他者を理解しましょう。
他者を尊重しましょう。
他者を認めましょう。
耳障りのいい言葉だ、こんな世界が実現すればどれだけ美しいか。だが無理だ。
人類とは簒奪し、蹂躙し、作り変えることでしか生きられぬ獣なのだから。
数分か、数刻か、時計のないこの部屋で時の流れはわからない。ただ、一つ言えるのはこよみは本を読み終えていた。内容は心の読める探偵が犯人を探すというもの。心が読めるのだから当然見た瞬間に主人公には犯人はわかる。ただ、主人公は心を読めるという特性を隠しており、周囲を納得させるために証拠を集めるというものだった。全体的によくできた話だった。
だが、話が幸福な結末を迎えない。犯人は捕まるので正確には良い結末ではあるはずだが、後味が悪い。所謂メリーバッドエンドというやつだ。本来は解るはずのない情報が主人公の心を読むという能力を通して読者まで流れてくるため、結果だけを見れば良い結末だが、主人公視点からすると苦虫を潰した様な後味が残る。
結論から言えば、この物語の犯人は、自らの妹に輪姦を行った犯人を殺すことが目的だった。その性犯罪者は逮捕されたものの、懲役数年で終わっておりすでに出所している。だが、その事件で精神を病んだ妹は数年後に自らの腹を割いて自殺していた。
その悲劇から数年。犯人は幸せな家庭を持ち、家族と食事をしていた時に、その犯罪者が仲間に武勇伝の様にそれを語っている姿を目撃してしまう。それはパンドラの箱だった。忘れようと心の奥底にしまっていた憎悪、法律が裁けなかった悪意。それを目にしてしまった犯人は綿密な計画を立ててその性犯罪者を殺害する。犯罪は完璧で隙もなかった。だが、心の読める主人公からすればただの詰将棋、本当に捕まえても良いのか、葛藤しながらも最後に犯人は逮捕される。犯人はこうなることを見越して、決意の瞬間に離婚していたので残された家族に大きな被害はなかった。だが、最後に主人公と会話した犯人の子供の、
「お父さんはね。優しくて、あたたかい」
という言葉は最悪だった。それに加えて、主人公の名前がこよみだったのが嫌な臨場感をこよみに感じさせていた。
「にしてもこの作者は...まぁいいか」
若干の睡魔に襲われ、小さなあくびをし、寝台に放った寝巻きとタオルを持ってこよみは部屋を後にする。燐の発言通り右に向かうと暖簾に湯と書かれた部屋があった。手で押しのけ、中へと入ると木製のロッカーに洗面台、奥には木製の扉があり、湯気が漏れている。まるで銭湯といった感じだ。適当なロッカーを一つ選び、服を脱ぐ。あの男に切られたパーカーを確認すると、腕一つ通るくらいの穴が空いていた。小さく舌打ちし、ロッカーに残りの服も入れ、腰に小さいタオルを巻いて風呂場へ向かう。木製の扉を開く湯気と湧き出る湯の音だけがこよみを迎える。そこには大浴場が一つ。石造りの部屋に鎮座していた。天井には光る石があり、十分ではないが、足元が見える程度には光源が確保されている。動物も動物もいない。シャワーを探して周囲を見渡すがそれらしきものはない。湯船があるだけ救いかと諦めたところで壁から滝の様に湯が沸いていることに気づく。下には湯船はなく、突き出した岩の上に石鹸が置いてある。その石鹸を借用し、体を洗い、湯船に入る。
思えば、なぜこんなにも普通に受け入れているのだろうか。人助けをして、攫われて、人外跋扈する世界で執事として働くことになった。摩訶不思議な、まるで脈絡のない夢のような話。もしかするとこれは夢なのだろうか。俺はあの時男に殺されていて、死の淵を彷徨いながら夢を見ている。そんな可能性もある。湯船に浸かりながら、ぼんやりとそんなことを考えていると突然風呂の扉が開かれる。
そこにいたのは桃色の髪に、コードの巻きついた少女。この館の主人。古明地さとり。彼女が生まれたままの姿でこ立っていた。空のような大きさはなく、燐の様な女性的な体躯でもない。成長途上の身体が視界に入る。
目線が交差した瞬間に扉が閉められ、再度開かれた時には何事もなかったと言いたげにタオルを巻いたさとりが現れた。
「クソありきたりな展開だな。嫌になる」
「私も同じことを思っています」
「てか、結局入るのな。いっておくが俺は男だぞ」
「わかっています。でも、私の成長途上の身体ではなんとも思わないのでしょう」
入ってくるさとりに前を向ける形でこよみが湯船で座っていると湯船に入る音と波紋が伝わってくる。淡々と話している様だが、さとりの言葉の端々から棘を感じ、こよみは観念した様にため息を吐く。
「バレるんだったな。その通りだ。だが、別に燐が入ってこようと空が入ってこようと別になんとも思わない」
「藍さんにあんなセクハラをしていたので、てっきりお空の様な体型が好みかと思っていました」
「あれは報復だ。別に俺がああいう身体が好きというわけではない。だからと言って発展途上が好きという犯罪者予備軍でもないが」
「発展途上、いい言葉を見つけてきましたね」
不満そうな雰囲気を感じながらこよみは苦笑で応じる。
「そういえば体に変化はありましたか」
「しっかり見てないが、特にないだろ。あってもサードアイが生えるみたいなわかりやすい変化ではない」
「隠しても無駄だと思うので、貴方を連れてきた理由の話をしましょうか」
「まぁ、ここに執事なんていらないもんな」
「その通り。貴方をここに連れてきた理由は、もう人ではないからです」
静寂。水が石を打つ音だけが響き、こよみは何も言わない。さとりはサードアイだけを背を向けて何も言わないこよみに向け続ける。
その静寂を先に破ったのはこよみだった。
「あの時、死んでたのか」
「いえ、貴方は死んでいません。あの時確かに橙さんを救っています。貴方の記憶と齟齬はないです」
「ならどういうことだ」
「神や妖怪がどうやって生まれるか知っていますか」
「さぁな」
「神は信仰、妖怪は畏れによって生まれます。例えば、私のようなさとり妖怪は心が読まれてしまうかもしれないという畏れです。つまりは想いによって生まれるんです」
「なるほど。だが、俺は信仰される謂れも、畏れられる謂れもない。それにしっかりと人間として生まれたはずだ」
「えぇ、その通りです。ただ、生きているうちに想いを集めると人間ではなくなってしまうのです」
「ファンタジーここに極まれりって感じだな。なら教えてくれ、俺はどんな想いを集めたんだ。畏れか、信仰か。そのどちらでもない何かか」
「信仰か、畏れかそれはわかりません。ただ、集めた想いはわかります」
「それは?」
「察して欲しいという想いです」
再度の静寂。淡々と続けられていた会話が途切れる。そして、こよみが笑い始める。そしてその余韻が消える前に言葉を続けた。
「察して欲しい?なるほど。人間らしいな。会話もせずに、自分がどう考えているのかを察してくれればそれはそれは楽だろうしな」
「はい。察して欲しいという想いは非常に強いものです。我々妖怪に向けられる畏れは科学の発展で少なくなっていますが、貴方のそれは私のものと同じ、科学ではまだ解決できないものです」
「人間卒業予備軍だってことは理解した。実感はないが。で、俺を連れてきたのは俺が何になるのかを監視するためか」
「はい」
「まぁ、一体何になるんだろうな。楽しみにしておく」
こよみは立ち上がり、風呂の出口へと向かう。さとりの方から小さな悲鳴が聞こえたが、腰にはタオルを巻いているので問題ない。そのまま歩き、扉に手をかけたタイミングでさとりに視線を向ける。
「あぁ、後一つ。多少は危機感を持てよ。男なんてのは狼なんだ。腹が減ってたら、どんな肉でも食おうとするもんだ」
それだけ言い残し、こよみは扉を開き、出ていった。残されたさとりは苦笑する。心を読める彼女にとって、彼は全く性的興奮を覚えておらず、ただ、余計なお世話として発した言葉であることは理解していた。
ただ、彼はそれを言いたいから言っただけ。若干の迷いはあったが、言わないで後悔するくらいであれば、言っておく。それが彼の思考回路だった。もし彼女が彼に対して優しいなどと口にすれば、俺の自己満足だと一蹴されただろう。
事実、彼は自己満足で行動している。ただし、そもそもその心中に他者を心配する優しさがなければその言葉すら出ない。つまるところ、彼は優しい。そして、優しいが故に孤独を選択した。