小僧、お前…。そういうとこだぞ
無我夢中で脚を動かして、気が付いたらゴール板の横を走り抜けていた。その勢いのままに止まることができず、それなりの距離を走ってからようやく止まる。
脚を止めて顔を上げた私の耳に、今までどうして聞こえていなかったのだろうと疑問に思ってしまうほどの大歓声が飛び込んできた。
鼓膜を突き破らんばかりのそれに驚いて体が跳ねる。反射的に耳を伏せてもなお体を震わせるその声たちから目を背けるようにして振り返る。
レースが終わればすぐに着順を表すはずの掲示板には、1・2着の番号が表示される箇所は空白で。その間、本来なら着差を示す箇所には「写真」という二文字が踊っている。
追いついた、と思った。追い抜けたかどうかは分からなかった。ただ隣にいるトップロードさんよりもほんの1㎜でもいいから先へ。それだけを考えながら走っていた。
荒くなっていた息がようやく落ち着いてくる。額を流れる汗が一滴、顎までたどり着いてそこから芝に滴り落ちた。ホームストレッチ、最終直線に入った時。
先を行くトップロードさんに追いつこうと脚に力を込めた時、一瞬だけ既視感のある痛みが左脚に走った。
ほんの一瞬、瞬きにも満たない時間だったと思う。脚から力が抜け、赤黒く染まりそうになった私の視界は、間髪入れずに光とともに二つに分かたれた。
その時にはもう、体を叩いているはずの大歓声も聞こえていなくて。ただ一言、「行け」という言葉だけが耳を打った。覚えのある暖かい手が、背中を押してくれた気がした。
「アヤベさんっ!」
観客席に視線を滑らせていた私の手が、誰かに握られる。そちらに目を向けると、まだ息が整いきっていない、それでも満面の笑みを浮かべて私の手を握るトップロードさんがそこにいた。
「すごく、すっごく、楽しかったですっ!」
「……えぇ、そうね」
握られた手から伝わってくる温もりに目を細める。初めて、自分の為に走った気がする。今までの私の走る理由はすべて、あの子のためだったから。
自分は楽しんではいけない、何もかもあの子の為に、だなんて。「お姉ちゃんが楽しく走ってくれなきゃ私も楽しくないっ」と泣かれてしまったあの夜のことを思い出す。
あの時の私は、走る理由も何もかもあの子に背負わせてしまっていた。無理な練習も、ライバルなどいらないと他を突き放したことも。そうしてほしいと言われたわけでもないのに。
それで、怪我をしてしまったら。それもあの子の所為になってしまう。それでは、ダメだった。
「とても、楽しかった」
楽しかった。眩しいトップロードさんとやっとちゃんと向き合って競い合うことができることが。自分の全てを振り絞って、なお、隣に並んでくる彼女と走ることができたことが。
妹のことを忘れたわけではない。「がんばれ」と言ってくれた彼女の想いはずっと私の胸の中にあった。償わなければとばかり考えていた頃の冷たさはそこには欠片もなくて。
ただ、暖かく私の背中を押してくれていた。
(あなたは、ずっとそうしてくれていたのに)
点滅する「写真」の文字はまだ消えていない。楽しかったと言った私の言葉を聞いたトップロードさんの瞳が今までにないほど大きく見開かれ、西日に照らされて彼女の星の耳飾りとともに眩く輝いた。
「今回は完敗だ」
少し離れたところから、拍手の音が聞こえてくる。ゆっくりと歩いて近づいてきたオペラオーが、一瞬、視線を上に向けて。それから笑いながら、トップロードさんと私、二人の手を取った。
「だから、今は全力で称えようじゃないか!
──二人の勝者をっ!」
ひときわ大きい歓声が上がる。押されるようにして視線を上げると、掲示板には。「同着」の文字が静かに表示されていた。
「……やった。やっと、やっと、勝てましたっ」
トップロードさんの声が震える。一瞬顔を伏せて、ガッツポーズをして。その次に顔を上げた時には、輝くような笑顔だった。両手を広げた彼女が、真ん中にいたオペラオーと私を二人とも巻き込んで芝に倒れこむ。
勢いよく、それでも柔らかく芝生の上に倒れこんだ私の視界を、宙に舞う色とりどりの紙吹雪が埋める。
ひらひらと右に左に揺れながら落ちてくるそれらは、傾いた日の光を浴びて揺れるたびに違う色に変わっていくようだった。
「アヤベさん、オペラオーちゃん。次も、私が勝ちますっ!」
太陽のように笑いながらトップロードさんが言う。
「いいや、次こそ勝つのはボクだ」
目を閉じて、オペラオーが不敵な笑みを浮かべる。
「……勝つのは、私」
手を伸ばす。目の前に迫った紙吹雪を一枚、手のひらの中に収めて。それに透かして太陽を見つめながら、そう言った。レース前、地下馬道でしたようなそんな会話。
でも、闘志を滾らせていた数分前とは違って、今は。皆が皆、笑っていた。
〇
「いない……」
レース場から出た、随分と暗い地下馬道の中。小さくそう呟いた。ひとしきり笑ったあの後、観客席を探してもいたはずの場所にいなかったあの人が、どこにいるのか。
関係者なら入ってこられるこの地下馬道にいてくれるのかと、淡い期待をしていたけど。そうではなかった。トップロードさんのトレーナーさんはちゃんと待っていてくれたのに。
眼鏡をかけていない今の私では、あの子を視認することも叶わない。控室にならいるかもしれない、と考えてそちらに足を向けたところで、はたと気が付く。
そうだ、あの人は私のトレーナーじゃない、ということに。
そもそも、トレーナーですらない。ただの教師だ。この菊花賞までの2週間ほど、ずっと傍についていてくれていたから忘れてしまっていた。
あの人は、ここまで一人の生徒に肩入れする必要も、義務もないただの教師で。私が頼んだのは、菊花賞までの間だけ、自分と一緒に走ってほしい。それだけ。その菊花賞もたった今、終わってしまった。
「終わり……?」
そんなはずない。足早にたどり着いた控室のドアを開ける。誰もいない、がらんとした一人には広い、灯りのついていない室内が私を迎える。ドアの開くきぃ、という音だけが広い廊下に反響していった。
考えてみれば、当然のこと。トレーナーではない彼には一人の生徒につききりになる理由なんて一つもなくて。だから、ここまで時間を割いてくれていたのはただの厚意に、私が甘えていただけ。
人並外れた走力も、足の痛みが急激に引いていったあの暖かな光も。他の子の走りを再現して見せた目の良さも、すべて。もっと多くの子の役に立つべきもので。私一人の為に使われていていいものでは、ない。
分かってる。分かってた。当たり前のように隣にいてくれたあの人の優しさに甘えて、考えないようにしていただけだった。
「見てる? お姉ちゃん、勝ったよ?」
鏡の前に置いたままにされていた眼鏡をそっとかける。鏡に映った部屋の中には、やっぱり誰もいなかった。まるで全部夢だったみたいに、私の隣には誰もいなくて。
衝動的に掴んだ携帯の画面を眺めて、初めて気が付く。連絡先も知らないことに。これまで必要がなかったから。朝起きて、いつもの場所に行けば変わらずそこにいて。夜、皆がいなくなる時間までコースにいれば向こうから来てくれたから。
私から何かをする必要が、別になかったから。
「……別に、問題ない」
問題ない、そうだ。たった二週間。今までと同じ生活に戻るだけ。一人でトレーニングをして、一人で次を目指すだけ。それだけ。私が菊花賞までと言ったのだから。
ぴくり、と鏡の中の私の耳がドアの方に向けられる。私のことを呼ぶ声が聞こえた。親しい人だけが呼ぶアヤベ、という短いものではなく、かしこまったフルネームだ。
きっとインタビューの時間が近づいているのだろう。思ったよりも長い時間ここに座っていたみたい。
「はい」
遠慮がちに叩かれたドアの音に返事をして、立ち上がる。眼鏡は外してまた鏡の前に戻した。ドアの外から聞こえてきた足音は、軽いもので。きっと女性だろう。私の知っているそれでは、なかった。
〇
「アヤベさん? 大丈夫ですか?」
「えぇ。……大丈夫」
あまり元気そうには見えなかったのか、隣に座るトップロードさんからそんなことを聞かれてしまった。
本来なら一人で行うはずの勝利者インタビューも、今回は同着のため二人同時に行われる。そんな彼女の隣には、帽子をかぶった彼女のトレーナーが座っている。
私の、トップロードさんと反対の隣の席は空いたままだ。私のトレーナーはただの名義貸しで、実際には私のトレーニングを見ているわけではないから、こういうところにはあまり出てこない。今回は、多分。たづなさんがそこに座るんだろう。
「そろそろ始めます」
視線が落ちる。前髪に隠れて私の視界の大部分が隠された。司会を務めるのであろうたづなさんの声が聞こえる。私の隣の席はまだ空いたままだ。
「え……?」
隣に座るとばかり思っていたたづなさんは司会席にいて。それを見た記者たちのざわめきが引いていく。そんな様子を呆けながら見ていた私の隣から、ぎぃと椅子が引かれる音がした。
「アヤベ」
ここ最近は、ずっと傍にいた人の声が聞こえた。眼鏡をかけていたら、きっとあの子もそこにいたのだろう。夢じゃなかった。そんな当たり前のことが涙が出るほど嬉しくて。すぐに振り返ることができなかった。
「ごめん、すぐに言えなくて。優勝おめでとう」
たづなさんに頼んで代わってもらったんだ、と悪戯っぽく笑う。小声で言われたその言葉に、ちゃんと返すことができなくてこくりと頷く。少し遅い、遅いけど。勝ってから初めて直接かけられたお祝いの言葉だった。
ちゃんと言葉にしてお礼を言えないまま、インタビューの時間が始まってしまう。トップロードさんのような元気の良い返しができない私は、いつものように短く答えて。それに時折隣からトップロードさんが何かを付け加えて言って。それに対して私がまた短く答える。
トレーナーに対しての質問は。教師である彼はあまり踏み入ったことを言うことができないのか、たづなさんがいつもしているように無難な返しをしていた。
もっと知っているはずなのに。もっと踏み込んで答えられるはずなのに。なんだか他人行儀な答えを繰り返すそんな様子が、嫌だった。分かっている。表向きには彼は私と何の関係もない一教師のはずだから。
こうして隣に座ってくれているだけで、無理を通しているということは分かっていて。でも、どうしても気に入らなくて。
「はいっ、トレーナーさんと、応援してくださった皆さんに! 本当に、ありがとうございましたっ!」
今感謝の言葉を伝えたい人はいますか、という質問だった。隣のトップロードさんは元気よくそう答えて頭を下げる。そんな彼女に向けて多数のシャッターが切られる。そんな姿をぼんやりと眺めていると、多数の視線が私の方を向く。
あなたはどうですか、と視線で問われているようだった。
「私は……」
マイクを握る。レースの後に誰かに感謝をしたことなんてなかった。いつだってレース後にあるのは安堵か、後悔か。それだけで。人への感謝なんてしたことがなかった。
だから、こういう質問にはいつもちゃんと答えていなかった気がする。でも、今は。
「応援してくださった、そして心配をかけてしまった皆に。それと……」
手を伸ばす。すぐ隣にあった、膝の上にあった手をぎゅ、と握る。前からは、机に隠れて見えていないだろう。手のひらから伝わってくる温もりに、ほんの少し口元が緩む。
「そんな必要もないのに、隣で走ってくれた。背中を押してくれた、変な人に」
それを言った私はどんな顔をしていたのだろう。シャッターが切られる音と、フラッシュが幾重にも光る。レースが終わった後のこの時間、私は初めて一人じゃなかった。
初めて、ちゃんと笑えた気がした。
〇
「……ねぇ」
「ん?」
「私、勝ったわよ。……お願い、聞いてくれるんでしょ?」
いつかの夜にもこんな会話をした。あの時は、勝ったなら何でも一つお願いを聞いてくれると言っていたけど。今回はそんな約束なんてしていない。それでもあなたは、言ってみ、と笑っていた。
「次は、ちゃんとゴールした後、待ってて」
「分かったよ」
くしゃりと頭を撫でられる。少しくすぐったくて口元が緩んでしまう。何故か頬に集まった熱に気づかなかった振りをして、言葉を続けた。
「それと、
また明日、いつもの場所で」
ディオスクロイは双子のカストルとポルックスのこと。
キリが良いので一段落です。これにて第一章完ということで。
最初に考えていたものとは全然違う方向に行ってしまいました。あとキングはまだ引退してないですね。直しときます。とりあえずここまで呼んでくれてありがとうございました!
第二章『速さ/強さの果て』でお会いしましょう!
今から考えるので明日に上がるかもしれないし時間がかかるかもしれないです!