五話
街の外れに立つ道標が見えなくなる頃には背後を振り返るのもやめていた。トワと別れてからまだ大して時間は経っていない。それなのに、道順を確かめようとするたびつい隣に話しかけそうになる。
「……自分で行くって決めたんだけどな」
小さく呟いて、肩にかけた荷物を背負い直した。
街道は緩やかな丘の向こうまで続いている。遠くには大小の浮遊島が見え、その間を飛空船らしい小さな影が移動していた。あれに乗れば遠くの大陸へ行けるはずだ。地下施設で見つけた微弱な応答を返す古代設備。あそこへ行けば、自分の過去について何か分かるかもしれない。
それから数日、俺は街道沿いの集落に泊まり、途中で商人の荷車にも乗せてもらいながら交易港を目指した。旅そのものは思ったより順調だったが、不便なことも多かった。特に男だと知られないように顔を隠し続けるのは面倒だった。フードを深く被り口元にも布を巻いているので食事のたびに周囲を気にしなければならない。暑くても簡単には脱げないし、宿でもなるべく人と顔を合わせないようにしていた。幸い正体を知られることなく旅を続けられた。
そして、ようやく交易港のある街に到着した。
「……すごいな、これ」
街の奥には巨大な飛空船が何隻も停泊していた。船体から大きな翼のような構造物を伸ばしたものや、何本もの帆柱を備えたものなど形も大きさもさまざまだ。桟橋では作業員たちが木箱や樽を運び込んで出航準備を進めている。
遠くから飛んでいる姿を見たことはあったが、近くで見ると想像以上の迫力だった。思わず見入ってしまったものの、いつまでも眺めているわけにはいかない。俺は港の案内板を探し、目的の大陸へ向かう航路を調べた。
どうやら途中の交易都市で乗り継ぐ必要があるらしい。それ自体は構わないが掲示されている運賃を見ると少し不安になってきた。
「……足りるかな、これ」
財布の中身を数えてみる。ここまでの旅費でかなり減ってしまったので、乗船できたとしてもその先の生活費が問題になりそうだ。
俺はフードの位置を確かめてから乗船受付へ向かった。建物の前には数人の旅行者が並んでおり、制服姿の女性が順番に対応している。しばらく待っているとようやく俺の番になった。
「次の方、どうぞ」
俺は窓口へ近づき、南方の大陸へ行きたいことを伝えた。
「南方の大陸ですね。でしたら、途中の交易都市で乗り継いでいただくことになります」
受付の女性は壁に掛かった航路図を指しながら説明してくれた。目的地までの道筋はどうにかなりそうだが、問題は運賃だった。途中の交易都市までなら手持ちの金で払えるものの、そこから先の運賃までは到底足りない。
「とりあえず、交易都市までの船に乗りたいんですけど」
「かしこまりました。明日の朝に出航する便がございます。お部屋は相部屋と個室、どちらになさいますか?」
「個室だと、どれくらい違います?」
教えてもらった金額を聞いて思わず顔をしかめた。個室を選ぶとそれだけで残金がほとんどなくなってしまう。
「……相部屋にしようかな」
「でしたら、こちらの料金になります。今ならまだ空きがございますよ」
安い方なら多少の金を残せそうだったが、見知らぬ女性たちと同じ部屋で寝泊まりしたら問題を起こすかもしれない。顔を隠したままずっと過ごせるとは思えない。
「あの、ちょっと相談したいことがあるんですけど」
「はい、何でしょう?」
「できれば、ほかの人に聞こえないところで……」
女性は不思議そうに首を傾げたが、窓口の奥にある小部屋へ案内してくれた。扉が閉まったところで俺はフードと口元の布を外した。
「……え?」
女性が固まった。
「あの、お客様……男性の方、ですか?」
「はい」
「えっ、本当に?」
「本当です」
何度も確認されても答えは変わらない。女性はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて慌てたように姿勢を正した。
「し、失礼いたしました!男性の方でしたら、やはり個室をご用意した方が……」
「ですよね。でも、ちょっと予算が厳しくて」
「そうでしたか。ご同行の方とお部屋を分ける方法もございますが……」
「一人で来たんです」
「……お一人?」
「はい」
女性は再び動きを止めた。
「どちらからいらしたんですか?」
「ここから何日か離れた街です」
「それを、お一人で?」
「途中で荷車には乗せてもらいましたけど、基本的には一人ですね」
女性は信じられないという顔をしていたが、それ以上は追及してこなかった。
「少々お待ちください。ほかの船も含めて、個室の空きがないか確認してまいります」
「ありがとうございます」
女性が部屋を出ていく。
どうやら乗船そのものは問題なさそうだ。あとは金額さえ何とかなればいいのだが。そんなことを考えていると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。
「だから、その書類は昨日渡しただろ。もう一回確認しとけって」
「すみません、船長。今、少しお客様のご相談がありまして……」
「相談?何だよ」
「実は、男性の方がお一人で旅行されるそうで。個室をお探しなんですが……」
「……男が一人で?」
扉から入ってきたのは背の高い女性だった。日に焼けた肌と引き締まった体つきをしており、動きやすそうな上着を羽織っている。腰のベルトには小さな道具袋がいくつも取り付けられていた。
女性は俺を見ると、一瞬だけ足を止めた。
「……お前が、その男か。一人旅ってのは本当か?」
「はい。そうですけど」
「……へえ」
女性は再び俺を見た。
「お前、どこから来た?」
「ここから何日か離れた街です」
「途中は誰と一緒だった?」
「自分一人です」
女性はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……馬鹿か、お前は」
「いや、普通に旅してきただけなんですけど」
「普通じゃねえよ!お前、誰かに攫われたらどうするつもりだったんだ?」
「逃げますけど」
「逃げ切れるわけねえだろ!」
「そんなに弱そうに見えます?」
「どう見てもな!」
確かにこの世界の女性は俺よりずっと力が強い。だからといって、会ったばかりの相手にここまで断言されると少し傷つく。女性は俺の反応を見て、何がおかしいのか小さく笑った。
「ったく、妙な男だな。私はレオナ。この港に停めてる飛空船の船長だ」
「あ、どうも。ユウです」
「ユウ、ね。で、お前は一体どこへ行くつもりなんだ?」
「南方の大陸です。調べたいことがあって」
「南方?ずいぶん遠くまで行くんだな」
レオナは少し考えるような顔をした。
「何を調べるんだ?」
「自分の過去についてです。記憶がなくて、手掛かりを探してるんです」
俺が事情を説明すると、レオナはさっきまでとは違って真剣な顔で話を聞いてくれた。
「なるほどな。だからって一人で行く必要はねえだろうに」
「でも、自分のことですから」
「……そうか」
彼女は俺の顔を見つめたまま少しの間黙っていた。やがて何かを思いついたように受付の女性へ尋ねる。
「そういや、こいつは個室を探してるんだったな?」
「はい。ただ、ご予算が少し……」
「だったら、うちに空きがあるぞ。うちの船も明日の朝、南方の交易都市へ向かうんだ。客室が一つ空いてるからそこを使えばいい」
「本当ですか?でも、料金は……」
「まあ、まずは財布と相談だな。無理に高い部屋を使わせるつもりはねえよ」
レオナはそう言って、俺の隣の椅子を引いた。
「それに、まだ聞きたいこともあるしな」
「聞きたいこと?」
「ああ。お前みたいな妙な男、そうそう会えるもんじゃねえからな」
何だか珍しい動物でも見つけたような言い方だった。それでも彼女の船に乗れれば目的地へ一歩近づける。
「ありがとうございます、レオナ船長」
礼を言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
「……おう。まあ、まだ決まったわけじゃねえけどな」
そう答えたレオナはなぜか少し嬉しそうだった。
「さて、まずは部屋と運賃の話だな」
レオナ船長は椅子に腰を下ろすと腰の道具袋から折り畳んだ紙を取り出した。船内の見取り図らしい。
「うちは貨物が中心の船でな。客も乗せるが、旅客船ほど設備は整ってねえ。その代わり運賃は安い」
「それは助かります」
「食事は出せるが、部屋も狭い。それでもいいか?」
「全然大丈夫です」
「少しは考えろって」
船長は呆れたように笑い、図面の端にある小さな部屋を指した。
「ここが空いてる。もともと予備の船員室だから寝台くらいしかねえが、鍵はかかるし一人で使えるぞ」
「それで、いくらですか?」
レオナ船長が告げた金額は、先ほど受付で聞いた相部屋の運賃とほとんど変わらなかった。
「えっ、そんなに安いんですか?」
「船員室をそのまま貸すんだからな。客室みたいなサービスは期待するなよ」
「いや、それで十分です。むしろ安すぎるくらいで」
「だったら決まりだな」
彼女は満足そうに頷いた。俺は財布を取り出して硬貨を数えて机に並べる。運賃を払っても少しは金が残る計算だった。レオナ船長はその様子を眺めていたが、やがて眉をひそめた。
「……お前、金はそれで全部か?」
「はい。今のところは」
「今のところって、向こうに着いたらどうするつもりなんだ?」
「仕事でも探そうかと。何かできることがあると思うんですよね」
船長は額に手を当てた。
「お前なあ……男が一人で知らない土地へ行って、仕事を探すってか?どこまで世間知らずなんだよ」
「案外何とかなるものですよ。ここまでもそうでしたし」
「それは単に運がよかっただけだろ」
「まあ、それは否定できませんけど」
レオナ船長は大きく息を吐いた。
「……放っといたら、どこまで行けるかな、お前は」
「とりあえず、行けるところまでは」
「ったく。そういうことを聞いてるんじゃねえよ」
そう言いながらも彼女はどこか楽しそうだった。話がまとまったところでレオナ船長は受付の女性を呼んで必要な乗船手続きを済ませてくれた。その間も受付の女性は何度か俺へ視線を向けていたが、レオナ船長に急かされると慌てて仕事へ戻った。
「よし、これで明日の朝には乗れるぞ」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「別に大したことはしてねえよ。空いてる部屋を貸すだけだ」
レオナ船長はそう答えてから少し真面目な顔になった。
「ただし、乗るなら守ってもらうことがある。船の中では私の指示に従え。特に甲板や機関室は危険な場所も多い。勝手にうろつくなよ」
「分かりました」
「それと、ほかの乗客に男だと知られたら面倒なことになるかもしれねえ。船内でもしばらくは顔を隠しとけ」
「やっぱり、そうなりますよね」
「嫌なら無理にとは言わねえが、騒ぎになったときに困るのはお前だぞ」
「いえ、その辺りは慣れてますから」
「慣れるほど一人で歩き回ってんじゃねえよ……」
船長は再び呆れたように首を振った。
「まあ、何か困ったことがあれば私に言え。船の中のことなら大抵は何とかなる」
「頼りになりますね」
「当たり前だろ。これでも船長だからな」
自信満々に答える姿が妙に様になっていて、思わず笑ってしまった。
「何だよ?」
「いや、格好いいなと思って」
「……は?」
レオナ船長が一瞬固まった。
「船のことも詳しいし、さっきから色々助けてもらってますし。頼れる人なんだなって」
「お、おう。まあな……」
なぜか急に歯切れが悪くなった。俺が首を傾げていると、彼女は咳払いをして立ち上がった。
「とにかく、明日の朝は三番桟橋に来い。出航前は忙しいから遅れるなよ」
「三番ですね。分かりました」
「あと、今夜はちゃんと休んどけ。船に慣れてねえなら最初は酔うかもしれねえからな」
「はい。色々ありがとうございます」
レオナ船長は軽く手を振り部屋を出ていこうとしたが、扉のところで足を止める。
「……なあ、ユウ」
「はい?」
「本当に、南方へ行けば何か分かると思ってんのか?」
「分かりません。でも、調べてみないことには何も始まらないですから」
「……そうか」
彼女は少しだけ俺を見つめていたが、やがて笑った。
「ま、明日からよろしく頼むぜ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って見送ると、レオナ船長は今度こそ部屋を出ていった。
ようやく飛空船に乗れることになった。予定外の出会いだったが、あの船長に会えたのは幸運だったと思う。少々口は悪いものの、面倒見もいいし話していて退屈しない。あとは無事に目的の大陸へ近づければ言うことなしだ。俺は乗船票を大事にしまうと、今夜泊まる宿を探すために受付を後にした。
翌朝、俺は約束の時間より少し早く三番桟橋へ向かった。そこには昨日よりも多くの荷車が集まっていた。作業員たちが木箱や樽を運び、船員らしい女性が積荷の数を確認している。その先に停泊しているのがレオナ船長の飛空船らしい。近くで見るとなかなか立派な船だった。船体は木と金属を組み合わせた造りで、左右には翼のような構造物が伸びている。船底からは低い機械音が響いており、時折船全体が小さく振動していた。
「おう、ユウ!ちゃんと来たな!」
声がした方を見ると甲板からレオナ船長が手を振っていた。
「おはようございます。まだ早かったですか?」
「いや、ちょうどいい。そこの船員に乗船票を見せて上がってこい」
指示された女性に乗船票を渡すと、彼女は俺の名前を確認して頷いた。
「ユウ様ですね。船長から伺っています。どうぞこちらへ」
「あ、ありがとうございます」
案内されて船に乗り込むと、甲板の向こうには何もない空が広がっていた。港の建物から眺めるのとは違い、自分の立っている場所が空中へ突き出しているのだと思うと少し落ち着かない。
「どうした?怖いのか?」
近づいてきたレオナ船長が笑いながら尋ねてくる。
「そりゃ多少は。これ、落ちたらどうなるんですか?」
「死ぬだろうな。だから勝手に手すりを越えるなよ」
「越えませんよ!」
そんなことをするつもりはない。レオナ船長は笑いながら俺の荷物を受け取り船内へ案内してくれた。甲板の下には細い通路が伸びており、その両側にいくつもの扉が並んでいる。
「ここがお前の部屋だ」
案内された部屋には寝台と小さな机が置かれていた。確かに広くはないが一人で使うには十分だ。
「いいですね。思ってたよりずっと快適そうです」
「そうか?狭くて悪いと思ってたんだが」
「いえ、十分ですよ。個室があるだけでもありがたいです」
「……そうか」
船長は少し嬉しそうに笑った。
荷物を置いてから船内を案内してもらうことになった。船内を回っている途中で大きな機械音が聞こえてきたので俺は足を止めた。
「今の音、何ですか?」
「浮遊機関だよ。船を空に浮かせるための装置だ。推進機関とは別になってる」
「へえ。じゃあ、止まったら落ちるんですか?」
「すぐには落ちねえよ。予備の系統もあるしな。詳しく知りたいなら今度機関士に聞いてみろ」
「面白そうですね」
「……お前、本当に船に興味があるんだな」
「そりゃそうですよ。こんな大きなものが空を飛ぶんですから」
レオナ船長は俺の顔を見て、楽しそうに笑った。
「なら、出航するときは甲板から見てくか?」
「いいんですか?」
「ああ。私が一緒なら問題ねえよ」
しばらくして出航を知らせる鐘が鳴った。船員たちが桟橋との間に渡した通路を引き上げ、船を固定していた綱を外していく。やがて足元から低い振動が伝わり、船体がゆっくりと動き始めた。
「おお……!」
桟橋が少しずつ遠ざかり飛空船は港の外へ滑り出した。眼下に広がっていた街の建物が小さくなり、遠くに浮かぶ島々が次第にはっきりと見えてくる。
雲海の上を飛ぶというのはこんな感覚なのか。思わず手すりに近づくと、隣からレオナ船長の手が伸びてきて俺の肩を軽く掴んだ。
「おっと、そこまでだ。あんまり端に寄るなよ」
「あ、すみません」
「ったく、目を離せねえな」
そう言いながらも船長は俺の隣を離れなかった。
「どうだ、初めての飛空船は?」
「最高ですね!こんな景色、見たことないです」
振り向いて答えると、レオナ船長はなぜかこちらをじっと見ていた。
「……船長?」
「ん?ああ、そうか。そりゃよかった」
彼女は慌てたように視線を外し、前方の空へ目を向けた。
「まだまだ面白い景色が見られるぜ。楽しみにしてな」
「はい!」
俺は再び遠くの景色を眺めた。飛空船は少しずつ高度を上げ、南方の大陸へ向けて進んでいく。ようやく本格的な旅が始まったのだと思うと自然と胸が高鳴った。
飛空船が港を離れてからレオナは操舵室へ戻っていた。
前方の窓には青空が広がり、遠くには大小の浮遊島が点在している。船は予定どおりの高度を保ちながら南方へ向かっていた。
「船長、浮遊機関は正常です。推進機関にも異常ありません」
「よし。次の航路標識を越えたら少し速度を上げろ。風向きには気をつけろよ」
「了解です!」
操舵室には数人の船員が詰めており、それぞれが計器の確認や航路の監視を行っていた。レオナは報告を聞きながら航路図に目を通し、予定していた経路に問題がないことを確かめる。いつもどおりの出航だった。積荷に問題はなく天候も悪くない。船員たちの動きも慣れたもので特に心配するようなことは何もなかった。ただ一つ、普段と違うことがある。
「……あいつ、ちゃんと部屋に戻ったかな」
航路図を眺めていたレオナは、ふと口に出していた。
「誰のことです?」
隣にいた副長が顔を上げる。
「ああ、いや。今朝乗せた客だよ。初めての飛空船だって言ってたからな。船酔いでもしてねえかと思って」
「でしたら、誰かに様子を見に行かせます?」
「いや、そこまでしなくても……」
そう答えかけて、レオナは少し考えた。
「……あとで私が見てくる」
副長が不思議そうな顔をした。
「船長がですか?」
「何だよ。悪いか?」
「いえ、珍しいなと思いまして。普段ならそういうのは客室担当に任せるでしょう?」
「初めて乗る客なんだから、多少は気にかけてやらねえとな」
心配だからと言って船長がいちいち世話を焼く必要はない。普段なら客室担当に任せている仕事だ。それでも自分で様子を見に行こうとしている。
出航のとき、ユウは空に広がる景色を見て子供のように喜んでいた。飛空船に乗り慣れているレオナにとっては見慣れた光景だったが、あれほど嬉しそうにされると案内した甲斐もあるというものだ。それにしても妙な男だった。一人で何日も旅をしてきたというだけでも驚きなのに、知らない土地で仕事を探すつもりだと言い出す。普通なら誰かに頼ることを考えそうなものだが、ユウにはその発想がないらしい。
レオナは航路図を畳み、副長へ声をかけた。
「ちょっと客室を見てくる。何かあったら呼べ」
操舵室を出ようとしたところで通信担当の船員が声を上げた。
「船長!救難信号を受信しました!」
レオナは足を止めた。
「発信元は?」
「ここから西方の空域です。小型飛空船からの信号と思われます!」
「状況は?」
「まだ詳細は不明です。繰り返し救助を求めています!」
レオナはすぐに通信卓へ向かった。
「現在位置を割り出せ。通信をつないで、船の状態と乗員数を確認しろ。副長、周辺の気流情報を持ってこい」
「了解!」
船員たちが一斉に動き始める。
レオナは通信担当から渡された位置情報を航路図に書き込んだ。通常航路から大きく外れた場所ではない。この距離なら状況次第では救助に向かえる。
「船長、先方から応答がありました!機関に故障が発生して、近くの浮遊島へ不時着したそうです!」
「分かった。島の位置と周辺の風を確認する。まだ針路は変えるなよ」
さっきまで気にしていたユウのことはひとまず頭の隅へ追いやった。救難信号が届いた以上、まずは船長として判断しなければならない。レオナは窓の向こうに広がる空を見据え、船員たちからの報告を待った。
船室に戻ってしばらくすると、足元から伝わってくる振動の調子が変わった。それまで一定だった機械音が少し低くなり船体が緩やかに傾く。窓の外を見ると、遠くに見えていた浮遊島がゆっくりと横へ流れていた。
「……曲がってる?」
目的地へ向かう途中なのだから進路を変えることくらいあるのだろう。そんなことを考えていると、扉が叩かれた。
「ユウ、いるか?」
入ってきたのはレオナ船長だった。
「船酔いしてねえか?」
「大丈夫です。ちょうど船が曲がった気がしたんですけど、何かあったんですか?」
「ああ。ちょっと予定が変わった。近くで飛空船が遭難したらしい。機関が故障して浮遊島に不時着したそうだ。救難信号が届いたからこれから様子を見に行く」
「助けに行くんですね」
「助けられる状況ならな。現場を見なきゃ分からねえこともある」
レオナ船長は壁に掛けられた小さな航路図を指し、遭難地点のおおよその位置を教えてくれた。目的地へ向かう航路からそれほど離れていないが、周囲には小さな浮遊島がいくつもあって場所によって風向きが複雑に変わるらしい。
「船長、救助ってどうやるんですか?この船を島に着けるんですか?」
「いや、うちの船は大きすぎる。無理に近づけたら船体をぶつけちまうからな。安全な場所で待機して小型の救助艇を出すつもりだ」
「なるほど。船にも小さい船が載ってるんですね」
「貨物の積み替えにも使うからな。まあ、詳しいことは現場に着いてからだ」
レオナ船長はそう言って図を畳んだ。
「しばらく慌ただしくなるが、お前は部屋で休んでてくれ。何かあれば知らせる」
「分かりました。気をつけてくださいね」
「……おう。ありがとな」
彼女は少し笑ってから、部屋を出ていった。
それから一時間ほどして船内に短い鐘の音が響いた。窓から外を眺めると進行方向に大きな浮遊島が見えている。島の上には草地と岩場が広がり、その端に小さな飛空船が斜めに停まっていた。
どうやら遭難船を発見したらしい。俺はフードと口元の布を整えて船内の通路へ出た。ちょうど通りかかった船員に状況を尋ねると救助の準備をしているところだと教えてくれた。
「乗客の方はできればお部屋でお待ちください。救助された方を運ぶので通路が混雑するかもしれません」
「分かりました。皆さん無事だといいですね」
「ええ。本当に」
船員は頷き、足早に立ち去った。
俺は部屋へ戻りかけたが、ちょうど向こうからレオナ船長が歩いてきた。
「おう、ユウ。外に出てたのか」
「はい。遭難した船が見えたので、ちょっと気になって」
「見つかったのはよかったんだが、船体が岩場に引っ掛かってる。あれじゃ修理して飛ばすのは難しそうだな」
「乗ってた人たちは?」
「全員島に避難できてるそうだ。十四人いる。うち二人は怪我をしてるが命に別状はねえらしい。ただあの場所は風が強くてな。天候が変わる前に移した方がいい」
船長によると、島の風下側には比較的穏やかな空域があり、そこから救助艇を往復させることになったらしい。遭難船とも連絡が取れており、乗客たちは指定された場所へ集まっているという。
「こっちの船には全員乗れるんですか?」
「余裕はある。救助艇で何度か往復すりゃ運べる人数だ。ただし風が強くなりすぎたら、一度作業を止める。無理して救助艇まで落としたら意味がねえからな」
レオナ船長は当然のように説明した。助けに行くと聞いたときはもっと慌ただしく現場へ突っ込んでいくようなものを想像していたが、実際には随分と慎重に準備を進めているようだった。
「船長、やっぱり慣れてるんですね。もっと勢いで何とかするものかと思ってました」
「お前、私を何だと思ってんだ?」
「豪快な人だなとは」
「それと無計画なのは別だろ!」
もっともな話だった。レオナ船長は呆れたように笑ったあと、俺の顔を見た。
「それで、お前は何か言いたそうだな」
「もし人手が足りないなら、俺にも何か手伝えませんか?」
船長は即座に首を振った。
「駄目だ。救助艇に乗せるわけにはいかねえし、甲板にも出すつもりはねえぞ」
「いや、そんな危ない仕事じゃなくても。救助された人の案内とか水を配るとか」
「……そういうことか」
レオナ船長は少し考え込んだ。
「確かに、受け入れ側も人手が必要になるな」
「だったら、俺にもできそうじゃないですか?」
「まあ、そうだが……」
まだ迷っている様子だったが、やがて彼女は折れたように息を吐いた。
「分かった。避難者の受け入れを手伝ってくれ。ただし船員の指示に従えよ。勝手に甲板へ出るのは禁止だ」
「はい。ありがとうございます」
「それと、フードはちゃんと被っとけ。ほかの船員にはお前のことを普通の乗客として話してあるんだからな」
「分かってますって」
レオナ船長は俺を近くの広い部屋へ案内した。普段は乗客の休憩所として使われているらしいが、今は長椅子が壁際に寄せられて中央に空間が作られている。
そこでは数人の船員が毛布や水を準備していた。
「この客にも受け入れを手伝ってもらう。名簿の確認や案内を頼んでくれ」
「了解です。よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
担当の女性は俺に紙と筆記具を渡し、これから運ばれてくる人の名前を記録するよう説明してくれた。怪我人は優先して医務担当へ引き継ぎ、それ以外の人には水と休憩場所を案内する。難しい仕事ではなさそうだ。準備を終える頃、船内に再び鐘の音が響いた。
「救助艇、出発しました!」
近くの船員が声を上げる。
窓の外を見ると、母船の脇から小さな艇が離れて浮遊島へ向かっていくところだった。その先には不時着した船と救助を待つ人々の姿が見える。俺は受け取った名簿を机に広げて最初の救助艇が戻ってくるのを待った。
最初の救助艇が戻ってきたのはそれから二十分ほど経った頃だった。搬入口の方から船員たちの声が聞こえ、間もなく毛布を肩にかけた女性たちが案内されてきた。皆疲れた顔をしていたが自分の足で歩けているようだった。
「こちらへどうぞ。お名前を教えていただけますか?」
俺は一人ずつ名前を聞いて名簿に記入し、用意されていた長椅子へ案内した。別の船員が水を配り、体調の悪い人がいないか確認している。
救助艇は島と母船の間を往復した。二度目の便では負傷者が運ばれてきたが、待機していた医務担当の女性たちがすぐに引き継いでいった。俺は名簿に印をつけながらまだ救助されていない人数を確認する。
「あと五人ですね」
「ええ。次の便で全員乗せられる予定です」
隣で作業していた船員が答えた。どうやら作業は順調らしい。窓の外では救助艇が再び島へ向かっており、遠くの空には薄い雲が広がり始めていた。しばらくすると船内の伝声管からレオナ船長の声が響いた。
『風が変わり始めてる。最後の艇が戻ったらすぐに収容しろ。次の風が来る前にこの空域を離れるぞ』
「了解しました!」
船員たちが返事をして搬入口へ向かった。俺も机の上を片づけて最後の人たちを迎える準備をする。やがて救助艇が帰ってきた。窓から見る限り五人とも無事に乗っているらしい。
「よかった。これで全員ですね」
「そうですね。あとは艇を収容すれば終わりです」
担当の女性が笑った。
ところが救助艇が母船へ近づくにつれ、少しずつ船体の揺れが大きくなってきた。
母船自体はそれほど傾いていないが、救助艇の方が風に煽られて上下している。接舷用の小さな足場との間隔も一定ではなく、船員たちは慎重に艇を固定していた。先に乗客を移して最後に救助艇の船員を戻す手順らしい。俺は運ばれてきた人たちの名前を確認して休憩所へ案内した。最後の一人が席に着いたところで人数を数え直す。
「……十四人。全員いますね」
名簿にも漏れはなかった。俺が担当の女性へ報告しようとしたとき、搬入口の方から大きな声が聞こえた。
「待て!まだ外すな!」
続いて金属同士がぶつかる激しい音が響いた。搬入口へ続く扉が開いており、その向こうで船員たちが慌ただしく動いている。どうやら救助艇を固定している最中に強い風が吹いたらしい。
救助された人たちは無事に船内へ入っているが、問題は救助艇の方だった。
「艇が流されるぞ!固定索を締めろ!」
「了解!」
船員たちの声に混じって、短い悲鳴が聞こえた。
入口から様子を窺うと、救助艇と母船をつなぐ足場の端に一人の女性船員がぶら下がっていた。どうやら足場へ移ろうとしたところで救助艇が大きく揺れ、足を滑らせたらしい。腰には安全索がついているようだったがその先の金具が外れていた。女性は片手で足場の縁を掴み、もう片方の手を伸ばしている。
「手を離すな!今引き上げる!」
近くの船員が駆け寄る。
しかし、足場は救助艇の揺れに合わせて大きく動いており、簡単には近づけない。母船側の船員が索を投げようとしているが女性のいる位置までは届いていなかった。
俺は周囲を見回した。すぐそばの壁には予備の索が何本か掛けられている。救助作業に使うために準備されていたものだろう。その一本を手に取り、搬入口の方へ向かった。
「ちょっと、どこへ行くんですか!」
背後から担当の船員が声をかけてきた。
「索を渡してきます!」
「危ないです!こちらで対応しますから!」
その言葉はもっともだった。しかし、目の前では女性の指が足場の縁から滑りかけている。船員たちも必死に動いていたが俺のいる位置の方が彼女に近かった。俺は搬入口を出て足場の手前にある固定柱へ近づいた。ここからなら索を投げられそうだ。
「これ掴めますか!」
声をかけると、女性がこちらを見た。
「な、投げて!」
俺は索の端を投げた。一度目は風に流されて届かなかったが、すぐに引き戻してもう一度投げると、今度は女性の伸ばした手が索を掴んだ。
「掴んだ!」
「ちょっと待ってください!今固定します!」
反対側の端を近くの固定柱へ回し、何重かに巻きつける。
女性一人を引き上げるだけの力は俺にはない。それでも索を固定しておけば少なくとも彼女が落ちるのを防ぐ助けにはなるはずだ。
「索を取ったぞ!こっちへ回せ!」
船員たちが駆け寄ってくる。俺が端を渡そうとしたその瞬間、救助艇が突然大きく横へ流されて女性の身体が足場から離れた。索が一気に引っ張られ、固定柱へ巻きつけていた部分が強く張る。
「うわっ!」
俺は反射的に索から手を離したが、勢いで肩を柱へ打ちつけた。かなり痛んだが、索は固定柱に巻きついたままで女性も落下せずに済んでいた。
「よし、引くぞ!」
駆けつけた船員たちが索を掴み、二人がかりで女性を引き寄せる。別の船員が足場から身を乗り出し、ようやく彼女の腕を掴んだ。そのまま一気に引き上げられた女性は足場の上へ倒れ込んだ。
「大丈夫か!」
「だ、大丈夫……。ありがとう……」
女性は荒い息をしながら答えた。どうやら無事らしい。俺は安心して息を吐いたところで、自分の肩がずきずきと痛んでいることに気づいた。
「……あー、結構強くぶつけたな」
動かせないほどではないが、あとで冷やした方がよさそうだ。そんなことを考えていると後ろから聞き覚えのある怒鳴り声が響いた。
「ユウ!」
振り向くと、レオナ船長が足早にこちらへ向かってきていた。彼女は俺の姿を見るなり険しい顔になった。
「お前、何してんだ!」
「いや、あの人が落ちそうだったので……」
「そんなことは見りゃ分かる!何でお前がここにいるんだ!」
確かに、甲板には出るなと言われていた。
「すみません。でも、すぐそこに索があったので、何とかなるかなって」
「何とかなるかな、じゃねえよ!」
レオナ船長は俺の腕を掴んだ。
「怪我は?」
「肩をちょっとぶつけましたけど、大丈夫です」
「どっちだ?」
右肩を示すと、彼女は俺の上着を確かめて慎重に腕を動かすよう指示した。
「もっとちゃんと見せろ」
「いや、本当に大したことないですって」
「お前の大丈夫は信用できねえんだよ!」
かなり怒っている。それでも、さっきまでとは違って声が少し震えているような気がした。
「船長、こちらの方が索を渡してくれたおかげで助かりました」
救助された女性が近づいてきた。
「あのままだったら、手が離れていたと思います。本当にありがとうございました」
「いえ、間に合ってよかったです」
俺が答えると、レオナ船長はさらに眉間に皺を寄せた。
「礼を言うのはあとだ。お前も怪我がないか確認してこい。それと、救助艇の固定は副長に任せろ!」
「は、はい!」
船員たちが慌てて動き出す。
レオナ船長は俺の腕を掴んだままだった。
「あの、船長?」
「何だ」
「もう大丈夫ですよ。助かったみたいですし」
「……分かってる」
彼女はそう答えたものの、しばらく手を離そうとしなかった。やがて大きく息を吐くと、ようやく俺の腕から手を離した。
「あとで話がある」
「……はい」
どうやら、また説教されるらしい。俺は肩をさすりながら船内へ戻った。背後ではレオナ船長が救助艇の収容を指示していた。先ほどまでとは違い、その声はいつもの落ち着きを取り戻している。
ユウを船内へ戻らせたあと、レオナは救助艇の収容が完了するまで甲板に残っていた。
「船長、救助艇の固定が終わりました。乗員も全員戻っています」
「よし。遭難者は十四人で間違いないな?」
「はい。名簿との照合も済んでいます」
「さっさとここを離れるぞ。風が強くなる前に安全な空域まで移動しろ」
指示を受けた船員たちがそれぞれの持ち場へ戻っていく。レオナも操舵室へ向かい、航路の修正と船体の点検を命じた。救助作業は成功した。予想外の突風で一人が落下しかけたものの、幸い大きな怪我人は出ていない。遭難者も全員収容できているからあとは近くの港へ運べばいい。そう確認してレオナはようやく肩の力を抜いた。
だが、先ほどの光景が頭から離れなかった。搬入口へ駆けつけたとき、ユウは甲板の固定柱のそばに立っていた。すでに船員は引き上げられていたが、その直前までユウ自身も危険な場所にいたという。
もし、もう一度強い風が吹いていたら。固定柱から索が外れていたら。ユウが足を滑らせていたら。考えるだけで胸が嫌な具合に締めつけられる。
「……ったく、何考えてんだよ」
レオナは小さく呟いた。
「船長?」
隣で報告書を書いていた副長が顔を上げる。
「ああ、いや。さっきの救助艇の事故だ。安全索の金具が外れたって話だったな?」
「はい。現在、原因を確認させています。救助艇の方も点検します」
「頼んだ。次から同じことが起きねえようにしないとな」
副長は頷いて手元の書類へ視線を戻した。
「それにしても、あのお客さんは大したものですね。落ちかけた船員に索を渡してくれたそうじゃないですか。あの状況でよく動けたものです」
レオナは腕を組んだ。
「無茶なことをしやがったんだよ。こっちは危険な場所に近づくなって言ってあったのに」
「まあ、そうですけど。助けられた本人は随分感謝していましたよ」
「分かってる」
ユウの行動が役に立ったことは間違いなかった。あの場所から索を渡していなければ、船員を引き上げるのはもっと難しくなっていただろう。しかしそれとユウが危険な場所へ出たことは別の話だ。あいつは男なのだ。船員たちはそのことを知らない。自分たちと同じくらいの力を持った乗客が、勇敢にも仲間を助けてくれたと思っている。もし本当のことを知ったら、今のように感心しているだけでは済まないだろう。
「船長、あのお客さん肩をぶつけたんですよね?」
「ああ。本人は大丈夫だって言ってたがな」
「何ともないといいですね」
「……私がこれから確認してくる」
そう答えて立ち上がると、副長が少し笑った。
「本当に気に入ってるんですね」
「そういうんじゃねえって!」
言い返してから、レオナは自分でも少し不思議になった。出会ったのは昨日だ。それなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
ユウは変わった男だった。自分の荷物を運び、旅費を払うために働こうとし、初めて見た飛空船に目を輝かせる。自分よりずっと力の強い女を助けようとして怪我までした。男が女を助けるなどレオナがこれまで生きてきた中で聞いたことがない。そんな相手を放っておけるはずがなかった。レオナは冷却用の布と水を用意し、ユウの客室へ向かった。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「ユウ、私だ。入るぞ」
部屋へ入ると、ユウは寝台に腰を下ろしていた。レオナの姿を見るなり、少し気まずそうな顔をする。
「……船長。さっきはすみませんでした」
「説教はあとだ。まず肩を見せろ」
「いや、本当に大したことないですよ」
「それは見てから決める」
レオナは扉を閉め、ユウの隣へ腰を下ろした。
「右肩だったな。上着を少しずらせるか?」
「はい」
ユウが上着の襟元を緩めると、首筋から鎖骨、そして右肩にかけての肌が露わになった。
レオナは思わず息を止めた。自分や船員たちとは明らかに違う身体つき。衣服に隠れていた肌は思っていた以上に綺麗で、肩から首筋へ続く線に目を奪われてしまう。怪我を確認するために脱いでもらったのに、肝心の患部を見るまでに少し時間がかかった。
「……船長?」
「っ、ああ。悪い」
慌てて視線を肩の外側へ移す。そこは赤くなり、うっすらと腫れていた。
「……結構強くぶつけてるじゃねえか」
「見た目ほど痛くないですよ」
「腕は上がるか?」
ユウがゆっくり腕を動かす。多少痛そうにはしているものの、動かすこと自体はできるようだった。
レオナは腫れの周囲へそっと指を添えた。すると、ユウの肌の温かさが指先に伝わってくる。その瞬間、抱き寄せたいという衝動が湧き上がり、レオナは自分でも驚いた。ただ怪我を心配しているだけではない。もっと近くで触れていたい。そんなことを考えている自分がいる。男を見たことぐらいはある。だが、ここまで強く身体を意識したことはなかった。
(……おいおい。私は何考えてんだ)
目の前のユウは怪我をしているのだ。こんなときに妙なことを考えている場合ではない。
「船長、どうかしました?」
「な、何でもねえよ。ちょっと腫れてるから、冷やしといた方がいいな」
レオナは持ってきた布を冷たい水に浸した。ひとまず冷やして安静にさせることにしたが、痛みが強くなったり動かしにくくなったりするなら、改めて医療者に診せる必要がある。
「ほら、これ当てとけ」
布をユウの肩へ当てると、彼は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「……ったく。自分の心配もしろよな」
ユウは困ったように笑った。
その顔を見ると、レオナはまた胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。怪我をしたと聞いたときは、ただ無事でいてほしいと思っていたはずだ。それなのに、こうして隣に座っていると、できればもっと長く一緒にいたいと思ってしまう。ユウはこれからも旅を続けると言っていた。知らない土地へ行き、仕事を探し、何か手掛かりがあれば危険な場所にでも足を運ぶのだろう。今日のようなことが、また起きるかもしれない。
「……本当に、目の離せねえ奴だ」
「え?何か言いました?」
「何でもねえよ」
レオナはそう答え、ユウの肩から布がずれないよう位置を直した。そのまま少し触れていたかったが、さすがに不自然だと思って手を離す。怪我が軽そうだと分かってもまだ安心しきれなかった。それに、勝手に危険な場所へ出たことについてはきちんと注意しておかなければならない。一度気持ちを落ち着かせるように息を吐き、ユウへ向き直った。
レオナ船長が真面目な顔でこちらを向いた。さっきまで怪我の手当てをしてくれていたが、どうやら今度こそ説教が始まるらしい。
「まず、さっきの件だが……助けてくれてありがとな」
「え?」
予想していなかった言葉に、思わず聞き返した。
「あの船員はうちの大事な仲間だ。お前が索を渡してくれなかったら助からなかったかもしれねえ。船長として礼を言う」
「いえ、俺は索を渡しただけですから。引き上げたのは皆さんですし」
「それでも、お前がいなきゃ間に合わなかったかもしれねえだろ」
レオナ船長はそう言ってから、急に眉を吊り上げた。
「だがな!それとこれとは別だ!」
「……はい」
「私は甲板へ出るなって言ったよな?」
「それは……目の前で人が落ちそうだったので」
「だからって、お前が危ないところへ行く必要があるか!」
「ほかに誰もいなかったんですよ!」
「分かってる!分かってるけどな!」
船長はそこで言葉を切り、困ったように頭を掻いた。
「……お前が落ちたら、どうするつもりだったんだよ」
「いや、落ちるつもりはなかったですけど」
「当たり前だろ!」
また怒られてしまった。もっとも今回は俺にも非がある。救助の役に立てたとはいえ、船長との約束を破ったことに変わりはない。
「すみません。次からはもっと気をつけます」
「次があってたまるかよ……」
レオナ船長は大きく息を吐いたあと、俺の肩に当てていた布を取り替えてくれた。
「船長って意外と心配性なんですね」
「意外は余計だ」
「でも、ありがとうございます」
「……おう」
彼女は少し照れくさそうに顔を背けた。それからしばらく救助した人たちの話をした。落ちかけた船員も大きな怪我はなく、今は仲間たちと一緒に休んでいるらしい。遭難者たちも全員無事で、近くの港まで運ぶ予定だという。
「それなら、本当によかったです」
「まあな。予定は少し遅れるが、あのまま放っとくわけにもいかねえし」
「俺は急いでませんから、大丈夫ですよ」
「そうか。そりゃ助かる」
レオナ船長はそう言って笑った。ちょうどいい機会なので今後の航路についても尋ねてみることにした。
「そういえば、乗り継ぎする交易都市には、あと何日くらいで着くんですか?」
「順調なら三日ほどだな。今回の寄り道があるから、もう少しかかるかもしれねえが」
「分かりました。着いたら南方へ向かう船を探してみます」
そう言うと、レオナ船長の動きが止まった。
「……乗り換えるのか?」
「はい。最初に港で聞いたときはそこで乗り継ぐ必要があるって言われたので」
「ああ、そういうことか」
彼女は何かを考えるように腕を組んだ。
「なあ、ユウ。実はうちの船、その交易都市が終点ってわけじゃねえんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。積荷を降ろしたあと、さらに南へ向かう予定がある。お前の目的地によっちゃそのまま乗っていけるぞ」
「本当ですか?それならぜひお願いしたいです」
「おいおい、まだ行き先も聞いてねえだろ」
「あ、そうでした」
俺は荷物の中から地図を取り出し、目的地に近い場所を指で示した。
「この辺りです。正確な場所は分からないんですけど、ここへ行きたくて」
地図に記されているのは南方の大陸の一部だった。地下施設で確認した古代設備の位置をもとに、おおよその場所に印をつけてある。
レオナ船長はしばらく地図を眺めていた。
「……へえ。こっちの地方か。うちが次に向かう港からなら陸路で行けるはずだぞ」
「えっ、本当ですか?」
「ああ。もちろん、そこから先の道までは保証できねえがな」
「十分です!それなら乗り継ぐよりずっと楽そうですね」
俺が喜んでいると、船長も嬉しそうに頷いた。
「だったら決まりだ。交易都市でいったん荷を降ろして、そのまま次の港まで乗っていけ」
「いいんですか?予定を変えてもらうのは申し訳ないですけど」
「だから、もともとそっちへ行く予定なんだって。お前が乗ってても何も変わらねえよ」
「それなら、お言葉に甘えます」
「おう。部屋もそのまま使っていいからな」
思っていた以上に話がうまく進んでしまった。最初は交易都市で一から船を探すつもりだったのに、これなら余計な手間もかからない。
「本当にありがとうございます。レオナ船長に会えてよかったです」
そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。
「……そうかよ」
「はい。色々助けてもらってますし」
「まあ、乗せた以上は面倒見るさ」
レオナ船長はそう答え、俺の肩から冷却用の布を外した。
「そろそろ交換しとけよ。痛みが強くなったら遠慮せずに言え」
「分かりました」
「それと、しばらくは大人しくしてろ。いいな?」
「はい!」
レオナ船長は満足したように頷き、立ち上がった。
「じゃあ私は仕事に戻る。夕食はあとで持ってこさせるから部屋で食べてくれ」
「分かりました。お仕事頑張ってください」
「……おう」
彼女は扉のところで一度振り返り、それから部屋を出ていった。
俺は寝台に腰を下ろしたまま、広げていた地図を眺めた。目的の大陸まではまだ距離があるが、ようやく具体的な道筋が見えてきた。レオナ船長が一緒なら飛空船の乗り継ぎで困ることもなさそうだ。少々口は悪いし怒ると怖いけれど、あれほど親切にしてくれる人はそうそういないだろう。今回の救助は全員が無事に終わったし、あとは次の港まで船長の言いつけどおり大人しく過ごそう。
そんなことを考えながら俺は地図を畳んで荷物の中へしまった。