第二話
差し込む朝日に、悠はゆっくりと瞼を開けた。
昨夜の出来事が現実のものだったと再確認するように、狭い天井を見上げる。二段ベッドの軋みが、身じろぎのたびに小さく響いた。
――今日、皆と顔を合わせることになる。
覚悟を決めて梯子を下りると、下段のベッドはすでに空だった。メルルの姿がない。
「メルル?」
呼びかけても返事はなかった。悠は牢の扉に手をかける。昨夜は施錠されていたはずのそれは、拍子抜けするほど呆気なく開いた。
廊下を進むと、奥から人の話し声と、複数の足音が響いてくる。悠はその音を頼りに歩みを進めた。
角を曲がった瞬間、視線がぶつかった。
石造りの大広間の入り口付近に立っていた、赤みがかった髪の少女――こちらに気づくなり、その目が大きく見開かれる。
「ギャッ!?誰!?」
悲鳴に近い声だった。少女は数歩後ずさり、それから慌てて広間の奥へと駆け戻っていく。
「しまった…」
「ちょっ…みんな!なんか知らない奴いるんだけど!?」
その叫びが、静かだった広間の空気を一変させた。
悠が広間に足を踏み入れたときには、すでに十人近い少女たちの視線が、一斉にこちらへ突き刺さっていた。ざわめきが波のように広がり、何人かが咄嗟に距離を取る。
――まずい。
メルルから聞いていた予定とは、明らかに違う流れだった。彼女が先に事情を説明してくれるはずが、こんな形で発覚することになるとは。悠の内側で、微かな焦りが生まれる。だが顔には出さず、悠はその場に立ち止まったまま、静かに周囲を見渡した。
「アンタ、何者なんだよ」
前に進み出てきたのは、髪を乱雑に整えた、目つきの鋭い少女――紫藤アリサだった。腕を組み、悠を睨みつけている。
「昨日までこんな奴、いなかったよな?急にどっから湧いて出てきた?」
「……外から。この牢屋敷の構造上、簡単には入れない」
その隣で、抑揚のない声を挟んだのは、黒部ナノカだった。感情の読めない目で、じっと悠を観察している。
「侵入経路は限られてる。それなのに、いる。……不自然ね」
「となると…ますます怪しいな」
アリサは、ナノカの言葉を引き継ぐように、悠との距離を一気に詰めた。
「何しに来たんだよ。アンタ、味方なのか、それとも――敵なのか、はっきりさせろ」
三方から向けられる視線には、隠しきれない敵意と警戒が滲んでいた。悠は即座に言葉を返そうとしたが、質問の勢いに割って入る隙間もない。
「答えろよ。つーか…どうやってここに来た?」
「目的は」
ナノカが、抑揚のない声で短く追い打つ。
次々と浴びせられる問いに、悠は静かに息を吸った。焦って言葉を重ねても、この状況では逆効果になる。冷静に、一つずつ答えるべきだと判断する。
「待つんだ」
凛とした声が、その場の空気を切り裂いた。
声の主は、広間の中央に佇む、姿勢の美しい少女――蓮見レイアだった。舞台の上で培った、芝居がかった抑揚のある佇まい。それでいて、この場の全員を庇うように前へ出る、責任感の滲んだ立ち姿だった。
「みんな、いっぺんに詰め寄ったんじゃ、答えられるものも答えられないよ。それにね――」
レイアは、悠とアリサたちの間に、体でさりげなく割って入った。
「まだ何が起きるかも分からない相手を、大勢で囲むのは危険だよ。何かあったら、一体誰が責任を取るのかな?」
「レイア……でも、まだこいつが敵じゃねぇって決まったわけじゃねぇだろ」
「事情があるなら、まずは知ってる人から聞くのが筋ってものだろ?」
レイアは、広間の入り口をちらりと見やった。
「メルル、君は知っているんだろう? 彼の事を」
その視線の先――悠が入ってきた廊下の方から、遅れて駆けつけたメルルの姿があった。息を切らし、この状況に狼狽えたように立ち尽くしている。
「わ、わたし……その、伝えようと思ってたんですけど……すみませんっ!」
「メルル君がよければ安心して話して欲しい。大丈夫……みんなもちゃんと聞いてくれるかい?」
レイアの言葉に、周囲からも同調するような声が上がった。
「そうですねぇ、まずはお話聞いた方がいいですよ! なんだか面白そうですし!」
場違いなほど朗らかな声を上げたのは、快活そうな笑みを浮かべた少女――橘シェリーだった。好奇心を隠しもせず、悠の方をまじまじと観察している。
「え、っと……そう、だよね。いきなり怒ったりしたら……メルルちゃんも、話しにくい、よね」
控えめに、おろおろと視線を泳がせながらそう続けたのは、佐伯ミリアだった。周りの勢いに気圧されているのか、言葉の端々が途切れがちになる。
「うん、メルルちゃんの話、聞こうよ」
もう一人、明るい笑顔を絶やさない少女――桜羽エマも、宥めるように周囲に声をかける。その笑顔の裏に、束の間だけ緊張の色が過ぎったのを、悠は見逃さなかった。
徐々に、広間の空気が落ち着きを取り戻していく。ココも、アリサも、ナノカも、まだ警戒を解いてはいないものの、ひとまず口を噤み、メルルへと視線を向けた。
その視線の圧に、メルルは小さく身を縮めながらも、ゆっくりと前へ進み出た。
「あの……昨日の夜、遅くに……この人が、隣の空き部屋から、突然現れたんです」
メルルは、震える声を必死に落ち着けながら、昨夜の出来事を一つずつ語り始めた。二十二時ごろの物音、部屋にいたはずのない人影、驚きと恐怖、そして自分自身も何が起きたのか分からなかったこと。
「本人も……どうしてここに来たのか、分からないって言っていて……。でも、悪い人には見えなくて……それで、朝になったら、皆に紹介しようって、約束してたんです」
説明が進むにつれ、広間を満たしていた張り詰めた空気が、少しずつ緩んでいくのが分かった。だが、完全に警戒が解けたわけではない。アリサは腕を組んだまま、値踏みするような目つきを崩さず、ナノカは相変わらず一言も発さず、悠の一挙一動を観察し続けている。
「……つまりオニーサンも、あてぃしらと同じで、わけわかんないままここに放り込まれたってこと?」
沢渡ココが、ようやく警戒を緩めたように、悠へと顔を向けた。
「やっぱさ…ここってそういうのってあるんじゃね? 誰にも限らず急に知らない場所にいた、みたいな」
「ああ」
悠は短く頷き、初めて自分の言葉で口を開いた。
「俺自身、どうしてここにいるのか分かっていない。だが――」
悠は、広間に集まった少女たちの顔を、一人ずつ静かに見渡した。
「危害を加えるつもりはない。それだけは、はっきり言っておく」
その言葉に、場が静まり返ったのも束の間だった。
「……それだけじゃ、信じるには足りないんじゃないかしら」?」
広間の奥、柱に寄りかかるようにして成り行きを眺めていた少女が、気だるげに口を開いた。妖艶な雰囲気を纏った、宝生マーゴだった。
「メルルちゃんの話は分かったけれど……嘘をついている可能性だってあるでしょう? 別の目的があって、ここに来たのかもしれないじゃない」
「そんな……鳴上さんは、そんな人じゃ」
メルルが慌てて言い返そうとするが、マーゴはゆったりとした仕草でそれを制した。
「訳も分からずここにいた、っていうのは百歩譲って認めるとしても……みんなより遅れて現れたのよ? どう考えても、普通のことじゃないわ」
その言葉に、少し警戒を緩めかけていたココの表情が、再び強張った。
「た、確かに……それは、そうかも……」
「ゴクチョーに直接聞いてみればよろしいのではなくて?」
澄んだ声でそう提案したのは、お嬢様然とした振る舞いを崩さない少女――遠野ハンナだった。
「あの方はこの島の管理人ですわ。仮にこの殿方が皆様と同じ素質をお持ちなら、遅れて現れたことにも、何か事情がおありになるかもしれませんもの」
その提案に、悠の内心にわずかな緊張が走った。自分に「魔女の素質」などあるはずがないと断言はできる。だが、この状況でそれをどう証明すればいいのか、悠には見当もつかなかった。
「あ、あの! それ、あんまり意味ないと思う!」
割って入ったのは、桜羽エマだった。
「ボクも……魔法、使えないのに、ここに放り込まれてる一人だから。ゴクチョーに聞いたって、多分、どっちにしろ変わらないと思う」
「じゃあエマちゃん、代わりの案はあるんですかー?」
シェリーが、興味津々といった様子で首を傾げる。
「え、っと……とりあえず、少しだけ、一緒に過ごしてみたら、いいんじゃないかな。それで、様子を見るっていうか」
エマの提案に、広間はしばし沈黙した。
「……ちっ、なんか納得いかねぇけどな」
アリサが、腕を組んだまま吐き捨てるように呟く。ナノカも、マーゴも、依然として不服そうな表情を崩さない。だが、これ以上ここで言い争っても、結論が出ないことは誰の目にも明らかだった。
「なら、私がお目付け役をやろう」
沈黙を破ったのは、レイアだった。
「私が彼を見張るから、それでどうかな? 何かあれば、責任も私自身が持つ」
その申し出に、反対していた三人も、渋々ながら矛を収めた。ナノカもアリサもマーゴも、悠に向かって言葉をかけることはなく、そのまま無言で広間を後にしていく。
悠は小さく息をついた。
「ほ、本当にすみません……こんなことになるなんて」
「気にしていない。当然の反応だろう」
悠がそう返すと、メルルはほっとしたように肩の力を抜き、それからエマの方に向き直った。
「エマ、ありがとう」
「ううん、大したことしてないよ」
エマは照れくさそうに笑ってから、少し声を落として続けた。
「……メルルちゃんが、この人のこと信頼してるんだなって、分かったから。だから、庇うみたいな形になっちゃった」
「そうだったのか…助かった」
悠が礼を言うと、エマは嬉しそうに、それでいてどこか安堵したような笑みを浮かべた。
その場に残った少女たちが、順に悠へと向き直る。
「改めて――私の名は蓮見レイアだ。よろしく」
「桜羽エマです。よろしくね」
「遠野ハンナですわ。以後、お見知りおきを」
「橘シェリーでーす!仲良くしてくださいね!」
「さ、佐伯ミリアです。その、よろしくお願いします……」
順々に交わされる自己紹介を、悠は静かに聞きながら、一人ずつの顔を目に焼き付けていった。まだ何もかもが手探りの状況だが、少なくとも、この島でともに過ごす相手の顔と名前を、一つずつ知ることができた。
レイア、エマ、メルルの三人に伴われ、悠は監獄内をひととおり案内された。
食堂、共用の水回り、中庭に面した通路――限られた空間の中に、生活のための最低限の場所が詰め込まれている。案内が進むにつれ、この牢屋敷の構造が徐々に頭の中に組み上がっていった。
「一通り、こんな感じかな。何か分からないことがあったら、いつでも聞いてよ」
レイアがそう締め括った頃には、ちょうど昼を知らせる鐘が遠くで鳴った。
「あ、もうお昼の時間だ」
エマに促されるまま、四人は食堂へと足を向けた。長机に並べられていたのは、湯気の立つ大皿の料理だった。
メルルが、どこか複雑な表情でそう呟く。
「看守っていうのは……その、魔女の成れ果てですので……料理の腕とか、そういうのは、あんまり期待しない方がいいと思います…」
「味は保証しないから」
レイアも苦笑交じりにそう付け加えた。エマも心なしか身構えるように、皿を見つめている。
悠は皿を受け取ると、特に躊躇う様子もなく、料理を口へと運んだ。
三人の視線が、固唾を呑むようにこちらへ集中する。
――普通に、食える。
多少の癖はあるものの、想像していたほどの惨状ではなかった。悠は特に表情も変えず、二口目、三口目と口に運んでいく。
「……え、普通に食べてる」
「うそ、平気なのですか……!?」
エマとメルルが、揃って目を丸くした。少し離れた席で様子を窺っていたシェリーも、興味深そうに身を乗り出してくる。
「鳴上君、すごいな……この島の料理、平気な人、初めて見たよ」
レイアだけは、感心とも呆れともつかない表情で、小さく笑っていた。
悠は内心、静かに得心していた。
――これくらいなら、まだ食えるうちに入る。
脳裏に過ぎったのは、去年の夏、林間合宿での記憶だった。
「悠、味見してよ! 千枝と一緒に作ったんだから!」
満面の笑みでそう差し出してきたのは、雪子だった。隣で千枝が、なぜか誇らしげに腕を組んでいる。
「気合入れて作ったからね! 感想、期待してるから!」
差し出された鍋の中身は、色も匂いも、食べ物と呼んでいいのか判断に迷う代物だった。だが二人の期待に満ちた眼差しを前にして、逃げるという選択肢は存在しなかった。
「……いただきます」
一口目を飲み込んだ瞬間、喉から胃にかけて、得体の知れない衝撃が駆け抜けたのを、悠は今でも覚えている。
「どう、悠くん!? 美味しい!?」
「悠、正直に言ってね?言っとくけど、あたしらに嘘通用しないんだから」
詰め寄る二人に、悠はただ、静かに親指を立てて応えるしかなかった。それが二人にとって十分な答えになったのか、雪子と千枝は嬉しそうに顔を見合わせていた。
それから幾度となく、二人の「実験」に付き合わされることになった。合宿の度、新作だと称する得体の知れない料理が悠の前に並び、そのたびに彼は静かに完食してみせた。おかげで今の悠には、多少癖のある料理程度では動じない、確固たる耐性が備わっていた。
――あの二人には、いつか感謝を伝えるべきかもしれない。
目の前の皿を綺麗に食べ終えながら、悠はそんなことを、場違いにも思い出していた。
「鳴上さん、この島の生活、意外と向いてるのかも」
エマが、感心半分呆れ半分といった調子でそう言うと、レイアも同意するように頷いた。
「頼もしい限りだよ。これなら安心して見ていられそうだ」
悠はただ、静かに小さく笑みを返すだけだった。
「悠でいいよ」
礼を告げようとしていたエマに、鳴上はそう遮るように告げた。
「え?」
エマは、皿を持ったまま、その場で固まった。
「あ、えっと……その、悠……くんって、呼んでいいってこと……?」
「別に、様付けや苗字にこだわりはない」
「う、うん……その、じゃあ……悠、くん……」
自分で口にした瞬間、エマの顔がみるみる赤く染まっていく。俯いたまま、持っていた皿を落としそうになり、慌てて両手で持ち直した。
鳴上は、その反応に小さく首を傾げた。単に呼び方を変えただけのはずなのに、なぜここまで動揺するのか、正直なところ理解が及ばない。
「……鳴上くん」
隣で成り行きを見ていたレイアが、呆れたような、それでいてどこか面白がるような目でこちらを見た。
「君、もう少し女心ってものを理解した方がいいよ。男の子に名前で呼ばれることが、どれだけ緊張するものか」
「そういうものか?」
「そういうものなんだよ」
レイアはやれやれと肩をすくめると、真顔に戻って話を切り替えた。
「さて――そろそろ、今の状況について、ちゃんと話しておこうか」
食事を終えた四人は、食堂の隅の席に移った。レイアは声を落とし、順序立てて語り始めた。
「この島には、殺人事件を起こした魔女を裁判で見つけ出して、処刑するっていう仕組みがある。……つまり、これは一種の殺し合いなんだよ」
「殺し合い…」
「そう。だから、今までみんな、なるべく他人と距離を置いて生活してきた。誰が魔女か分からない以上、深く関わらない方が安全だからね」
その説明に、鳴上は静かに頷いた。メルルが最初に語った内容とも、辻褄が合う。
「ただ――中には、この島から脱出しようとしている人たちもいるんだ」
「エマを中心に、ハンナとシェリーが協力して、今も動いてる」
レイアはそこで、一度言葉を切った。
「でも……鳴上が『外から』突然現れたことで、状況が大きく変わった。もしかしたら、外と繋がるルートが本当にあるんじゃないかって、みんなの中で動揺が広がってる」
鳴上は、その言葉の重みを噛みしめるように、しばし黙り込んだ。
「俺が場を混乱させてしまってるみたいだな」
「気にしなくていいよ」
レイアは、あっさりとそう言い切った。
「元々、みんな限界に近いところで、なんとか踏みとどまってた。ヒロが殺されてから、まだ間もないしね……。あんな状況が続けば、誰だって、気が立つのは当然のことだよ」
その声には、責めるでも慰めるでもない、淡々とした事実としての響きがあった。
「だからこそ、今優先すべきなのは――『交流』だと思ってる」
「交流?」
「うん。この島じゃ、力ずくでどうにかできることなんて、ほとんどない。だったら、お互いへの信頼を深めることが、一番の防波堤になる」
レイアは、真っ直ぐに鳴上を見据えた。
「魔女化っていうのは、心が追い詰められた時に進むものだから。孤立させないこと、疑心暗鬼にさせないこと――それが、最悪の殺し合いを避ける、唯一の手段なんだよ」
「だから、俺にも……皆と交流を深めろ、ということか」
「そういうこと」
レイアは小さく笑うと、席を立ちながら鳴上の肩を軽く叩いた。
「せっかく仲間が増えたんだ。……ちゃんと、活かさないとね」
鳴上は、その言葉を静かに受け止めながら、これから向き合うべき道筋を頭の中で組み立て始めていた。
「ボク……ちょっと、心配なんだけど」
エマが、遠慮がちに切り出した。
「今の悠くんの立場で、いきなり交流って言われても……正直、話聞いてくれる子、そんなにいないと思う。ナノカちゃんも、マーゴさんも、アリサちゃんも……まだ、すごく警戒してるし」
「それは、そうだろうな」
鳴上自身、先ほどの広間でのやり取りを思い返せば、その不安は当然のものだと理解できた。信頼どころか、疑いの目を向けられている段階なのだ。
「でも、それしかないんだよ」
レイアが、あっさりとそう言い切った。
「時間をかけるしかない。焦って距離を詰めようとすれば、余計に警戒されるだけだからね」
「じゃあ、どうすれば……」
「簡単なことだよ」
レイアは、悠に向かって、小さく笑いかけた。
「一番遠い相手から始める必要はない。まずは、一番近くにいる人間から始めればいい」
「一番近くにいる人間?」
「そう」
レイアは、自分の胸に手を当てた。
「それは――このわたしだよ」
鳴上は、その言葉を静かに受け止めた。お目付け役として、これから最も長く時間を共にすることになる相手。確かに、理に適った提案だった。
「分かった」
短くそう答えると、レイアは満足げに頷き、席を立った。
「なら、決まりだね。まずはお互いのことを、もう少し知るところから始めよう」
その一言を最後に、四人は空になった皿を手に取り、片付けのために立ち上がった。食堂に残る食器の触れ合う音だけが、しばらくの間、静かに響いていた。
皿を重ねる手を止めた瞬間、視界の端に、見慣れた青い扉が浮かび上がった。
食堂の壁に、確かに存在するはずのないその扉が、静かに佇んでいる。導かれるように、鳴上は無意識のうちにそちらへ足を向けていた。
扉をくぐった先には、あの揺れる車内が広がっていた。
「またお会いできましたね」
イゴールが、いつもの深みのある声で迎える。傍らのマーガレットは、静かに一礼した。
「あなたに、伝えておきたいことがございます」
イゴールは、長い指を組み替えながら続けた。
「これから立ち向かうべき魔女の謎と困難――それを乗り越えるためには、あの島に暮らす少女たちと絆を育むことが肝要です」
悠は、その言葉に静かに耳を傾けた。ペルソナ4での経験――かつて幾度となく町の人々と結んだ絆が、心の中で新たな力へと姿を変えていったあの感覚が、記憶の底から蘇る。
悠が宿す力は、特定の一つの形に縛られない、多くの可能性を内包した「ワイルドカード」と呼ばれるものだった。人との絆を深めるたびに、その心の在り方が新たなペルソナとして具現化し、悠を助ける武器となる。逆に言えば、誰かとの繋がりを築かなければ、その力は生まれない。悠にとって、絆を結ぶことそのものが、戦うための力の源だった。
「ですが、今回は、これまでとは勝手が違います」
イゴールの声が、わずかに重みを増した。
「あの島の少女たちは、皆、固く己の殻に閉じこもっている。容易く心を開いてはくれないでしょう」
「分かっている。今のところ、その通りのようだ」
「ですが、絆を紡ぐ過程で、あなた自身がこの島にたどり着いた経緯――その記憶も、同時に思い出すことになるはずです」
その言葉に、悠はわずかに目を見開いた。自分がなぜここにいるのか、その手がかりが、絆の先にあるということか。
「これを、あなたに」
イゴールが差し出したのは、小さな携帯端末のようなものだった。手に取ると、ほのかに温かい感触が伝わってくる。
「少女たちがあなたとの交流を望んだとき、これが光を放って知らせてくれるでしょう。旅の供として、お使いなさい」
「分かった。預かる」
悠が端末を受け取ると、イゴールは一度目を伏せた。
「このような事態に、あなたを巻き込んでしまったこと……お詫び申し上げます」
「問題ない。俺は俺で、やるべきことをやるだけだ」
悠がそう答えると、マーガレットが静かに微笑んだ。
「変わっておられませんね」
「そのようです」
イゴールも、満足げにそう頷いた。
「では――あなたの旅路に、幸運のあらんことを」
その言葉を最後に、青い光が視界を包み込んでいった。
――気づけば、悠は食堂に立ったまま、静止していた。
「悠くん? どうしたの、急に固まって……」
エマが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「鳴上さん……? だ、大丈夫、ですか……?」
メルルも、不安げな表情でこちらを見上げていた。
「鳴上君?顔色は悪くないみたいだが…」
レイアも様子を窺うように歩み寄ってくる。
「問題ない。少し、考え事をしていただけだ」
悠が短くそう答えると、三人はひとまず安堵したように、それぞれ胸を撫で下ろした。
「そうだ。レイア、これからお前と交流を深めるという話だったな」
「ん?ああ、そうだったね」
レイアは、少し考えるように顎に手を当てた。それから、悠の顔をまっすぐに見つめ、こう切り出した。
「――劇に、興味はあるかい?」
。
「そうだ。レイア、これからお前と交流を深めるという話だったな」
「ああ、そうだったね」
レイアは、少し考えるように顎に手を当てた。それから、悠の顔をまっすぐに見つめ、こう切り出した。
「――劇に、興味はあるかい?」
レイアの問いかけに、悠はしばし考えを巡らせた。これから紡がれていくことになる、彼女との新たな絆――その最初の一歩が、今まさに始まろうとしていた。
レイアの問いかけに、悠はしばし考えを巡らせた。これから紡がれていくことになる、彼女との新たな絆――その最初の一歩が、今まさに始まろうとしていた。