交易都市が見えてくる頃には、船は救助活動による遅れを抱えながらも予定の航路へ戻っていた。
「右舷の標識、確認。入港待ちの船が二隻です」
「よし。速度を落とせ。あの二隻が動くまで外側で待つ。港の上で余計な風を起こすなよ」
操舵室の窓から港を見ながらレオナは副長の報告に答えた。積み荷の確認、係留場所の割り当て、救助した十四人の引き渡し。着いてからの仕事はいくらでもある。いつもなら頭の中では次々に段取りが組み上がり、ほかのことを考える暇などない。
それなのに、この数日は少し時間が空くと決まって一人の乗客の顔が浮かんだ。
ユウは船での暮らしにもすっかり慣れたらしい。食事の時刻を覚え、船員と挨拶を交わし、航路や機関について見つけた疑問をレオナに持ってくる。質問が終われば素直に礼を言うので、こちらもつい丁寧に答えてしまう。昨日は推進機関と浮遊機関が別なのはなぜかと聞かれ、説明しているうちに休憩時間がほとんどなくなった。
だがそれで面倒な客だと思ったことは一度もなかった。
「船長、次の港への積み荷は予定どおりで?」
「ああ。ここで降ろす分を片づけたら南へ向かう。積み込みの予定も変えねえ」
「例のお客さんも、次の港まで乗るんでしたっけ」
「そうだ。部屋はそのまま使わせる」
即答すると、副長がちらりと横を見た。
「何だよ」
「いえ。ずいぶん気に入ってるんだなと思いまして」
「妙な勘繰りすんな。途中で乗り換えさせるより、その方が手間も少ねえだろ」
副長は「そうですね」と答えて記録板に視線を戻した。納得したのかどうかは怪しい。
もっとも、レオナ自身、南へ行くと伝えた時のユウの顔を思い出すだけで機嫌がよくなってしまうのだから始末が悪い。知らない土地へ一人で行かせるより、自分の船に乗っていてくれる方が安心できる。その理由は十分にあるはずだった。
「前方、入港許可が出ました」
「了解。左へ少し振れ。誘導灯に合わせろ」
レオナは窓の外へ意識を戻した。
交易都市は巨大な大陸の縁に沿って広がっていた。崖に段々と築かれた港には、翼を畳んだ貨物船や細身の旅客船が幾重にも並び、荷を吊った昇降機が上下している。さらに奥には石造りの建物が密集し、高い塔の間を結ぶ橋の上を小さな人影が行き交っていた。これだけの船が集まる港でも近づくたびに違う騒がしさがある。
「うわ、すごいな……!」
操舵室の入口から聞き覚えのある声がした。振り返るとフードを被ったユウが戸口に立って窓の外を眺めていた。勝手に危険なところへ出るなと言いつけたせいか、入口から先には入ってこない。
「ここが例の交易都市か?」
「ああ。南へ行く船も、ここならいくらでも見つかる。まあ、お前はもう乗る船が決まってるけどな」
「うん。本当に助かってる。ありがとう、レオナ」
返事をしかけてふと気づいた。最初に会った頃は丁寧な言葉遣いだったユウが、いつの間にか気安く話すようになっている。船で一緒に過ごすうちに少しずつ変わったのだろうが、改めて意識すると妙に嬉しかった。自分だけが勝手に親しくなったつもりでいたわけではないらしい。
「……礼は着いてからにしな。まだ船を着けてねえ」
いつもの調子で返したつもりだったが、ユウは何がおかしいのか楽しそうに笑った。レオナはその笑顔をもう少し見ていたくなったが、すぐに操舵席へ向き直る。
「船長、係留位置まであと少しです」
「分かってる。浮遊機関、出力を維持。推進を絞れ。係留班は準備しろ」
指示に合わせて船の速度が落ち、巨大な桟橋がゆっくり近づいてきた。船体が定位置に収まり係留索が渡される。港の喧騒がすぐ近くまで迫る中、レオナはようやく息をついた。
ここからしばらくは陸での仕事になる。ユウがこの街を見て、何を見つけて、どんな顔をするのか。そんなことばかりが気になっている自分に気づきながら、レオナは入港の完了を告げた。
船から降りると、まず港の騒がしさに圧倒された。頭上では荷物を吊った昇降機が軋みながら動き、桟橋では作業員たちが大声で指示を飛ばしている。積み上げられた木箱の間を荷車が行き交い、その向こうには大小さまざまな飛空船が並んでいた。船の上から眺めた時にも相当な規模だと思ったが、実際に歩いてみると想像以上だった。
「すごいな。これ、全部ここで荷物を積み降ろししてるのか」
「そうだよ。ぼさっと歩いてると轢かれるぞ」
隣を歩くレオナが、近づいてきた荷車を顎で示した。俺は慌てて道の端に寄る。
「今日は特に混んでるんだ。お前はその辺で見物してろ。私はちょっと仕事を片づけてくる」
「分かった。邪魔にならないところにいるよ」
「あと、フードは取るなよ」
「はいはい。分かってますって」
レオナは念を押してから作業員たちの方へ歩いていった。
俺の乗ってきた船では、救助した十四人の引き渡しが進んでいた。港の職員が名簿を確認し、負傷者を迎えに来た人たちが担架を運んでいる。あの浮遊島に取り残されていた人たちも、これでようやく落ち着けるのだろう。しばらくその様子を眺めていると、少し離れた桟橋で何やら揉めている声が聞こえてきた。
「ですから、このままでは次の船が入れないんです!」
「こちらも予定どおりに荷を降ろさなければ困る。倉庫の方にはもう連絡してあるんだぞ」
どうやら荷物を運び込む場所が足りなくなったらしい。大きな木箱を積んだ荷車が通路を塞ぎ、後ろには別の作業員たちが列を作っていた。そこへ、一人の女性が数人の付き人を連れて現れた。
「何があったのです?」
よく通る、落ち着いた声だった。女性は俺とそう変わらない年頃に見えた。淡い色の長い髪をきれいにまとめ、上等そうな衣服を身につけている。港で働く人たちとは明らかに違う装いだが、周囲の視線を気にする様子もなく、作業員の話を聞いていた。
「なるほど。西側の倉庫がまだ空いているはずですね。あちらへ先に運びましょう。運搬費用の差額はこちらで負担します」
「しかし、あちらは別の商会が使う予定で……」
「先ほど担当の方とお話ししました。夕方までは使わないそうです。念のため、確認書をお渡ししますね」
付き人から受け取った書類を示すと、女性は作業員たちへ次々と指示を出した。さっきまで互いに言い争っていた人たちも、行き先が決まるとすぐに荷車を動かし始める。随分と手際がいい。見た目からすると貴族のお嬢様といった雰囲気なのに、現場の事情にも詳しいらしい。
「おう、リディア。相変わらず忙しそうだな」
いつの間にか戻ってきたレオナがその女性へ声をかけた。
「あら、レオナ。お久しぶりです。今回も随分と荷物を積んできたようですね」
「ああ。そっちの倉庫は空いてるか?」
「ご心配なく。あなたの船の分は確保してありますよ。それより、途中で遭難船を救助したそうですね」
「耳が早いな。十四人全員無事だ。負傷者も港の連中に引き継いだ」
「それは何よりです。予定外の救助で大変だったでしょう」
「まあな。おかげで少し遅れちまった」
二人は気安く言葉を交わしていた。どうやら以前からの知り合いらしい。リディアと呼ばれた女性はレオナと少し仕事の話をしたあと、ふとこちらに目を向けた。
「ところで、そちらの方は?」
「ああ、うちの客だ。南まで行く予定でな」
「お客様でしたか。珍しいですね。レオナの船は貨物が中心でしょう?」
「客だって乗せるさ。空き部屋があったからな」
レオナが答えると、リディアは俺へ向き直った。
「初めまして。リディアと申します。この港で交易に関わる仕事をしております」
「あ、初めまして。ユウです」
軽く頭を下げると彼女も丁寧に礼を返してくれた。動作がいちいち洗練されていて、なんだかこちらまで姿勢を正したくなる。
「南へ向かわれるのですか?」
「はい。ちょっと調べたいことがあって」
「まあ、そうなのですね。南方でしたら、わたくしどもの商会にも取引先がございます。何かお困りのことがあればお声がけください」
「ありがとうございます。実は向こうの地理にあまり詳しくなくて、地図なんかも探しているところなんです」
「それでしたら、少しはお役に立てるかもしれませんね」
リディアは柔らかく微笑んだ。まだ会ったばかりだが随分と親切な人だ。さっきの仕事ぶりを見る限り、単に社交辞令を言っているだけでもなさそうだった。
「おい、リディア。こいつはまだこの辺りのことをよく知らねえんだ。あんまり話を広げるなよ」
「あら、地図を探していらっしゃるだけでしょう?それとも何か問題でも?」
「いや、そういうわけじゃねえけどよ」
レオナが珍しく歯切れの悪い返事をする。リディアは少し不思議そうに彼女を見たあと、もう一度俺へ笑顔を向けた。
「よろしければ、あとで詳しいお話を聞かせていただけませんか?」
「もちろんです。こっちこそお願いしたいくらいです」
そう答えるとリディアは嬉しそうに頷いた。レオナが小さく息を吐くのが聞こえたが、何か気に障ることでもあったのだろうか。
「それで、ユウさんは南方のどの辺りをお調べになりたいのですか?」
「えっと、場所は地図で見せた方が早いと思います。だいたいの位置しか分からないんですけど」
「でしたら、わたくしの商館へいらっしゃいませんか?南方の地図なら何種類かございますよ」
思いがけない申し出だった。この港で地図を扱う店を一から探すつもりだったので、詳しい人に案内してもらえるならありがたい。
「本当ですか?ぜひお願いしたいです」
「おいおい、ちょっと待て」
横からレオナが口を挟んだ。
「ユウ、私はまだ仕事が残ってるんだ。街を歩くならもう少し待ってくれねえか」
「え、でもリディアさんが案内してくれるんだろ?」
「だからって、会ったばかりの相手にほいほいついていく奴があるか」
「その会ったばかりの相手って、レオナの知り合いじゃないの?」
「そうだけどよ……」
レオナは言葉を詰まらせた。どうやら知り合いだからといって安心できるわけではないらしい。
「あら、随分な言われようですね。わたくし、そんなに信用がありませんか?」
「お前の仕事ぶりは信用してるさ。ただ、こいつはこの辺りの事情を何も知らねえんだよ」
「それなら、なおさら案内役が必要でしょう?わたくしも一人で街を歩かせようとは思いませんよ」
リディアは少しも気分を害した様子がなく、むしろ楽しそうにレオナを見ていた。
俺としては、二人が言い合うほどのことでもないと思う。確かに初めての街ではあるが、リディアは地元の人間だし、レオナとも仕事上の付き合いがある。少なくとも怪しい人物には見えなかった。
「レオナ、心配してくれるのはありがたいけど、俺もこの街にいる間にできるだけ調べておきたいんだ。南に行ってから道に迷うわけにもいかないし」
「分かってるよ。だからって慌てる必要はねえだろ」
「レオナの仕事を邪魔するのも悪いしさ。リディアさんがよければ、案内してもらいたい」
そう言うと、レオナは少し考え込んだ。俺が男性であることを隠している事情があるので、簡単には頷けないのだろう。ここまでの旅で、男性が一人で歩いているとどれほど騒ぎになるかは嫌というほど理解していた。
「もちろん、フードは取らないし、人の多いところで勝手なこともしないよ」
「……そこまで分かってんならいいけどな」
レオナはため息をつき、今度はリディアへ向き直った。
「悪いがこいつのことを頼めるか。あんまり人目につくところへ連れ回さないでくれ」
「ええ、構いませんよ。商館には人目を気にせずお話しできる部屋もありますし」
「それと、何かあったら私の船に連絡してくれ」
「承知しました。それにしても……」
リディアが口元に手を添えた。
「レオナがそこまで心配するなんて、珍しいですね」
「別に普通だろ。預かってる客なんだから」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
「お前なあ……」
レオナが呆れたように眉を寄せる。どうやらリディアは彼女をからかうのが好きらしい。普段は堂々としているレオナが少し調子を崩されているのを見ると、なんだか新鮮だった。
「ところでレオナ、ユウさんはあなたの船で南方まで向かわれるのですよね?」
「ああ。ここで荷を降ろしたら、次の港まで乗せていく予定だ」
「でしたら、その先の道についても調べておいた方がよろしいでしょうね。南方は地域によって交通の事情が随分違いますから」
「そうなんですか?」
「ええ。詳しくは地図を見ながらお話ししましょう。交易路の資料もお見せできますよ」
それは助かる。古代施設で確認した場所は大まかな位置しか分からず、現地でどうやって目的地へたどり着くかはまだ決まっていなかった。
「ありがとうございます。正直そこが一番困ってたんです」
「お役に立てそうで何よりです」
リディアはにこやかに答えると近くで待っていた付き人に声をかけた。商館へ戻ることと、残りの港湾業務を担当者に引き継ぐことを伝えている。その間にレオナが俺へ近づき、周囲に聞こえない程度の声で言った。
「いいか。詳しい事情まで話す必要はねえからな。困ったら適当に切り上げて戻ってこい」
「分かってるって。いろいろありがとう」
「……ああ。気をつけてな」
レオナは最後に俺のフードをちらりと確認すると、船へ戻っていった。
「お待たせしました、ユウさん」
振り返ると、リディアがこちらに手を差し伸べるようにして道を示していた。
「それでは参りましょうか。商館はここからそう遠くありませんので」
「はい。よろしくお願いします」
俺は彼女の隣に並んで港の奥へ続く道を歩き始めた。背後では相変わらず荷車の車輪が鳴り、作業員たちの声が飛び交っている。初めて訪れた街で、こんなに早く案内してくれる人が見つかるとは思わなかった。おかげで南方へ向かうための準備も随分進められそうだ。
リディアに案内されて港の大通りを進むと、しばらくして立派な石造りの建物が見えてきた。入口には商会の紋章らしい装飾が掲げられ、大勢の人が書類や荷物を抱えて出入りしている。
「ここがうちの商館です。どうぞ、中へ」
「……思ってたよりずっと大きいですね」
「ふふ、ありがとうございます。もっとも、わたくしの持ち物というわけではありませんけれど」
中に入ると、広い受付の奥にいくつもの窓口が並んでいた。商人らしい女性たちが帳簿を広げ、客と何やら交渉している。リディアが通りかかると何人かが頭を下げたが、彼女は一人ひとりに軽く挨拶を返していた。
「リディア様、先ほどの倉庫の件ですが」
「西側への移送は始まりましたか?」
「はい。予定より少し早く終わりそうです」
「それならよかった。費用の明細だけ、あとでわたくしの机に置いておいてください」
歩きながらも仕事の話が絶えない。よほど忙しい立場なのだろう。
「なんか、すごいですね」
「何がでしょう?」
「いや、港でもそうでしたけど、みんなリディアさんに相談してるから。若いのに随分頼りにされてるんだなって」
「あら。お上手ですね」
「本当にそう思ったんですけど」
リディアは一瞬こちらを見て、それから小さく笑った。
「そう言っていただけると、少し嬉しいです」
案内されたのは二階の奥にある応接室だった。大きな窓から港の一部が見渡せる。部屋には柔らかそうな長椅子と磨かれた木製の机があり、壁には見事な絵画が飾られていた。
「どうぞ、お掛けになってください。お茶をご用意いたしますね」
「ありがとうございます」
椅子に腰を下ろすと、思った以上に深く体が沈んだ。宿や船の寝台とは随分違う。
リディアが使用人にお茶を頼み、南方の地図も持ってくるよう指示する。しばらくして茶器が運ばれてくると、彼女は人払いをして向かいの席に座った。
「さて、改めまして。南方のどのようなことをお調べになりたいのですか?」
「それなんですけど、その前に一つ聞いてもいいですか?」
「ええ、何でしょう?」
「リディアさんって、普段からああやって港の仕事をしてるんですか?」
彼女は少し意外そうに瞬きをした。
「はい。家がいくつかの商会に関わっておりまして、わたくしもその一部を任されています」
「貴族の人って、もっとこう……屋敷でのんびりしてるイメージがあったので」
「まあ。わたくしも、できることならそうしたい日がありますよ」
冗談めかした返事に思わず笑ってしまった。
「でも、さっきの港での対応はすごかったですよ。あんなに揉めてたのにすぐ解決しちゃって」
「あれは使える倉庫を知っていただけです。運がよかったのですよ」
「いや、費用のことまでその場で決めてたじゃないですか。俺だったら、まず誰に相談すればいいか考えるところからですよ」
「……そうでしょうか」
リディアは手元の茶器へ目を落とした。
「立場がありますから判断を求められることは多いのです。間違えることもありますし、あとで叱られることもありますよ」
「そうなんですか?」
「ええ。今日の運搬費用だって、きちんと帳尻を合わせなければ父に小言をいただきます」
「それは大変そうだ」
「ふふ。ですから、ユウさんのように素直に褒めてくださる方は貴重なのです」
そう言って笑う彼女は、港で大勢に指示を出していた時よりもずっと親しみやすく見えた。俺は出されたお茶を一口飲んでから話を切り出すことにした。
「あの、リディアさん。実は一つ、先に話しておきたいことがあるんです」
「はい?」
「ちょっと事情があって、顔を隠してるんですけど……」
リディアは俺のフードへ目を向けた。
「お顔を、ですか?」
「はい。できれば他の人には知られたくなくて」
少し考えたあと彼女は扉の方を確認した。
「この部屋には許可なく入らないよう伝えてあります。お話の内容もわたくしから勝手に他言することはありませんよ」
「ありがとうございます」
俺はフードを下ろし、口元の布を外した。
「…………え?」
さっきまで落ち着いていた彼女が、珍しく言葉を失っている。しばらく俺の顔を見つめたあと、ようやく口を開いた。
「ユウさん……あなた、男性なのですか?」
「はい。そうなんです」
「まあ……!」
リディアは口元に手を当てた。目を見開いたまま、もう一度俺の顔を確かめる。
「男性の方が、お一人で旅を……?」
「よく驚かれます」
「驚きますわ。それも、レオナの船にお乗りになっていたなんて……」
彼女はそこで何かに気づいたように黙った。
「なるほど。あの子があれほど心配していた理由が分かりました」
「レオナにはいろいろ助けてもらってます」
「でしょうね。事情を知っていて、よく一人でこちらへ行かせてくれましたね」
「俺が行きたいって頼んだので」
「……そうでしたか」
リディアは少し考え込んだあと、姿勢を正した。
「でしたら、わたくしも気をつけなければなりませんね。お約束します。ユウさんが男性であることは、許可なく誰にも話しません」
「助かります」
「それで、差し支えなければお聞きしたいのですが、どうしてお一人で南方へ?」
俺は少し迷ってから、自分の記憶が欠けていることを説明した。名前や普通の知識は覚えているが、自分がどこで暮らしていたのか、家族が誰なのかも分からない。南方に手掛かりがあるかもしれないので、調べに向かっているのだと話す。古代施設や人類管理者のことまでは話さなかった。説明しようにも自分自身がまだよく分かっていない。
「そんな事情が……」
「まあ、手掛かりがあるかもっていうだけなんですけどね」
「それでも、遠い土地まで向かおうとなさっているのですね」
「ここにいても分からないままですから。とりあえずできることをやってみようと思って」
リディアはしばらく俺を見ていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「分かりました。でしたらわたくしもできる限りお手伝いいたします」
「本当ですか?」
「ええ。南方には取引先もございますし、街道の情報も集められるはずです。もちろん、ユウさんが望まれる範囲で、ですけれど」
「ありがとうございます。そこまでしてもらえると本当に助かります」
「ふふ。どういたしまして」
リディアは嬉しそうに微笑み、机の上に置かれた呼び鈴へ手を伸ばした。
「まずは地図を確認しましょうか。そのあと、もしお時間があるようでしたら、街も少しご案内したいのですが」
「え、いいんですか? 仕事も忙しそうなのに」
「今日の急ぎの仕事は片づきましたから。それに……」
彼女は一度言葉を切り、少し楽しそうに目を細めた。
「ユウさんとは、もう少しお話ししてみたいのです」
そう言われて悪い気はしなかった。俺も最初は近寄りがたいお嬢様なのかと思っていたが、話してみると案外気さくな人だと分かってきた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「ええ。ぜひ」
リディアは微笑んで頷いた。
呼び鈴に応じて入ってきた使用人が、数枚の地図を机に広げた。リディアはそのうち一枚を手に取ると、南方へ続く交易路を簡単に説明してくれた。
「詳しい資料はほかにもございますので、あとでゆっくり確認しましょう。今はせっかくですから、少し街をご覧になりませんか?」
「ぜひ。船から見た時から気になってたんです」
「では、参りましょう」
俺は再びフードを深く被り、口元に布を巻いた。リディアはその様子を見て少し考え込んでいたが、特に何も言わず商館の裏口へ案内してくれた。
大通りへ出ると港とはまた違った賑わいが広がっていた。石畳の両側には商店が並び、色鮮やかな布や装飾品、見たこともない果物などが売られている。通りの上には建物同士を結ぶ渡り廊下があり、頭上でも人々が行き交っていた。
「すごいな。これだけ店があったら、一日じゃ見て回れないですね」
「ええ。この街には各地の商人が集まりますから。わたくしも知らない品物が入ってくることがありますよ」
「リディアさんでも?」
「もちろんです。世界中の品物を全部覚えるなんて、とてもできませんもの」
リディアはそう言って笑うと、通りの向こうにある店を指さした。
「あちらのお店はおすすめですよ。南方から取り寄せたお菓子を扱っているんです」
「へえ、どんなのですか?」
「甘い木の実を焼き菓子で包んだものです。少し香辛料が効いていてとても美味しいんですよ」
「それは食べてみたいな」
「では、寄ってみましょうか」
店へ入ると焼きたての菓子の甘い香りが漂ってきた。リディアは店主と親しげに挨拶を交わし、慣れた様子で菓子を注文する。
「こちらでいただけますか?奥の席が空いていれば嬉しいのですけれど」
「もちろんです、リディア様。どうぞこちらへ」
案内されたのは、通りから見えないよう仕切られた小さな席だった。これならフードを少し緩めても問題なさそうだ。
運ばれてきた菓子は掌に収まるほどの大きさで、薄い生地の中に砕いた木の実が詰まっていた。一口かじると、香ばしい甘さのあとから独特の香辛料の風味が広がる。
「お、これ美味しいですね」
「でしょう?わたくし、昔からこれが好きなんです」
「昔からって、子供の頃から?」
「ええ。父に連れられて港へ来た時、よく買ってもらいました。仕事を任されるようになってからも、ときどき寄っているんですよ」
「じゃあ、結構思い出の味なんですね」
「そうなりますね。……こんなお話、あまりお客様にはしないのですけれど」
リディアは少し照れたように笑った。先ほどまでの丁寧な物腰はそのままだが、仕事の話をしていた時より随分と表情が柔らかい。食べ終えて会計をしようとすると、リディアが先に店主へ代金を渡そうとした。
「あ、俺の分は自分で払いますよ」
「…………え?」
リディアの手が止まった。
「案内までしてもらってるんですから、お菓子くらい自分で払わせてください」
リディアは目を見開いたまま、しばらく俺を見つめていた。何かとんでもないことを言われたような顔だった。
「……いけません。絶対にいけませんわ」
「え、何がですか?」
「男性の方にお金を出していただくなど、そんなことはできません!」
思いのほか強い口調だった。リディアはすぐに周囲を気にして声を落としたが、表情にはまだ驚きが残っている。
「ユウさんにお支払いをさせるなんて……そんな失礼なこと、考えられません」
「いや、でも自分の食べた分くらいは……」
「いいえ。そういう問題ではありませんの」
リディアはきっぱりと言った。
「女性が男性に代金を支払わせるなど、あり得ないことです。もしわたくしがそのようなことをしたと知られたら、父に叱られるどころでは済みませんわ。男性の方に財布を出させるなど、女性として恥ずべきことですもの」
俺が財布に手を伸ばすと、リディアは慌てて身を乗り出した。
「お待ちください!本当にお出しにならないでくださいませ!」
「わ、分かりました。分かりましたから」
あまりの勢いに、俺は財布から手を離した。リディアはほっと息をついたが、まだ信じられないものを見るようにこちらを見ている。
「……本当に不思議な方ですね。男性の方が自分からお支払いを申し出るなんて、一度も聞いたことがございません」
「そんなに珍しいんですか」
「珍しいというより……そもそも、そういう発想をなさる男性がいるとは思いませんでした」
そういえば、この世界では男性が女性に世話をしてもらうのが当たり前なのだった。俺にとっては普通のことでも、リディアには常識をひっくり返されるほどの出来事だったらしい。
「別に、女性に奢ってもらうのが嫌ってわけじゃないんですけどね。いつもお世話になってばかりなのも悪いなと思って」
「……まあ」
リディアは再び驚いたように瞬きをした。やがて口元を緩め、先ほどまでとは違う柔らかな笑みを浮かべた。
「お気持ちは、とても嬉しいです。でもどうかお支払いはわたくしに任せてくださいませ。ユウさんにそんな心配をしていただく必要はないのですから」
「分かりました。じゃあ、今回はご馳走になります」
「ええ。ぜひ、そうなさってください」
ようやく安心したらしく、リディアは店主を呼んで代金を支払った。金を払おうとしただけでここまで驚かれるとは思わなかった。この世界の男女の常識には少し慣れてきたつもりだったが、まだまだ知らないことが多そうだ。
店を出たあとは商業地区の奥へ向かった。途中、リディアは何度も店を指さしてはその商品がどこの大陸から運ばれてきたものなのか教えてくれた。俺も気になったものを見つけるたびに質問したのでなかなか先へ進まない。
「ユウさんは、随分と色々なものに興味をお持ちなのですね」
「知らないものばっかりですから。見てるだけで面白いですよ」
「そう言っていただけると、案内のしがいがあります」
「リディアさんも、こういうの好きなんですか?」
「ええ。商売のためというのもありますけれど、遠くの土地で作られたものを見るのは楽しいですよ。まだ行ったことのない場所の暮らしが、少しだけ分かる気がするんです」
その言葉には妙に共感できた。俺も今まで見たことのない世界を知るのは楽しい。もちろん自分の正体を調べることが第一だが、それだけではもったいないと思うくらいこの世界には知らないものが溢れている。
「じゃあ、リディアさんも旅行とかしたいんじゃないですか?」
「したいですよ。もっとも、なかなか自由には出かけられませんけれど。家の立場もありますから、どこへ行くにも予定を立てて、付き添いを手配して……気軽に旅立つというわけにはいかないのです」
「それは窮屈そうですね」
「慣れてしまえば、そういうものですわ」
リディアは笑っていたが、少しだけ困ったような表情にも見えた。
「でも、たまには全部忘れて遊びに行きたくなりません?」
「……なりますよ、もちろん。ふふ。こんなことを父に聞かれたらまた小言をいただいてしまいますね」
「内緒にしておきます」
「お願いしますね」
二人で笑いながら歩いていると、通りの先が開けて大きな広場に出た。崖沿いに設けられた展望台からは、港に並ぶ飛空船とその向こうに広がる雲海が見渡せた。
「うわ……ここから見るとまたすごいな」
俺が手すりの近くまで歩くと、リディアも隣に並んだ。
「ここはわたくしのお気に入りの場所なんです。仕事に疲れた時、よく景色を見に来るんですよ」
「確かに、いい気分転換になりそうですね」
「ええ。……今日はユウさんと来られて、いつもより楽しいです」
「俺も楽しいですよ。リディアさんが案内してくれなかったら、こんな場所知らなかっただろうし」
そう答えると、彼女はしばらく俺を見ていた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
リディアは小さく笑い、再び港の方へ視線を向けた。しばらく二人で景色を眺めたあと、彼女が時計を確認した。
「あら、もうこんな時間。思ったより長く歩いてしまいましたね」
「本当だ。リディアさん、仕事は大丈夫ですか?」
「ええ。急ぎの用事は済ませてありますから。それより、地図を調べる時間を残しておかないといけませんね」
「あ、そうだった」
街の見物が楽しくて、危うく本来の目的を忘れるところだった。
「では、そろそろ商館へ戻りましょうか」
「はい。今日は案内してくれてありがとうございました」
「こちらこそ。わたくしも、とても楽しかったです」
リディアは微笑み、来た道へ歩き始めた。
最初は立派な貴族のお嬢様という印象だったが、一緒に歩いてみると案外気さくで、好きな食べ物や旅行の話になると普通の女の子らしいところもある。仕事ができるのはもちろんだが、話していて楽しい人だ。
リディアも何やら機嫌がよさそうで、帰り道でも時折こちらへ笑いかけてきた。この街へ着いたばかりなのに随分といい知り合いができたものだと思った。
商館へ戻ると、応接室の机には先ほどよりも多くの地図が広げられていた。新しいものから古いものまで揃っており、中には紙が黄ばんで端の擦り切れたものもある。
「お待たせしました。南方について、できるだけ詳しい資料を用意してもらいました」
「うわ、こんなにあるんですか」
「ええ。交易路は時代によって変わりますから、一つの地図だけでは分からないこともありますの」
リディアは椅子を引き寄せ、俺の隣に座った。
「それで、ユウさんが探していらっしゃるのは、どの辺りなのでしょう?」
「この辺……だと思います」
俺は一枚の地図を見ながら南方にある大陸の一角を指さした。以前、古代施設で見た地図には目的地と思われる場所が示されていた。ただ、そこに描かれていた地形は現在の地図とは少し違っている。
「この辺りですか。随分と奥地ですね」
「やっぱり、行くのは難しいですか?」
「そうですね……少なくとも、主要な交易路からは外れています」
リディアは別の地図を引き寄せ、いくつかの街道を指でなぞった。
「こちらが現在使われている南方の交易路です。レオナの船が向かう港からでしたら、この街道を使うのが一般的ですね。ただ、ユウさんが示された場所まで続いている道は見当たりません」
「うーん。やっぱりそうか」
「何か目印になるものはございませんか? 山や川、近くにある集落などでも構いませんよ」
俺は古代施設で見た地形を思い出した。大陸の輪郭と、その内側にあった山地らしい起伏。細かい位置までは覚えていないが特徴的な形をした場所が一つあった。
「確か、この辺りに大きな山があったと思うんですけど」
「山、ですか……少々お待ちください」
リディアは古い地図を何枚か調べ、やがて一枚を俺の前に置いた。
「こちらをご覧ください。今は使われていない街道が描かれています」
「……あれ?」
その地図には、現在のものとは少し違う位置に山地が描かれていた。俺の記憶にある地形ともどことなく似ている。
「これ、いつ頃の地図なんですか?」
「正確な年代は分かりませんが、かなり古いものですね。南方は過去に何度も地形が変わっていますから、現在の道とは一致しない部分も多いのです」
「地形が変わったって、落界の影響ですか?」
「その可能性はあります。ただ、古い記録には誤りもございますし、これだけでは何とも言えませんね」
リディアは慎重な口調で答えた。
俺も確信が持てるわけではなかった。それでも今まで曖昧だった目的地の周辺についてようやく具体的な手掛かりが見えてきた気がする。
「もしこの古い街道を使うとしたら、今でも通れるんでしょうか?」
「それは現地の方に確認する必要がありますね。使われなくなった道でも、周辺の集落では往来が続いていることがありますから」
「なるほど……」
「幸い、わたくしどもの商会には南方との取引がございます。現地の商人に問い合わせれば、何か分かるかもしれません」
「そこまでしてもらっていいんですか?」
「もちろんです。わたくしからお申し出したことですもの」
リディアは微笑むと、机の端に置かれていた紙へいくつかの地名を書きつけた。
「まずはレオナの船で次の港まで向かい、そこから南方へ続く街道をお使いになるのがよろしいでしょう。途中の商館に紹介状を用意しておけば、宿や移動手段の相談もしやすくなると思います」
「それは助かります。でも、そんなにいろいろ頼んじゃって大丈夫なのかな……」
「お気になさらないでください。わたくしにとっては、日頃の仕事の延長ですから」
そう言いながらも、リディアはすぐに紹介状を書こうとはせず少し考えるように俺を見た。
「ただ、ユウさん。一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「何ですか?」
「明日、もう一度こちらへいらしていただけませんか?南方の取引先に詳しい者がおりますのでその者にも話を聞いてみたいのです」
「もちろんです。俺も、もう少し地図を確認しておきたいですし」
「ありがとうございます。では、明日もお待ちしておりますね」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
俺は机の上に広がった地図を見直した。まだ目的地へたどり着ける保証はないが少なくとも次に何を調べればいいのかは分かった。
「本当にありがとうございます。リディアさんがいなかったらこんなに早く話が進まなかったと思います」
「……そう言っていただけると、嬉しいですわ」
彼女はしばらくこちらを見つめていたが、やがて地図を丁寧に畳み始めた。
「それに、わたくしも少し楽しみになってきました。ユウさんが探していらっしゃる場所に、何があるのか」
「見つかったら、ちゃんと報告しますよ」
「ふふ。約束ですよ?」
「はい。約束です」
窓の外では日が傾き始め、港の建物が夕日に照らされていた。そろそろレオナも仕事を終える頃だろう。今日だけで随分と世話になってしまったが、リディアのおかげで旅の見通しはかなりよくなった。明日も会えることになったし、もう少し詳しい話が聞けそうだ。
リディアが最後の地図を片づけていると、扉を控えめに叩く音がした。
「リディア様、レオナ船長がお見えです」
「あら、もうそんな時間なのですね。お通ししてください」
ほどなくして扉が開き、見慣れた顔が姿を現した。
「よう。待たせたな、ユウ」
「レオナ、お疲れさま。仕事はもう終わったの?」
「ああ。面倒な書類も片づけてきた。そっちはどうだった?」
「すごく助かったよ。南に行ってからの道もだいぶ分かってきた」
「そりゃよかったな」
レオナは俺の前に広げられた地図を覗き込んだあと、向かいに立つリディアへ目を向けた。
「世話になったなリディア。こいつ、いろいろ聞いてきただろ」
「ええ、とても熱心な方でしたわ。わたくしも楽しくお話しさせていただきました」
「そうかい。まあ、こいつは興味を持つと質問が止まらなくなるからな」
「ふふ。それはよく分かりました」
二人が顔を見合わせて笑う。どうやら俺の知らないところで意見が一致してしまったらしい。
「もう少しお時間はございますか?せっかくですからお茶でもいかがでしょう」
「そうだな。一息つかせてもらうか」
リディアは使用人に飲み物を頼むと、レオナを隣の椅子へ案内した。使用人が退出したのを確かめてから、彼女は俺に向かって微笑んだ。
「ユウさんとは、南方のお話以外にもいろいろお話ししましたのよ」
「へえ。何の話だ?」
「秘密です」
「……何だそりゃ」
レオナが眉を寄せると、リディアは楽しそうに笑った。
「もちろん冗談です。ただ、ユウさんから大切なお話を伺いましたので」
レオナの視線が俺に向いた。
「ああ。男性だってことは話したよ。リディアさんなら信用できると思ったから」
「……そうか」
レオナは一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、すぐにリディアへ向き直った。
「悪いな。事情があって隠してるんだ。内密に頼む」
「もちろんです。ユウさんにもお約束しましたわ。それに、レオナがあれほど心配していた理由も分かりました」
「別に、男だからってだけじゃねえよ。こいつは放っとくと何するか分からねえからな」
「そんなに無茶な方なのですか?」
「まあ、いろいろとな」
「ちょっと、レオナ。変なこと言わないでよ」
「事実だろ?」
反論しようとしたが、これまでの旅を思い返すとあまり強く出られない。リディアはそんな俺たちを交互に見て口元を綻ばせていた。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」
「そう見えます?」
「ええ。レオナがこんなに楽しそうに話しているのは久しぶりに見ました」
「おい、余計なこと言うなよ」
「ふふ。失礼しました」
レオナは呆れたように肩をすくめたが特に怒っている様子はなかった。
しばらくしてお茶が運ばれてくると、リディアは南方の地図について説明を始めた。古い街道の位置や現地の商館に問い合わせる予定などを聞き、レオナも真剣に耳を傾ける。
「なるほどな。確かに次の港からなら、その道が使えそうだ」
「ええ。ただ、目的地に近い地域の事情はもう少し調べる必要があります。明日、詳しい者に話を聞く予定ですの」
「明日も来るのか?」
「うん。リディアさんと約束したんだ」
「そうか……」
レオナはカップに口をつけた。ほんの少し考えるような間があったが、すぐに頷いた。
「まあ、調べられることは調べといた方がいいな」
「そうでしょう?わたくしもそう思います」
リディアは嬉しそうに同意したあと、思い出したように続けた。
「そういえば、ユウさん。よろしければ今夜はこちらにお泊まりになりませんか?商館にも客室がございますし、屋敷の方でしたらもっとゆっくりお過ごしいただけます。明日も資料をご覧になるのでしたらその方が便利でしょう?」
「いやいや、ちょっと待て」
レオナがすぐに口を挟んだ。
「こいつには船に部屋がある」
「ええ、存じております。でも、せっかく陸に着いたのですから広いお部屋でお休みいただくのもよろしいかと思いまして」
「船の部屋だって別に不自由はしてねえよ」
「あら、そういう意味で申し上げたのではありませんわ」
二人の視線が俺へ向けられた。
「ユウさんは、いかがなさりたいですか?」
リディアに尋ねられ、俺は少し考えた。立派な屋敷に泊まれるというのは魅力的だが船には自分の荷物もあるし、何よりあの部屋にはすっかり慣れていた。
「ありがとうございます。でも今日は船に戻ろうと思います。レオナにもお世話になってるし」
「そうですか。承知しました」
リディアは少し残念そうだったが、すぐに微笑んだ。
「では、明日はぜひ昼食をご一緒させてくださいませ。今日ご案内できなかったお店もございますし」
「あ、それは楽しみです」
「ふふ。よかった」
レオナが隣で小さく咳払いをした。
「……お前、明日は資料を調べに来るんじゃなかったのか?」
「もちろんそれもやるよ。でもせっかくだし」
「まあ、好きにしな」
そう答えたレオナは、なぜか少し不満そうに見えた。
「レオナもご一緒にいかがですか?」
「明日は積み込みの確認があるからな。昼に抜けられるか分からねえ」
「それは残念ですわ。ユウさんには、わたくしが責任を持って楽しんでいただきますね」
「……ああ。頼むよ」
レオナの返事が妙に短い。リディアは相変わらずにこやかだったが、二人の間にはどこか不思議な空気が流れていた。話題を変えようと俺は昼間に食べた焼き菓子の話をした。
「そういえば、リディアさんに教えてもらったお菓子、すごく美味しかったよ。レオナも今度食べてみてよ」
「ああ、あの店か。知ってるよ」
「えっ、そうなの?」
「何度もこの港に来てるんだぞ。そりゃ知ってるさ」
「じゃあ、次はレオナとも行きたいな」
何気なく言うと、レオナは少し驚いた顔をした。
「……そうか。まあ、時間が合えばな」
「約束ね」
「はいはい」
レオナが笑うと、リディアも微笑んだ。
「では、わたくしもご一緒してよろしいでしょうか?」
「もちろんですよ。三人で行ったら楽しそうですね」
「ふふ。ありがとうございます」
リディアは満足そうに頷いた。レオナも笑っていたが、なぜか二人とも互いの顔を見ている時間が少し長かった。やがて窓の外が暗くなり始めたので俺たちは帰ることにした。
「今日は本当にありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。お会いできるのを楽しみにしておりますね」
リディアは丁寧に頭を下げたあと、レオナへ向き直った。
「レオナ、ユウさんをよろしくお願いします」
「言われなくても分かってるよ」
「ふふ。そうですわね」
二人は最後に笑顔を交わした。
商館を出ると、港へ続く道には明かりが灯り始めていた。俺は隣を歩くレオナに今日見た街のことやリディアから聞いた話をあれこれ聞かせた。レオナはいつものように相槌を打ってくれたが、リディアの話になるとなぜか少しだけ返事が遅くなることがあった。
船に戻った頃には港の空はすっかり暗くなっていた。係留中の船には最低限の当直を残してあるが、昼間の騒がしさはもうない。
「じゃあ、俺は部屋に戻るね。今日は迎えに来てくれてありがとう」
「ああ。明日も出かけるんだろ?あんまり遅くなるなよ」
「分かってるって。おやすみ、レオナ」
「おう。おやすみ」
ユウが廊下の奥へ消えるのを見届け、レオナは船長室へ戻った。
机には副長がまとめた荷役の報告書が置かれていた。明日の積み込み予定を確認し、出航前に点検する設備の一覧へ目を通す。いつもの仕事をいつもの手順で片づけているうちに、自然と昼間の出来事を思い返していた。
リディアとは何度も仕事をしてきた。若いながらに商才があり、港の事情にも詳しい。多少食えないところはあるものの約束を違えるような女ではない。ユウを任せる相手としては申し分ないはずだった。それなのに、商館でのやり取りを思い出すとどうにも落ち着かない。男性に興味を持つこと自体は不思議ではない。ただ、リディアは誰彼構わず屋敷に招くような女でもなかった。まして出会ったばかりの相手に自分の予定を空け、翌日の昼食まで約束するとは。
「……気に入ったんだろうな、あいつのこと」
呟いてから、レオナは椅子の背にもたれた。
リディアには金も人脈もある。必要なものを揃え、面倒事を片づけ、旅先にまで手を回せる。今日もユウのために古い地図を探し出し、南方の商人への紹介まで申し出ていた。自分には到底できないことだった。
もちろん、船長としてなら負けるつもりはない。どんな港へ向かうにも自分の船を安全に飛ばす自信がある。それにユウが今夜、リディアの屋敷ではなく船へ戻ることを選んでくれたのは、素直に嬉しかった。
だが、南の港へ着いたらどうなる。ユウは自分の過去を探している。そのために南へ向かうのであって、いつまでも船に乗っているわけではない。目的地まで送り届けたら、そこで別れる。それが最初から決まっていた話だった。
レオナは報告書を一枚めくり、書かれている数字を眺めた。内容は頭に入ってこなかった。リディアならユウが船を降りたあとも力になれるだろう。紹介状を渡し、宿を手配し、困った時には商会を頼るよう勧める。そうやって関わり続けることができる。一方で自分は次の荷を積んでまた空へ戻る。
「……ったく」
何を張り合っているのだろう。ユウにとって頼れる相手が増えるのはいいことだ。記憶も身寄りもなく一人で見知らぬ土地へ向かおうとしているのだから、助けてくれる人間はいくらいたって困らない。
それは分かっている。それでも、ユウが楽しそうにリディアの話をしていた時、面白くないと思ってしまった。今度はレオナともあの店へ行きたい、と言われた時には嬉しかったくせに、三人で行こうという話になった途端残念に感じた自分までいる。
「……私も大概だな」
仕事でリディアに会う時ならどんな駆け引きでも受けて立てる。ところが今回は、相手が何かを仕掛けてきたわけでもないのに勝手に振り回されている。
しばらくして、レオナは机の端に置いた明日の予定表を引き寄せた。積み込みの確認は午前中に集中している。順調に進めば昼過ぎには時間を作れるかもしれないが、無理に仕事を早めるつもりはなかった。
ただ、ユウが帰ってきた時に今日何を見たのか聞く時間くらいは欲しい。そう考えながら書類を片づけてレオナは灯りを一つ落とした。明日もユウはリディアに会いに行く。止める理由はないし、そのつもりもない。けれど帰ってきた時、真っ先に話を聞く相手くらいは自分でありたかった。