何を意味するのかは分からなかった。長い年月を生きてきた自分でさえ知らない何かを、この男は持っているらしい。
奇妙なことだった。
もっとも、ユウ自身はその理由をまるで理解していない。自分が近づくと光ることに驚き、何度も自分へ意見を求めてくる。
そのたびに、知っていることと知らないことを答えてやった。頼られるのは嬉しい。しかし、いつかユウがこの施設のことを自分より詳しく知るようになったら、どうなるだろう。今のように、何かあるたびに尋ねてくることもなくなるのだろうか。
そう考えると、少々面白くなかった。
やがて地下に埋もれた巨大な施設へたどり着いたが、そこでも同じだった。
自分が触れても動かなかった扉が、ユウの接近によって開いた。通路の照明は彼の進む先で次々と灯り、まるで施設全体がユウを迎え入れているかのようだった。
ずいぶんと熱心な歓迎じゃのう。
内心でそう呟いた。別に、機械相手に嫉妬しているわけではない。ただ、自分にも分からない仕組みがユウを特別扱いしていることが、妙に気になった。
施設の最深部で、ユウは《HOMO SAPIENS》という文字を読んだ。人間の種の名前だという。
続いて、施設は彼を《人類管理者》として認証した。
どちらも心当たりがなかった。ユウに尋ねられても、知らぬと答えるしかない。だが、ここまでの反応を見る限り、単なる偶然とは考えにくかった。この古い施設は、明らかにユウを何か特別な存在として扱っている。
そして、その事実は自分に一つの懸念を抱かせた。もし、このことが街の者たちに知られたらどうなるだろう。今でさえ、ユウは珍しい男というだけで大勢の女から注目されている。そこへ古代施設を動かせるという話まで加われば、いったい何人が彼に近づこうとするのか。
古代の技術を調べたい者もいるだろう。ユウの力を利用しようとする者も現れるかもしれない。そして、そうした者たちは、ユウと親しくなるための理由を持つことになる。
それは困る。まだユウ自身が何者なのかも分かっておらぬというのに、余計な連中に囲まれては面倒だ。
もちろん、ユウが自分の正体を知ることには賛成だった。そのために協力するのも構わない。ただし、誰彼構わず彼の秘密を教えてやる必要はないはずである。
ユウの認証によって施設が動き始めると、自身にも変化が起きた。それまで何も感じなかった場所から、微かな気配のようなものが伝わってくる。
この土地の状態が、以前より少しだけ分かる。遠くに何かが存在しているような、不思議な感覚だった。が起きたのかは分からない。確かめようとしても、まだ曖昧なものしか捉えられなかった。
それでも、長らく失われていた何かが戻り始めたように思えた。
その変化を興味深く感じていた。もしかすると、これまで分からなかったことが分かるようになるかもしれない。この土地だけでなく、もっと遠くの様子も。そうなれば、ユウがどこへ行こうとも、その先にどのような危険があるか知ることができるだろうか。
もっとも、今はまだ何も確かではない。ひとまず、その感覚を覚えておくことにした。
施設を出る途中、ユウが古代設備のことを街の者たちへ話すべきか尋ねてきた。
少し考えてから答えた。
「今すぐ話す必要はなかろう」
ユウは、自分が施設を動かしたことも伝えるべきではないかと気にしていた。
「説明できるのか?」
そう尋ねると、ユウは困った顔をした。
当然である。本人ですら何が起きたのか理解していないのだ。
「ならば余計な騒ぎを増やすだけじゃ。おぬしはただでさえ目立つ」
そう言うと、ユウは納得したようだった。
この説明に嘘はなかった。実際、正体不明の男が古代施設を起動したなどと広まれば、面倒なことになるだろう。
だから今は黙っていた方がよい。ただ、それだけではなかった。ユウが何者なのかを知る手掛かりを、自分たちだけが持っている。ユウが古代施設について尋ねられる相手も、今のところ自分しかいない。その状況を、できることなら長く保っておきたかった。いずれ誰かに話す必要が生じるかもしれないが、それはそのとき考えればいい。
今は、わらわが知っておれば十分じゃ。
隣を歩くユウを見上げた。彼は地下施設で聞いた言葉の意味を考えているらしく、何やら難しい顔をしていた。
その疑問に答えてやれないことは残念だったが、答えを知る者がほかに現れることを望んでいるわけでもなかった。
知らないことは、一緒に調べればよい。その方が、これからもユウのそばにいる理由ができるのだから。
再び地下施設を訪れたユウは、以前よりも積極的に古代設備を調べようとしていた。最初にここへ来たときは、設備が勝手に動くたびに驚いていたというのに、今では自分から機械へ話しかけている。
「この土地の状態を見せてくれ」
ユウがそう告げると、目の前に巨大な立体図が現れた。
その様子を興味深く眺めていた。どうやら、あの施設はユウの要求にある程度応じるらしい。長い間、誰にも使われずにいた設備が、彼の言葉ひとつで動き始める。
便利なものじゃのう。
もっとも、何でも答えてくれるわけではないようだった。ユウが質問を重ねても、理解できない表示が現れたり、要求を受け付けてもらえなかったりする。そのたびにユウは首を傾げ、別の聞き方を考えていた。
そんな姿を見ているのも好きだった。分からないことがあれば、自分で調べようとする。失敗してもすぐには諦めず、別の方法を試す。ユウらしい行動だった。
やがて表示の範囲が広がり、周辺の浮遊島だけでなく、遠く離れた大陸までが映し出された。その各地に、古代設備の存在を示すらしい光点が散らばっている。
ユウは、それらを一つずつ調べ始めた。
ほとんどの設備からは応答が得られなかったが、遠方の大陸にある一点だけが、微かに反応を返してきた。
その瞬間、ユウの表情が変わった。
それを見逃さなかった。ユウは、何かを見つけたときには実に分かりやすい顔をする。
今もそうだった。施設から詳しい情報を得られないと分かっても、ユウはその地点を何度も確かめていた。やがて彼は、そこへ行けば自分のことが分かるかもしれないと言い始めた。
少し考え込んだ。なるほど。確かに、ここで調べられることには限りがある。別の施設へ行けば、新しい手掛かりが得られる可能性もあるだろう。ユウがそう考えるのは自然だった。
しかし、困ったことになったものじゃ。
その大陸は、ここから随分と離れている。徒歩で行ける距離ではなく、飛空船に乗って海や島々を越えねばならない。
当然、その道中では多くの者と出会うことになる。船を動かす者も、宿を営む者も、旅人を相手に商売する者も、この世界では女が大半を占めている。
そしてユウは、あの調子で誰にでも礼を言い、親切にされれば嬉しそうに笑うのだろう。これから起こりそうなことが容易に想像できた。
まったく、厄介な男じゃ。
もっとも、旅へ出ること自体を止めたいわけではなかった。ユウが自分の正体を知りたいと思うのは当然であるし、ようやく見つけた手掛かりを追いかけようとする姿は好ましい。自分の知らない世界へ踏み出そうとする姿が嫌いではなかった。
むしろ、何もせずに誰かの指示を待っているより、よほど魅力的に見える。だからこそ、強引に引き留める気にもなれなかった。
もしここに残れと命じれば、ユウはどうするだろう。
おそらく理由を尋ねてくる。納得できる説明がなければ、素直には従うまい。それでも無理に止めれば、いつものように文句を言うかもしれない。
それはそれで面白そうだったが、嫌われてまで試したいとは思わなかった。何より、ユウには自分の意思で行動してほしかった。その結果として、最後には自分のそばにいてくれるのが一番よい。
ただ、旅先で出会った女たちまで、ユウが自由に選んでよいかといえば、話は別である。
ユウがどこへ行くかは、ユウが決めればよい。誰と話すかについても、いちいち口を出すつもりはなかった。
しかし、その相手がユウに好意を抱き、彼のそばに居座ろうとするなら、少々考えねばなるまい。幸い、古代施設が動き始めてから、以前より多くのものが感じ取れるようになっていた。まだ曖昧ではあるが、遠くの設備の存在さえ分かることがある。
この変化について詳しく調べれば、何か役に立つことが見つかるかもしれない。
ユウがどこにいても、その様子を知ることができれば。
立体図を見つめるユウの横顔へ目を向けた。ユウは、まだ行ったこともない土地に思いを巡らせているらしい。自分がその旅に同行するかどうかなど、今は考えていないのだろう。
それでも構わなかった。無理に隣へ居座るより、もっとよい方法があるかもしれない。
そう考えながら、ユウが調査を終えるのを待った。いずれにせよ、今夜には旅の話をすることになるだろう。そのとき、どう答えるかはすでに決めていた。
地下施設を出た後、ユウは街へ戻る道でも、遠方の大陸について何度か尋ねてきた。それに知っている範囲で答え、店先に置かれていた街道地図を使って、飛空船の発着する大きな交易の街までの道筋を教えてやった。
ユウは熱心に地図を眺めていた。行き先が決まったことで、これまで抱えていた不安も少しは和らいだらしい。
その様子を見ていると、自分も悪い気はしなかった。
しかし、その夜、宿の食堂でユウから一緒に来ないかと誘われたときには、さすがに少し驚いた。まさか、向こうから誘ってくるとは思わなかったのだ。
嬉しかった。できることなら、その場で頷いてしまいたかった。
ユウと一緒に旅をする。見知らぬ土地を歩き、くだらない話をして、夜になれば同じ宿で休む。何かあればユウは自分を頼り、また新しいものを見つければ、真っ先にこちらへ話しかけてくるのだろう。
それは随分と魅力的な話だった。
何より、ユウの方から一緒にいてほしいと言ってくれた。自分にとっては、それだけで十分に喜ぶ理由になった。
だが、すぐに承諾するわけにはいかなかった。
「わらわは行かぬぞ」
そう答えると、ユウは意外そうな顔をした。その表情を見て、トワは少しばかり愉快になった。どうやら、当然ついてくるものと思っていたらしい。
それほど一緒にいたいのなら、もう少し残念がってみせてもよかろうに。
そんなことを考えながら、この土地に残る理由を説明してやった。落界は止まったものの、古代設備にはまだ多くの異常が残されている。自分にも施設が動き始めてから不可解な変化が起きており、それを確かめる必要があった。
どちらも本当のことだった。それに、ユウが旅立つのであれば、なおさら調べておきたいことがある。施設の復旧以来、自分には遠くの設備の存在が微かに感じられるようになっていた。あの感覚をもっと詳しく調べれば、ユウが離れた場所へ行っても、その様子を知る手掛かりが得られるかもしれない。
今はまだ、何ができるかも分からない。それを確かめるためにも、しばらくここに留まる必要があった。
もちろん、そのことまでユウに話してやるつもりはない。ユウは説明を聞くと、残念そうにしながらも納得した。
だが強く引き留めようとはしなかった。少々不満だったが、今さら自分の言葉を取り消す気にもなれなかった。
それからユウは、これまで世話になったことへの礼を口にした。知らない世界で目覚めてから、ずっと自分を頼りにしていたのだという。その言葉は実に心地よいものだった。彼が初めて目を覚ましたときから、困ったことがあれば自分に尋ね、何かを見つければ自分に話しかけてきた。
あの時間を、ユウも大切に思っていたらしい。さらに、一緒にいられなくなるのは少し寂しいとまで言ってきた。
思わず、その顔をじっと見た。
少し、か。自分は今すぐにでも、明日の別れを取り消してやりたいというのに。
しかし、ここで喜びを表に出すのも面白くない。
「何を今さら言うておる。まだ明日の朝までおるじゃろう」
いつもの調子で答えると、ユウは少し笑った。その顔を見ていると、やはり一緒に行くと言い直したくなったが、どうにか思いとどまった。
「ならば、礼は受け取っておいてやろう」
そう言って話を終える。ユウは、自分の言葉が自分をどれほど喜ばせたのか、最後まで気づかなかった。
その夜、ユウは翌日の出発に備えて荷物をまとめていた。
その様子を眺め、ときおり口を挟んだ。食料と水は足りるのか。街道の途中には崩れた場所もある。暗くなる前に宿を探さねばならないし、何より男であることを不用意に知られてはならない。
ユウは何度も分かったと答えたが、念を押した。実際、心配なのだから仕方がない。ユウは、自分がどれほど他人の興味を引く存在なのか、まだ十分に理解していない。
旅先では、間違いなく多くの女と出会うだろう。親切な女もいれば、下心を持って近づく女もいるはずだ。ユウがその違いを見分けられるとは、とても思えなかった。
まったく、できることなら全員まとめて遠ざけてやりたいものじゃ。
もっとも、それではユウが旅を続けられなくなる。ならば、必要な者とは関わらせればよい。ただし、それ以上親しくなる必要はない。誰かがユウを気に入ったとしても、その女が別の場所へ行けば済む話ではないか。
そんなことを考えながら、荷物をまとめ終えたユウへもう一度だけフードを深く被るよう注意した。
翌朝、二人は街の外れまで歩いた。ユウは道標の前で足を止め、改めて礼を言った。一緒にいるのが当たり前になっていたから、少し変な感じがするらしい。
自分も同じだった。ほんの数日のこととはいえ、隣からあの男の声が聞こえなくなるのは、随分と退屈だろう。
しかし、そんなことを口にするつもりはない。
「……うむ。達者でな、ユウ」
ユウがこちらのことも心配するから鼻で笑ってやった。
「わらわの心配など百年早いわ」
いつもと変わらないやり取りだった。
ユウは笑って別れを告げ、街道を歩き始めた。その背中を黙って見送った。
しばらく進んだところで、ユウが振り返る。こちらへ向かって手を振っていた。
自分も小さく手を振り返した。それを見たユウは、安心したように前を向き、再び歩き始める。
その姿を目で追い続けた。追いかけたいという気持ちは、少しも薄れていなかった。
それでも、今はまだ追いかけない。ユウは自分の意思で旅立ったのだ。その選択を邪魔して、嫌われるような真似はしたくなかった。
ただ、ユウが誰と出会い、どのような関係を築くかまで、黙って見守ってやるつもりもない。自分が隣にいられないからといって、ほかの女にその場所を譲ってやる理由など、どこにもなかった。
ユウの姿が完全に見えなくなると、ようやく道標から離れた。もう一度だけ街道の先を眺め、それから街の方へ歩き始める。
ユウが向かうのは、飛空船の発着する交易の街だった。道中にはいくつか集落もある。あの調子では、目的地へ着くまでに何人もの女と知り合うことになるだろう。
それ自体は仕方がない。旅をする以上、誰とも関わらずに済ませることなどできないのだから。
ただ、ユウは少々人がよすぎる。親切にされれば礼を言い、困っている者を見れば手を貸そうとする。本人にとっては当たり前のことなのだろうが、この世界の女たちには、それだけで十分に好意を抱く理由になる。
街で菓子を渡してきた女を思い出した。
あの程度なら、まだよい。だが旅先で何日も行動を共にする相手が現れたらどうなるだろう。ユウはきっと、その女にも気安く話しかけるようになる。何かを助けてもらえば感謝し、別れるときには名残惜しそうな顔をするかもしれない。
昨夜、自分に向けたような顔を、ほかの女にも見せるのだろうか。
「……それは、ちと面白くないのう」
だからといって、今さら追いかけて旅をやめさせるつもりはない。ユウは、自分の意思で遠くへ行こうとしている。その選択を尊重してやりたいという気持ちは本物だった。ただし、ユウが誰かを好きになったとして、それを黙って祝福してやる義理はない。
街を抜け、昨日まで何度も通った東側の亀裂へ向かった。
崩れた斜面を下り、地下施設へ入る。ユウがいないため、通路の照明は以前ほど素直には点灯しなかった。それでも完全な暗闇ではない。先日の復旧以来、施設の奥から微かな光が漏れている。
慣れた足取りで中枢へ向かった。円形の台座には、まだ青白い光が残っていた。ユウが立てば、あの機械はすぐに反応するだろう。しかし自分が近づいても、人類管理者の認証が始まることはない。
もっとも、今の自分には別の変化が起きていた。施設の奥にある何かが、以前よりもはっきり感じられる。目を閉じてその感覚へ意識を向けた。すると、これまで曖昧だったものが、少しずつ形を持ち始めた。
この施設の状態。周辺に残された設備の反応。そして、遠くへ伸びながら途中で途切れている幾つものつながり。その大半は今も利用できない。だが、一部には応答があった。
「ふむ……なるほどのう」
しばらく、それらを確かめていた。ユウが施設を動かして以来、失われていたものの一部が使えるようになっているらしい。試せることは限られていたが、少なくともこれまでより多くの情報を得ることはできそうだった。
そして、一つ確かめたいことがあった。ユウの居場所である。彼は古代設備に近づくと特別な反応を引き起こす。最初に目覚めた施設でも、この地下施設でも同じだった。それならば、ほかの土地にある設備も、ユウが近づけば何らかの記録を残すのではないか。
トワはその可能性を調べ始めた。しばらくして、施設の表示に見覚えのある識別情報が現れた。
先日、この場所で認証されたユウの情報だった。その記録を手掛かりに、ほかの設備から同じ反応を検出した場合、自分にも分かるよう設定を試みる。
最初は応答がなかったが、別の経路を調べて利用できる範囲を絞り込んでから、もう一度試す。
やがて表示が変化した。
『識別対象――登録』
『観測設定――有効』
トワは満足そうに頷いた。これで、ユウが接続の生きている古代設備へ近づけば、その記録を知ることができるはずだった。もちろん、今すぐ彼の居場所が分かるわけではない。
設備のない場所や、つながりの失われた地域では反応を得られない。遠方の記録がいつ届くかも分からなかった。
それでも、何も手掛かりがないよりはずっとよい。
少なくとも、ユウが次の古代施設を見つけたとき、こちらにも分かる可能性ができたのだ。
「これで少しは安心できるかの」
ユウがこのことを知れば、何と言うだろう。
おそらく、勝手にそんなことをするなと文句を言うかもしれない。ならば教えなければよい。別に、ユウの旅を邪魔しているわけではないのだから。危険な場所へ行けば心配にもなるし、無事かどうか知りたいと思うのも当然ではないか。
まして、あの男は自分から危険へ首を突っ込むような性格である。むしろ、何もせず放っておく方が無責任というものだろう。
そう考えていた。もっとも、心配しているのは危険だけではない。今後ユウの前には、さまざまな女が現れるだろう。彼を気に入る者もいるはずだし、親しくなる者もいるかもしれない。その中には、ユウとずっと一緒にいたいと望む女も現れるだろう。
そうなったときは、少々困る。しかし、相手を無理やり傷つける必要はない。誰にでも、ユウ以外に大切なものくらいあるはずだ。家族や仕事、故郷や夢。長年積み上げてきた地位や、どうしても捨てられない責任もあるだろう。
それらを知り、適切なときに思い出させてやればよい。ユウと一緒にいることよりも、大切なものがあると気づけば、相手は自分から離れていく。それで済む話ではないか。無論、実際にどうするかは、相手を見てから考えればよい。
自分は、誰にでも事情があり、それぞれの意思で生きていることを知っていた。だからこそ、その意思を無理にねじ曲げようとは思わない。
本人が自分で選べばよいのだ。
その選択肢を、少しばかり整えてやるだけである。
もう一度、ユウの識別情報が登録された表示を確かめた。今ごろ街道を歩いているのだろう。自分がここで何をしているかなど、考えてもいないに違いない。
それでよかった。ユウには、これからも好きなように旅をしてほしい。新しい景色を見て、知らないものに驚き、困ったことがあれば誰かに助けてもらえばよい。そして、いつか自分のところへ帰ってくればよいのだ。
「好きなところへ行くがよい、ユウ」
誰もいない地下施設で、ひとり笑った。
「誰を頼ろうと、誰を好きになろうと、おぬしの自由じゃ」
その言葉に嘘はなかった。ユウが誰を好きになるかは、ユウ自身が決めることだった。ただ、その相手が最後までユウのそばにいられるかどうかは、また別の話である。
「おぬしから離れるのを、相手の方に選んでもらえばよいだけじゃからの」