第一話
石の床は冷たく、体温を容赦なく吸い取っていく。狭い牢の中、悠は膝を抱えたまま、しばらく身動きが取れずにいた。鉄格子の隙間から、潮騒に似た音がかすかに響いてくる。
「ここは…どこだ?」
――海の匂いがする。
窓のない部屋だというのに、そう感じた。ここがどこかの島であることだけは、なぜか本能的に理解できた。
物音に振り返ると、部屋の隅、藁を敷いただけの粗末な寝床の陰に、小さな影が縮こまっているのに気づいた。膝を抱え、こちらの様子を怯えたようにうかがっている少女だった。
悠と目が合った瞬間、少女はびくりと肩を震わせ、慌てて視線を逸らす。それからおずおずと、また盗み見るようにこちらを窺う。その仕草を、何度か繰り返した。
「……あ、あのぉ…」
消え入りそうな声だった。悠が黙って続きを促すと、少女はさらに身を縮め、今にも泣き出しそうに眉を下げた。
「お、起きましたか……? わたし怖くて、声をかけていいのか、ずっと迷ってて……ごめんなさいっ」
「いや…謝る必要はないよ」
悠が静かにそう返すと、少女は驚いたように顔を上げ、それからほっとしたような、でもまだ半分泣きそうな表情を見せた。
「名前、聞いてもいい?」
「メ、メルルです……氷上メルル。あの、あなたは……?」
「鳴上悠、宜しく」
名乗ると、メルルは膝を抱えたまま、悠の顔色を窺うように何度か視線を往復させた。他人の感情の機微に、過剰なほど敏感な子なのだと、その仕草だけで悠には察しがついた。
「……鳴上さん、ここに来たばかり、ですよね。その顔……みんな最初は同じ顔をするから、分かるんです」
「教えてくれるか。ここが、どういう場所なのか」
メルルは俯き、しばらく指先をもじもじと絡ませていたが、やがて意を決したように、小さく息を吸った。
「ここは絶海の孤島にある、牢屋敷なんです。わたしたちみたいに集められた少女は、全部で十三人…」
「その中に、一人だけ『魔女』が紛れ込んでいるって、そう言われていて…」
「魔女…?」
「はい……魔女はわたしたちを陥れたり、傷つけたりする力を持っていて。でも誰が魔女なのか、見た目じゃ絶対に分からないんです。だから……」
メルルはそこで一度言葉を切り、震える声を絞り出すように続けた。
「事件が起きるたびにみんなで話し合って、疑わしい人を見つけ出して裁判にかけるんです。それで、有罪になったら……」
最後まで言わせるのは酷だと、悠にも分かった。だがメルルは、涙で潤んだ目を悠にまっすぐ向け、消え入りそうな声でそれでも続けた。
「……処刑、されてしまいます」
沈黙が牢の中に落ちる。鉄格子の向こうから、遠くかすかに、波の音だけが規則正しく響いていた。
自分がなぜ、この孤島に、この状況に放り込まれたのか。手がかりは何もない。それでも悠は、目の前で怯えながらも懸命に説明してくれる少女――この場所の「理」を知る、ほとんど唯一の存在から、一つでも多くの情報を引き出すことに意識を集中させた。
「じゃあメルルも疑われてここに?」
「わたしはまだ事件が起きてないので、誰も疑われていない、はず、なんですけど……」
メルルはそこで、怯えたように自分の両手を強く握りしめた。
「でも……いつか、わたしが疑われる日が来るんじゃないかって……そう思うと、怖くて……」
消え入りそうな声で紡がれたその言葉には、この牢屋敷で過ごした時間の分だけ、澱のように積もった不安が滲んでいた。
メルルは膝を抱えたまま、鉄格子の外にちらりと視線をやった。まるで、そこに誰かが聞き耳を立てていないか確かめるような仕草だった。
「ここにはわたしたちを入れて、十三人。みんな同い年くらいたまと思います」
「みんな、突然この島に?」
「はい……朝、目が覚めたら、もうここにいて……フクロウさんがそう教えてくれました」
「フクロウ?」
「ゴクチョーさんっていう……喋る、フクロウさんなんです。わたしたちは『魔女になる因子』を持っいますのでここに集められたと…それでストレスがかかると、その因子が魔女化して『なれはて』っていう、化け物になってしまうんだって」
メルルの声が、そこでわずかに震えた。
「だから……ここで穏やかに暮らせなかったら、いつか自分も、そうなってしまうかもしれない……そう思うと」
そこまで言って、メルルは慌てて首を振った。今は自分の不安より先に、伝えるべきことがあると思い出したかのように。
「あ……えっと、他のみんなのことも、話した方がいいですよねっ」
メルルは指を折りながら、たどたどしく名前を挙げていった。
「桜羽エマさん。いつも明るくて、優しい人です。でも本当は寂しがり屋で、嫌われることを、すごく怖がってる」
「二階堂ヒロさん。成績も良くて、礼儀正しくて、皆から慕われてる人。でも、正義感が強すぎるところがあって…『正しくない』って思ったものには、容赦がなくて。ちょっと、怖いです」
「夏目アンアンさん。あまり部屋から出てこなくて…人と関わるのが苦手、みたいで」
「橘シェリーさんは、とても力が強くて……何でも壊しちゃうくらい。でも、悪い人じゃないんです」
そこまで話すと、メルルは一度言葉を切り、少し困ったように眉を下げた。
「他にも、沢渡ココさんや、佐伯ミリアさん、紫藤アリサさん、宝生マーゴさん、黒部ナノカさん、遠野ハンナさん、城ケ崎ノアさん、蓮見レイアさん……色々な人がいて。まだ、わたしもみんなのこと、全部は分かってなくて」
メルルは膝の上で、指先を落ち着かなげに絡ませた。
「みんな……悪い人には見えないんです。それが、余計に……怖いんです」
その言葉に、悠は静かに頷いた。誰が敵で誰が味方か分からない。その恐怖には、覚えがあった。
「魔女裁判というのは、いつ開かれんだ?」
「事件が……誰かが襲われたり、殺されたりしたときに。それまでは……普通に、囚人として過ごすだけです」
「つまり、それまでは時間があるということか」
「はい……でも」
メルルは、震える声でそう続けた。
「その『それまで』が、いつ終わるかは……誰にも、分からないんです」
鉄格子の外を、冷たい潮風が通り抜けていく音がした。悠はその音に耳を澄ませながら、静かに情報を頭の中で整理していく。十三人の少女、正体不明の魔女、そして避けられない裁判。手がかりは少ないが、動くべき時が来れば、迷わず動けるように。
「鳴上さんは……その、どうしてここに?」
メルルが、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。ここまで一方的に施設のことを教えてもらった以上、当然の問いだった。
「分からない。俺自身、何も」
「……そう、ですよね」
メルルは小さく頷いたが、その表情にはまだ拭いきれない緊張が滲んでいた。
「実は……鳴上さんが現れたの、わたしたちが集められてから、二日後の事なんです」
「二日後?」
「はい。昨日の夜、二十二時くらいにわたしがそろそろ寝ようとしていたら、誰も入っていなかったはずの私の部屋から物音がして。見たら、鳴上さんが……いつの間にか、そこに」
メルルはその時の恐怖を思い出したのか、わずかに肩を強張らせた。
「それで、あの……怖くて、しばらく声もかけられなくて」
「怖がらせて悪かった」
「い、いえ……鳴上さんが悪いわけじゃ、ないので」
メルルは慌てて首を振ってから、声を落として続けた。
「今、鳴上さんがここにいるって知ってるのは、わたしだけです。他のみんなは、まだ眠ってて……誰も、気づいてません」
「なら、明日の朝、皆に集まってもらえないか。俺のことを話す」
その申し出に、メルルは一瞬言葉に詰まった。すぐには頷かず、何かを言い淀むように視線を彷徨わせる。
「……分かりました。朝になったら、伝えます。でも……」
メルルは声を潜め、まるで壁の向こうに誰かがいるのを恐れるように、悠に顔を寄せた。
「その前に、鳴上さんに知っておいてほしいことが、あります」
「知って欲しい事?」
「二日前の朝……二階堂ヒロさんが、殺されました」
悠の中で、何かが冷たく引き締まるのが分かった。
「看守さんに、です。ゴクチョーさんの横やこの館内に私達は見張る為いるんです。その人にヒロさんが、その番人に何か逆らってしまい…それで」
メルルの声は、そこで震えを帯びた。
「看守に逆らうとどうなるか、その目で見た、ということか」
「……はい」
メルルは膝の上で拳を握り、絞り出すように言葉を継いだ。
「だから、お願いです。鳴上さんも……絶対に、看守さんやゴクチョーさんに逆らわないでください。何を言われても、何をされても……」
その声には、単なる忠告以上の、切実な響きがあった。自分よりもむしろ、目の前に現れたばかりの見知らぬ相手を案じているような。
「分かった。心に留めておく」
悠が短くそう答えると、メルルはようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「……明日、ちゃんと話しますから。今日は、もう休んでください」
悠は頷き、藁を敷いただけの粗末なベッドへと視線を戻した。まだ何も分からないことだらけだが、少なくとも、朝が来るまで動くべきではないということだけは理解できた。
悠は静かに立ち上がり、自分が寝ていたはずのベッドへと、再び腰を下ろそうとした。
だが、そこで悠はふと動きを止めた。
この部屋は、二段ベッドが一つ置かれているだけの、狭い空間だった。下段には、メルルの荷物らしき僅かなものが置かれている。つまり、これから一晩…見ず知らずの少女と同じ部屋で夜を明かすことになる。
その事実に、今更ながら気づいしまった…!!
「……メルル。一つ聞いておきたい」
「な、なんでしょう」
「本当に、俺がこの部屋にいて構わないのか。お前にとっては、見ず知らずの人間だろう」
メルルは、その問いに一瞬きょとんとした顔をした。それから、悠の言わんとしていることに気づいたのか、みるみるうちに顔を赤くしていく。
「そ、それは……」
もじもじと指を絡ませながら、メルルは俯いた。しばらく答えが返ってこなかったが、やがて消え入りそうな声で口を開いた。
「わたしも、その……最初は、驚いたし、怖かったですけど……。鳴上さんは、悪い人には見えないので……」
「無理をしているなら、正直に言ってくれていい」
「む、無理はしてません……! ただ、その……」
メルルは真っ赤な顔のまま、ちらりと二段ベッドの上段を見上げた。
「ここ、部屋、他に空いてる場所もないですし……あの、上の段を、鳴上さんが使ってくれるなら……わたしは、大丈夫、です」
消え入りそうな声で、それでもはっきりと、メルルはそう告げた。恥ずかしさを堪えるように俯いたまま、視線だけはちらちらと悠の反応を窺っている。
「……分かった。世話をかける」
「い、いえ、その……こちらこそ、よろしくお願いします」
メルルはそう言うと、逃げるように自分のベッドへ潜り込んだ。毛布を口元まで引き上げ、それでもなお、悠の様子をちらりと盗み見ている。
悠は小さく息をつくと、梯子に手をかけ、上段のベッドへと身体を持ち上げた。硬い藁の感触が背中に伝わる。天井は思ったよりも近く、狭い牢の中であることを、改めて実感させられた。
――明日、皆と顔を合わせることになる。
どんな反応が返ってくるかは分からない。だが、今はただ、この状況を受け入れる他になかった。
悠は静かに目を閉じる。階下では、メルルの小さな寝息が、やがて規則正しいものに変わっていった。
その夜、牢屋敷は不気味なほどの静寂に包まれていた。
瞼の向こうに、青い光が滲んでいた。
目を開けると、そこは慣れ親しんだ揺れの中だった。軋むような車輪の音、窓の外を流れていく虚無の闇、天鵞絨に包まれたような重い空気。そのすべてが、遠い記憶を呼び覚ます。
――ベルベットルーム。
向かいの座席には、いつものように二つの人影があった。異様に長い鼻と、爛々と輝く双眸を持つ老人。その傍らに控える、片方だけ露わになった瞳を持つ金髪の女性。
「イゴール……マーガレット」
悠が名を呼ぶと、二人は同時にこちらへ視線を向けた。まるで、長い時を経て再び巡り会った者たちを迎えるかのような、静かな笑みを湛えて。
「これはこれは……ずいぶんと、久方ぶりのご来訪ですね」
イゴールの声は、記憶にあるままの深く落ち着いたものだった。
「ようこそ、我らが客人。あなたと絆の力が結ぶ限り、この部屋は幾度でもあなたを迎え入れましょう」
「ここは、どこなんだ。俺は今……」
悠は問いを発しようとしたが、その先を続ける前に、マーガレットが静かに口を開いた。
「申し訳ございませんが、その問いにお答えすることは叶いません。今のあなたには、まだ早すぎるのです」
「……教えてくれないのか?」
「すべては、あなた自身の力で見出すべきもの。それが、この部屋の理でございます」
取り付く島もない答えだったが、その口調には、以前と変わらぬ確かな信頼の色があった。悠は小さく息をつき、質問を重ねることをひとまず諦めた。
イゴールが、その長い指を組み替えながら続けた。
「あなたは今、見知らぬ地に足を踏み入れられた。かつて、あの八十稲羽の街で立ち向かった深き霧の謎と同じく――いや、それ以上の困難が、あなたを待ち受けているでしょう」
「……あの島で起きていることか」
「ええ。あの地には『魔女』と呼ばれる存在が潜んでいる。人の心の奥底より生まれ出づる、強大な力を宿した者たちが」
イゴールの双眸が、一段と鋭さを増した。
「その力は、あなたが過去に対峙してきたいかなる敵にも劣らぬ、深く歪んだ闇を孕んでいる。油断すれば、命さえも容易く刈り取られるでしょう」
その言葉の重みに、悠は自然と拳を握りしめていた。二階堂ヒロという少女が、番人によって命を奪われたという話を思い出す。あの理不尽さの正体が、ここでいう「魔女」の力の一端なのだとしたら。
「あなたには、再びその力が必要となりましょう」
マーガレットが静かに告げると同時に、悠の胸の奥で、何かが疼くように熱を持った。
「困難に立ち向かうための、もう一つの己――」
イゴールの声が、部屋全体に響き渡るように重みを増していく。
「人格の仮面――ペルソナを、今一度その身に宿すのです」
その瞬間、悠の内側で、青白い光が弾けた。かつて幾度となく呼び覚ました感覚――自らの心の奥底にある、もう一人の自分と向き合う感覚が、鮮明に蘇る。光は渦を巻き、彼を中心にして車内全体を満たしていった。
その光の奔流の中で、悠は静かに目を閉じ、そして再び見開いた。
力は、確かに戻っている。
「あの島で待つ謎と、そして『魔女』たちと――向き合う覚悟は、おありですか」
イゴールの問いに、悠は迷いなく頷いた。
「ああ」
短く、しかし確かな答えだった。それを聞いたイゴールは、満足げに、いつもの不敵な笑みを深めた。
「よろしい。ならば、征きなさい。あなたの物語は、既に動き出しているのですから」
再び、青い光が悠を包み込んでいく。車輪の音が、遠くから響く鐘の音へと変わっていくのを、悠は微睡みの中で聞いていた。