姑蘇にていい湯が湧きました   作:六花─りっか─

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第2話

3,名湯、その名も「百鬼夜行の湯」

 

 一人で江澄たちを救出に向かってしまった魏無羨を案じ、藍忘機は立ち上がろうとするのだが眼前に広がるのは深い闇だった。

 それでも魏無羨を追わねばならない。

 檀香を焚きしめた藍氏の抹額には邪を祓い、浄める効果もあるため、藍忘機は応急措置として額の抹額を外し、それで見えない両目を塞いだ。

 避塵を杖代わりに魏無羨が去って行った足音と気配の方向へと進む。

 

 どれほど歩いただろうか。

 手探りで進む以上、歩みが遅くなるのは否めない。

 さほど進まぬ内に彼の敏感な神経が周囲の変化を感じ取った。

 全身が総毛立つ、邪悪な物への本能的な厭悪だ。

 冷気を帯びた臭い息が藍忘機のうなじにかかる前に彼は避塵を抜き放ち、振り向きざまに横薙ぎに斬り付けた。

「ヒヒッ……、ヒャハハハ! はずれたなぁ! みっともないぞ、がんこ君! んー、それにしても実にいい匂いだ。お前の血は最高級のお肉の匂いがプンプンするぞ」

 耳障りな高笑いと血の混じった腐臭に、藍忘機はその不快な存在――温泉地で片腕を切り落とした青鬼、戚容(チーロン)の名を思い浮かべる。

 目隠しの奥、姿は見えずとも、卑しい舌舐めずりの音と下卑た嗤いが鮮明に気配となって漂っていた。

 確か彼の片腕を温泉で斬り落とした筈だが、やはり死者だ。腕の一本、なくなったところで大した不具合もないらしい。

「どうしたんだ? 何か言ったらどうなんだ。ああ、お前はがんこ君じゃなく、でぶ君の方なのか? あん?」

 このような者に耳を貸す義理もない。

 藍忘機は剣を構え直し、再び戚容に斬りかかる。

 両目を塞がれていようと、姑蘇藍氏の厳しい修行に耐えた彼にとって、闇は障害になり得ない。

 相手は死者のため体温こそないが、鼻を突く腐肉の異臭と、下劣な身のこなしが巻き起こす微かな空気の揺れが、戚容の位置を克明に伝えていた。

「おっと、はは、今のはなかなか惜しいところをついていたぞ。だが、お前のへなちょこ剣術など、俺の哀れな太子兄様の足下にも及ばないな」

 戚容は藍忘機の精神を乱そうと、ひたすら彼を罵倒し、下卑た野次を飛ばして来る。

 その一つ一つを藍忘機はいちいち聞いていなかったが、「太子兄様」と言った時の戚容の言葉に違和感を覚え、一瞬、動きを止めた。

 哀れと思う感情を込めながらも、どこか見下し、せせら笑う様にも聞こえた。

 身内に太子と呼ばれる存在が居るならば、この下卑た鬼も王族──、もしくは同等の高位の出自なのだろう。

 それが何故こうも落魄れてしまったのか──。

 藍忘機の返答はただ冷徹な沈黙だった。

 一切取り合わないその徹底した冷淡さがかえって青鬼の自尊心を激しく逆撫でした。

「少しは何とか言ったらどうだ! お前なんか頭から喰らってやる!」

「──笑止。貴様を斬って、魏嬰を探す」

「ああ? ようやく喋ったと思えばそれか! 命乞いをするならお前はがんこ君の後に喰ってやってもいいぞ! それともお前ががんこ君なのか? んんん? 混乱して来たぞ」

「ならば安らかに眠れ」

 最後の言葉は藍忘機なりの優しさだ。

 落魄れた魂にも再生と言う名の救いは与えられる。

 言葉が終わるより早く、藍忘機は避塵を振り下ろし、切り裂いた。

 弦音のごとき、清冽な一閃が戚容の肉体を捉える。

 確かな手応えがあった。

「ギャッ……!? 今度は右腕か!」

「足も斬り落とす」

 無慈悲な言葉を吐き、藍忘機は息もつかせず踏み込んだ──、その時だった。

「藍湛!」

 聞き間違うはずもない声が届く。

 魏無羨だ。

 そして別の気配──、しかしその者に強い覇気は微塵も感じられない。

 魏無羨の他にもう一人庇わねばならない相手が増えたと直感した。

 だが───。

「無事だったか、藍湛! 途中で妙な……、いや、こいつを知ってる道長と出会ってな!」

「……道長……?」

 その割にはやはり仙力はまったく感じられなかった。

 しかし藍忘機の迷いは、慌てふためく戚容の声で掻き消される。

「……お、お前は、太子……、兄様……?」

 声から野卑な嘲笑が消え失せ、代わりに驚愕と震えが入り混ざっている。

 淑やかに、そして湖面の様に落ち着いた声が

「戚容」

と鬼の名を呼んだ。

「お前が父皇、母后にしたことはけして許されない。母后にあれほど恩義がありながら何故あのようなことを!」

「はっ、禍(わざわい)しかもたらさない疫病神が、おっ死んだおとっつぁん、おっかさんの為には涙を流すのか? 貧乏神なお前を信じたせいで死んだ仙楽国の民たちには、何の憐憫も抱かないのか、この偽善者!」

「黙れ、お前を父母の元へ連れ帰り、相応の謝罪をさせる!」

 どうやら魏無羨が連れて来た道士は戚容と深い因縁があるようだ。

 藍忘機の身体に触れた手が魏無羨のものと気付き、彼は固く握りしめる。

「藍湛、今の間に……」

 逃げようと魏無羨はそう小声で伝えて来たのだが、陳情に固執する戚容は彼の姿を見つけた途端、謝憐を放って飛びかかって来た。

「その笛をよこせ! そいつは元々鬼界にあったものだろう」

「止めるんだ、戚容!」

 空気を切り裂く鋭い風切り音とともに、白綾がしなやかに舞う気配が疾走する。

 だが戚容はそれに噛みつき、強引に身を翻して逃走した。

「こうなったら捕まえた二匹の豚を喰らってからお前と再戦だ! クソ謝憐!」

「待て、戚容!」

 口汚い捨て台詞を残し、戚容の足音と不快な気配は脱兎のごとく闇の奥へと遠ざかっていった。

 その去り際、戚容が立てる慌ただしい衣擦れとは別に、わずかな風が彼らの前を擦り抜ける。

 ぴくりと身体を強張らせた藍忘機の緊張を察し、魏無羨が「蝶だ」と耳元で囁いてくれた。

「銀色に輝いてる。俺の伝言蝶となんか似てるな。でも別物だ」

 謝憐がクスッと笑う声が聞こえたが、すぐに魏無羨と藍忘機を案じ、彼らの方へと駆け寄って来た。

 

 ✳ ✳ ✳

 

「この人は謝憐さん。江澄たちを探しに行く途中で出会ったんだけど、あのアホな鬼のことを知っていそうだったから、もしかしてお前の目も治せるんじゃないかと来て貰ったんだ」

 魏無羨の説明でようやく藍忘機の緊張も解け、いつもの彼らしく無言でぺこりと頭を下げた。

 藍忘機は謝憐の姿が見えないのだから、敬えば良いのか、それとも同輩を迎える程度で良いのか、加減がわからずとも無理はない。

「謝憐さん、こいつは藍湛。俺の道侶で、相棒さ」

 出会ったばかりの相手にも気さくに自分たちの関係を明かしてしまうのがいかにも魏無羨らしい。

 謝憐はそんな魏無羨の明け透けさに驚いた様子だったが、元来、細かいことにこだわるたちではないのか、さっそく藍忘機の目の具合を確かめながら自分と戚容の関係を教えてくれた。

 ほどよく力の抜けた指先が藍忘機の瞼を覆う抹額を優しくほどく。

 見えない両目の状態を確かめるように謝憐の指がそっと撫でていった。

「安心して。毒は一時的なものだ。ただ解毒には人間界にはない薬草が必要になる」

「人間界にはない?」

 謝憐の言葉に引っかかった魏無羨が疑問を発する。

 その言い方はまるで謝憐も先ほどの戚容同様、異界から来たことを示唆していた。

「あはは、やっぱり怪しいよね」

 明るく笑いながら、謝憐は二人に改めて自分の素性を明かす。

「私は謝憐。仙楽太子と呼ばれたこともあるが、その名を知る者は今は少ない。先ほどの戚容は私の従兄弟で、かつては彼も仙楽国の王族だった」

「仙楽国──」

 確かに魏無羨たちには聞いた覚えのない古代の王朝の名のようだった。

 つまり謝憐はそれだけの時間を生きてきた神仙と言うことになる。

「じゃあ、さっきの鬼も──?」

「うん。でも今はきみたちも目にした通り、鬼になり果てた。彼の異名は青灯夜遊。四大害の一人で、凶に分類される鬼だ」

「ちょっと待って、謝道長。その四大害とか、凶ってどう言うこと?」

 天界と鬼界について知らない魏無羨らに謝憐は丁寧に教えてくれた。

 鬼界は文字通り、成仏出来ない死者の怨念が鬼となり、集まる世界で、人界に与える影響の大きさで等級分けされている。

「一番害が少なく、数が多いのが「悪」の鬼で、この鬼たちはせいぜい一人を殺した程度。鬼界に集まる低級霊の殆どがこの等級に当たる」

「なるほど」

 続いて、厲(れい)、凶と並び、戚容はこの凶に位置するらしい。

「凶の鬼でも出没すれば都市一つを滅ぼす力があると言われてる」

 あんな阿呆みたいな、救いがたい戚容でもそれほどの力を持つのだそうだ。

「最後が絶。彼らは絶境鬼王と呼ばれ、現在、天界で把握している絶の鬼は三人。戚容は生前、わがまま放題で手のつけられない従兄弟だったが、死んでからでさえ何年悪事を働いても絶にもなれない半端者だ」

 謝憐は深々と溜息を吐き、秀麗な眉間に皺を寄せる。

 少し戯けたような素振りからそれと気付かなかったが、そばに立つ魏無羨の目から見れば華やいだ美貌を持つ美しい若者だった。

 戚容は「凶」に属するそうだが、謝憐は彼をまるで脅威と感じていない。

「でも都市を一つ壊滅させる力はあるんでしょ?」

「そうだね。ただどうやら戚容を追っているのは私だけではないようだ。彼に見つかれば戚容は果たしてこの先も悪事を働けるかどうか」

 意味深な言葉を紡ぎながら謝憐は藍忘機の瞼を再び彼の抹額で覆い隠した。

 どうやら彼も藍氏の抹額に悪化を防ぐ効果があることを見抜いているらしい。

 立ち上がると謝憐は二人を見下ろし、この先はどうするのかと尋ねた。

 藍忘機の目も治さねばならないし、江澄と藍曦臣の安否も気になる。

「提案なんだけど」

 二人を気遣いながら謝憐は一つの提案をしてくれた。

「まず一つ目。さっきも説明したように、彼の目を治す為に必要な薬草は天界にしか生えていない。ただ当てがまったくないわけじゃない。鬼界には望めば何でも手に入る鬼市の賭博場があるからね。そして二つ目。きみたちの同行者が囚われたのなら、戚容の行き先はおそらく鬼界の彼のアジトだろう。目を治すための生薬も鬼界にあるのだから、いっそのこと一緒に乗り込んでみる?」

 確かにどのみち鬼界に行くなら彼と同行したほうが良さそうだ。

 魏無羨が藍忘機を振り返ると、気配を察した藍忘機も頷いてくれた。

 彼の了解を得て、魏無羨も大きく頷く。

「うん、謝道長を信じてみるよ。それで鬼界の当てにしてる人って、おそらくさっきの奴と同じ鬼だろうけど、大丈夫なの?」

「うん。その知り合いは絶の鬼なんだけど」

 さらっと打ち明ける謝憐の言葉に魏無羨は顔色が青くなり、藍忘機の手を握りしめる。

「ちょっと待ってよ、さっきの説明だと、凶の鬼で都市一つなんだろ。じゃあ絶境鬼王は……」

「うん、絶境鬼王がこの世に現れると国一つが滅ぶと言われているね」

 魏無羨の反応は既にわかっていた謝憐は、頬をぽりぽり掻きながら、言い訳みたいに「でも三郎(サンラン)は優しいし、世話好きだから……、多分」とごまかした。

 最後の多分が気になるが、藍忘機が手を握り返し、大丈夫だ、自分が守ると無言で伝えてくれた為、魏無羨も覚悟を決めた。

 どちらにしても藍忘機の目も、江澄たちの安全も、彼らが鬼界に乗り込まねば解決しない。

「でも一つ」

 立ち上がる魏無羨らに謝憐は躊躇いながら言葉を付け足した。

 それまでの彼の言葉は自信に満ちていたが、これから話すことはどうも半信半疑の様だ。

「きみのその横笛なのだけど」

「これ?」

 そう言えば先ほどの戚容もやけに陳情に惹かれていた。

 確かこの笛は鬼界にあった物とも言っていたのではないだろうか。

「それはどこで拾ったの?」

「夷陵の乱葬崗さ」

 そう言って謝憐に伝わるだろうか。

 昔、大きな戦があった場所で千人単位の修士らがその場所で命を落とし、浄化されないまま打ち捨てられている。

「陳情笛はその呪われた荒野で偶然拾ったんだ」

 いや、偶然ではない。

 魏無羨が屠戮玄武の中で拾った陰鉄を持っていた為、陳情笛と陰鉄が共鳴し、魏無羨の物となったのだ。

 謝憐は多くを聞かされずとも何となく事情を察したようだ。

 魏無羨が「みてみます?」と黒い魔笛を彼に差し出したのだが、謝憐は首を横に振って断った。

 まるで陳情笛に触れると彼の身体が溶けてしまうのではと疑うぐらいの拒み方だった。

 それほどこの陳情笛は危険なのだろうか。

「俺はずっとこの笛を所持していますけど、何か問題でも?」

「いや、その笛ときみの波長が合ったのだろう。でも例えばきみの隣にいる彼や、他の人には余り触れさせない方が良いと思う。それが戚容の言うとおり、鬼界にあったのかどうかまでは私にもわからないが、鬼界と縁が深そうなのは確かだ。それとこれから鬼界に向かうけど、その笛を吹いてはならない。じゃないと有象無象が現れてきみの手には負えなくなるからね」

 謝憐の言葉に頷き、魏無羨は藍忘機の手を取り直して立ち上がるのを手助けしてやった。

 鬼界の入り口は戚容の消えた方向にあるだろう。

 その先はさっきの温泉へと続いていた。

 べとついた真っ赤な液体が広がる中、三人は先ほどの温泉に到着する。

 それにしても随分と壮絶な闘いがあったようで、よくよく見れば真っ赤な液体と思った物は、戚容の手下たち、子鬼たちのなれの果てだった。

 さしもの謝憐も驚き、無残な光景に絶句している。

「まさか謝道長がやったんじゃ……」

「違う、違う。もしかしたら彼かも知れないけど、でもどうだろう。とにかく先へ進んでみよう」

 謝憐が言う彼とはひょっとしたら絶と呼ばれる鬼界最強の鬼王なのだろうか。

 気は進まないが、鬼たちの血で染まった温泉の中に三人は潜り、下へ下へと進んで行く。

 不意に天地が定かではなくなり、身体が軽くなったと思った瞬間、彼らの身体は薄暗い洞穴の中へと投げ出されていた。

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