5.千灯点せば、極楽、極楽
鬼市──。
紅い提灯がどこまでも連なる。
人間界のどんな都よりも絢爛で、妖しい熱気を孕んだ街――。
謝憐に導かれ、忘羨の二人は異様な活気の中を進んでいた。
物珍しさにきょろきょろしていた魏無羨は、豚の頭をした人物にぶつかってしまい、「よそ見してるんじゃねえぞ、このぼけが!」と怒鳴られてしまった。
謝憐が間に入り、怒れる豚男を宥めてくれたが、その彼を見た途端、豚男が鼻から大きく息を吸い込み、弾んだ声を上げる。
「おっと、たまげた! 城主のお兄さん! 大伯公じゃありませんか! これは俺の方がお連れさんに失礼致しやした!」
ぺこりと頭を下げ、豚鬼は上機嫌で去って行く。
向こうの方で「城主の花嫁に挨拶したぞ!」と自慢する豚鬼と、それを聞いて羨ましがる鬼たちの溜息が聞こえて来た。
「えっと……」
魏無羨の疑惑の目を感じた謝憐は笑顔を引きつらせる。
抹額で目隠しをし、状況が判らない筈の藍忘機までもが警戒して、魏無羨を守ろうと脇の下に押し込めていた。
「待って、待って。誤解だって。誓って私は鬼ではなく、れっきとした天界の神官なんだってば」
「しかし
藍忘機にそう指摘され、魏無羨まで「そうだ、そうだ」と面白がって野次を飛ばしていたが、謝憐をすっかり信じきっている彼は、そうやって面白がりながらも同時に「大丈夫、大丈夫」と藍忘機を宥めてもいた。
「心配いらないって、藍湛。どう見てもこの人は鬼には見えないし」
途中まで言いかけて魏無羨はあっと口を塞ぐ。
今の藍忘機は視力を奪われている。
気さくな謝憐の表情まで読み取れないのだ。
「信じてくれて嬉しいよ。ありがとう、魏公子」
「どういたしまして」
間を取り持ってくれた魏無羨に感謝しつつ、謝憐は何故、自分が彼らに「大伯公」などと呼ばれてしまうのか苦笑を混ぜつつ、説明した。
「さっきの肉屋の店主は朱老板と言うんだけど、彼ら鬼界の鬼たちを統率するのが絶境鬼王の花城で、その彼が私のことを
「なんで天界の神官が、鬼界の鬼と兄弟の契りを交わしたの?」
魏無羨の素朴な質問に、謝憐はしどろもどろになる。
「いや、兄弟の誓いとかは別に……。ただ、彼が人間界に来たとき、ちょっと我が家に泊めたことがあってね。それ以来、三郎は私のことを兄さんと呼ぶようになったんだ。あ、三郎って呼ぶのは初対面の時、彼がそう名乗っていたから」
あたふたと説明する謝憐は到底、鬼王の兄になるような悪人には見えない。
魏無羨は藍忘機にもう一度心配いらないよと告げると、謝憐の後に続いて賑やかな通りを歩いて行った。
空を見上げれば星も出ていない真っ暗闇なのに、屋根から屋根へと吊るされた灯りのおかげで街全体はとても明るかった。
顔面がやけに白いろくろ首や、犬と獅子を掛け合わせた様な奇怪な魔物。
まるで人が往来を闊歩する様に、鬼たちは嗤い、飲み食いをして、口喧嘩の末に殴り合いまでしている。
鬼界も人界も変わらない。
魏無羨がそう感想を述べると、謝憐は自分が褒められたみたいに嬉しそうに笑った。
「ただ人にも個性があるように、死者である彼らも様々な過去を抱えている。ましてや生者への恨みは強い。決して刺激はしないようにね」
謝憐の気遣いに二人が頷いた時、藍忘機が不意に動いた。
魏無羨でさえ何が起こったか分からぬ内に、避塵が謝憐の背後を突く。
目を見張る一瞬の動きだったが謝憐の片手に掴まれ、ガクンと止まった。
藍忘機が剣を引こうにもびくともしない。
「ほらほら、お
やんわりと諭す飄々とした微笑に、魏無羨らは呆気に取られる。
藍忘機が狙った相手は謝憐ではなく、その背後で静かに佇む仮面の男だった。
男は一礼の後、剣に怯むこともなく、
「城主がおよびです」
と謝憐に静かな声で伝える。
声音には何の感情も籠もらず、勿論、仮面で表情も見えなかった。
花城の部下、下弦月使である。
「うん、わかった」
謝憐は静かに頷くと手の力を緩め、藍忘機もまた剣を収める。
険悪な雰囲気をごまかすように、魏無羨は謝憐に城主について尋ねてみた。
「ひょっとして、その城主が三郎って人なのかい?」
「うん」
下弦月使の案内で三人が辿り着いたのは、鬼市の中でも一際鬼が集まる熱狂の空間、鬼賭坊だった。
赤い外壁を持つ巨大な建物には「金が欲しけりゃ命を捨てろ」、「勝負に勝ちたきゃ面子を捨てろ」と両脇に大きく記され、梁からは「
鬼賭坊の中では今まさに賭け事が行われており、激しい罵倒や高笑いする鬼たちの声で賑わっていた。
しかし謝憐たちが中へ入った途端、ぴたりと喧騒は止む。
何事だろうと観察してみると、鬼たちの視線は一点に集まっていた。
楕円形をした階段の先。緋色の帳の奥に城主の観覧席があり、そこに座る黒い影が手を振り、何ごとかを命じていたのだ。
ギギギ、と固い歯車の音がし、天井から重い鉄格子が吊るされる。
中には二人の人間が閉じ込められており、哀れな囚人を見た鬼たちは、「人間だ! 美味そうな肉だ!」と囃し立て、彼らと一緒に上を見た魏無羨も愕然とした。
檻の中に囚われていたのは、江澄と藍曦臣の二人だった。
江澄は大した怪我はしていなさそうだが、藍曦臣の白衣は所々血で染まり、いつもは綺麗に冠で整えられている髪もはだけて腰まで垂れている。
「忘機!」
兄の声に藍忘機がはっとし、駆け寄ろうとするのを魏無羨は慌てて止めた。
「謝道長、俺たちの連れだ!」
兄を救いに行こうとする藍忘機を押さえる魏無羨を見、謝憐は、自分に任せてと魏無羨へ目配せを送り、一歩前へと進み出る。
「三郎」
彼の呼びかけに賭場の主は応えなかったが、影を映す緋色の帳が風もなくゆらりと揺れた。
賭場全体に緊張が走り、鬼たちでさえ、固唾を飲んで見守っている。
それだけ壇上の城主に畏怖を感じているのだろう。
謝憐は怯むことなく、再び、壇上へ呼びかける。
「三郎、彼らは私の友人なんだ」
と天井から吊るされた檻を指さし、落ち着いた声で説明する。
「きみだって死霊蝶ですべてを見ていただろう。彼らは戚容の策略に嵌められたに過ぎない」
謝憐が語った「死霊蝶」の言葉で、魏無羨らはここに来るまでに何度か見かけたあの銀の蝶の正体について知った。
賭場主はすべてを見ていたのだ。
一体彼の目的は何なのか。
「彼らを放して欲しい。そしてきみに別の頼みがあってここへやって来たんだ」
謝憐の話を最後まで聞き、赤紗の奥の人物はようやくクスッと笑い声を立てた。
「兄さんの言うとおり。確かに全部見ていたよ。あのゴミ虫の策略に嵌められるなんて随分と愚かな奴らだ」
鬼王の侮辱はともかく、彼の声は魏無羨が想像するよりはるかに若い男の声だった。
絶境鬼王なんてご大層な呼び名を持つのだから、どんな化け物が出て来るのかと想像していたのだ。
「ああ、それと忘れてた。このゴミ虫は兄さんに」
緋色の帳の向こうから謝憐に向かって何かが投げつけられる。
コン、コン、コン、と階段に叩きつけられながら落ちてきたそれは丸みを帯びた不倒翁だった。
謝憐はそれを手にし、「あっ」と声を上げる。
不倒翁の目がぎろりと謝憐を睨み、不機嫌そうに彼の手の中で揺れていた。
あの青鬼戚容のなれの果てだ。
「煮るなり焼くなり好きにして。どうせそいつは多くの人間に同じことをして来たのだから。兄さんに何をされようと因果が巡っただけさ」
暴れる戚容の不倒翁に謝憐はなんとも言えない表情を浮かべ、小さく溜息を吐いた。
もはやかける言葉もないのかも知れない。
そっと袖口に不倒翁を近づけると、「しまえ」と命じ、戚容の人形は中へと吸い込まれて行った。
戚容の件は片付いた。
残りは魏無羨ら四人についてだ。
謝憐は後ろを振り返り、一番危うい藍忘機を魏無羨がしっかりと押さえているのを見、安心したのか、再び花城と向き合う。
「三郎、すべてを見ていたのなら、私ときみとの付き合いに免じて彼らを解放してくれないか?」
付き合いに免じての部分で、花城はまた軽やかに笑い、「兄さんと俺の仲に免じてね」と黒い影の肩を揺する。
「免じてあげるのは構わないけど、実を言うと、少し気分を害したんだ」
「私が悪いのなら謝るよ。でも関係のない彼らを巻き込まないで」
「うん、今回は兄さんが悪い。俺に何も告げずに一人で解決しようとした。だから兄さんには俺が用意した遊びに付き合って貰いたいんだ」
「ひょっとしてまた賭けで彼らを取り合う?」
「御明察。やるかい、兄さん」
謝憐がまた魏無羨たちを振り返る。
檻の中では江澄が睨みをきかせ、藍忘機もいつでも避塵を抜けるように身構えている。
しかしここは花城の領域だ。
例え帝君である
二カ所の呪枷を持つ謝憐なら尚更だ。
「わかった。じゃあ、勝負しよう、三郎」
「話が早くて助かるよ、兄さん」
そう言って花城がようやく薄絹の向こうで立ち上がった。
緋色の帳が開き、中から妖艶に微笑む花城の姿が現れる。
彼は長い爪を持つ手を持ち上げると、謝憐にこちらへ来るようにと指で招いた。
「兄さんが先行で」
彼の命で女が謝憐に賽子を渡す。
「謝憐さん、頑張って!」
と小声で魏無羨は応援したが、返って来たのは、力なく笑う謝憐の頼りない返答だった。
「最初に謝っておくよ。実は私はものすごく運が悪い」
「え?」
聞き間違いだろうか。
こんな鬼たちの頭領を「弟」に持つ神官の彼が、「運が悪い」なんて。
魏無羨は信じられず、「運が悪いって……どれくらい?」と思わず聞いてしまった。
案ずるより産むが易しと謝憐は苦笑いを浮かべ、手の中の賽子を二つ、茶碗の中へと放り投げる。
カラカラと乾いた音が響き、転がり出た目は──、なんと一と一。
頭上から憎らしい程感情のこもった舌打ちが降り注ぐ。
「……見事なまでの最低点だな」
と素晴らしい賞賛を浴びせたのは囚われの江澄だ。
魏無羨も頭を覆い、全身で絶望を表してしまった。
「魏無羨、お前でも藍忘機でもいい。お前たちのどちらかがやれ!」
檻の中の江澄が要望を出したが、当然花城に却下された。
「ゴミ虫に騙されるようなバカは黙ってろ。俺は兄さんと遊びたいんだ」
「な……っ!」
「三郎……」
困り顔の謝憐を堪能する様に、花城はじっくりと上から下まで彼を眺める。
「兄さん、こっちに上がって来て。そんな振り方じゃ良い目が出るはずがない」
覚えのある展開に謝憐まで頭を抱えたくなったが、花城の遊びに付き合うより他に魏無羨らを救う選択肢はなく、仕方なく階段を上がって椅子に座る彼の方へと近づいた。
「久し振り、兄さん」
「うん。元気だった、三郎?」
世間話をするかのような二人の会話に不満を上げる江澄の声が聞こえた気がしたが、謝憐は敢えて無視をした。
どうせ大したことは言っていない。
「おさらいだよ、さあ、振って」
「こう?」
謝憐が賽子を投じると、花城は躊躇いもなく彼の手に自分の手を重ね、ゆっくりと上下に振る。
「兄さん、あのゴミ虫を追うなら、何故、俺に一言告げてくれないの」
「戚容のことは、私的な問題だ。三郎に迷惑は掛けられないよ」
「ほら、それだ。俺が兄さんのやることに反対なんてしたことがあった?」
息のかかりそうな身近な距離に謝憐の頬が朱に染まる。
「三……、三郎。みんなが見ているよ……」
「俺には案山子が立っている様にしか見えないから」
案山子呼ばわりされた鬼たちは何故か狂喜乱舞し、絶叫している。
さすがに藍忘機も様子がおかしいことに気付いたようだ。
「魏嬰、兄は無事なのか」
「うん、無事そうには見えるけど」
魏無羨の手を取ったが、彼だってなんと返答して良いかわからなかった。
江澄は相変わらず文句ばかり言っているが、壇上の二人には彼らの声はまったく届いていなかった。
「兄さんに俺の運を分けてあげる。運だけじゃない。俺の持つものはすべて」
「三郎…」
花城の囁きと、包み込むような手のひらの感触に謝憐は息を呑み、空気を変えるように大袈裟に腕を振る。
賽子はコロコロと軽やかな音を立て、なんと───。
六と六の目を叩き出した!
鬼賭坊全体が息を呑んでその行方を見守る中、花城の乾いた拍手が賭場に響く。
「ああ、負けてしまった。やっぱり兄さんは強いな」
棒読みの賛辞を合図にしたかのように、鬼たちが急に湧き出した。
「うおおおおっ! 城主の花嫁が六を出したぞ! さすがは大伯公だ!」
大歓声に包まれる賭場の中、謝憐は
「花嫁じゃありません! 私は男です!」
と声を張り上げていたが、当然、誰も聞いていなかった。
「おい待て、いったい、何の茶番なんだ!」
と青筋を立てる江澄を藍曦臣が宥め、魏無羨は鬼たちと一緒になってパチパチと拍手を送る。
「良かったな、藍湛! 謝道長が勝ったぞ!」
「…うん」
そんな魏無羨の気配を察した藍忘機も、一件落着。渋々とおざなりな拍手を送ってやった。
[newpage]
ところ変わって──
場所は花城の根城、極楽坊。
彼曰く、「ここは休む処」であって、彼の家ではないのだそうだ。
早速謝憐が藍忘機の目について説明し、花城は二つ返事で薬を用意してくれた。
賭場まで彼らを案内してくれた下弦月使が現れ、城主から何事か命じられると姿を消し、立ち所に薬瓶を持って現れた。
「はい、兄さん。ご所望の薬」
「ありがとう、三郎」
薬を受け取った謝憐はすぐに藍忘機の瞼に塗布しようとしたが、藍曦臣と魏無羨の二人が阻止する。
謝憐が花城を信用しようと、彼らにとっては未知の鬼だ。
修士にとって大切な目に出所不明な、それも死者が用いる薬など使うわけにはいかない。
彼らのそんな反応を見て花城は鼻で嗤ったが、元々、人間の評価など気にしてはいないのだろう。
「兄さんの好きにして」
と言うと自分は金の札で宮殿を組み立てる遊びに没頭し始めた。
苦笑した謝憐は彼らの前で瓶の蓋を開けて見せ、藍忘機も含めた三人に匂いを嗅がせる。
薬だからかぐわしい芳香とは言いがたいが、謝憐曰く、「手に入る中で最上級の薬」なのだそうだ。
彼の言うことを信じ、藍忘機の了解を得て、藍曦臣が彼の目を覆う抹額を解く。
少しの時間、放置していただけなのに瞼は赤黒く腫れ、痛々しくて魏無羨は心配になってしまった。
「藍湛、こんなになるまで我慢してるなよ!」
「……」
彼が忍耐強いのは今に始まったことではない。
ましてや異界で魏無羨を守らねばならず、兄も行方不明となれば、目が見えなくなろうとも前に進む。それが彼にとって当然のことだった。
「きみも傷の手当てをしたほうがいい」
謝憐にそう言われた藍曦臣は素直に従い、藍忘機の治療は彼と魏無羨に委ねることにした。
「ほらよ」
江澄が藍曦臣の簪を彼の太腿の上に放り投げる。
あの混乱の中、どうやら江澄は藍曦臣の簪を忘れずに持ってきてくれたらしい。
ぶっきらぼうな表情のまま、すぐにそっぽを向いてしまうあたりが非常に江澄らしく、藍曦臣は笑いながらも丁寧に礼を言った。
ふてくされる江澄は置いて、下弦月使が持ってきてくれた服で衣冠を整えるうちに、謝憐の治療は終わったようだ。
藍忘機の瞳は元通りの綺麗な琥珀色を取り戻していた。
✳ ✳ ✳
大はしゃぎで藍忘機の目の全快を喜ぶ魏無羨は、彼の目の前に指を突き出し、しつこく「何本だ!」と聞いている。
いちいち答えてやる藍忘機との微笑ましい光景に、思わず謝憐の口元が緩んだ。
「可愛いね。昔の自分たちを見るようだ」
かつて仙楽国で過ごした友にも等しかった臣下たちとの思い出が蘇ったのだろう。
ふっと見せた謝憐の望郷の念に、花城は片方だけの目を伏せ、飲み物を手渡した。
修行の為、酒と女色は禁じられている。
花城が渡した飲み物は新鮮な果実を搾ったもので飲んでも差し支えないものだった。
謝憐は花城の方は振り返らず、礼を言い、杯を手に取りながらも、口は付けずに中の液体を揺らすだけに留めた。
彼が遠く過ぎ去った過去を思い出しているのは、おそらく戚容を追ってここまでやって来たせいだ。
花城が「奴はどうするの?」と聞くと、謝憐は頭を振って直接的な返答は避けた。
賭場で話した通り、謝憐の私的な問題だから、例えそれが花城であろうと打ち明ける気は彼にはなかった。
謝憐は柔和で穏やかそうな反面、実はすごく頑固な一面があった。
仙楽国が干魃に見舞われ、多くの死者を出した時もそうだった。
自分が正しいと思うこと、それ以外の義に叛することは頑として由としない。
そのせいで数々の不運に見舞われてきたのだが、彼が道を踏み外したのは一度きりだった。
過去を振り返ると同時に、謝憐の口からこんな呟きが出る。
「あの人は……、どうしたのだろう」
「……」
謝憐が過去に縁のあった人々。
父皇と母后は朽ち果てた陵墓に居り、謝憐がせめて亡骸だけは留めたいと思っていた願いも虚しく、墓荒らしをした戚容によって塵と化してしまった。
風信、慕情にしても似たようなものだ。
副将だった彼らは今では仙楽太子以上の神格を持つ神となっている。
謝憐が彼らと共に脳裏に浮かべたのは、戦時中の仙楽国でいつの間にか消えていた少年だった。
常に謝憐のそばを離れず、振り向けば必ず彼はそこにいた。
「……こんな私のそばにいたい者など、いるはずがないか。あの人もきっと……」
そう呟いた謝憐の隣で、花城が突然、中身の入った杯をぐしゃりと潰した為、驚いて謝憐は振り返る。
「三郎……?」
指から液体をこぼしながら、花城の目も遠くを見つめていた。
謝憐は花城の過去は何も知らない。
知りたくないわけではないが、自分だって人に話せるような過去は持っていない。
だからこの先も花城から話さない限り、聞くことはないと、そう思っている。
「彼らを見ていると、自分がまだ無邪気に飛昇を目指していた頃を思い出すよ」
謝憐の口元に微笑が戻ったのを見、花城の顔も緩んだ。
「ならば兄さんをもっと喜ばせてあげる」
「え?」
「見てて」
茶目っ気たっぷりな三郎の顔で笑うと、花城はパンパンと手を叩き、女鬼たちを呼び込んだ。
「うおおお!」
運ばれてくる豪勢な料理を見、魏無羨が奇声を上げる。
「お前、がっつくなよ、みっともない」
「らんひゃん! あしょこのきゅだものもっひぇひへ」
所狭しと並べられる料理に魏無羨がかぶりつき、江澄がそれに文句を言い、藍忘機が阻止して、藍曦臣が笑う。
賑やかな四人を見て、謝憐の顔もぱっと華やいだ。
「三郎、ありがとう」
「どういたしまして」
散々な温泉旅行だったが、最後は四人とも花城の極楽坊で文字通り、快適な夜を過ごした。
6.終わりよければすべてよし!
そう言えば、と魏無羨が思い出したことがある。
「ねえねえ、鬼王の人」
「……」
魏無羨と言う男は本当に怖いもの知らずで厚顔無恥な男だ。
花城の冷たい相貌を見た謝憐が慌てて助け船を出す。
「なに、魏公子」
「噂で聞いたんだ。あの温泉の辺りには月令花って珍しい花が咲くって」
「月令花……?」
謝憐も知らないようだが、鼻で嗤った花城は知っていそうな素振りだった。
それもそのはず。
彼の異名は血雨探花。
血の雨に濡れる花が忍びなく、傘を差し掛けてやったのがその名の由来なのだが、それだけ花を愛でているのならきっと知っているに違いない。
そう踏んだ謝憐は花城を問い詰めた。
「三郎、きみは知らないことは何もないよね、確かめて」
「兄さん、兄さんの頼みなら何でも聞いてあげるけど、そいつらの頼みを聞く義理は俺にはないよ」
「えーっ」
ぷくうと頬を膨らます魏無羨に、花城は死霊蝶を飛ばしそうになっていたが、謝憐が慌てて止めた。
さしもの藍忘機も花城相手では勝算は低いだろう。
藍忘機以外の二人は我関せずで気ままに極楽坊の豪勢な食事を楽しんでいた。
「意地悪しないで教えてあげてよ、三郎」
「……兄さんが俺の頼みを聞いてくれるなら」
「え」
嫌な予感しかしないが、魏無羨の期待に満ちた目も裏切りがたい。
「わかった! 極楽坊の掃除でも何でもするから! 彼らの頼みを聞いてやって!」
「了解」
謝憐の言質を取った花城は、縮地千里を使い、夜の陰月湯へと一瞬で移動した。
食事中だった曦澄の二人は食べ物を箸で運ぶ最中に地面に叩きつけられ、無様に倒れ込む。
しかし残念ながら今晩は月令花の出る新月の晩ではなかった。
これまた花城に謝憐がお願いし、「何でも言うことを聞きます券第二弾」を発行することを約束に、渋々、花城が夜空の月を死霊蝶で覆い隠す。
「ほえー、鬼王になるとそんなことも出来るのか」
呑気に感心する魏無羨の横で、藍忘機が無心に死霊蝶を放つ花城の術式の解析に励んでいた。
「さすがの三郎も月の軌道までは変えられないだろうけど。死霊蝶で月を覆い隠すのは良い案だね」
果たしてそれで本当に月令花は出現するのか。
なかなか相応の死霊蝶が集まらない為、その間、一行は温泉に浸かって待とうと言うことになった。
すぽぽーんと気軽に着衣を脱ぎ捨て湯に飛び込む魏無羨を、江澄が腐し、振り出しに戻る。
楽しそうに温泉に浸かる彼らを見、謝憐も入りたくなったのだろう。
「私もご一緒させてください」
そう言って謝憐が衣服を脱ぎ出すと、死霊蝶を空へと放っていた花城が鼻血を噴いてぶっ倒れた。
一転して血みどろな晩へと変わる。
慌てて彼の手当てを終え、ようやく落ち着きを取り戻した頃。
立ち上る湯気の向こうでゆっくりと花城が放った死霊蝶が空を覆い尽くし始めた。
幻想的に輝き始める湯気の中から、ぽこぽこと白い泡が生まれ、それはやがて羽の生えた花と化す。
見えない月を求め、天へと昇る月令花と花城が集めた銀の死霊蝶の輝きが混じり合う様に夜空を白色に染め、雪のようにちらちらと舞い落ちる。
花城の看病をしていた謝憐の元にも、一枚の月令花が舞い降りた。
「謝道長、月令花のこんな伝説は知っているかい? 月のない晩に二人で月令花を見た恋人同士は、永遠に離れることなく愛情も尽きないんだってさ」
「恋人?」
魏無羨の笑い混じりの声も、死霊蝶と月令花で阻まれ、遠くくぐもったものに聞こえる。
謝憐の膝の上、彼から月令花を渡された花城の顔に、他の誰も見たことのない喜びの顔が浮かんだ。
「兄さん、俺は絶対に兄さんのそばを離れたりしないよ──そう、誓うから」
少し離れた湯の中で酒を飲みながらこの光景を眺めていた曦澄の上にも白い花が降り注ぐ。
藍曦臣から新しい酒を注いで貰った江澄は一気にその酒を呷り、満足げに息を吐いた。
ほんのりと赤く染まる江澄のほろ酔い加減の表情の上にも月令花の花は降る。
藍曦臣も幸せそうだった。
一方──。
藍忘機の手を引いて皆から離れた魏無羨は手の中に捕まえた月令花を彼の唇に押し当て、
「藍湛、ほら、誓えよ!」
と一生の愛を彼に強いる。
そんなことをしなくても藍忘機の心を占めるのはいつだってただ一人だ。
「誓っても良いが……」
空に浮かぶ月令花を藍忘機も一つ掴み、同じ仕草で魏無羨の唇に押し当てる。
「きみも誓いなさい」
モッチのロンだよ!と魏無羨は破顔し、そして両手一杯の月令花を捕まえて暗い夜空に向かって解き放つ。
「俺、魏無羨は今生で藍忘機以外は絶対に愛しません!」
その時の藍忘機の笑顔と来たら──
この晩とこの出会いは、彼らにとって忘れられない思い出になったに違いなかった。
終わり
20261001