1,姑蘇は良いとこ、一度はおいで
蓮花塢の執務室で江澄が公務に追われていると、一羽の蝶がひらひらと風通しの良い格子窓から迷い込んできた。
金色に輝く蝶は向こう側が透けており、実体がない幻なのは一目瞭然だった。
江澄がその蝶に指で触れると、聞き覚えのある声が早口で伝言を伝え始めた。
「よう、江澄、お前も元気にやってるか?! また疲れた顔で、面倒くさいことをあれこれ考えているんじゃないかとお兄ちゃんは心配でさ! それでこの間、藍湛と彩衣鎮の祭りに行ったんだ。いやぁ、なかなか賑わった祭りでさ。なんとくじ引きで一等賞が当たってしまって、あれって面白いよな〜。くるくる回すと、丸い玉が出てきて、何色が出たかで景品が決まるんだ! 俺なんてなんとなんと……」
とここまで一気にまくし立てたところで蝶は寿命が尽きたかの様に消え失せた。
今の意味不明な喚きを頭の中で反芻してみてもさっぱり分からず、江澄の眉間の皺が深くなる。
で、一体何が当たったんだよと、妙に気になってしまった自分にも余計に腹が立った。
「あのバカ、ただの自慢か!」
急にムカムカしてきた江澄は散々魏無羨への文句をブツブツ呟くと、そのまま伝言のことは忘れることにした。
そしてそんなはた迷惑な伝言蝶のことなどすっかり忘れてしまった頃。何故か蓮花塢に藍忘機がやって来た。
応対に出た江家の修士らは、微動だにしない藍忘機の無表情に怯え、おずおずと用件を聞いたそうなのだが、「江晩吟に直接伝える」の一点張り。
やむなく遊行に出ていた江澄の元へ知らせが飛び、駆けつけた憐れな弟子は半泣きで訴えかけてきた。
「お願いですから、すぐに仙督のお相手をなさってください! 一言もお話ししてくださらなくて、もう凄まじい顔で睨まれるんです……!」
せっかく日頃の疲れを癒やそうと数日間絶対に探すなと命じて蓮花塢を出て来たと言うのにこれだ。
仕方がないから、急ぎ蓮花塢へ戻ると、藍忘機は出された茶には手を付けず、江澄の帰りを待っていた。
何故、よりにもよってこいつが来るんだ、と言う内なる疑問の声は置いておき、手つかずの茶に気がついた江澄は代わりの茶を出すように弟子に言いつける。
雲夢の茶は不味いなどと不評を買っては江澄としても納得がいかない。
だが藍忘機の訪問の目的は茶とはまったく別のことだった。
「何をしている」
開口一番そう言われた江澄は一瞬固まり、自分の他に誰か居るのかと思わず周囲を見渡しそうになってしまった。
しかし藍忘機を待たせていた試剣堂にいる人物は彼らのみである。
しばらくの
「なにがだ」
と聞いてみた。
「魏嬰からの連絡は行ったはずだ」
「連絡? 何の話かさっぱり…… 俺はしばらく休んでいないから、久しぶりに遊行に出ようと今埠頭に船を待たせていて」
「ならばその船は断れ。急いで姑蘇へ向かうぞ。魏嬰と兄が待っている」
「あ?」
思わず声を大にして疑問を投げかけたくなった。
この尊大な御仁は一体何が言いたいのだろう。
突然やって来てこの態度、と思ったところでようやく思い当たることがあった。
あの訳のわからない自慢だけ伝えて消えた金色の伝言蝶だ。
「姑蘇へ来いと言うが、唐突過ぎるだろう。確かに魏無羨からの伝言蝶は来たが、あれが伝えたのはお前とあいつが彩衣鎮の祭りに行って、何やら景品を獲得したって自慢話だけだったぞ」
「魏嬰の説明に抜かりはない。お前の理解が足りないだけだ」
「あれをどう理解しろってんだ!」
いくら話しても動こうとしない江澄に痺れを切らした藍忘機が説明したところによると、魏無羨ではなく、なんと藍忘機が特賞の温泉旅行ご招待券を当ててしまったらしい。
「温泉??」
「そうだ」
参加は四名までと言うことで、藍忘機は魏無羨と二人、二回行けば良いかと考えていたのだが、使用出来るのは一度のみ、しかも魏無羨が「江澄と沢蕪君も誘って行こうぜ!」と言い出した為、白羽の矢が江澄に立てられたと言うわけだ。
「そんな連絡貰っていないが」
「だから魏嬰は数日前にきみに伝言蝶を」
「あんなのを理解出来る奴はこの世に存在せん!」
今度こそ焦れったくなった藍忘機が、「行くのか、行かないのか、はっきりしろ」と言わんばかりに無言で避塵を引き抜いた。
これは素直に従うしかなさそうだ。
どうせ遊行に出るつもりでいたし、荷物はまとまっている。
愛剣「三毒」を手にした江澄は「行くぞ」と渋々承諾した。
ようやく魏無羨の元へ戻れると安堵したのか、藍忘機はそれまでの面倒くさそうな顔を止め、普段の無表情に戻り、江澄を待つことなく避塵に乗り、飛翔する。
「おい、藍忘機、俺を置いていくな!」
まったくもって案内人には不向きな男である。
しかしぐずぐずしていては藍忘機に追いつけない。
江澄は再び遊行に出る旨を部下に伝えると今度こそ雲夢の地を旅立った。
✳ ✳ ✳
一方───、こちらは姑蘇の雲深不知処、お膝元、彩衣鎮にて。
「江澄の奴、まだかなぁ」
迎えに行った藍忘機らを待つ間、魏無羨と藍曦臣はと言うと、押さえた宿の二階で、手遊びに
この胡豆なるお菓子はひよこ豆やえんどう豆、ライ豆などの色々な豆が、様々な味付けをされている珍味で、酒のつまみには勿論、お茶請けにもちょうどよい菓子なのだ。
口の中に放り、奥歯で噛み締めると、ポリポリと鳴る食感が非常に楽しい。
ついつい手が伸びてしまう。
魏無羨はごっそり手に取り、口いっぱい頬張り、藍曦臣は上品に左手に幾つか載せたものを一つずつ摘まんで口へと運んでいた。
どうやら彼の好みにも合致したようだ。
「魏公子、一つ疑問があるのだが」
「うんうん、何でも聞いてよ。ここの宿は姑蘇藍氏持ちだからね。いつもお世話になってます、お兄様」
冗談はさておき、いつまでも現れない藍忘機と江澄の二人に、藍曦臣はいささか不安になったようだ。
「阿澄には伝えたのかい?」、「彼は約束を破るような人ではないのだが」と次々と質問を飛ばす。
口の中の豆を囓り終えた魏無羨は茶で喉を潤してからようやく藍曦臣の質問に答えた。
「勿論、ちゃんと伝えたさ。この間、新しい伝送符を開発したんだ」
「ほう?」
魏無羨の趣味は霊器や呪符の研究だ。
このふざけた性格からは想像つかない豊富な知識で数多の便利な道具開発にいそしんでいた。
その一つが江澄に送った例の金色の伝言蝶である。
「伝言蝶はそもそも蘭陵金氏が開発した呪符の一つで、それを斂芳尊が改変し、今ちまたに流通している形へと進化したが、俺はその一歩先を考えたんだ」
「それはすごいね。例えばこれまでとどう違うんだい?」
「それはね」
魏無羨は得意満面に彼が開発した新たな伝言蝶を説明する。
「これまでの伝言蝶は文字を思念として送ることしか出来なかった。しかも送れる文字数には制限があり、特定の状況下でなければ使い道がなかった。俺はそこを改変して、頭の中に浮かぶ思念をそのまま声にして遠方にいる相手に伝えることが可能になる様に修正したんだ」
「それはなかなか便利だね」
「その通り! でも一つ難点があって、きちんと送る思念を整理しておかないと、ダラダラ長いまま送られちゃうから、肝心なところが伝わらないこともあって」
「それは修正の必要があるね」
「そうなんだよ。この間も藍湛相手に送ったんだけど、俺はちゃんと今日の晩飯はフナの煮付けが良いって送ったのに、藍湛ってば、焼き魚を持って来たんだ!」
焼き魚でも煮魚でも魚と言う点が通じれば充分だろう。
しかし未知なるものへの飽くなき追求者、魏無羨はそれでは納得しない。
「しかも焼き魚に茗荷を添えてきた」
「それが何か問題でも?」
「俺は生姜派なんだよ!」
「……きみの思考を修正する必要があるね。忘機のせいにするのは止めなさい」
まったくもってそのとおりである。
魏無羨は頭の中でとにかく早口で雑多なことを思い浮かべてしまう為、江澄に伝言蝶を送った時も、思念がまったく収まりきらなかった。
それでも大切な部分、温泉旅行の件と江澄も行こうぜ!までは伝わっていたと思っているのだが──、実際どうだったかは、これから藍忘機が江澄を伴った時点で発覚する。
「何はともあれ、こうして皆で出かけるのもたまには気分転換になる。阿澄は一人で仕事を抱えすぎて余暇を楽しめていないから。この機会にゆっくり羽を伸ばしてもらいたい」
「うんうん。休めって言っても休む奴じゃないからね。たまにはこうして強制的に休ませてやらないと」
「魏公子、きみは兄弟思いの良き義兄だ」
「澤蕪君には負けるけどね」
二人でポリポリ豆を齧っている間に、藍忘機と江澄の二人が沿道に現れ、魏無羨は
「おーい!」
と通りの二人に手を振った。
宿の二階にいる彼らに気付いた江澄の顔に浮かぶ怒りの色に、魏無羨は思わず窓枠の下に隠れてしまった。
[newpage]
2,いい湯だな、陰月湯!
「魏──無──羨───っ!!」
階段を駆け上がる足音さえはっきり聞こえる江澄の怒気に、魏無羨は隠れる場所を探し、なんと座卓の下、座っていた藍曦臣の着物の裾へと滑り込んだ。
「う、魏公子、何を……っ!」
「澤蕪君ならあいつだって強く出られないだろ、匿ってよ!」
匿ってと言われても、自分の下衣のなかに魏無羨を潜り込ませたまま江澄を迎えるわけにはいかない。
「出なさい、魏公子!」
「やだやだ」
押し問答を繰り返している最中に、ついに江澄と藍忘機の二人が客室の扉を開け放った。
卓の下で藍曦臣の衣に必死に潜り込もうとする魏無羨と、顔を赤くして阻止しようとする藍曦臣。その衝撃的な光景を目撃し、江澄と藍忘機の相貌にそれぞれ別の形の怒りが浮かび上がる。
「阿澄、誤解だよ。忘機、これは魏公子が勝手に……」
すぐさま藍忘機が魏無羨の襟首を掴んで引っ張り出し、ひとまずこの騒動は収まった。
とは言え、せっかくの楽しい遊行に水を差してしまったのは言うまでもない。
「江澄、元気そうで何より……俺の伝言蝶の成果はどうだった? ちゃんと伝わったからこうして来たんだろ?」
愛想笑いで甜豆の入った容器を差し出す魏無羨を睨み、盛大に溜息を吐いた後、ようやく江澄は機嫌を直してくれた。
「藍忘機が無理やり引っ張ってこなけりゃ誰が来るか。だいたい、温泉旅行が当たったなら、最初からそう言え」
「だからぁ、まだ研究段階なんだよ。きっと思念が長すぎて容量を超えてしまったんだな」
賑やかに騒ぎ立てる二人を前に、藍曦臣もまた藍忘機の為に茶を淹れ、先ほどの失態を挽回しようと試みていた。しかし、藍忘機の方は全然機嫌を直していなかった。
そもそも江澄を呼びに行くというお使いを命じられた時点で、彼は少しへそを曲げていたのだ。
「大人げないぞ、忘機」
そうたしなめてみたが、藍忘機は兄をじろりと睨み、黙って視線を逸らしただけである。全然、許す気配は見られなかった。
それを察した魏無羨が、藍曦臣の淹れた茶を取り、「藍湛もご苦労様!」と彼の労をねぎらう。
藍忘機を使いに出しておいて、自分たちは仲良く豆を囓っていた点について、藍曦臣への不満は収まらないものの、魏無羨の笑顔には勝てない。
渋々機嫌を直し、魏無羨の手から茶を受け取ってくれた。これで晴れて一件落着。藍曦臣もやっと一息つけた。
「こうして皆で温泉旅行に行けるのも、忘機がくじ引きで特賞を獲得してくれたおかげだ。そうそうない機会だし、楽しまなくてはね」
「……澤蕪君まで……」と呆れ顔の江澄を余所に、藍忘機がポツリとつぶやいた。
「兄上は既に甜豆をご賞味されて、充分楽しまれたのでは」
「………」
こうしてとりあえず、目的地である温泉地「陰月湯」への道中が決まった。
しかしこの時の四人はまだ知る由もなかった。
目的の宿は彩衣鎮から山を一つ越えた先にあるが、その温泉街は近頃、「妙に当たりやすい福引」の特賞として評判になっていた場所なのである。
陰月湯──。
その名に潜む罠の危険に、四人の誰一人としてその時点では気がついていなかった。
✳ ✳ ✳
その頃、陰月湯の奥深くに存在する鬱蒼とした竹林の廃寺にて。
「ケケケッ! 来たぞ、来たぞ! あの忌々しい道士どもめ、まんまと誘い出されたわ!」
下品な高笑いを響かせていたのは、青い鬼火を揺らめかせた痩せた男──「青鬼
満足そうに大口を開けて嗤う彼を褒めそやすように、頭に青い蝋燭を突き立てた子鬼たちが盛大な拍手を送る。
「さすがは大王様です! あのアホどもは見事大王様の罠に引っかかり、目的地を目指しております!」
当然だと言わんばかりに戚容は胸を張り、鼻高々に笑い飛ばす。
己の完璧な計略に心底酔いしれ、自画自賛している様子だった。
「いいかお前たち! 彩衣鎮の祭りにわざとあの景品を仕込み、奴らを誘い出す作戦は見事成功した! これであの修士の肉は俺様のものだ! あの生っ白い柔肌をどう喰らってくれようか、今からよだれが湧いて来そうだぜ」
「さすがは大王様! 知謀の鬼! 花城なんか目じゃありませんぜ!」
「ははは!」
皆が燥ぐ中、戚容の部下の中では比較的冷静な鬼が一人、不安げに進言した。
「ですが大王様。街の人間が話していましたが、何でも「ガンコウクン」とか「タクブクン」とかよばれてる奴らは「コソランシ」とか言う仙門の当主らしくて、人間の中じゃ最強と謳われているとか何とか」
「ああん!? がんこだかデブだか知らんが、人間界最強ならなおさらこの戚容様の餌に相応しい食材だろうが!」
弱音を吐く小鬼の頭を、戚容はガツンと蹴り飛ばす。
「あのクソ狗花城のせいで俺の根城が奪われてしまったからな。奴に仕返しする為には、もっと強力な力が必要だ。そのために百人、いや、千人の人間の肉を喰らわねばならん。そんな妙な名前の奴だろうと、人間界最強なら一人で十人分の価値ぐらいはあるはずだ。どれだけ強かろうが所詮は人間、この戚容様の敵ではないわ!」
戚容は最凶(と信じて疑わない)の罠の完成に満足し、高らかに勝ち誇っていた。
──だが。風に揺れる竹林の影、暗がりの中で銀色の蝶が一頭、静かに羽ばたいた。
じっとりと湿った葉陰で花城が放った間者が耳を澄ませていたなど、愚かな戚容が気付くはずもなかった。
✳ ✳ ✳
彩衣鎮の賑やかさを離れ、山深くなるにつれて、あたりの空気はしっとりと冷気を帯びていく。
福引き所でもらった地図を片手に魏無羨が先導して行ったが、藍曦臣は聞いたことのない地名にいささか戸惑ったようだ。
「はて、いつそのような温泉地が出来たのだろう」
彼の問いに藍忘機が答える。
「何でも、近頃見つかったばかりの温泉地だと、福引き所の者が説明していました」
「なるほど」
「陰月湯は知らないけど、この山にある伝説なら知ってるぞ」
魏無羨の話に他の三人が耳を傾ける。
「月令花?」
「うん。月が出ない新月の晩にだけ咲く花らしい。何でも月令花の花の精には願い事が一つだけあって、夜空の月を一目、その目で確かめることなんだそうだ。しかし月令花が花開くのは新月の晩。会いたいのに会うことが叶わない。そんな月への恋心を秘めた話がこの辺りじゃ伝わっているらしいぜ」
「へえ、なかなか風情がある話だね。湯治ついでにその花も是非、見てみたい」
藍曦臣にそう言われては江澄も嫌とは言えないが、魏無羨の無駄話にはお小言を入れないと気が済まない性格の彼は、
「
すかさず憎まれ口を叩いた。
憎らしいことばかり言う江澄を魏無羨が肘で突こうとする前に、藍忘機が避塵をすっと差し出し、江澄を蹌踉めかせる。
魏無羨は大喜びだが、勿論、江澄と藍忘機の間で睨みあいが始まった。
「まあまあ、せっかくの遊行だ。仲良くやろう」
藍曦臣の言葉に宥められながら山道を抜けると、深い霧の向こうに突如として一軒の古い木造の宿が姿を現した。温泉地という割には湯気も立っておらず、しんと静まり返っている。
その玄関口には、どこか歪な字で書かれた一枚の立て札が掲げられていた。
『いらっしゃいませ。当店の従業員は非常に恥ずかしがり屋の為、お客様の前に姿を見せません。御用の方は用件を書いた紙を廊下にお出し下さい』
「……なんだこの落書きは。気味が悪い」
江澄が眉をひそめるのも構わず、魏無羨は「そうか? なかなか風流で粋な接客じゃないか」と呑気に笑うと、迷いなくその重い扉を押し開けた。
「すみません、誰かいませんかー?」
静まり返る館の中へ魏無羨が呼びかけてみても、彼の声が響くだけで人が出て来る気配がない。
四人の息遣いでさえはっきり聞こえそうな程、静寂に包まれ、他の宿泊客の気配さえ見えなかった。
しかしゴミ一つ落ちていない床は綺麗に掃ききよめられており、花瓶に挿された花も生き生きと花を開いていた。
ただ彼らも長年修行を積んだ修士である。
この宿に張り巡らされた呪術の気配は感じ取っていたし、ここが平凡な旅人を泊める為の宿ではないことは薄々気付いていた。
「どうする」
江澄の問いに、藍曦臣と藍忘機は顔を見合わせる。
君子危うきに近寄らずとは言うが、姑蘇藍氏の管轄である場所にこのような怪しげな宿があるのなら、危険はないかを見定めねばならない。
魏無羨が懐からまっさらな呪符を取り出し、手早く呪文を書いて宿の中へと飛ばしてみたが、それなりに高度な術式が組まれているのか、呪符程度では本体を見破ることは出来なかった。
「とりあえず注意書き通り、用事がある時は紙に書いて廊下に出しておけばいいんだろ。好きな部屋を使って良いみたいだし、中へ入ろうぜ」
魏無羨の提案に他の三人も頷く。
彼らは間違いなく現在の修真界において上位に君臨する四人である。
夷陵老祖・魏無羨に、姑蘇の双璧、澤蕪君と含光君、そして三毒聖手の異名を持つ紫電の使い手、江澄だ。
この四人が揃っていて万が一の危険などあるわけがなく、宿の正体を見破る為、一晩ここに宿泊することに決めた。
「で、部屋割りは?」
忘羨の二人は悩むまでもなく、はなから二人一緒の部屋を選ぶつもりだ。
問題は残りの二人。
藍曦臣が江澄の方をちらりと見るが、忘れてはならない。江宗主はとことん捻くれた意地っ張りなのである。
魏無羨が見ている前で、藍曦臣と関係がありますと認めるわけにも行かず、
「俺は一番奥の部屋にする」
と藍曦臣を置いてすたすたと歩き始めてしまった。
あぶれた藍曦臣はどうしたら良いのやら。
「藍湛、俺らはどの部屋にする? 一応全部見て回ってから決めるか」
「うん」
さっさと自分たちの部屋を選びに行く弟夫夫を「待ちなさい」と藍曦臣が呼び止める。
「忘機、お前、兄の私がまだ決めていないのに、弟のお前が先に決めるつもりか」
「えーっ、だったら、澤蕪君が先に選んでよ。残った部屋の中から俺と藍湛は選ぶから」
図々しい義弟の態度に苦笑しつつも藍曦臣は一つずつ扉を開け、中を確認した。
一人なのだからどこでも良いのだが、もしかしたら後で気が変わった江澄が一緒に過ごしてくれるかも知れない。
そう思うと彼の好みそうな部屋を選んであげたかった。
「澤蕪君、まだ〜? 俺、もう待ちくたびれたよ」
魏無羨が疲れたと聞けば藍忘機も黙ってはいられない。
「兄上、まだですか」
と言葉は遠慮がちながらも押しの強い態度で藍曦臣のすぐ後ろに迫る。
「まだ、とはなんだ。まるで私がわざとお前たちに部屋を選ばせないみたいじゃないか」
「その様なことは言っていませんが、魏嬰が待ちくたびれているので」
「そうそう、俺が待ちくたびれてるんだよ。もういっそのこと江澄が選んだ部屋に一緒に泊まれば良いじゃないか。最初からそのつもりだったんだろうし」
天の助けとばかり、藍曦臣は魏無羨の意見に賛同し、江澄が選んだ部屋へと入って行った。
やれやれである。
ようやく魏無羨らの順番が来た。
「じゃあ藍湛、俺たちの部屋を選ぼうか」
「うん」
うきうきと最初の部屋を開ける。
「おわぁー!」
魏無羨の歓声と共に室内から爽やかな翠の風がそよいで来た。
一つ目の部屋は、蒼を基調とした涼しげな造りで、驚いたことに室内になんと川が流れていた。
その周囲を緑の木々が覆い、澄んだ水の中を元気に泳ぐ魚の黒い影が涼感を醸し出している。
発想はなかなか面白いのだが、水の音がうるさい上に、何より魚臭くて鼻を摘まみたくなった。
パタンと扉を閉め、後ろにいる藍忘機に、
「次行こう、次!」
と声をかける。
次の部屋はと言うと、今度は明るい陽光の下、満開の花が咲く野原がコンセプトで、それはそれで清々しいのだが、陽光が眩しくてこれまたゆっくり休めそうにない。
どうりで藍曦臣がなかなか部屋を選びきれなかったわけである。
「うーん、どれもこれも奇抜過ぎて逆に疲れそうだな。なあ、藍湛はどの部屋が良かった?」
「きみが好きならどこでも」
「……いや、それ一番困るやつ」
どこでも良いと譲歩するのはある意味、選択を投げ出して相手に任せるのと同義である。
藍忘機は大した意図もなく答えたのだろうが、彼がこの旅を楽しめるかどうかを左右するのも魏無羨の決定次第と言うことになる。
一番困るやつと言われた藍忘機は悄気てしまい、叱られた犬が尻尾を股の間にしまうように上目遣いに魏無羨をじっと見る。
これもまた反則だ。
藍忘機のジト目なんて可愛すぎて魏無羨は叱る気もなくなってしまう。
「江澄と澤蕪君の部屋はどんな部屋なのか見てこよう。それから俺たちの部屋を決めても良いんじゃないか?」
藍忘機の返事は勿論、「うん」の一言である。
二人は江澄が選んだ部屋の戸を数回叩いた。
「入るぞー」
と声をかけて扉を開けると、そこには絶句するような光景が広がっていた。
唐突に目に飛び込んで来る、紫の洪水。
「おお! すげえな、この部屋も」
辺り一面に蓮の絵が描かれ、中央に置かれた寝台の衣も、壁も、江家の赤紫色で統一されていた。
まるで江澄の為に用意された様な部屋だ。
本人もご満悦の様子で、なんと寝台に横になって藍曦臣に腰を揉ませている。
「江澄、仮にも姑蘇藍氏宗主を按摩係にするなよ」
「俺が頼んだんじゃない。この人が勝手に入って来て、勝手に揉みだしたんだ」
「魏公子、細かいようだが私は仮ではなく、藍氏の当主なのだが」
「はいはい、分かりました!」と魏無羨は肩をすくめた。
「いっそのこと俺と藍湛もこの部屋にする? なんだかここが一番落ち着けそうだし。それに寝台は二つあるから、二人で一つずつ使えば良いだろう?」
魏無羨は一体何を言い出すのか。
それはつまり4Pのお誘いも同然で、当然、彼以外の三人は断固拒否した。
あれほど先ほどまで「きみさえ良ければ」を連呼していた藍湛でさえ、横に首を振って嫌がっている。
「藍湛、この裏切り者ー」
「藍忘機を責めるな。大体、なんで遊行に来てお前らと寝床を共にしなきゃならないんだ」
「魏嬰、最初の魚の部屋に戻ろう」
「やだっつの、俺も藍湛も一晩で生臭くなっちゃうよ!」
残りの部屋も四人で順に見て回ったが、どれも一筋縄ではいかない。
扉を開けた瞬間に息が立ちのぼる一面の氷部屋に、夏だというのに足を踏み入れただけで汗が吹き出すような灼熱地獄。カサカサと足元で寂しげな音を立てる秋風の部屋まで現れる始末だ。
「本当にまともな部屋が一つもないな」
「藍湛はどの部屋がいい?」
二度と「きみが選ぶなら」なんて言うなよと視線で脅したら、今度はちゃんと答えてくれた。
「氷の部屋」
いやいやちょっと待て。
藍忘機は良くとも魏無羨が凍ってしまう。
最後に残った扉をなかば諦め顔で開けると、そこにあったのは極々普通の客棧にありがちな部屋で、ようやくまともな部屋を見つけることが出来た。
普通の調度品に、普通の敷物を敷いた寝台がでんと置かれている。
これまで見てきた部屋が余りにも奇抜過ぎた為、むしろこの普通さに安堵してしまった。
「俺、この部屋にする。藍湛は?」
聞くまでもない。
やっと部屋割りが決まった。
部屋の造りにも驚かされたが、この宿のおかしなところは他にもあった。
外の立て札通り、食事が欲しいと書き置きすると、間もなくして湯気の立つ温かい食事がいつの間にか廊下に運ばれている。
勿論、味も美味で、不思議なことに薄味が好きな藍氏二人にも合い、濃い目の味付けを好む魏無羨と江澄も美味しいと感じた。
こんな宿を一体どんな人間が管理しているのだろうか。
時折、視界の端で青く燃える蝋燭の炎が駆け回るのを見た気はするが、一瞬で消えてしまう為、判別はつかなかった。
そもそも人であるかも怪しい。
「せっかく温泉旅館に来たんだし、早速だ。ご自慢の温泉とやらも試して見よう」
気を取り直して、四人は揃って湯治場に出かけるが、服を脱ぐところで再び一悶着あった。
江澄がいる前では絶対に服は脱ぎたくない藍忘機である。
別に男同士だし、完全な素っ裸になるわけじゃないのだから良いと思うのだが、彼の中では許されない行為らしい。
「じゃあ藍湛は一人で留守番してれば良いよ。俺は江澄たちと入って来るから」
魏無羨にまでこう言われては、藍忘機も脱ぐしかない。
脱ぐと言っても、白い上衣と袴は身に着けたままなのだ。
濡れると多少透けるが、うら若き乙女じゃあるまいし、それ程、恥ずかしがるようなものではない。
魏無羨などはスポポーンと盛大に脱いで、颯爽と湯の中へ一番乗りした。
「お前、ちょっと止めろよ!」
ばしゃばしゃと飛沫を跳ね上げながら魏無羨が早速お湯の中で泳ぎ出した為、江澄が彼の袴を掴むとつるんと丸いお尻が丸見えになってしまった。
これはまずいと慌てて履かせたが後の祭りである。
服を脱ぐのをぐずぐず迷っていた藍忘機だが、居ても立ってもいられず、潔く脱ぎ始めた。
その体つきの見事なこと。
肌着越しでも鍛え上げられた肉体が良く分かる。
どうしてこれで人前で脱ぐのが恥ずかしいのか。
まったくもって理解不能である。
怪しさ満点の温泉旅行だが、やはり湯治は心地良い。
いつもは雲深不知処の冷泉で沐浴することが多い彼らだけに、湯気の立つお湯の温かさに魏無羨と江澄は「ふぃ~」と満足げな溜息を吐いて、伸び伸びとお湯に四肢を伸ばした。
こうなると欲しくなるのが熱燗である。
「おーい、酒」
誰にともなく叫ぶと、青白い顔をした男が盆に載せた酒を持ってやって来た。
この宿に着いてから初めて見た人らしき存在である。
「ありがとさん」
無口な青白い男から酒を受け取り、魏無羨はそれとなく顔を覗き込もうとしたが、立て札にあったように恥ずかしがり屋なのか、酒を手渡すとそそくさと消えてしまった。
珍妙だが、試しに飲んでみた酒はなかなかの美酒である。
江澄にも飲むように勧めたが、疑り深い彼は臭いを嗅いでから、問題ないと確信して一口飲んだ。
「うん、なかなか美味い」
「魏公子、本当にきみの呪符には、何も引っかからなかったんだね」
「うん」
藍曦臣の問いに魏無羨はこくりと頷く。
しかし先ほどの男が人かどうかと問われれば、四人ともが「違う」と断言出来る違和感を嗅ぎ取っていた。
「阿澄、そのお酒は余り飲み過ぎない様に。魏公子も」
「大丈夫だ。金丹で酒の力は殺している」
表の立て札には必要なものがあれば紙に書いておけば何でも用意するとあった。
頼めば何でも出してくれるのなら、遠慮なく頼めばいい。
「料理もじゃんじゃん持って来てもらおう。邪祟が化けているにしても、困らせれば本性を現すかも知れない」
魏無羨の人の悪い案に賛同した皆は、それぞれ好き勝手に注文することにした。
藍忘機は話したがらない為、彼の分は魏無羨が声を張り上げる。
「俺と江澄には酒をもう二瓶! 出来たら荷風酒がいいな! あと澤蕪君と藍湛には何か美味い果物を持って来て。今の時期ならそうだなぁ。やっぱりみずみずしい葡萄? あ、それと彩衣鎮で食べた甜豆も美味しかったから、彩衣鎮まで買いに行ってくれ! そうだ、どうせ彩衣鎮に行くのなら荷風酒じゃなくて天子笑の方がいいな!」
「何故だ。俺は荷風酒でなければ飲まんぞ。魏無羨、お前、蓮花塢で育ちながら荷風酒より天子笑が良いとは」
「分かった、分かった! 両方持って来て! ちょっぱやで!」
わがまま放題の注文を畳みかけた途端、廊下の闇から酒壺ではなく怒号が飛んできた。
「いい加減厚かましいにも程があるわ! お前らなんぞ煮るのも手間だ! 生のまま骨までバリバリ喰らってやる、この厚顔無恥どもめ!」
「え?」
それまで瞑想しながら湯に浸かっていた藍忘機の瞼が開く。
すっと立ち上がると、石畳に置いていた避塵を手にし、魏無羨の下へ戻るとすぐさま彼を庇うように前へと出た。
当然、江澄も紫電を構え、藍曦臣も立ち上がる。
「魏嬰、こちらへ」
「おう」
魏無羨が藍忘機の後ろに走り寄るのと同時に、温泉の表面が激しく波打った。
ボコボコと泡立つ湯水の中からけたたましい音と共に緑色の鬼火が吹き出し、湯煙が一瞬で禍々しい毒気に変わる。
「くそっ、何だこの臭いは!?」
江澄は紫電を激しく撓らせ、迫る鬼火を叩き落とすが、何しろ数が多い。
「忘機、阿澄! ひとまず湯から出るんだ!」
藍曦臣の呼びかけに全員で一斉に岩場へと飛び移ったが、どうやら敵は既に陣法を張っていたようだった。
周囲を覆う竹藪がまるで巨大な棺桶のように四人を閉じ込める。
竹の隙間と言う隙間から、醜悪な青い子鬼たちが彼らに襲いかかって来た。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! この愚かな修士ども! 俺様の『陰月陰気縛霊陣』の恐怖を思い知るが良い!」
「なんだよ、その意味不明な陣法は!」
魏無羨の突っ込みにどこからか白く堅い何物かが投げつけられる。
藍忘機がすかさず避塵で弾き飛ばし、再び魏無羨の前へと立ちはだかったが、投げられた白い物体は生物だったものの骨だった。
覆い尽くす竹藪の棺桶から顔を覗かせたのは、青い着物を乱雑に着崩した痩せた男。
見た目は二十歳前後にしか見えないが、どう見ても生者の活力は感じられない。
彼の周囲を頭部に青い蝋燭を灯した不気味な小鬼たちが取り囲んだ。
「何者だ」
声を潜めて問いかける藍曦臣に、若い男は嗤い、鉤爪の様な指を立てて、
「どっちがでぶ君だ? ああん? 見たところお前らの誰も肥えた豚には見えねえが」
とわけのわからないことを呟く。
魏無羨は「でぶ君」の意味を何となく察してしまい、思わず噴き出しそうになってしまったが、他の三人が緊張した面持ちで男と向き合っていた為、口をつぐんでおいた。
そんな魏無羨が持つ陳情に惹かれたのか、痩せた男が彼の方へと手を伸ばす。
それも叶わず、白い一閃が魏無羨と男の間を裂き、男はもげた片腕を押さえて悲鳴を上げた。
「ああ! 俺様の腕が……っ!」
「大王様!」
血飛沫を上げ、避塵に切り落とされた腕が湯の中に落ちて行く。
まるで実体がないように溶けて消えて行くその腕を見、彼らは目の前の男が人でないことを確信した。
「忘機、阿澄、彼らは人ではない。構わず殺しなさい」
「わかりました」
藍曦臣の呼びかけに藍忘機が頷き、江澄も
「命令すんな!」
と猛々しく応じて、彼らは一斉に動き出した。
陳情を手にした魏無羨も鬼笛を口許に運び、鬼を操る音色を奏でる。
目の前にいる鬼たちは彼が普段操る死者とは少し違う様だが、死んだ者には違いない。
蝋燭を頭に灯した子鬼たちは、
「大王様~」
と情けない声を上げながらくるくると回り、周囲の仲間たちを跳ね飛ばし始めた。
「お前ら、なにやってんだ! 味方を攻撃してどうする!」
「だって身体が言うことを聞かないんですよ~」
くるくるくるくる回る部下達を男はどついて回り、正気に戻すが、藍曦臣、藍忘機、そして江澄の三人も大人しく構えてはいなかった。
「江晩吟を舐めるな!」
江澄の振り下ろす紫電の鞭先に当たった鬼たちは神聖な力に耐えきれず、霧となって消えて行く。
藍曦臣が奏でる鎮魂の音色もまた鬼たちには効果的だった。
そして藍忘機である。
縦横無尽に飛び跳ね、魏無羨に飛びかかろうとする鬼たちをばっさ、ばっさと小気味よく斬り倒して行く。
こうなっては襲撃者も自分たちの分が悪いことを悟り始めた。
「分断しろ! 紫の奴とそっちの白い奴は鬼界へ追い込め!」
男の合図とともに、岩場が裂け、さらに大量の鬼たちの腕が伸びてきた。
「阿澄!」
「いちいち呼ぶな! ……くっ、なんだこの糸!」
藍曦臣が朔月を振るって江澄を庇おうとしたが次々と伸びてくる腕が彼らを飲み込み、そして奈落へと引き込んでいく。
あっという間に二人の姿は見えなくなり、まるで現実と遮断する様に開いた空間は閉じてしまった。
「澤蕪君! 江澄!」
魏無羨が駆け寄ろうとしたその時、痩せた男が舌舐めずりをして魏無羨へと襲いかかってきた。
「よそ見してんじゃねえぞ! お前、面白い武器を持ってるじゃねえか! みみっちい仙力しか持たないくせに、お前にゃもったいない武器だ! その笛を俺様によこせ!」
男の口からどろりとした極毒の緑色の毒液と、目を射るような強烈な閃光を放つ鬼火が噴き出された。
「魏嬰!!」
すかさず藍忘機が飛び込み、自らの背でその攻撃を遮る。
強烈な閃光と毒気が、藍忘機の至近距離で炸裂した。
「ぐっ……!」
「藍湛!?」
藍忘機の口から短い苦悶の声が漏れた。避塵を固く握りしめたまま、彼はその場に膝をつく。
「藍湛! おい、大丈夫か!?」
「……だ……いじょうぶ、だ」
こんな時まで強がりを言っている。
魏無羨は俯いた藍忘機の顔を両手で押さえ、閉じた瞼を開かせたが、美しい琥珀色の瞳は焦点が合わず、魏無羨の姿を探して揺らめいていた。
毒の閃光が藍忘機の視力を奪ってしまったのだ。
「はっ! この戚容様を甘く見た罰だ! 目が潰れて何も見えまい! そのまま大人しくその武器をよこしやがれ!」
戚容と名乗った男の甲高い笑い声が響く。
(くそっ! 藍湛の目が見えないんじゃ、正面から打ち合うのは危険すぎる!)
瞬時に判断した魏無羨は陳情を取り出して笛を吹く。
子鬼たちの様に操ろうとも、この戚容と言う鬼にはまったく効いていなかった。
まずは藍忘機を安全な場所へ退避させるのが先決だ。
江澄たちの救出は後回しにせざるを得なかった。
「藍湛、俺の肩を掴んでろ! 走るぞ!」
「……魏嬰、離れるな……」
「大丈夫だ、心配すんな! 俺がお前を守る! 行くぞ、藍湛!」
魏無羨は呪符を数枚投げつけ、目くらましの爆風を起こすと、視界を失った藍忘機の手をしっかりと握り締め、崩れかけた岩場を蹴って竹林の奥へと飛び出した。
「追え! 逃がすな! あの二匹……、とくにがんこ君って奴は絶対に逃がすんじゃねえぞ! もう一人の弱っちい奴は殺しても構わん! 奴の武器だけ奪って来い!」
背後から戚容の怒号と、小鬼たちの奇声が追いかけてくる。
(おいおい、でぶ君の次は、がんこ君かよ……)
藍忘機が苦しんでるこんな時でも間の抜けた突っ込みが出来てしまう悠長な自分を魏無羨はぶん殴ってやりたかった。
それ以上にあのアホな鬼をぶっ殺してやりたい。
湿った夜の竹林を魏無羨は藍忘機を担ぎながら、懸命に駆け抜ける。
「藍湛、大丈夫か? 痛みはあるか?」
「……問題ない。ただ、きみの……足手まといになる」
焦点を結ばない琥珀色の瞳が揺れ、どこか不安そうに魏無羨の声を追う。
「バカ言え! いつも俺がお前の足手まといなんだ! たまには俺にも良い格好をさせろよな!」
魏無羨は大きな岩陰と鬱蒼とした竹の群生を見つけると、藍忘機の体をしっかりと支え、負担をかけないよう静かに座らせた。
「藍湛、ここで少しじっとしていてくれ。俺が江澄たちを助け出して、あの間抜けなアホを叩きのめしてくる。すぐに戻るから」
「だめだ……魏嬰、一人で行ってはいけない」
「でも江澄たちを助けないと!」
視力を奪われた藍忘機が、不安そうに魏無羨の袖をぎゅっと強く掴む。
藍忘機の想いに魏無羨は胸が締め付けられそうになったが、江澄たちを見過ごすわけにはいかなかった。
それに藍曦臣に何かあれば、藍忘機も哀しむ。
「大丈夫だって! 俺を誰だと思ってる? 夷陵老祖様だぞ。絶対に無茶はしない。約束する」
魏無羨は藍忘機の瞼にそっと触れ、そして優しく口付けた。
魏無羨の腕を掴む藍忘機にぐっと感情が込み上げる。
それを抑えつけ、
「良い子で待っててくれよ、含光君」
藍忘機の手を振り切り、魏無羨は竹林の闇へと駆け出した。
戚容の気配は先ほどの温泉ではなく、宿があった方角から漂ってくる。江澄と藍曦臣もあそこに捕らえられているはずだ。
「藍湛の目に何かあったら絶対に許さないからな……!」
魏無羨が竹林を押し分けて進んでいると、突如として暗闇の中からカサカサと怪しい音が近づいてきた。
陳情に手を伸ばし、身構える。
「誰だ! 出てこい!」
殺気を込めて叫んだ魏無羨の前に、竹林の霧を割って姿を現したのは──、小鬼でも醜い怪物でもなかった。
質素ではあるものの、真っ白で清潔な道袍を纏った一人の青年。
その佇まいは非常におだやかで、どこか浮世離れした優しげな雰囲気を纏っていた。
「やあ、こんばんは」
道士の装いをした青年は、魏無羨を見て困ったように首を傾げ、親しみやすい笑みを浮かべた。
相手からの邪気は感じられない。
それどころか彼の微笑は魏無羨に安堵の気持ちさえもたらした。
神聖で、とても澄んだ心地良い気配だ。
「あんた……誰だ? こんな山奥の気味の悪い竹林で何をしている」
「ああ、申し訳ない。怪しい者ではないんだよ」
青年は苦笑しながら手を振った。
「私はただの通りすがりの道士でね。……実は、うちの困った『従兄弟』がまた人様に迷惑をかけているようだと耳にしてさ。連れ戻しに来たんだ」
「従兄弟……?」
魏無羨が訝しむと、青年は自分の名を謝憐だと名乗った
謝憐は申し訳なさそうに微笑みながら言う。
「実を言うと、少なからず因縁のある相手でね。もし良ければ、私も同行して構わないかな。多分、きみの助けにはなると思うよ」
魏無羨はしばし悩んだが、謝憐は信用出来そうだと踏み、大きく頷いた。
彼は先ほどの戚容と言う鬼についても詳しそうだ。
謝憐に戚容との関係を聞いたのだが、
「どう説明してよいものやら」
と困らせてしまったからそれ以上は聞かないことにした。
「謝道長、あなたがさっきの鬼について詳しいなら、まず視力を奪われた俺の友人を診て欲しいんです。治療法とか、何かわかりませんか?」
「視力を奪われた? それは大変だ。まずは診てみよう」
江澄たちのことも気になるが、藍曦臣と二人で消えたのなら今すぐにどうと言うこともないだろう。
魏無羨は謝憐を伴って藍忘機を置いてきた場所へと急ぎ戻った。
続く